2010年 06月 10日
【10019】 点字新聞の話(4)日本盲人の父・好本督先生 |
さて、これより好本督(ただす)先生と中村京太郎先生、日本の盲人福祉・教育を語る時、忘れることの出来ない偉大なお二人の「人と業績」についてお話しするのですが、私は、実に幸運なことに、両先生とご生前に親しくお話しを伺う機会を得ております。
★ 多分、皆さんも、福祉というような言葉もなかった100年も前、 盲学校もあまりなく、点字も考案されて僅かに数年、という時期に、点字新聞などという発想は、どこから生まれたのか? そう疑問に思われるでしょう。
★ それは当時の「時代精神」と大いに関係しているように思います。もう少し具体的に言うなら、大正デモクラシーが最高潮に昂揚した時期と重なるのです。例えば、未だ黎明期だった盲人運動は、この時期、全国都道府県単位の盲学校設置運動、点字教科書の自主編集・出版、地方選挙での点字投票有効実現運動など民主化運動が最高潮に達していました。
★ 毎日新聞が河野氏提案の”奇抜な”アイディアに同意したもの恐らく、そうした盲人自身の社会的運動の高まりがあったからだと思います。 まあ、当時は盲人だけではなく一般国民も欧米伝来の民主主義思想に大いに酔った時代でした。後の歴史は、この時期を『大正デモクラシー』が席巻した時代、と規定していますが、恐らく、点字新聞創刊の最も大切な土壌はこの時代精神だと思います。
★ しかし、コト失明者の福祉、教育を考える場合、それ以上に、本質的な、見落としてはならないことは、その根底に流れているキリスト教精神であった、と思います。当時の盲人運動先覚者は、例外なくキリスト信徒であったのです。私自身、そのことには非常に早い時期から気づき、注目しておりました。
★ そこで、好本督、中村京太郎の両先生にお逢いし、親しくお話しを伺う機会があった時、何よりも先に、私の疑問を持ちだして、「なぜ、盲教育・福祉の先覚者はキリスト教徒ばかりなのですか?」とお訊ねしました。
★ 好本先生のお答えは実に毅然としていました。思わず襟を正さざるを得ないものがありました。
★ 明治時代、早稲田大学の講師を勤められた好本氏はその後、英国に渡り、貿易商として成功され、得た利益をすべて若い盲人の奨学金やキリスト教伝道基金に寄付されたことで知られており、「日本盲人の父」と讃えられている方です。
★ 後、『点字毎日』は盲人の教育・福祉に貢献した人々を顕彰する「点字毎日文化賞」を創設しますが、その第一回受賞者が好本督氏であることでもおわかりいただけるでしょう。
★ キリスト教徒であった盲人運動の先覚者たちの活動はそれぞれに刮目すべきものがあります。その時期は大正デモクラシーと合致もします。実に当時の盲人指導者たちは”盲”を神の定めとして受け入れ、「神の栄光を現す」召命として生きたのでした。
★ 好本先生を語る場合、もう一つ、大切なことは、オックスフォード大学留学時代に出会われた恩師、ウィリアム・オスラー教授の薫陶でした。W.オスラー教授は今日の近代的医学教育の基礎を築いた先駆的医学者として有名な方ですが、若い日本からの留学生に「明日を思わず、過去を忘れて、”今”を生きよ」と教えられたそうです。
★ 好本先生の選択は、「神の栄光を現す」召命として”今”を生きるもの。私は、深い感動に浸りながら、気品のある老紳士のお話を心に刻みました。思い返せば、その時、先生は77歳。今の私と同年齢です。その方が、25歳の孫年齢の若者に、丁寧な言葉遣いで、自分の心を語ってくださいました。
★ その後、私は、日本盲人福祉の歴史を研究した時期がありますが、盲人の教育・福祉の源流を辿りますと、その殆どすべてに好本先生の姿が浮かび上がります。
中でも特筆すべき先生の功績は、
(1)戦前に関西学院大学を説き伏せて盲学生受け入れを実現。
(2)日本最初の点字聖書の発刊
(3)日本盲人キリスト教伝道協議会の創設
(4)世界初の点字新聞「点字毎日」の創設
をあげることが出来ます。
★ 好本先生が盲人に門戸を開かされた関西学院大学からは、岩橋武夫氏(日本ライトハウス創設者・英文学者) 本間一夫氏(日本点字図書館創設者)など多数の逸材が巣立ちました。また盲人キリスト教伝道の結果、多くの盲人福祉・教育分野の指導者が育ちました。
★ 現在の視覚障害者はほとんど好本督先生を知りません。障害者福祉の研究者も特に視覚障害を専攻するごく少数を除いて知る人はありません。しかし、私は、現在の福祉の時代に、盲人の前に提供されている豊富な教育・福祉・職業・文化の結実を見るとき、やはり聖書が伝えるイエス・キリストの言葉を想い浮かべます。
「一粒の麦だね、地に落ちて死なずば一粒にてあらん。死なば、多くの実を結ぶべし」
★ 「福祉の時代」・・・現在、我々の前には世界に誇るべき高い水準の視覚障害者の福祉と教育が出現しています。しかし、それを語るとき、最功労者の好本督先生の姿は全くありません。実に、それは、好本先生が生涯を通じて信仰された神の御心と言うべきかもしれぬ。私自身は、想いをそこに馳せて、納得しております。
先生は、人のため奉仕するだけ、自らを語ることのない方でありました。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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◎ それは、私と点字との出会い、とりわけ、テーマである「点字毎日」に結びついたご縁と深く関係しておりますので、ちょっと脇道にそれますが、その話も挟ませていただきます。
◎ 私は、昭和25年から29年まで、1950年から1954年になりますが、京都の同志社大学で学びました。今では当然のように全国どこの大学でも障害学生が学んでいますが、当時、盲目の学生に勉学の機会を与えていたのは、同志社大学などごく僅かの大学しかありませんでした。
◎ 昭和27年、1952年当時、私が3年生の時、5人の盲学生が学んでいましたが、入学に当たって、通学や勉学に必要は補助者は自らの責任で調達すること、建物・設備等、学校側に改変を求めないことなど8項目の念書を入れてようやく入学を許可されていました。
◎ 私が一番、問題だと思ったのは、「教室でノートを取ってはいけない」という禁止です。それは、点字でノートをとりますと、このような音を立てます。(万年筆で机をたたく) 周りの迷惑になるからイケナイ、というのです。
◎ すっかり同情した私は、友人に呼びかけて、5人の盲学生の学園生活を援助するたも「同志社大学盲学生友の会」を結成し、教科書の点訳や、学内歩行介助、ノート整理などの協力を始めました。
◎ 盲児といえばすべて盲学校、盲学校といえば、按摩師養成。目が不自由な者は本人の将来に選択の道は狭く限られていました。そんな中で、京都盲学校だけは、盲生徒を一般大学に送り込むカリキュラムを組み、積極的に一般大学への進学を奨励していました。その指導に当たっておられたのが自ら全盲の教師、鳥居篤治郎先生(京都府立盲学校副校長・後に京都市名誉市民の栄誉を受けられた著名人です)でありました。
◎ やがて鳥居先生の知遇を得、私は、鳥居先生から点字を習い、岩橋赳夫(日本ライトハウス理事長) 宮城道雄(邦楽家) 本間一夫(日本点字図書館創始者)の各氏など著名な盲人運動指導者に紹介されました。
◎ 学校を出て、新聞記者になったある日、鳥居先生からお呼び出しがあり、東京へ一緒に行くことになりました。「中村京太郎、好本督、両先生にお引き合わせしたい。是非とも」と、促され、お供をしました。「盲学生を助けた男」と、格別のコメント付きでご紹介下さいました。そうしてお二人の先生と親しくお目にかかり、「点字毎日」創刊当時のお話しを伺うことができたのです。
★ 多分、皆さんも、福祉というような言葉もなかった100年も前、 盲学校もあまりなく、点字も考案されて僅かに数年、という時期に、点字新聞などという発想は、どこから生まれたのか? そう疑問に思われるでしょう。
★ それは当時の「時代精神」と大いに関係しているように思います。もう少し具体的に言うなら、大正デモクラシーが最高潮に昂揚した時期と重なるのです。例えば、未だ黎明期だった盲人運動は、この時期、全国都道府県単位の盲学校設置運動、点字教科書の自主編集・出版、地方選挙での点字投票有効実現運動など民主化運動が最高潮に達していました。
★ 毎日新聞が河野氏提案の”奇抜な”アイディアに同意したもの恐らく、そうした盲人自身の社会的運動の高まりがあったからだと思います。 まあ、当時は盲人だけではなく一般国民も欧米伝来の民主主義思想に大いに酔った時代でした。後の歴史は、この時期を『大正デモクラシー』が席巻した時代、と規定していますが、恐らく、点字新聞創刊の最も大切な土壌はこの時代精神だと思います。
★ しかし、コト失明者の福祉、教育を考える場合、それ以上に、本質的な、見落としてはならないことは、その根底に流れているキリスト教精神であった、と思います。当時の盲人運動先覚者は、例外なくキリスト信徒であったのです。私自身、そのことには非常に早い時期から気づき、注目しておりました。
★ そこで、好本督、中村京太郎の両先生にお逢いし、親しくお話しを伺う機会があった時、何よりも先に、私の疑問を持ちだして、「なぜ、盲教育・福祉の先覚者はキリスト教徒ばかりなのですか?」とお訊ねしました。
★ 好本先生のお答えは実に毅然としていました。思わず襟を正さざるを得ないものがありました。
「キリスト教の聖書をお読み下さい。ヨハネ伝第9章です。盲人を前にユダヤびとがイエス・キリストにこう訊ねました。“この人はどんな罪を背負ってメシイになったのですか?” と。イエスは答えられました。”この人は何の罪もおかしていない。この人がメシイになったのは神の栄光がこの人に現れるためである”、と」
「よろしいですか、ここが一番、大切なポイントです・・・日本の盲人は、長い間、その歴史の長さを自分が盲人であることを『神の祟り』だと言われ、先祖の業の因果応報と言われ続けてきました。盲人に対する根強い差別・偏見はそこに源を発しています。しかし、イエスは「神の栄光が現れるため」と仰いました。私たち日本の盲人は、そこに本当の救いを見いだしたのです」
★ 明治時代、早稲田大学の講師を勤められた好本氏はその後、英国に渡り、貿易商として成功され、得た利益をすべて若い盲人の奨学金やキリスト教伝道基金に寄付されたことで知られており、「日本盲人の父」と讃えられている方です。
★ 後、『点字毎日』は盲人の教育・福祉に貢献した人々を顕彰する「点字毎日文化賞」を創設しますが、その第一回受賞者が好本督氏であることでもおわかりいただけるでしょう。
★ キリスト教徒であった盲人運動の先覚者たちの活動はそれぞれに刮目すべきものがあります。その時期は大正デモクラシーと合致もします。実に当時の盲人指導者たちは”盲”を神の定めとして受け入れ、「神の栄光を現す」召命として生きたのでした。
★ 好本先生を語る場合、もう一つ、大切なことは、オックスフォード大学留学時代に出会われた恩師、ウィリアム・オスラー教授の薫陶でした。W.オスラー教授は今日の近代的医学教育の基礎を築いた先駆的医学者として有名な方ですが、若い日本からの留学生に「明日を思わず、過去を忘れて、”今”を生きよ」と教えられたそうです。
★ 好本先生の選択は、「神の栄光を現す」召命として”今”を生きるもの。私は、深い感動に浸りながら、気品のある老紳士のお話を心に刻みました。思い返せば、その時、先生は77歳。今の私と同年齢です。その方が、25歳の孫年齢の若者に、丁寧な言葉遣いで、自分の心を語ってくださいました。
★ その後、私は、日本盲人福祉の歴史を研究した時期がありますが、盲人の教育・福祉の源流を辿りますと、その殆どすべてに好本先生の姿が浮かび上がります。
中でも特筆すべき先生の功績は、
(1)戦前に関西学院大学を説き伏せて盲学生受け入れを実現。
(2)日本最初の点字聖書の発刊
(3)日本盲人キリスト教伝道協議会の創設
(4)世界初の点字新聞「点字毎日」の創設
をあげることが出来ます。
★ 好本先生が盲人に門戸を開かされた関西学院大学からは、岩橋武夫氏(日本ライトハウス創設者・英文学者) 本間一夫氏(日本点字図書館創設者)など多数の逸材が巣立ちました。また盲人キリスト教伝道の結果、多くの盲人福祉・教育分野の指導者が育ちました。
★ 現在の視覚障害者はほとんど好本督先生を知りません。障害者福祉の研究者も特に視覚障害を専攻するごく少数を除いて知る人はありません。しかし、私は、現在の福祉の時代に、盲人の前に提供されている豊富な教育・福祉・職業・文化の結実を見るとき、やはり聖書が伝えるイエス・キリストの言葉を想い浮かべます。
「一粒の麦だね、地に落ちて死なずば一粒にてあらん。死なば、多くの実を結ぶべし」
★ 「福祉の時代」・・・現在、我々の前には世界に誇るべき高い水準の視覚障害者の福祉と教育が出現しています。しかし、それを語るとき、最功労者の好本督先生の姿は全くありません。実に、それは、好本先生が生涯を通じて信仰された神の御心と言うべきかもしれぬ。私自身は、想いをそこに馳せて、納得しております。
先生は、人のため奉仕するだけ、自らを語ることのない方でありました。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2010-06-10 00:01
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