2012年 04月 26日
[12010] ネット生活再開の弁 |
人間の本性は、善なのか、悪なのか? ネット生活を始めると、誰でも、この難問を日常的に問い直したくなう場面が多くなります。時空を超える夢を実現したIT革命ですが匿名が生み出した”仮想社会”に一歩、足を踏み込むと、罵詈雑言・誹謗中傷が飛び交っています。
私も、自分に向けられた攻撃に耐えられず、ネットを断ち切り、パソコンも閉じて、”仮想社会”から遠ざかりました。正直、逃げ出した当座は、人間性悪説に軍配をあげ、アナログ生活で、五感が感じ取る確実な実生活に安らぎを覚えてきました。
心に平安が戻ると・・・しかし、人の本性、善か、悪か? 簡単に左右に対立する2元論で対処できる問題か、どうか? まるまる2年に及ぶネット休眠の後、SNSやブログを再開するに当たって、自分なりに落ち着きを取り戻した気持ちの整理をお話したくなりました。今日は、そのことを綴っておきます。
問題整理のきっかけは、たまたま「上品」「下品」という日本語の語源を調べる必要があり、そこで辿り着いたのが、唐代の韓愈(かんゆ, 768~ 824) でした。唐代の古文復興運動を起こした大詩人ですが、「上品」と言う言葉の、原義は韓愈の”性三品説”と教わりました。
その説によれば、物事は単純に善悪に分けるのではなく、人間本性の道徳的レベルを上品、中品、下品に分けて考える。3元説です。
即ち、”上品”は「聖人の性」。最高級に極める超人徳性を指す。
”下品”は「斗笥(とけ)の性」で「”生”と”利”のための天生の悪性」とされます。
つまり本能に生得的に組み込まれた“本源悪”なので下品は教化でも変えられない。
その真ん中になる「中民の性」は教訓によって、潜在的善を現実的「善」に実現させるもので”中品”、とするのだそうです。
私は、この善悪構造の3元論に非常に興味を覚えました。たとえ、世間のトップに立つ有徳の学者、為政者といえども「聖人の性」の徳性には達しない。それどころか”情念と利を求める天生の悪性”である「斗笥の性」から逃れることも出来ない”下品”もゴマンといます。
圧倒的多数は、その狭間に生きる「中品の人」。私たち大衆の”性”、多少の悪事に身を染めても、本来、潜在的善性を内包する”性”の人で、教訓によって、それと気づけば「悪」を克服し「善」に転じさせる。
「ハンドル握れば人が変わる」・・・日本にクルマ社会が到来した時、予想もしなかった現象が起こりその社会問題は現在も長い尾を引いて社会を悩ませています。同じようにネット社会が出現して「パソコンに向かうと人が変わる」ケースが激増しました。ネットの匿名性は、人の「下品」を簡単に炙り出す装置・・・そう思えば、納得できます。でも:・・どう対処すべきか?
韓愈の”性三品説”によれば、《下品の「斗笥(とけ)の性」》のなせる業は「”生”と”利”のための天生の悪性」であるため、単なる教化で変えるのは至難、と言います。ならば、そのような装置には「君子危うきに近寄らず」ですね。「朱に交われば赤くなる」とも。〝下品”との出会いは一切、無視。それに尽きますね。
韓愈と向かい合い、やっと晴れ晴れした気分になり、ネット生活に戻る自信を得ました。ネット社会の交際は、”下品”の行動を一切無視。時空を超えて正師と向かい合うと、スッキリします。古典は、本当に素晴らしい生きる知恵を与えてくれます。
===== 吉備高原の春 =====
我が家の西庭に植えたハナカイドウです。中国原産で賑やか。中国語では「海棠」なのに、わざわざ”花”を添えて和名は「花海棠」(ハナカイドウ)にしたのだそうですが、そのココロ、よくわかります。そろそろ満開期が過ぎて5月末には林檎に似た小さな赤い実がなり、食べられる、と言うのですが、未だ結実したことがありません。今年こそは、と、首を長くして待っているのですが・・・。
-----------------------------------------------------------------
庵主の自己紹介とご挨拶・・・【吉備野庵】へようこそ
-----------------------------------------------------------------
私も、自分に向けられた攻撃に耐えられず、ネットを断ち切り、パソコンも閉じて、”仮想社会”から遠ざかりました。正直、逃げ出した当座は、人間性悪説に軍配をあげ、アナログ生活で、五感が感じ取る確実な実生活に安らぎを覚えてきました。
心に平安が戻ると・・・しかし、人の本性、善か、悪か? 簡単に左右に対立する2元論で対処できる問題か、どうか? まるまる2年に及ぶネット休眠の後、SNSやブログを再開するに当たって、自分なりに落ち着きを取り戻した気持ちの整理をお話したくなりました。今日は、そのことを綴っておきます。
問題整理のきっかけは、たまたま「上品」「下品」という日本語の語源を調べる必要があり、そこで辿り着いたのが、唐代の韓愈(かんゆ, 768~ 824) でした。唐代の古文復興運動を起こした大詩人ですが、「上品」と言う言葉の、原義は韓愈の”性三品説”と教わりました。
その説によれば、物事は単純に善悪に分けるのではなく、人間本性の道徳的レベルを上品、中品、下品に分けて考える。3元説です。
即ち、”上品”は「聖人の性」。最高級に極める超人徳性を指す。
”下品”は「斗笥(とけ)の性」で「”生”と”利”のための天生の悪性」とされます。
つまり本能に生得的に組み込まれた“本源悪”なので下品は教化でも変えられない。
その真ん中になる「中民の性」は教訓によって、潜在的善を現実的「善」に実現させるもので”中品”、とするのだそうです。
私は、この善悪構造の3元論に非常に興味を覚えました。たとえ、世間のトップに立つ有徳の学者、為政者といえども「聖人の性」の徳性には達しない。それどころか”情念と利を求める天生の悪性”である「斗笥の性」から逃れることも出来ない”下品”もゴマンといます。
圧倒的多数は、その狭間に生きる「中品の人」。私たち大衆の”性”、多少の悪事に身を染めても、本来、潜在的善性を内包する”性”の人で、教訓によって、それと気づけば「悪」を克服し「善」に転じさせる。
「ハンドル握れば人が変わる」・・・日本にクルマ社会が到来した時、予想もしなかった現象が起こりその社会問題は現在も長い尾を引いて社会を悩ませています。同じようにネット社会が出現して「パソコンに向かうと人が変わる」ケースが激増しました。ネットの匿名性は、人の「下品」を簡単に炙り出す装置・・・そう思えば、納得できます。でも:・・どう対処すべきか?
韓愈の”性三品説”によれば、《下品の「斗笥(とけ)の性」》のなせる業は「”生”と”利”のための天生の悪性」であるため、単なる教化で変えるのは至難、と言います。ならば、そのような装置には「君子危うきに近寄らず」ですね。「朱に交われば赤くなる」とも。〝下品”との出会いは一切、無視。それに尽きますね。
韓愈と向かい合い、やっと晴れ晴れした気分になり、ネット生活に戻る自信を得ました。ネット社会の交際は、”下品”の行動を一切無視。時空を超えて正師と向かい合うと、スッキリします。古典は、本当に素晴らしい生きる知恵を与えてくれます。
===== 吉備高原の春 =====
我が家の西庭に植えたハナカイドウです。中国原産で賑やか。中国語では「海棠」なのに、わざわざ”花”を添えて和名は「花海棠」(ハナカイドウ)にしたのだそうですが、そのココロ、よくわかります。そろそろ満開期が過ぎて5月末には林檎に似た小さな赤い実がなり、食べられる、と言うのですが、未だ結実したことがありません。今年こそは、と、首を長くして待っているのですが・・・。
-----------------------------------------------------------------
庵主の自己紹介とご挨拶・・・【吉備野庵】へようこそ
-----------------------------------------------------------------
by zenmz
| 2012-04-26 11:32
| ネット考現学