2005年 12月 19日
姓名が織りなす人生悲喜劇・・・・自己紹介に代えて |
★ 私の名は「銭本三千年」(ぜにもと みちとし) 実名です。
実を申せば、生まれ落ちて八十余年、私が悩み続けてきたのは、この姓名でした。
漢字の組み合わせが如何にも意味ありげ。何故、このような名を・・・と、父に訊ねたことがあります。熱心な仏教徒だった祖父が仏典を開いて目に留まった字をそのままいただいたそうです。
★ 昭和29年に同志社大学法学部政治学科を卒業して新聞記者の道を歩みました。
31年勤めた毎日新聞社を定年後、住み慣れた大阪・千里ニュータウンでの生活をたたんで、岡山・吉備高原都市へ転居しました。昭和天皇が崩御されたその日でした。
JR岡山駅に着いた時、新聞号外で、新らしい年号が「平成」と決まったことを知りました。
その平成の年数がそのまま、私ども夫妻の岡山生活になりました。
★ そして、新らたに高梁市の短大に奉職。第二の人生は、教職一本の道を歩み始めました。 折から国が制度化した介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授に就任。新聞記者在職中も大阪市立大学で非常勤講師をしておりましたので、大学・短大での教職歴は通算25年になります。
★ ところで、その高梁市の短大入学式当日のこと。
新入生の一人が、
「お母さんが、この先生の名は”芸名”だろう、本名を聞いておいでと言うのですが・・・
本名、教えて下さい」と
研究室に入ってきたのには驚きました。”芸名”とは!
★ それより、一番、驚いたのは、未だ新聞社に勤めていた1972年の春のこと。
突然、韓国のソウル盲学校長と名乗る方から手紙が来ました。
「私とほぼ同姓。こちらのご出身ですか?」
差出人を見ると、何と! 「銭千年」氏。
★ その月に、私は毎日新聞社が発行している『点字毎日』という全盲者向けの週刊新聞の編集長に就任したばかりでした。題字下の発行人に新登場した変わった名を見て”親しみを覚えて”手紙しました、と書いてありました。
★ それから10年ほど経って、新聞記者をしながら講師をしていた大阪市立大学が訪中教育視察団(佐藤三郎団長)を組織し、その秘書長として上海、南京、北京の3都市を訪れた時、上海の華東師範大学にも、銭教授と言う方がおられて同じような質問を受けました。 「銭は中国ではかなり多い名前です」とか?
★ ともかく私は韓国にも、中国にも縁のない日本国産。本籍地は広島にあります。先祖を辿れば、その片田舎の米屋で、”銭”の出所はその屋号。最近まで土地の古老は「銭屋の長男」と私を呼んでいました.。その田舎の古老も亡くなられ、世代が代わって、”銭屋”の屋号を知る人も無くなりました。
★ だが、この名前。 実は、私にとって物心ついてから、初老期まで悩みのタネでした。名前を呼ばれるたびにビクつき、辺りの反応を確かめるほど自意識過剰になっていました。気にならなくなったのは還暦を過ぎてからだと思います。それまでは、自分の名前を呪い続けてきました。
★ このように変わった名前を持つと、先ず、子どもの頃に、徹底的にカラカイの対象になります。私の場合、小学校時代にそれが始まりました。小学校の上級生になった頃、世間は「皇紀2600年」で沸いていました。日中戦争が始まって間もない昭和15(1940)年 政府は、「神武天皇が即位した年は西暦紀元前660年」と認定し、この年を「皇紀2600年、つまり日本の建国を2600年前」と定めて、「神国ニッポン建国は西洋より古い」と全国の学校で「奉祝賛歌」を歌わせたのです。
★ 私は、今でも、その歌詞とメロディーをしっかり覚えています。当時の小学生は、村落毎に隊伍を組んで、上級生が指揮しながら登校したものですが、いつの間にか、子どもたちはこの歌を斉唱しながら登校するようになりました。
★ この行列・・・私の家の前に来ると、「歩調取れ!」
賛歌の「紀元は”二千六百年”が”ゼニモト3000年”」へと変わり、「右向けー右」
みんなの目が私に向けられます。そして大笑い。
こうしてカラカワレながらも逆らうことが出来ず、屈辱感を堪えながら列に加わって登校しました。
それから”元祖・いじめられっ子”生活が始まりました。
★ こうしたことが毎日、続くので私は、やがてグループ登校に加わらず、一人で登校するようになりました。それを咎めた担当の先生がワケを聞くので、「カラカワれるのが嫌」と、答えたのですが、その時、先生は
「そんなことで何をクヨクヨしているのだ。そもそも銭などと言う卑しい名前を付けているからいけないのだ。そんな名前なんかでクヨクヨするな」
と、私を怒鳴りつけました。
★ 先生にしてみれば、「詰まらぬことで女々しいぞ」と激励のつもりだったのでしょうが、私は、「銭などという卑しい名前」に大きく傷つきました。それは、その後、今日に至るまで、自分の名前を呪うほどに大きな心の痛みを残したのです。
★ 以来、私は、誰からでも、「ゼニモト」と呼ばれるたびにビクッ、と緊張するようになりました。当時の小学校では、常に大きな声で自分の名前を言わねばなりません。例えば、職員室に用事があって出向く時には、戸ドアを開けて、「ゼニモトミチトシであります。入ります」と大声をあげなければならないのです。だけど、私の声は小さく、ショボクレます。「もう一度、やり直し!」 何度も注意を受けました。
★ 結婚して子どもを持つようになった頃には、日本に民主主義も根付いてきました。軍国時代のような過酷ないじめを伴ったカラカイを3人の子どもたちは経験していません。私は、子どもたちの友人から「ゼニのオトン」と呼ばれていました。
★ 次男などは「変わった名前だナ」と言われて、「先祖は銭形平次」と言い返し、それを信じたオジサンが近所に言いふらしたエピソードを持っています。このワルガキぶり、小学生の時でした。笑って許す民主主義?? を「イイナー、良い時代だ」と感じ入ったことを思い出します。
★ 75歳という、そろそろ年貢の納め時になって、今度は国際的なフットライトを浴びました。つい10日ほど前のこと。マレーシア・マラッカでの現地の人々との楽しい交流をご紹介しましたが、その折り、お会いした皆さんに自分の名前を書いてご挨拶すると、
★ 【銭本三千年:”シェンポンサンチェンネン”】
どなたも口を揃えて、大声あげてお互い顔を見合わせ、"great!"(スゴイ!)
私の耳には最初の「銭本」が「シャンペン」に聞こえました。
皆さん、指で五つの漢字を描きながら、口々に、こう提案。
★ 「ゼニモトさん。今度、来る時には、あなたの名前を墨で大書した大き目の名刺を作って来てください。マラッカで会う人にあげたらきっと”福の神”が我が家に来た、とみんな大喜びします。。私たちも、こんなに縁起のいい名前、見たことありません。あなたの名刺、貰った人は必ず御守りにします。”Believe me" 中国人は縁起を担ぐの、大好き」 大拍手!
★ もう一つ、パンチの効いた会話。
皆さんと仲良くなり、「是非、日本にも来てください」とお薦めし、
と言い返えされました。咄嗟の冗談も上手ですね。マラッカ・ジョーク、気に入りました。
★ 【銭本三千年】・・・・・
この名を囲んで、極めて有効な国際親善が出来ました。この時ばかりは、我が名の功徳を本当にありがたく思いました。今は、この先、一生、この名を大切に慈しんでまいりたい気持ちです。そして、老いた今、私の魂を揺さぶるのは、祖父・吉五郎爺さんの愛情です。
★ 「三千年! ”一念三千” 心せよ」
穏和だった祖父の諭しの言葉に、実に素直に耳を傾ける自分を想い、心安らぎます。
実を申せば、生まれ落ちて八十余年、私が悩み続けてきたのは、この姓名でした。
漢字の組み合わせが如何にも意味ありげ。何故、このような名を・・・と、父に訊ねたことがあります。熱心な仏教徒だった祖父が仏典を開いて目に留まった字をそのままいただいたそうです。
★ 昭和29年に同志社大学法学部政治学科を卒業して新聞記者の道を歩みました。
31年勤めた毎日新聞社を定年後、住み慣れた大阪・千里ニュータウンでの生活をたたんで、岡山・吉備高原都市へ転居しました。昭和天皇が崩御されたその日でした。
JR岡山駅に着いた時、新聞号外で、新らしい年号が「平成」と決まったことを知りました。
その平成の年数がそのまま、私ども夫妻の岡山生活になりました。
★ そして、新らたに高梁市の短大に奉職。第二の人生は、教職一本の道を歩み始めました。 折から国が制度化した介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授に就任。新聞記者在職中も大阪市立大学で非常勤講師をしておりましたので、大学・短大での教職歴は通算25年になります。
★ ところで、その高梁市の短大入学式当日のこと。
新入生の一人が、
「お母さんが、この先生の名は”芸名”だろう、本名を聞いておいでと言うのですが・・・
本名、教えて下さい」と
研究室に入ってきたのには驚きました。”芸名”とは!
★ それより、一番、驚いたのは、未だ新聞社に勤めていた1972年の春のこと。
突然、韓国のソウル盲学校長と名乗る方から手紙が来ました。
「私とほぼ同姓。こちらのご出身ですか?」
差出人を見ると、何と! 「銭千年」氏。
★ その月に、私は毎日新聞社が発行している『点字毎日』という全盲者向けの週刊新聞の編集長に就任したばかりでした。題字下の発行人に新登場した変わった名を見て”親しみを覚えて”手紙しました、と書いてありました。
★ それから10年ほど経って、新聞記者をしながら講師をしていた大阪市立大学が訪中教育視察団(佐藤三郎団長)を組織し、その秘書長として上海、南京、北京の3都市を訪れた時、上海の華東師範大学にも、銭教授と言う方がおられて同じような質問を受けました。 「銭は中国ではかなり多い名前です」とか?
★ ともかく私は韓国にも、中国にも縁のない日本国産。本籍地は広島にあります。先祖を辿れば、その片田舎の米屋で、”銭”の出所はその屋号。最近まで土地の古老は「銭屋の長男」と私を呼んでいました.。その田舎の古老も亡くなられ、世代が代わって、”銭屋”の屋号を知る人も無くなりました。
★ だが、この名前。 実は、私にとって物心ついてから、初老期まで悩みのタネでした。名前を呼ばれるたびにビクつき、辺りの反応を確かめるほど自意識過剰になっていました。気にならなくなったのは還暦を過ぎてからだと思います。それまでは、自分の名前を呪い続けてきました。
★ このように変わった名前を持つと、先ず、子どもの頃に、徹底的にカラカイの対象になります。私の場合、小学校時代にそれが始まりました。小学校の上級生になった頃、世間は「皇紀2600年」で沸いていました。日中戦争が始まって間もない昭和15(1940)年 政府は、「神武天皇が即位した年は西暦紀元前660年」と認定し、この年を「皇紀2600年、つまり日本の建国を2600年前」と定めて、「神国ニッポン建国は西洋より古い」と全国の学校で「奉祝賛歌」を歌わせたのです。
金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
あゝ 一億の胸はなる
★ 私は、今でも、その歌詞とメロディーをしっかり覚えています。当時の小学生は、村落毎に隊伍を組んで、上級生が指揮しながら登校したものですが、いつの間にか、子どもたちはこの歌を斉唱しながら登校するようになりました。
★ この行列・・・私の家の前に来ると、「歩調取れ!」
賛歌の「紀元は”二千六百年”が”ゼニモト3000年”」へと変わり、「右向けー右」
みんなの目が私に向けられます。そして大笑い。
こうしてカラカワレながらも逆らうことが出来ず、屈辱感を堪えながら列に加わって登校しました。
それから”元祖・いじめられっ子”生活が始まりました。
★ こうしたことが毎日、続くので私は、やがてグループ登校に加わらず、一人で登校するようになりました。それを咎めた担当の先生がワケを聞くので、「カラカワれるのが嫌」と、答えたのですが、その時、先生は
「そんなことで何をクヨクヨしているのだ。そもそも銭などと言う卑しい名前を付けているからいけないのだ。そんな名前なんかでクヨクヨするな」
と、私を怒鳴りつけました。
★ 先生にしてみれば、「詰まらぬことで女々しいぞ」と激励のつもりだったのでしょうが、私は、「銭などという卑しい名前」に大きく傷つきました。それは、その後、今日に至るまで、自分の名前を呪うほどに大きな心の痛みを残したのです。
★ 以来、私は、誰からでも、「ゼニモト」と呼ばれるたびにビクッ、と緊張するようになりました。当時の小学校では、常に大きな声で自分の名前を言わねばなりません。例えば、職員室に用事があって出向く時には、戸ドアを開けて、「ゼニモトミチトシであります。入ります」と大声をあげなければならないのです。だけど、私の声は小さく、ショボクレます。「もう一度、やり直し!」 何度も注意を受けました。
★ 結婚して子どもを持つようになった頃には、日本に民主主義も根付いてきました。軍国時代のような過酷ないじめを伴ったカラカイを3人の子どもたちは経験していません。私は、子どもたちの友人から「ゼニのオトン」と呼ばれていました。
★ 次男などは「変わった名前だナ」と言われて、「先祖は銭形平次」と言い返し、それを信じたオジサンが近所に言いふらしたエピソードを持っています。このワルガキぶり、小学生の時でした。笑って許す民主主義?? を「イイナー、良い時代だ」と感じ入ったことを思い出します。
★ 75歳という、そろそろ年貢の納め時になって、今度は国際的なフットライトを浴びました。つい10日ほど前のこと。マレーシア・マラッカでの現地の人々との楽しい交流をご紹介しましたが、その折り、お会いした皆さんに自分の名前を書いてご挨拶すると、
★ 【銭本三千年:”シェンポンサンチェンネン”】
どなたも口を揃えて、大声あげてお互い顔を見合わせ、"great!"(スゴイ!)
私の耳には最初の「銭本」が「シャンペン」に聞こえました。
皆さん、指で五つの漢字を描きながら、口々に、こう提案。
★ 「ゼニモトさん。今度、来る時には、あなたの名前を墨で大書した大き目の名刺を作って来てください。マラッカで会う人にあげたらきっと”福の神”が我が家に来た、とみんな大喜びします。。私たちも、こんなに縁起のいい名前、見たことありません。あなたの名刺、貰った人は必ず御守りにします。”Believe me" 中国人は縁起を担ぐの、大好き」 大拍手!
★ もう一つ、パンチの効いた会話。
皆さんと仲良くなり、「是非、日本にも来てください」とお薦めし、
"But, it should be done before too late.
I am 75 years old, you know"
(私も今、75歳。”遅かりし”とならないよう早めにね)
と言ったら、
"Never mind, you have 2925 years more to go"
(大丈夫、あなたは未だ2925年生きねば)
と言い返えされました。咄嗟の冗談も上手ですね。マラッカ・ジョーク、気に入りました。
★ 【銭本三千年】・・・・・
この名を囲んで、極めて有効な国際親善が出来ました。この時ばかりは、我が名の功徳を本当にありがたく思いました。今は、この先、一生、この名を大切に慈しんでまいりたい気持ちです。そして、老いた今、私の魂を揺さぶるのは、祖父・吉五郎爺さんの愛情です。
★ 「三千年! ”一念三千” 心せよ」
穏和だった祖父の諭しの言葉に、実に素直に耳を傾ける自分を想い、心安らぎます。
by zenmz
| 2005-12-19 00:21