2010年 11月 04日
【10177】 傘寿の身、”吉備の黒媛”を想う一日 |
★ 昨日午後、総社市市民会館で催されたシンポジウム「古代吉備の風景」は、実に啓発的な”勉強会”でした。続く伝説の美女「吉備の黒媛」の舞、考証を重ねて創られた古代衣装の花柳和あやきさんの優雅な舞い姿に幻の美女を重ねて楽しみました。
★ メインの上田正昭先生の基調講演は古代吉備を7世紀中葉の北東アジアの日本-朝鮮半島交流の視点から俯瞰し、この地で発掘された遺跡の数々に新たな光を当てるものでした。とりわけ鬼ノ城と百済・白村江戦役との関連付けには目を瞠りました。これは勉強になりました。
★ そのことは、もう少し勉強してから、また、まとめてみたいと想います。それより、今日、記録しておきたいのは、”吉備の黒媛”のこと。史上希にみる仁政で知られる仁徳天皇の妃だった女性で、”絶世の美女”だった、とか。とにかく、岡山の人々は、そう信じて、代々、語り継がれて来ました。
★ 花柳和あやきさんの優雅な舞い・・・これは、皆様にも、是非とも、お目にかけたかったです。そのつもりで、カメラは準備して行きましたが、会場入り口のあちこちに「カメラ、ビデオの撮影禁止」の張り紙がベタベタ。とても取り出す勇気はなく、あきらめました。代わりに私が「吉備の黒媛」に寄せる想いでチェックした身元調査をお届けします。
★ 岡山の県北、今は津山市に編入されていますが、旧勝北町の水原古墳に次の歌碑が置かれていて、「古事記より、伝黒媛塚」と注釈がついています。
★ そこから、500メートルほど西にある「桜の土居」は別名「桜御殿」とも言い仁徳天皇の行宮跡と伝えられていて、今も古い桜樹が茂り、さらに付近の「黒目の土居」は黒媛が青菜を摘んで仁徳天皇に差し上げた畑の跡であると伝えられています。
★ そう言われてみれば、山形の畑に蒔いた菘菜(あをな)を吉備人(黒媛)といっしょに摘めば楽しいだろうに・・・・と、詠われた仁徳天皇の和歌が現実味を帯びてきます。ロマンに満ちたこの物語は、「新野村史」の「吉備の中山と黒媛」に詳しく紹介されています。
★ また、別の伝説も・・・県南、瀬戸内海沿いにある「古代吉備国」
現在の総社市上林に国指定史跡の神秘的な「こうもり塚古墳」があります。横穴式石室の長さは19.4mで,飛鳥の石舞台古墳(19.1m)にも匹敵。
★ 三大巨石墳(他は箭田大塚,牟佐大塚)の一つとして有名なのですが、岡山の人々は長い間、それは、”黒媛の墓”との言い伝えを信じてきました。しかし、建造に1世紀以上の年代差があることが判明し、最近の考古学では、完全に否定されています。
★ 黒媛は、やはり「吉備の国人」と言っても、南の瀬戸内海沿いではなく、県北の
”草深い山形”の豪族の娘だったのですね。 ”田舎娘”に恋い焦がれて、その山奥まで追いかけてくる帝・・・・何だかうれしくなる話です。
★ 傘寿の老骨、つらつら想うに、仁徳天皇・・・われわれ昭和ヒトケタ人間は、史上、希に見る”仁政の帝”、非の打ち所無い有徳の聖君、と崇めたお方でした。が・・・・アラ!アラ!? なかなかヤルもんですね。
★ 第16代天皇の「仁徳」帝は、西暦313生まれの399没の方です。 1600年~1700年も前の時代の戸と。乗り物はおろか、近畿から中国山脈の山奥へ、道路さえロクに無かった時代のオハナシ。 よくぞ、遙々と・・・
★ そんな時に政務を放って女を追っかける。どれほどの期間、「帝不在」がつづいたことか!? 大らかと言えばおおらかではありますが・・・こういうコトがあるから古代のロマンは楽しいです。
世の草食男よ、この一事を知れ! 恋とはそういうものだ。
何か、一声、なよなよした若いイマドキ・オトコに”喝”を入れたくなりました。
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**** ご挨拶 **** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
**** お願い **** 【傘寿の知憲運動】 是非、一度、ご披見ください
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★ メインの上田正昭先生の基調講演は古代吉備を7世紀中葉の北東アジアの日本-朝鮮半島交流の視点から俯瞰し、この地で発掘された遺跡の数々に新たな光を当てるものでした。とりわけ鬼ノ城と百済・白村江戦役との関連付けには目を瞠りました。これは勉強になりました。
★ そのことは、もう少し勉強してから、また、まとめてみたいと想います。それより、今日、記録しておきたいのは、”吉備の黒媛”のこと。史上希にみる仁政で知られる仁徳天皇の妃だった女性で、”絶世の美女”だった、とか。とにかく、岡山の人々は、そう信じて、代々、語り継がれて来ました。
★ 花柳和あやきさんの優雅な舞い・・・これは、皆様にも、是非とも、お目にかけたかったです。そのつもりで、カメラは準備して行きましたが、会場入り口のあちこちに「カメラ、ビデオの撮影禁止」の張り紙がベタベタ。とても取り出す勇気はなく、あきらめました。代わりに私が「吉備の黒媛」に寄せる想いでチェックした身元調査をお届けします。
★ 岡山の県北、今は津山市に編入されていますが、旧勝北町の水原古墳に次の歌碑が置かれていて、「古事記より、伝黒媛塚」と注釈がついています。
山縣(やまがた)に蒔(ま)ける菘菜(あをな)も吉備人と 共にし採めば楽しくもあるか★ 津山市のホームページは、そのいわれを次のように解説しています。
黒媛(くろひめ)は吉備の海部直(あまべのあたへ)の娘で容姿端麗であったために都に召され,仁徳天皇の寵愛を受けていましたが,皇后の嫉妬にあい山形(現在の津山市新野山形)の地へ帰されました。★ 勝北町の人々は、黒媛がこの町の出身、と信じています。水原古墳(伝黒媛塚)の字名は「黒目」と言い黒媛が住んだ所、八幡神社の若宮の社地は、黒媛の父海部直の居館跡。
その黒媛を慕って仁徳天皇がわざわざ草深い山形まで行幸されたという、はかなくも仲むつまじい物語があり,津山市新野山形の水原古墳(伝黒媛塚)より出土した130点余の貴重な史料は現在東京国立博物館に保管されています。
★ そこから、500メートルほど西にある「桜の土居」は別名「桜御殿」とも言い仁徳天皇の行宮跡と伝えられていて、今も古い桜樹が茂り、さらに付近の「黒目の土居」は黒媛が青菜を摘んで仁徳天皇に差し上げた畑の跡であると伝えられています。
★ そう言われてみれば、山形の畑に蒔いた菘菜(あをな)を吉備人(黒媛)といっしょに摘めば楽しいだろうに・・・・と、詠われた仁徳天皇の和歌が現実味を帯びてきます。ロマンに満ちたこの物語は、「新野村史」の「吉備の中山と黒媛」に詳しく紹介されています。
★ また、別の伝説も・・・県南、瀬戸内海沿いにある「古代吉備国」
現在の総社市上林に国指定史跡の神秘的な「こうもり塚古墳」があります。横穴式石室の長さは19.4mで,飛鳥の石舞台古墳(19.1m)にも匹敵。
★ 三大巨石墳(他は箭田大塚,牟佐大塚)の一つとして有名なのですが、岡山の人々は長い間、それは、”黒媛の墓”との言い伝えを信じてきました。しかし、建造に1世紀以上の年代差があることが判明し、最近の考古学では、完全に否定されています。
★ 黒媛は、やはり「吉備の国人」と言っても、南の瀬戸内海沿いではなく、県北の
”草深い山形”の豪族の娘だったのですね。 ”田舎娘”に恋い焦がれて、その山奥まで追いかけてくる帝・・・・何だかうれしくなる話です。
★ 傘寿の老骨、つらつら想うに、仁徳天皇・・・われわれ昭和ヒトケタ人間は、史上、希に見る”仁政の帝”、非の打ち所無い有徳の聖君、と崇めたお方でした。が・・・・アラ!アラ!? なかなかヤルもんですね。
★ 第16代天皇の「仁徳」帝は、西暦313生まれの399没の方です。 1600年~1700年も前の時代の戸と。乗り物はおろか、近畿から中国山脈の山奥へ、道路さえロクに無かった時代のオハナシ。 よくぞ、遙々と・・・
★ そんな時に政務を放って女を追っかける。どれほどの期間、「帝不在」がつづいたことか!? 大らかと言えばおおらかではありますが・・・こういうコトがあるから古代のロマンは楽しいです。
世の草食男よ、この一事を知れ! 恋とはそういうものだ。
何か、一声、なよなよした若いイマドキ・オトコに”喝”を入れたくなりました。
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**** ご挨拶 **** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
**** お願い **** 【傘寿の知憲運動】 是非、一度、ご披見ください
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by zenmz
| 2010-11-04 10:14
| 吉備高原ライフ