2017年 05月 12日
「大詔奉戴日」について・・ご質問へのお答え |
★ このブログを読んで下さった森本正昭氏から「大詔奉戴日について知りたい」とのご要望がありました。「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび)とは、旧大日本帝国が大東亜戦争(太平洋戦争)を貫徹するため政府指導で行われた挙国一致国民運動の日のことです。
★ 1937年7月7日に中国・北京郊外で発生した日中軍事衝突はそのまま日中戦争に拡大し、日本軍は中国奥地まで侵攻、これに反対した英米が石油輸出禁止の経済封鎖を行い窮地に立たされた日本側が1941年12月8日に英米両国に対して宣戦布告しました。
★ 天皇陛下の「宣戦の詔勅」を戴いた記念日、と言う意味を込めて、その翌月つまり1942年1月8日から毎月8日を「大詔奉戴日」と名付けて、1945年8月15日の敗戦まで毎月、学校、職場、隣組、など多くの団体が聖戦貫徹を誓う行事を行いました。
★ その趣旨は、アジア諸国を植民地化した米・英・仏、オランダなどの帝国主義国家を駆逐し、植民地化されたアジア諸国を開放して新たに天皇陛下を盟主とする「大東亜共栄圏」を構築する、と言うものでした。この全体構想を「八紘一宇(はっこういちう)」と言います。
★ そしてこの戦争は「大東亜戦争」と呼ばれるようになりました。「大詔奉戴日」は、その聖戦を全国民が確認し、徹底的に「鬼畜米英」を叩きのめす決意を固める国民精神総動員の行事であったのです。
★ ここで一つ、付け加えておかねばならない事柄があります。この動きは、すでに日中戦争の拡大と共に始まっていました。すでに始まっていた日中戦争を正当化するため、1939年の秋から毎月1日が「興亜奉公日」と名付けられ「アジア振興」のために国民一致団結し、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などが行われていました。
★ この「毎月1日」の「興亜奉公日」は、1942年1月から「毎月8日」の「大詔奉戴日」に吸収・合併され「滅私奉公」「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」など、多くの戦時スローガンが掲げられ、次のような行事を通じて忠君愛国・戦意高揚が督励されました。
★ 全員が集合して、君が代吹奏に合わせて国旗掲揚、宮城遥拝、宣戦詔勅と教育勅語の奉読などが行われ、各団体長の聖戦貫徹の訓示がなされました。特に学校では、毎日、登下校の際は、少人数でも隊列を組んで校門入口に設置された御真影を拝礼しました。
★ 以上が、ほぼ標準的な「大詔奉戴日」の在り方であったように思います。次に私自身の体験をご紹介しておきたいと思います。
★ 私は、1930年7月の生まれ。京都市伏見区で育ちました。よく「戦争体験世代」「戦争を知らない世代」などと言う言い方をしますね。もし実際に軍隊に参加し、戦場に赴いたことを「戦争体験」と言うなら、昭和5年生まれが、その線引きになります。
★ 昭和5年の早生まれ、つまり只今、現在、満87歳になった人は最後の少年志願兵として軍隊に組み込まれました。私自身、もし戦争がもう半年、続いていたら乙種予科練習生、いわゆる「予科練」に入隊していました。当時、兵役義務は20歳でしたが、少年志願兵は15歳から軍隊に組み込まれたのです。
★ 私は、昭和5年(1930)に京都市伏見区区で生まれ昭和12年(1937)日中戦争が始まった年に小学校に入学しました。この小学校は、旧陸軍第16師団司令部に隣接していて住宅地の周りも練兵場や野外塹壕訓練所などが散在していました。
★ この小学校は、近くに明治天皇の桃山御陵と日露戦争で有名な乃木希典将軍を祭った乃木神社があり、「大詔奉戴日」には先生に引率されて全校児童が隊列組んで参拝し「忠君愛国」を誓いました。
★ 私は、熱心なキリスト教徒だった母親の意思で幼児洗礼を受けクリスチャン・ボーイとして育ちました。戦争が終わって久しく不審に思ったのは、私の通っていた教会の日曜学校で、牧師が引率して桃山御陵・乃木神社の参拝をしたことです。キリスト教徒もこぞって聖戦貫徹の祈願参拝をしました。
★ 開戦当初は、日本軍が連戦連勝の状態で国民の戦意高揚は大いに盛り上がりました。それに伴い「大詔奉戴日」行事は賑々しく盛大に行われるようになりました。女性たちも国防婦人会活動に積極的に参加したものです。
★ しかし、昭和19年(1944)には守りの戦いとなり、英米連合軍は沖縄攻略作戦を始め、日本列島全土に米軍爆撃機が現れて主要都市を爆撃しはじめ「本土決戦」が叫ばれるようになりました。そこで都市部に住む学童を田舎に避難させる政策がとられました。いわゆる「学童疎開」です。
★ 「学童疎開」には二つの方法がありました。故郷が田舎にある者は親類・縁者の下に避難する「縁故疎開」それがない者は学校ぐるみで田舎の寺院などに避難する「集団疎開」です。私は、一足早く小学校5年生の時、父の故郷である広島へ「縁故疎開」しました。
★ この広島郊外の田舎にあった小学校は、京都の小学校以上に厳しいものでした。登下校は必ず、部落ごとに集団登校。上級生が指導して隊伍を組んで歩調を揃えて歩く。そして学校に到着すると、校門脇に設置された御真影を拝礼。運動場に全員集合し、国歌斉唱・日の丸掲揚、東方遥拝(宮城の天皇陛下に忠君愛国の誓い)そして校長訓話 これが毎日。
★ 毎月8日の「大詔奉戴日」には、児童・教師全員が講堂に集合し、宣戦詔勅と教育勅語を「首(こうべ)を垂れて」(つまり頭を下げて)謹んで拝聴し、一言一句を心に刻みました。だれもが、それを競って暗記しました。
★ この小学校で教わった教育は徹底した軍事教育でした。授業の初めに先生が必ず唱える決まり文句は、「今もお父さんたちはお国のため戦場で戦っている。そんな状況の中で、お前たちは、こうして勉強をさせていただいておる。何故か? 天皇陛下の大いなる慈しみのお蔭である。だからお前たちの使命は、皇(すめらぎ)の辺(へ)にこそ死なめ。天皇陛下のために命を捧げる。それが忠義の証だ。心に刻んで勉強にはげめ」
★ 天皇陛下は「現人神」(生きてこの世にある神) 国民すべてが、この「現人神」の赤子(せきし)である。民の務めは、この「現人神」への忠義に殉ずることにある。「現人神の辺(へ)お側に使えて死ぬことこそ我ら少国民の生きる道」
私たちの小学校時代、徹底的に詰め込まれたのは「死の美学」でした。サクラが散るように散華する。私たちは、だれも、20歳で人生が終わる決意を固めたものです。
★ 都会育ちで田仕事など全く経験のない私も、否応なく「報国勤労奉仕」に駆り出されました。田植え、草取り、そして暗渠(あんきょ)排水という農業土木。11歳から14歳までの3年間の「報国勤労奉仕」は本当に苦労しました。
★ そして高等小学校(今の制度では中学校)に上がった2年目、「学徒動員」で軍需工場に配属され、毎日、弾丸のゲージ削りをしました。平日は朝から晩まで工場勤務、学校に登校するのは「大詔奉戴日」と日曜日だけでした。
★ その登校日の日曜日にも授業はありません。校長先生の「本土決戦に備えて」の訓話と実技訓練です。「ゲリラ戦は、物陰に身を潜め、敵兵が現れたらわき腹を刺す。突いたら直ぐに抉る。突いただけでは筋肉が寸時に収縮し銃剣に纏い付く。突くと同時に抉る。それがコツだ」 銃剣などはありません。竹を削った竹槍を持って、その訓練を何時間も続けました。
★ 今、想い起こしても、恐ろしい思い出は、教師・上級生が「鉄拳成敗(てっけんっせいばい)」に用いた決まり文句「天皇陛下に代わって」です。教育勅語を間違えた、教育勅語をキチンと覚えない、なかなか指示に従わない児童に先生は多くの場合、体罰を与えました。その時の決まり文句が「天皇陛下に代わって」
★ 親・先生、目上の人には絶対服従。それが学校教育を通じて徹底的に行われたのです。極端な例は、学校で上級生が下級生を「天皇陛下に代わって」と言いながら殴るケースも多々、発生しました。それを誰も咎めもしなかったのです。
★ 私たち昭和5年生まれは「軍国少年・少女」として育てられました。生まれた翌年に日中戦争の始まりとなった「満州事変」が勃発、日本軍の中国大陸侵攻が始まりそれが昭和12年には「支那事変」に拡大、本格的な日中戦争となり、昭和16年には欧米帝国に宣戦布告し「大東亜戦争」へ、それはドイツ・イタリアの欧州戦争と合体して「第二次世界大戦」と広がりました。私たち昭和5年生まれは誕生から15歳まで、乳幼児から義務教育終了まで、丸ごと戦争の中で育ちました。
★ そして昭和20年8月6日と9日の広島・長崎原爆投下。最後のトドメで日本軍は無条件降伏し、大日本帝国は壊滅しました。その翌年の昭和21年1月、昭和天皇が人間宣言し「現人神」も消えました。
★ 以上が、私自身が「大詔奉戴日」を基軸に尋常小学校初等科ならびに高等科を通じて体験した事柄です。これにまつわるより具体的なお話は、これまでにもたびたびこのブログでお話してきました。ご関心がございましたら、こちらのページをご覧ください。
【”現人神”と”全知全能の唯一神”】
【戦争関連記事一覧表】
★ 1937年7月7日に中国・北京郊外で発生した日中軍事衝突はそのまま日中戦争に拡大し、日本軍は中国奥地まで侵攻、これに反対した英米が石油輸出禁止の経済封鎖を行い窮地に立たされた日本側が1941年12月8日に英米両国に対して宣戦布告しました。
★ 天皇陛下の「宣戦の詔勅」を戴いた記念日、と言う意味を込めて、その翌月つまり1942年1月8日から毎月8日を「大詔奉戴日」と名付けて、1945年8月15日の敗戦まで毎月、学校、職場、隣組、など多くの団体が聖戦貫徹を誓う行事を行いました。
★ その趣旨は、アジア諸国を植民地化した米・英・仏、オランダなどの帝国主義国家を駆逐し、植民地化されたアジア諸国を開放して新たに天皇陛下を盟主とする「大東亜共栄圏」を構築する、と言うものでした。この全体構想を「八紘一宇(はっこういちう)」と言います。
★ そしてこの戦争は「大東亜戦争」と呼ばれるようになりました。「大詔奉戴日」は、その聖戦を全国民が確認し、徹底的に「鬼畜米英」を叩きのめす決意を固める国民精神総動員の行事であったのです。
★ ここで一つ、付け加えておかねばならない事柄があります。この動きは、すでに日中戦争の拡大と共に始まっていました。すでに始まっていた日中戦争を正当化するため、1939年の秋から毎月1日が「興亜奉公日」と名付けられ「アジア振興」のために国民一致団結し、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などが行われていました。
★ この「毎月1日」の「興亜奉公日」は、1942年1月から「毎月8日」の「大詔奉戴日」に吸収・合併され「滅私奉公」「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」など、多くの戦時スローガンが掲げられ、次のような行事を通じて忠君愛国・戦意高揚が督励されました。
★ 全員が集合して、君が代吹奏に合わせて国旗掲揚、宮城遥拝、宣戦詔勅と教育勅語の奉読などが行われ、各団体長の聖戦貫徹の訓示がなされました。特に学校では、毎日、登下校の際は、少人数でも隊列を組んで校門入口に設置された御真影を拝礼しました。
★ 以上が、ほぼ標準的な「大詔奉戴日」の在り方であったように思います。次に私自身の体験をご紹介しておきたいと思います。
★ 私は、1930年7月の生まれ。京都市伏見区で育ちました。よく「戦争体験世代」「戦争を知らない世代」などと言う言い方をしますね。もし実際に軍隊に参加し、戦場に赴いたことを「戦争体験」と言うなら、昭和5年生まれが、その線引きになります。
★ 昭和5年の早生まれ、つまり只今、現在、満87歳になった人は最後の少年志願兵として軍隊に組み込まれました。私自身、もし戦争がもう半年、続いていたら乙種予科練習生、いわゆる「予科練」に入隊していました。当時、兵役義務は20歳でしたが、少年志願兵は15歳から軍隊に組み込まれたのです。
★ 私は、昭和5年(1930)に京都市伏見区区で生まれ昭和12年(1937)日中戦争が始まった年に小学校に入学しました。この小学校は、旧陸軍第16師団司令部に隣接していて住宅地の周りも練兵場や野外塹壕訓練所などが散在していました。
★ この小学校は、近くに明治天皇の桃山御陵と日露戦争で有名な乃木希典将軍を祭った乃木神社があり、「大詔奉戴日」には先生に引率されて全校児童が隊列組んで参拝し「忠君愛国」を誓いました。
★ 私は、熱心なキリスト教徒だった母親の意思で幼児洗礼を受けクリスチャン・ボーイとして育ちました。戦争が終わって久しく不審に思ったのは、私の通っていた教会の日曜学校で、牧師が引率して桃山御陵・乃木神社の参拝をしたことです。キリスト教徒もこぞって聖戦貫徹の祈願参拝をしました。
★ 開戦当初は、日本軍が連戦連勝の状態で国民の戦意高揚は大いに盛り上がりました。それに伴い「大詔奉戴日」行事は賑々しく盛大に行われるようになりました。女性たちも国防婦人会活動に積極的に参加したものです。
★ しかし、昭和19年(1944)には守りの戦いとなり、英米連合軍は沖縄攻略作戦を始め、日本列島全土に米軍爆撃機が現れて主要都市を爆撃しはじめ「本土決戦」が叫ばれるようになりました。そこで都市部に住む学童を田舎に避難させる政策がとられました。いわゆる「学童疎開」です。
★ 「学童疎開」には二つの方法がありました。故郷が田舎にある者は親類・縁者の下に避難する「縁故疎開」それがない者は学校ぐるみで田舎の寺院などに避難する「集団疎開」です。私は、一足早く小学校5年生の時、父の故郷である広島へ「縁故疎開」しました。
★ この広島郊外の田舎にあった小学校は、京都の小学校以上に厳しいものでした。登下校は必ず、部落ごとに集団登校。上級生が指導して隊伍を組んで歩調を揃えて歩く。そして学校に到着すると、校門脇に設置された御真影を拝礼。運動場に全員集合し、国歌斉唱・日の丸掲揚、東方遥拝(宮城の天皇陛下に忠君愛国の誓い)そして校長訓話 これが毎日。
★ 毎月8日の「大詔奉戴日」には、児童・教師全員が講堂に集合し、宣戦詔勅と教育勅語を「首(こうべ)を垂れて」(つまり頭を下げて)謹んで拝聴し、一言一句を心に刻みました。だれもが、それを競って暗記しました。
★ この小学校で教わった教育は徹底した軍事教育でした。授業の初めに先生が必ず唱える決まり文句は、「今もお父さんたちはお国のため戦場で戦っている。そんな状況の中で、お前たちは、こうして勉強をさせていただいておる。何故か? 天皇陛下の大いなる慈しみのお蔭である。だからお前たちの使命は、皇(すめらぎ)の辺(へ)にこそ死なめ。天皇陛下のために命を捧げる。それが忠義の証だ。心に刻んで勉強にはげめ」
★ 天皇陛下は「現人神」(生きてこの世にある神) 国民すべてが、この「現人神」の赤子(せきし)である。民の務めは、この「現人神」への忠義に殉ずることにある。「現人神の辺(へ)お側に使えて死ぬことこそ我ら少国民の生きる道」
私たちの小学校時代、徹底的に詰め込まれたのは「死の美学」でした。サクラが散るように散華する。私たちは、だれも、20歳で人生が終わる決意を固めたものです。
★ 都会育ちで田仕事など全く経験のない私も、否応なく「報国勤労奉仕」に駆り出されました。田植え、草取り、そして暗渠(あんきょ)排水という農業土木。11歳から14歳までの3年間の「報国勤労奉仕」は本当に苦労しました。
★ そして高等小学校(今の制度では中学校)に上がった2年目、「学徒動員」で軍需工場に配属され、毎日、弾丸のゲージ削りをしました。平日は朝から晩まで工場勤務、学校に登校するのは「大詔奉戴日」と日曜日だけでした。
★ その登校日の日曜日にも授業はありません。校長先生の「本土決戦に備えて」の訓話と実技訓練です。「ゲリラ戦は、物陰に身を潜め、敵兵が現れたらわき腹を刺す。突いたら直ぐに抉る。突いただけでは筋肉が寸時に収縮し銃剣に纏い付く。突くと同時に抉る。それがコツだ」 銃剣などはありません。竹を削った竹槍を持って、その訓練を何時間も続けました。
★ 今、想い起こしても、恐ろしい思い出は、教師・上級生が「鉄拳成敗(てっけんっせいばい)」に用いた決まり文句「天皇陛下に代わって」です。教育勅語を間違えた、教育勅語をキチンと覚えない、なかなか指示に従わない児童に先生は多くの場合、体罰を与えました。その時の決まり文句が「天皇陛下に代わって」
★ 親・先生、目上の人には絶対服従。それが学校教育を通じて徹底的に行われたのです。極端な例は、学校で上級生が下級生を「天皇陛下に代わって」と言いながら殴るケースも多々、発生しました。それを誰も咎めもしなかったのです。
★ 私たち昭和5年生まれは「軍国少年・少女」として育てられました。生まれた翌年に日中戦争の始まりとなった「満州事変」が勃発、日本軍の中国大陸侵攻が始まりそれが昭和12年には「支那事変」に拡大、本格的な日中戦争となり、昭和16年には欧米帝国に宣戦布告し「大東亜戦争」へ、それはドイツ・イタリアの欧州戦争と合体して「第二次世界大戦」と広がりました。私たち昭和5年生まれは誕生から15歳まで、乳幼児から義務教育終了まで、丸ごと戦争の中で育ちました。
★ そして昭和20年8月6日と9日の広島・長崎原爆投下。最後のトドメで日本軍は無条件降伏し、大日本帝国は壊滅しました。その翌年の昭和21年1月、昭和天皇が人間宣言し「現人神」も消えました。
★ 以上が、私自身が「大詔奉戴日」を基軸に尋常小学校初等科ならびに高等科を通じて体験した事柄です。これにまつわるより具体的なお話は、これまでにもたびたびこのブログでお話してきました。ご関心がございましたら、こちらのページをご覧ください。
【”現人神”と”全知全能の唯一神”】
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by zenmz
| 2017-05-12 10:07
| 戦争秘話:平和への戒め