2010年 07月 09日
【10051】 ガントレットが岡山に蒔いたタネ |
★ 私は、若い頃、本当に、立派な師に恵まれていたと思います。今の学生達にはとても望めないような卓越した偉大な先生と出会い、親しく、その薫陶を受ける光栄に浴しました。
これまでにも、折に触れ、その想い出話を書きつづっておりますが、今夜は、ガントレット先生のことをお話ししたいと思います。
★ ガントレットと言えば、クリント・イーストウッドが自ら監督、主演し、制作した同名のアクション映画を思い出す人が多いのですが、私が、偲びたいのは、英国・ウェールズ出身の教育者、ジョージ・ガントレット先生(1868-1956)のことです。明治23年(1890)に来日し、岡山第六高等学校(現・岡山大学)で英語、ラテン語を教えた方です。
★ 先生は、明治時代の有能な日本青年を育てた教育者と言うよりも、もっと広く、パイプオルガンの専門家・演奏家として日本の音楽、とりわけオルガン音楽の発展に大きな足跡を残した方として知られています。
★ そんな形式的なコメントよりも、奥様の山田恒さんが作曲家、山田耕筰さんの実姉。若き日の義弟を音楽家に育てたのがガントレット先生。と申し上げた方が、ピンと来ますね。その方が身近に感じていただけそうです。
★ 日本に帰化し、名前も、「岸登烈」とサインしておられました。 昭和31(1956)年夏、87歳になられた時、東京の自宅で心臓マヒで亡くなられました。幸運にも私は、その前年に先生とお目にかかる光栄に浴しました。当時、私は、新聞記者2年目。フトしたキッカケで、先生の知遇を得、お会いすることになったのです。仕事と言うより、当時、私がのめり込んでいたエスペラント語の繋がりでした。
★ 学生時代に私に点字を教えてくださった鳥居篤治郎先生(元京都盲学校副校長・京都名誉市民)は熱心なエスペラントの実践家でした。先生のお薦めで私もエスペラント語を学び始め、翌年の昭和28(1953)年に岡山で開かれた第40回大会には,全盲だった鳥居先生の手引き係を兼ねて参加し、ここで八木日出雄先生に紹介されました。
★ 当時、八木先生は、岡山大学医学部教授。後に同大学の学長になられ、また、「世界エスペラント協会」の会長に就任し、世界のエスペラント運動の普及に貢献された巨人です。八木先生は、「日本のエスペラント運動は、ここ岡山で始まった。タネを蒔いたのはガントレット先生」 と教えて下さいました。
★ それから2年後、「ガントレットに会います。ご一緒にどうぞ」と鳥居先生が、私をお招き下さって、訪問したのです。鳥居先生は、既にガントレット先生と旧知の間柄でした。
★ 鳥居先生は、私を「全盲大学生の支援をしている青年」とご紹介下さいました。当時は、未だ、”ボランティア”などという言葉さえなかった時代ですから、ガントレット先生は 非常に興味を抱かれ、話が弾みました。
★ 今、思えば、こうした奇縁も、元々、《点字との出会い》 が、出発点でした。奇縁が累々と重ね合って生まれる新たな出会いの不思議ですね。20歳代に私はこのような奇縁の経絡に結ばれて、偉大な人物の薫陶を受けることが出来ました。
★ 実を言いますと、日本でのエスペラント運動を考える時、盲人エスペランチストが果たした役割は実に大きいのです。その中心になったのが鳥居篤治郎先生。未だ20歳前後だった大正初年、東京盲学校(現・筑波大学付属盲学校)に在学中、留学生としてやってきたロシアの有名な盲詩人・ワシリー・エロシェンコと仲良くなり、エスペラントを習ったという逸材です。この二人のコンビが初期のエスペラント運動を引っ張ってきました。
★ 余談ですが、鳥居篤治郎先生は、全盲の方ですが、若い頃、神近市子や望月百合子と言った婦人解放運動の先駆者と交遊し、ガントレット先生の恒夫人とも親交を結んでおられました。残念ながら、恒夫人は既に他界されており、若い頃の思い出話が次々と出て来て、楽しくお話を伺いました。
★ そうして関係で、明治・大正時代に”エリート”として育ち、後に盲人指導者となった方々の多くがエスペランチストなのです。盲人の皆さんと深い付き合いを初めていた私に、ガントレット先生は、「日本のエスペラント大会で一番、活発なのは盲人部会です。鳥居先生のおかげです」と、褒めちぎっておられました。
★ 「ガントレット先生は・・・」
帰りの道すがら、鳥居先生が語ってくださったプロフィルは、実に興味深いものでした。明治33(1900)年に岡山に第六高等学校が開学した時、日本政府はガントレット先生を英語教師として招聘しました。
★ 3年後、エスペラント語に接した先生はたちまちこの新しい”国際語”に魅せられて、先ず岡山の人々に教え始めました。日本でのエスペラント運動の始まりです。
★ ガントレット先生の日本滞在記をひもとくと、日本に新知識をもたらした偉大な功績が幾つも重なっています。先ず、結婚された奥様は山田恒さん、日本における婦人解放運動の先駆者。生涯を通じてキリスト教婦人矯風会運動に身を挺した方として知られています。
★ そして奥様の実弟が山田耕筰さん。ガントレット先生は義弟の耕筰さんに音楽の個人指導で鍛えました。ガントレット先生は、英語教師より、オルガン音楽、演奏者として広く世に知られた音楽家でもあったのです。山田耕筰さんは日本の代表的な西洋音楽家となりました。
★ ガントレット先生は、また岡山第六高校(岡山大学)から山口高商(山口大学)へ移りましたが、「秋芳洞や鍾乳石」に興味を持ち,学術的な調査・研究も行うようになり、「英国地理学会」の会誌に論文を発表したことがあるそうです。
★ これは世界に初めて”秋芳洞の鍾乳石”を紹介した労作。 「秋芳洞開発の父」として、その功績を讃え、秋吉台科学博物館には、ガントレットの顕彰胸像が置かれています。
★ ガントレット先生は、実に流暢な日本語を語られる方でした。
「当然です。私、日本人。名前は、”岸 登烈” キシですよ」
風貌を語るのは失礼とは思いますが、英国貴族を思わせる気品に満ちた方でした。
鳥居篤治郎先生のお話では「ガントレット家は英国でも著名な音楽家の家系」だったそうです。山田耕筰を生み出した奇縁と言えましょう。
★ ・・・岡山は、先駆者・ガントレット先生をお迎えすることによって、日本におけるエスペラント運動と、オルガン音楽導入の発祥地の脚光を浴びることになりました。その地に私が終の棲家を築いた奇縁を想い、感一入のものがあります。
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私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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これまでにも、折に触れ、その想い出話を書きつづっておりますが、今夜は、ガントレット先生のことをお話ししたいと思います。
★ ガントレットと言えば、クリント・イーストウッドが自ら監督、主演し、制作した同名のアクション映画を思い出す人が多いのですが、私が、偲びたいのは、英国・ウェールズ出身の教育者、ジョージ・ガントレット先生(1868-1956)のことです。明治23年(1890)に来日し、岡山第六高等学校(現・岡山大学)で英語、ラテン語を教えた方です。
★ 先生は、明治時代の有能な日本青年を育てた教育者と言うよりも、もっと広く、パイプオルガンの専門家・演奏家として日本の音楽、とりわけオルガン音楽の発展に大きな足跡を残した方として知られています。
★ そんな形式的なコメントよりも、奥様の山田恒さんが作曲家、山田耕筰さんの実姉。若き日の義弟を音楽家に育てたのがガントレット先生。と申し上げた方が、ピンと来ますね。その方が身近に感じていただけそうです。
★ 日本に帰化し、名前も、「岸登烈」とサインしておられました。 昭和31(1956)年夏、87歳になられた時、東京の自宅で心臓マヒで亡くなられました。幸運にも私は、その前年に先生とお目にかかる光栄に浴しました。当時、私は、新聞記者2年目。フトしたキッカケで、先生の知遇を得、お会いすることになったのです。仕事と言うより、当時、私がのめり込んでいたエスペラント語の繋がりでした。
★ 学生時代に私に点字を教えてくださった鳥居篤治郎先生(元京都盲学校副校長・京都名誉市民)は熱心なエスペラントの実践家でした。先生のお薦めで私もエスペラント語を学び始め、翌年の昭和28(1953)年に岡山で開かれた第40回大会には,全盲だった鳥居先生の手引き係を兼ねて参加し、ここで八木日出雄先生に紹介されました。
★ 当時、八木先生は、岡山大学医学部教授。後に同大学の学長になられ、また、「世界エスペラント協会」の会長に就任し、世界のエスペラント運動の普及に貢献された巨人です。八木先生は、「日本のエスペラント運動は、ここ岡山で始まった。タネを蒔いたのはガントレット先生」 と教えて下さいました。
★ それから2年後、「ガントレットに会います。ご一緒にどうぞ」と鳥居先生が、私をお招き下さって、訪問したのです。鳥居先生は、既にガントレット先生と旧知の間柄でした。
★ 鳥居先生は、私を「全盲大学生の支援をしている青年」とご紹介下さいました。当時は、未だ、”ボランティア”などという言葉さえなかった時代ですから、ガントレット先生は 非常に興味を抱かれ、話が弾みました。
★ 今、思えば、こうした奇縁も、元々、《点字との出会い》 が、出発点でした。奇縁が累々と重ね合って生まれる新たな出会いの不思議ですね。20歳代に私はこのような奇縁の経絡に結ばれて、偉大な人物の薫陶を受けることが出来ました。
★ 実を言いますと、日本でのエスペラント運動を考える時、盲人エスペランチストが果たした役割は実に大きいのです。その中心になったのが鳥居篤治郎先生。未だ20歳前後だった大正初年、東京盲学校(現・筑波大学付属盲学校)に在学中、留学生としてやってきたロシアの有名な盲詩人・ワシリー・エロシェンコと仲良くなり、エスペラントを習ったという逸材です。この二人のコンビが初期のエスペラント運動を引っ張ってきました。
★ 余談ですが、鳥居篤治郎先生は、全盲の方ですが、若い頃、神近市子や望月百合子と言った婦人解放運動の先駆者と交遊し、ガントレット先生の恒夫人とも親交を結んでおられました。残念ながら、恒夫人は既に他界されており、若い頃の思い出話が次々と出て来て、楽しくお話を伺いました。
★ そうして関係で、明治・大正時代に”エリート”として育ち、後に盲人指導者となった方々の多くがエスペランチストなのです。盲人の皆さんと深い付き合いを初めていた私に、ガントレット先生は、「日本のエスペラント大会で一番、活発なのは盲人部会です。鳥居先生のおかげです」と、褒めちぎっておられました。
★ 「ガントレット先生は・・・」
帰りの道すがら、鳥居先生が語ってくださったプロフィルは、実に興味深いものでした。明治33(1900)年に岡山に第六高等学校が開学した時、日本政府はガントレット先生を英語教師として招聘しました。
★ 3年後、エスペラント語に接した先生はたちまちこの新しい”国際語”に魅せられて、先ず岡山の人々に教え始めました。日本でのエスペラント運動の始まりです。
★ ガントレット先生の日本滞在記をひもとくと、日本に新知識をもたらした偉大な功績が幾つも重なっています。先ず、結婚された奥様は山田恒さん、日本における婦人解放運動の先駆者。生涯を通じてキリスト教婦人矯風会運動に身を挺した方として知られています。
★ そして奥様の実弟が山田耕筰さん。ガントレット先生は義弟の耕筰さんに音楽の個人指導で鍛えました。ガントレット先生は、英語教師より、オルガン音楽、演奏者として広く世に知られた音楽家でもあったのです。山田耕筰さんは日本の代表的な西洋音楽家となりました。
★ ガントレット先生は、また岡山第六高校(岡山大学)から山口高商(山口大学)へ移りましたが、「秋芳洞や鍾乳石」に興味を持ち,学術的な調査・研究も行うようになり、「英国地理学会」の会誌に論文を発表したことがあるそうです。
★ これは世界に初めて”秋芳洞の鍾乳石”を紹介した労作。 「秋芳洞開発の父」として、その功績を讃え、秋吉台科学博物館には、ガントレットの顕彰胸像が置かれています。
★ ガントレット先生は、実に流暢な日本語を語られる方でした。
「当然です。私、日本人。名前は、”岸 登烈” キシですよ」
風貌を語るのは失礼とは思いますが、英国貴族を思わせる気品に満ちた方でした。
鳥居篤治郎先生のお話では「ガントレット家は英国でも著名な音楽家の家系」だったそうです。山田耕筰を生み出した奇縁と言えましょう。
★ ・・・岡山は、先駆者・ガントレット先生をお迎えすることによって、日本におけるエスペラント運動と、オルガン音楽導入の発祥地の脚光を浴びることになりました。その地に私が終の棲家を築いた奇縁を想い、感一入のものがあります。
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by zenmz
| 2010-07-09 22:53