2005年 09月 26日
【5133】 読書について |
秋の気配が忍び寄ると、急に夜長を感じます。「読書の秋」到来。 想いがそこに行くたびに自らに問いかけるのは、「読書ってなんだ?」 学生や学者・研究者にとって「読書」は自明の日常、それがないと話にならないのでしょうが、一般人となるとどうでしょう。答えは千差万別です。
▼早い話、日常生活で一般人が一番に「読書」と言う言葉を用いるのは履歴書。趣味の欄に大半の人が、そう書きます。高校・大学入試でも学生は自己申告書に書くのが「読書」。面接で意地悪く、つっこむと、「週刊誌を何となく・・」といったあやふやな答えが返ってきます。改まった感じの質問にとりあえず持ち出すのに適当に用いられる言葉、と言うのが実態。
▼では、読書って何だ? 趣味・教養・勉強のために本を読む。立派な読書ではないか・・・でも「本を読むこと」では答えになりません。自問自答に役立つのは辞書。「新明解国語辞典」(三省堂)で「読書」を引いてみると・・・
◆「一時現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために、(時間の束縛を受けること無く)本を読むこと」とあります。哲学者の思惟・思索を思い起こさせる説明。
◆まだ続きがあります。「寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない」 ”勝義”??とは その項に飛んで調べると・・・「本質的な意味」のこと。つまりまんがや週刊誌を見るのは読書ではない、怒鳴りつけています。
◆「本の虫」のような読書家もたくさんいますね。私の身の回りには「本を読まねば落ち着かず、眠れない」と言う人もいます。私などは時たま本を読むと神経が高ぶるのでしょうか。目が冴えて眠れないのですが、読書は人によって睡眠薬になったり、覚醒剤になったりします。ベッドに潜り込んで眺めていたらよく眠れる。コレって、読書なんでしょうか?
◆昭和5年生まれの私にとって”読書”とは、「机に向かって姿勢を正し、書物を押し戴いて開く」作法に始まるものです。それがないと根性が座らない。小学生時代にたたき込まれた行動原理が未だに私を支配しています。ながら読書などモッテノホカ。静寂が言葉の通う道です。
▼その先は、【我以外はみな師の世界】 古今東西の先哲や同時代の知の先達と出会っての「師との対話」です。このことはもう何度も、書いたり、語ったりしてきましたが、それを教えて下さったのは「法哲学ゼミ」の恩師・今井仙一教授。丁度50年前、同志社大学最終講義での時でした。▼「読書とは、古今東西、世界の英知・知性と対座することだ。本を開く。それは、時代と場所を超えて師と向かい合うことだ」 なぜ、私たちは本を読むのか? 読まねばならないのか? 読書論を多く耳にしてきましたが、これほど明快な教えに接したことはありません。
▼最近、齋藤孝さんの『読書力』という本が若い人の間で大人気のようです。私は読んではいませんが、それを読んで大感激の若者が「推奨のことば」を書いていました。「目が開かれた」と言う解説を引用しますと、「読書とは入力であると多くの人が考えますが、入力だけではありません。日本語の本が理解できるのは、私たちの頭に日本語の形を処理できるデータベースがあるからです。つまり、視覚で捕らえられた日本語の形に対応する情報が脳のデータベースから出力されて初めて理解という処理がなされ、読めるのです」
▼「つまり読書は、出力、処理、入力で構成されています。そして、読書速度はその一連の作業の速さとなるのです。 以上のような理由から、読書速度=脳の処理速度となり、読書速度と学習能力は比例するという結果が生まれるのです」
▼アノねぇー、ちょっと君!と、言いたくなります。それが真実だったら、読書の名人はコンピュータ、機械だよ。 そんなもの”勝義の読書には含まれない”とどやしつけたい衝動に駆られます。いま一度、「師との対話」に入る作法、押し戴いて書を開く心に戻れ! と言いたいです。
▼早い話、日常生活で一般人が一番に「読書」と言う言葉を用いるのは履歴書。趣味の欄に大半の人が、そう書きます。高校・大学入試でも学生は自己申告書に書くのが「読書」。面接で意地悪く、つっこむと、「週刊誌を何となく・・」といったあやふやな答えが返ってきます。改まった感じの質問にとりあえず持ち出すのに適当に用いられる言葉、と言うのが実態。
▼では、読書って何だ? 趣味・教養・勉強のために本を読む。立派な読書ではないか・・・でも「本を読むこと」では答えになりません。自問自答に役立つのは辞書。「新明解国語辞典」(三省堂)で「読書」を引いてみると・・・
◆「一時現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために、(時間の束縛を受けること無く)本を読むこと」とあります。哲学者の思惟・思索を思い起こさせる説明。
◆まだ続きがあります。「寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない」 ”勝義”??とは その項に飛んで調べると・・・「本質的な意味」のこと。つまりまんがや週刊誌を見るのは読書ではない、怒鳴りつけています。
◆「本の虫」のような読書家もたくさんいますね。私の身の回りには「本を読まねば落ち着かず、眠れない」と言う人もいます。私などは時たま本を読むと神経が高ぶるのでしょうか。目が冴えて眠れないのですが、読書は人によって睡眠薬になったり、覚醒剤になったりします。ベッドに潜り込んで眺めていたらよく眠れる。コレって、読書なんでしょうか?
◆昭和5年生まれの私にとって”読書”とは、「机に向かって姿勢を正し、書物を押し戴いて開く」作法に始まるものです。それがないと根性が座らない。小学生時代にたたき込まれた行動原理が未だに私を支配しています。ながら読書などモッテノホカ。静寂が言葉の通う道です。
▼その先は、【我以外はみな師の世界】 古今東西の先哲や同時代の知の先達と出会っての「師との対話」です。このことはもう何度も、書いたり、語ったりしてきましたが、それを教えて下さったのは「法哲学ゼミ」の恩師・今井仙一教授。丁度50年前、同志社大学最終講義での時でした。▼「読書とは、古今東西、世界の英知・知性と対座することだ。本を開く。それは、時代と場所を超えて師と向かい合うことだ」 なぜ、私たちは本を読むのか? 読まねばならないのか? 読書論を多く耳にしてきましたが、これほど明快な教えに接したことはありません。
▼最近、齋藤孝さんの『読書力』という本が若い人の間で大人気のようです。私は読んではいませんが、それを読んで大感激の若者が「推奨のことば」を書いていました。「目が開かれた」と言う解説を引用しますと、「読書とは入力であると多くの人が考えますが、入力だけではありません。日本語の本が理解できるのは、私たちの頭に日本語の形を処理できるデータベースがあるからです。つまり、視覚で捕らえられた日本語の形に対応する情報が脳のデータベースから出力されて初めて理解という処理がなされ、読めるのです」
▼「つまり読書は、出力、処理、入力で構成されています。そして、読書速度はその一連の作業の速さとなるのです。 以上のような理由から、読書速度=脳の処理速度となり、読書速度と学習能力は比例するという結果が生まれるのです」
▼アノねぇー、ちょっと君!と、言いたくなります。それが真実だったら、読書の名人はコンピュータ、機械だよ。 そんなもの”勝義の読書には含まれない”とどやしつけたい衝動に駆られます。いま一度、「師との対話」に入る作法、押し戴いて書を開く心に戻れ! と言いたいです。
by zenmz
| 2005-09-26 13:13