2010年 09月 21日
【10132】 瞑想の日本語:”イタダキマス”を想う |
★ 「ゼニモトさん、私は、まだ忘れません。そして、友達に、今も語り続けています。オーストラリアの友達の誰もが、日本語の”イタダキマス”の話をすると、みんなビックリします。そして日本文化の深い優しさを思っています」
★ オーストラリアのアドレード郊外に住むフィリピン人女性、シェーリーさんからの便りが届きました。 もう20年も前に日比親善交流事業で来日、我が家にホームステイしました。帰国後、オーストラリア人と結婚し、今は、オーストラリアに住んでいます。
★ 毎年、必ず、私ども夫婦のそれぞれの誕生日に手紙を届けてくれます。が、今度は、その定期便ではなく、「すっかりオーストラリアに溶け込みました。近く帰化します」と近況を伝えるうれしい便りでした。 ご近所との交流に、日本での思い出話が大いに承けている、とか。
★ ああ、あの ”イタダキマス”・・・思い出しました。
20年前の秋、シェーリーさんは友人のドナさんと二人、1週間、我が家に滞在しました。二人とも、日本に来る前、オリエンテーションで日本の習慣を勉強したそうで、玄関で靴を脱ぎ、前向きにそろえ直してから部屋へ上がって来ました。
★ アタマを深々下げての挨拶の仕方、箸の持ち方、布団の上げ下げ、風呂の入り方など、かなり詳しく知っていてビックリしたものです。さて、食事。 二人とも、食卓に向かって、キチンと正座し、両手を合わせて「イタダキマス」!
★ 吉五郎じいちゃんは、「よう来たノー」と抱きかかえてくれました。
それから楽しい食事。小学校に上がったばかりの私も教わった通りの作法で、少し改まって「イタダキマス」と言いました。 よく出来た・・・・それを見て相好崩して喜んだ吉五郎おじいさん。改まって語り始めました。
★ そして、この教えを、会う人々に語るようになりました。その教えの深さ、今、シミジミと味わっています。
★ 私は幼少の頃からクリスチャン・ボーイとして育ちました。食前の祈りは、イタダキマスではなく、感謝の祈りが普通。日々の糧を与えてくださる神への感謝と賛美の生活が、若い頃の私でした。でも、今はこう思います。私のために神が与えてくれる牛肉、米、野菜とは!?・・・これほど身勝手な理屈はない、と。
★ 吉五郎おじいさんは、熱心な仏教徒でした。浄土真宗・真光寺というお寺の門徒総代で毎月、自宅を開放してご近所の人々を招いて法話を聞く会を催すほど熱心でした。恐らく、熱心な仏教徒であった信仰から出た説話なのかもしれません。
★ 私の生命のため、我が命をくれる他の生物の犠牲。今の私は、吉五郎おじいさんの教えが正しい真実だと思うようになっています。
★ 私が、フィリピンの娘たちにざっと、このような話を紹介しました。そのことを未だ覚えていたのです。思わず、笑みが浮かびました。考えてみれば、私が子どもの頃、どこの家でも、このようなお爺さんと孫の会話があったように思います。
★ 何気ない、食卓を囲んで、団らんの語らいの中で、子どもたちはその家の文化を吸収し、それを核に自己形成の道を拓いた。そんな思いがしもします。 国際化時代の現代は、その相手がフィリピン娘だった、とは!
★ 私は、それ以来、毎年、全員集合の年末年始、おせち料理を前に、我が子、孫に、この吉五郎おじいちゃんの教えを語り聞かせるようになりました。
「食事を粗末にしてはいけない。米一粒も大切に・・・イノチを捧げてくれたその米粒への感謝を忘れずに。 食事の度に、イタダキマスを口にする度に、吉五郎おじいちゃんの教えを心に刻み込んで欲しい」と。
★ 我が80年の人生を思い返してみても、毎日、3回、繰り返して来た「イタダキマス」・・・短い1語ですが、噛み締めれば、噛み締めるほど、重く、深く、魂を揺り動かす美しい日本語ですね。 多分、私は、これから先も、機会があれば、この言葉に吉五郎爺さんの教えを乗せて語り続けていくでしょう。
【追記】 (2010/09/21 12:00)
思いもよらず、多くのコメントを頂戴しました。
皆様のご感想を拝見し、私の想いを、追加したくなりました。
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**** お願い **** 【傘寿の知憲運動】 是非、一度、ご披見ください
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★ オーストラリアのアドレード郊外に住むフィリピン人女性、シェーリーさんからの便りが届きました。 もう20年も前に日比親善交流事業で来日、我が家にホームステイしました。帰国後、オーストラリア人と結婚し、今は、オーストラリアに住んでいます。
★ 毎年、必ず、私ども夫婦のそれぞれの誕生日に手紙を届けてくれます。が、今度は、その定期便ではなく、「すっかりオーストラリアに溶け込みました。近く帰化します」と近況を伝えるうれしい便りでした。 ご近所との交流に、日本での思い出話が大いに承けている、とか。
★ ああ、あの ”イタダキマス”・・・思い出しました。
20年前の秋、シェーリーさんは友人のドナさんと二人、1週間、我が家に滞在しました。二人とも、日本に来る前、オリエンテーションで日本の習慣を勉強したそうで、玄関で靴を脱ぎ、前向きにそろえ直してから部屋へ上がって来ました。
★ アタマを深々下げての挨拶の仕方、箸の持ち方、布団の上げ下げ、風呂の入り方など、かなり詳しく知っていてビックリしたものです。さて、食事。 二人とも、食卓に向かって、キチンと正座し、両手を合わせて「イタダキマス」!
「上手だね。シェーリー、君は、仏教徒かね?」★ そう言いながら、食事を楽しんだ後、デザートとお茶を飲みながら、私はは次のような話をしました。話の内容を、聞き終わった二人は目を大きく見開いて口々にこう言いました。
「ノー、カトリックです」 「私も、カトリック」と、ドナも。
「クリスチャンは、Graceを唱えるのじゃない?
天に在す我らが父よ、と、与えられた糧に感謝を捧げる」
「家では、そうしています。でも・・・ここは日本。イタダキマスです」
「今、言った、イタダキマス。意味、分かる」
「Yes、receiving ・・・Thanks for receiving!」
「Receiving・・・Yes, you are right.
But receiving what? Food? Dinner?」
「Yes, I guess so」
「Very good! それでいいでしょう。よく勉強して来たね・・・」
そのような話、初めて聞きました。Great! スゴイ!★ フィリピン娘が感動した話。今日は、それをお話ししたいと思います。 少年時代、私は京都に住んでいました。小学生初めての夏休みに父の故郷である広島のおじいちゃんを訪ねました。もう大学・大学院の学生である我が孫たちから言えば四代前のご先祖です。名前は吉五郎。
★ 吉五郎じいちゃんは、「よう来たノー」と抱きかかえてくれました。
それから楽しい食事。小学校に上がったばかりの私も教わった通りの作法で、少し改まって「イタダキマス」と言いました。 よく出来た・・・・それを見て相好崩して喜んだ吉五郎おじいさん。改まって語り始めました。
「みちとし。いいか、よく覚えておくのだよ。 何をいただくのか?★ この話、実は、私は、長い間、脳裏奥深くしまい込み、気にとめることはありませんでした。 それが、年齢を重ね、それを語ってくれた吉五郎おじいさんの年齢に近づくにつれて、当時の吉五郎おじいさんの広島弁の語り口そのままの抑揚と共に、鮮明に甦って来たのです。
このお米、野菜、魚、そして大根・・・・みんな、それぞれイノチをもっている。 それが、今日、みんな、自分のイノチを、オマエのために下さるのだ。 だから、私たち人間は、元気でいられる。 いただいたのはそのイノチだよ。 イタダキマス、それを口にする度に、それを忘れてはいけないョ」
★ そして、この教えを、会う人々に語るようになりました。その教えの深さ、今、シミジミと味わっています。
★ 私は幼少の頃からクリスチャン・ボーイとして育ちました。食前の祈りは、イタダキマスではなく、感謝の祈りが普通。日々の糧を与えてくださる神への感謝と賛美の生活が、若い頃の私でした。でも、今はこう思います。私のために神が与えてくれる牛肉、米、野菜とは!?・・・これほど身勝手な理屈はない、と。
★ 吉五郎おじいさんは、熱心な仏教徒でした。浄土真宗・真光寺というお寺の門徒総代で毎月、自宅を開放してご近所の人々を招いて法話を聞く会を催すほど熱心でした。恐らく、熱心な仏教徒であった信仰から出た説話なのかもしれません。
★ 私の生命のため、我が命をくれる他の生物の犠牲。今の私は、吉五郎おじいさんの教えが正しい真実だと思うようになっています。
★ 私が、フィリピンの娘たちにざっと、このような話を紹介しました。そのことを未だ覚えていたのです。思わず、笑みが浮かびました。考えてみれば、私が子どもの頃、どこの家でも、このようなお爺さんと孫の会話があったように思います。
★ 何気ない、食卓を囲んで、団らんの語らいの中で、子どもたちはその家の文化を吸収し、それを核に自己形成の道を拓いた。そんな思いがしもします。 国際化時代の現代は、その相手がフィリピン娘だった、とは!
★ 私は、それ以来、毎年、全員集合の年末年始、おせち料理を前に、我が子、孫に、この吉五郎おじいちゃんの教えを語り聞かせるようになりました。
「食事を粗末にしてはいけない。米一粒も大切に・・・イノチを捧げてくれたその米粒への感謝を忘れずに。 食事の度に、イタダキマスを口にする度に、吉五郎おじいちゃんの教えを心に刻み込んで欲しい」と。
★ 我が80年の人生を思い返してみても、毎日、3回、繰り返して来た「イタダキマス」・・・短い1語ですが、噛み締めれば、噛み締めるほど、重く、深く、魂を揺り動かす美しい日本語ですね。 多分、私は、これから先も、機会があれば、この言葉に吉五郎爺さんの教えを乗せて語り続けていくでしょう。
【追記】 (2010/09/21 12:00)
思いもよらず、多くのコメントを頂戴しました。
皆様のご感想を拝見し、私の想いを、追加したくなりました。
「イタダキマス」の言葉を発するとき、必ず合掌しますね。
人は何かに向かって祈る時、必ず手を合わせます。そして、念じます。
「右ほとけ、左われぞと合す手の、中ぞ床しき南無の一声」
との古歌を思い出します。
「イタダキマス」の言葉と共にあるこの仕草・・・確かに、これは、仏教の教えですね。右手は清浄、神聖、仏を表し、左手は、不浄、世俗、煩悩のわたしたちを表わす。そして両手を合せたところに人の実相を観ずる。3度の食事・・・そこにわたしの命を支える多くの命の犠牲を観る。
合掌の仕草と合わせ考えると、なお深い教えだと思います。
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**** お願い **** 【傘寿の知憲運動】 是非、一度、ご披見ください
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by zenmz
| 2010-09-21 00:05
| 言霊