2005年 12月 12日
【5216】 何故、思いおこさせるのですか? |
★ 実を言えば、日本を発つ時には、マレーシア北端、タイ国境・北東の漁業の街・コタバル経由で帰国する気持ちでいました。太平洋戦争は、64年前の12月8日早暁、日本軍のコタバル上陸で始まったのです。(普通、ハワイの真珠湾奇襲で勃発とされますが、事実は、その2時間前に日本陸軍のコタバル敵前上陸作戦で開始したのです) その戦史跡を訪れたかったのですが、それはかなり強行軍と分かり断念しました。
★ ”軍国少年”で育った私は、この日をマレーシアで迎えることに特別の感傷を抱いていました。太平洋戦争は、ハワイの真珠湾攻撃で始まった、と言われますが、事実は、そうではありません。正確には、その奇襲作戦の約2時間前に、当時、英領だった、ここマレーシアのコタバルに日本陸軍が上陸して戦端が開かれたのです。
★ 夜陰に乗じて上陸した日本軍は、戦車・装甲車で敗走する英連邦軍を自転車追撃、「銀輪部隊」の異名で知られる広島第5師団はわずか55日でマレー半島全域を制圧し、シンガポールを占領、「昭南島」と改名しました。戦火は瞬く間に太平洋全域に広がり、インド洋沿岸諸地域まで制圧して緒戦は大成功でした。が、やがて破滅へ。
★ 12月8日、マラッカの街を歩きながらも、私はコタバルに拘っていました。パソコンの調子が悪くメールがうまく受信出来なかったのですが、たまたまうまく繋がり、開いて見ると、
★ 「今はどの辺りを旅しておられますか? 私はシンガポールから、ジョホールバールまでは行きました。ジョホール水道を渡ってすぐの所に山下中将とパーシバルが『イエスかノーか』で会見した フォードの自動車工場が道路の上にありました。旅がご無事でありますように・・」
★ 愛ちゃんからの便りが届いていました。以心伝心というのでしょうか。愛ちゃんは、岡山市にお住まいの私より2歳年上のメル友です。「旧大和撫子・軍国少女」 多分、私たちと同年齢以上の人たちは、同じ想いで、12月8日を思い起こすのでしょう。
★ 翌9日。「親日家の華人ビジネスマン宅で日本料理パーティを開きましょう」 トニーさんの提案で、老妻がおでんを調理して振る舞う計画が持ち上がりました。ウイリアムさん。私の長男と同年齢のビジネスマンで、「マラッカ・クラブ」の会長をしている人のお宅をお借りすることになりました。
★ かなり大規模な工具店を経営しておられるそうで、既に長男が親の跡継ぎで活躍中。二人の娘は上が上海に留学中、次女は英語中心のミドル・スクールに在学中。家族中が実に開放的で、大らかな気象のようで、シンガポールの叔父夫妻、ドイツ人夫妻、日本人、更にマカオからの来客など・・・・賑やかなパーティが続き、午後零時を回る頃に「マラッカ・クラブも行こう」
★ そこは、マラッカの有力者の社交場でした。会員1200人、マラッカ上流社会の素顔をかいま見ることが出来ました。ウイリアム氏は磊落なお人柄が誰にも好かれ信望を集めている人物であることが一目で理解できる貫禄でした。
★ しかし、私が最も深い感銘を受けたのは、ウイリアム氏が「叔父です」と紹介してくださったシンガポールの孫さんです。「65歳。もう隠居です」と自己紹介されました。シンガポール華人は、日本軍の「マレー半島・シンガポール作戦」の最中、スパイ容疑で無差別虐殺の被害を受けています。私は、反射的に、そのことに言及し、「戦争時代を知る者として慙愧に堪えません」と申し上げました。
★ 穏和な孫氏(上の写真・右)が急に真摯な顔つきになって仰いました。
「ゼニモトさん。戦争の時、あなたは15歳。私は5歳。お互い、子どもでした。何故、戦争があったのか? 本当は何も知らない。知っているのは、【教わったことだけ】です。その教わったことの多くは、忘れた方がいいことばかり。私とあなたの友好に何の関係もありません」
★ 「ゼニモトさん、何故、あなたの政府は、華人すべてが忘れたいコトを思い起こさせるのですか? 今、シンガポールで生活している60歳以下の人は誰も戦争の体験、ありません。ヤスクニジンジャ? 知りません。でも・・あなたの国の指導者は、それを毎年、思いおこさせる。それで、私たちも、若いものたちに教えねばならない。ヤスクニジンジャとは・・・・・、とね. それは、65歳の私にも分からないことです」
★ 「ゼニモトさん、あなたは、何故、私に、私が知らないことを思いおこそうとするのですか? 少なくとも二人の間では、忘れましょう。あなたが忘れればいいのです。私はしらないのですから・・・・」 そう言うなり、握手を求められました。心のこもった温かい手でした。
★ 「ゼニモトさん、ここにいる者は、あなたと私以外、誰も、戦争のコト、分かりません。あなたがソレを言わなければ、誰のアタマにも忌まわしい過去は浮かばないのです。この世に生まれてさえいないのですから・・・・だから、私たちが忘れれば、終わるのです」
★ 当時、私は小学校6年生。この戦いは、アジア諸国を植民地化し、その毒牙を日本に伸ばそうとした英米・オランダ3国を駆逐し、圧制に苦しむアジア同胞を解放するための聖戦。これら帝国主義諸国は卑怯にも中国と手を組み、石油禁輸のABCD包囲網で日本を孤立させる”兵糧攻め”に出た。だから日本は先ず、オランダ領インドネシアの油田確保の戦略を取ったのだ・・・と教えられました。
★ 為政者が何と説明しようと、戦争に正義はありません。それよりも、このおろかな戦いで失われた我が同胞の生命は軍民合わせて300万人。特攻隊など戦闘員の他、縄地上戦、広島・長崎原爆被災の民間人犠牲者・・・・日本国民の多くが肉親を失いました。
★ いや何よりも先ず、問われるべきは戦火にさらしたアジア諸国・無垢の民の犠牲でしょう。とりわけ本土中国人、アジア諸国の華人・華僑の中国関係犠牲者は1000万人、フィリピン人100万人を筆頭にインドネシア、ベトナム、ミャンマー・・・・東南アジア諸国に多くの民間犠牲者を出しました。このことは、我々の忘れてはならない民族の恥辱として記憶されるべきだと思います。
★ 同時に、私たち日本人は、その犠牲者である華人の中には、「恩讐を超えた」人間愛の回復を唱える知識人がおられることを知るべきだと思います。「忘れねばならぬことを、何故、思いおこさせるのか?」 それは、「政治的意図と動機に始まる以外のナニモノでもありません」 孫氏の言葉が、胸に突き刺さったままになっています。孫氏の言葉を思いおこす時、目頭が熱くなるのを覚えます。
★ ”軍国少年”で育った私は、この日をマレーシアで迎えることに特別の感傷を抱いていました。太平洋戦争は、ハワイの真珠湾攻撃で始まった、と言われますが、事実は、そうではありません。正確には、その奇襲作戦の約2時間前に、当時、英領だった、ここマレーシアのコタバルに日本陸軍が上陸して戦端が開かれたのです。
★ 夜陰に乗じて上陸した日本軍は、戦車・装甲車で敗走する英連邦軍を自転車追撃、「銀輪部隊」の異名で知られる広島第5師団はわずか55日でマレー半島全域を制圧し、シンガポールを占領、「昭南島」と改名しました。戦火は瞬く間に太平洋全域に広がり、インド洋沿岸諸地域まで制圧して緒戦は大成功でした。が、やがて破滅へ。
★ 12月8日、マラッカの街を歩きながらも、私はコタバルに拘っていました。パソコンの調子が悪くメールがうまく受信出来なかったのですが、たまたまうまく繋がり、開いて見ると、
★ 「今はどの辺りを旅しておられますか? 私はシンガポールから、ジョホールバールまでは行きました。ジョホール水道を渡ってすぐの所に山下中将とパーシバルが『イエスかノーか』で会見した フォードの自動車工場が道路の上にありました。旅がご無事でありますように・・」
★ 愛ちゃんからの便りが届いていました。以心伝心というのでしょうか。愛ちゃんは、岡山市にお住まいの私より2歳年上のメル友です。「旧大和撫子・軍国少女」 多分、私たちと同年齢以上の人たちは、同じ想いで、12月8日を思い起こすのでしょう。
★ 翌9日。「親日家の華人ビジネスマン宅で日本料理パーティを開きましょう」 トニーさんの提案で、老妻がおでんを調理して振る舞う計画が持ち上がりました。ウイリアムさん。私の長男と同年齢のビジネスマンで、「マラッカ・クラブ」の会長をしている人のお宅をお借りすることになりました。
★ かなり大規模な工具店を経営しておられるそうで、既に長男が親の跡継ぎで活躍中。二人の娘は上が上海に留学中、次女は英語中心のミドル・スクールに在学中。家族中が実に開放的で、大らかな気象のようで、シンガポールの叔父夫妻、ドイツ人夫妻、日本人、更にマカオからの来客など・・・・賑やかなパーティが続き、午後零時を回る頃に「マラッカ・クラブも行こう」
★ そこは、マラッカの有力者の社交場でした。会員1200人、マラッカ上流社会の素顔をかいま見ることが出来ました。ウイリアム氏は磊落なお人柄が誰にも好かれ信望を集めている人物であることが一目で理解できる貫禄でした。
★ しかし、私が最も深い感銘を受けたのは、ウイリアム氏が「叔父です」と紹介してくださったシンガポールの孫さんです。「65歳。もう隠居です」と自己紹介されました。シンガポール華人は、日本軍の「マレー半島・シンガポール作戦」の最中、スパイ容疑で無差別虐殺の被害を受けています。私は、反射的に、そのことに言及し、「戦争時代を知る者として慙愧に堪えません」と申し上げました。
★ 穏和な孫氏(上の写真・右)が急に真摯な顔つきになって仰いました。
「ゼニモトさん。戦争の時、あなたは15歳。私は5歳。お互い、子どもでした。何故、戦争があったのか? 本当は何も知らない。知っているのは、【教わったことだけ】です。その教わったことの多くは、忘れた方がいいことばかり。私とあなたの友好に何の関係もありません」
★ 当時、私は小学校6年生。この戦いは、アジア諸国を植民地化し、その毒牙を日本に伸ばそうとした英米・オランダ3国を駆逐し、圧制に苦しむアジア同胞を解放するための聖戦。これら帝国主義諸国は卑怯にも中国と手を組み、石油禁輸のABCD包囲網で日本を孤立させる”兵糧攻め”に出た。だから日本は先ず、オランダ領インドネシアの油田確保の戦略を取ったのだ・・・と教えられました。
★ 為政者が何と説明しようと、戦争に正義はありません。それよりも、このおろかな戦いで失われた我が同胞の生命は軍民合わせて300万人。特攻隊など戦闘員の他、縄地上戦、広島・長崎原爆被災の民間人犠牲者・・・・日本国民の多くが肉親を失いました。
★ いや何よりも先ず、問われるべきは戦火にさらしたアジア諸国・無垢の民の犠牲でしょう。とりわけ本土中国人、アジア諸国の華人・華僑の中国関係犠牲者は1000万人、フィリピン人100万人を筆頭にインドネシア、ベトナム、ミャンマー・・・・東南アジア諸国に多くの民間犠牲者を出しました。このことは、我々の忘れてはならない民族の恥辱として記憶されるべきだと思います。
★ 同時に、私たち日本人は、その犠牲者である華人の中には、「恩讐を超えた」人間愛の回復を唱える知識人がおられることを知るべきだと思います。「忘れねばならぬことを、何故、思いおこさせるのか?」 それは、「政治的意図と動機に始まる以外のナニモノでもありません」 孫氏の言葉が、胸に突き刺さったままになっています。孫氏の言葉を思いおこす時、目頭が熱くなるのを覚えます。
by zenmz
| 2005-12-12 17:54