2006年 02月 13日
【6048】 Ⅳ 28年間に7次におよぶ鄭和西洋大航海 |
★ 28年間に7次。鄭和大将軍の大航海は、いずれも揚子江江口附近の劉家港より出帆し、西南に向かう風に乗って10日ばかり。先ず広東、海南島の南にあった占城国(Champa)に入った、と記録されています。ほぼここまでは7回の航海に共通する航路です。
★ それから先は、派遣時期によって三つの航路に分かれます。「第一期」第1次から第3次ま、「第二期」第4次から第6次、そして最後の「第三期」第7次です。話が少々、理屈っぽくなってくるのですが、先ず、7次にわたる航海は、それぞれ何時、行われたのか? それを確認しておきましょう。以下、『鄭和史詩』にまとめられている「鄭和七下西洋筒表」一覧解説です。
第1次・・・永楽3年(1405年)6月~永楽5年(1407年)9月
第2次・・・永楽5年(1407年)9月~永楽7年(1409年)夏
第3次・・・永楽7年(1409年)9月~永楽9年(1411年)6月
第4次・・・永楽10年(1412年)11月~永楽13年(1415年)7月
第5次・・・永楽14年(1416年)12月~永楽17年(1419年)7月
第6次・・・永楽19年(1421年)正月~永楽20年(1422年)8月
第7次・・・宣徳5年(1430年)6月~宣徳8年(1433年)7月
★ 第7次で、年号が変わっています。鄭和大航海を推進してきた永楽帝が死に継いだ洪熙帝は航海を中断。洪熙次いで登場した宣徳帝が8年後に再開しました。が、それが最後となりました。航海の最中に鄭和が病を得て死亡し、同時に国内では、膨大な出費が政治問題となり、歴史に輝かしい足跡を残した鄭和大航海は幕を閉じました。
★ この一覧解説は、中国江蘇省鄭和研究会の李金明氏が作成されたもので、それぞれの航海の訪問先を詳細に記録し、「古今地名対照表」で、古地名、今地(現在地) 外文名(外国語表記)で検証しておられます。それぞれの航海は、どのようなものであったのか? これを参考に、『鄭和博物館』の陳館長の著作「CHENG HO AND MALACCA」(鄭和とマラッカ)によって、それぞれの航海の概要をまとめてみましょう。
★ 「鄭和七下西洋筒表」では第1次航海は、1405年6月になっていますが、当時の航海は”冬モンスーンを利用”する絶対的な条件がありました。その後の研究によって、実際に船出したのは、その年の冬であった、との推論が定説です。初艦隊は62隻・27800余人。長江(揚子江)河口の劉家港を出航し、爪哇(ジャワ) 蘇門答刺(スマトラ)など東南アジア地域を一巡しました。
★ 第2次航海は、ほぼ同じ規模でしたが、第1次にはなかった暹羅(シャム)に足を伸ばし、更に錫蘭山(セイロン)を訪問し、その折り、漢文、タミル語、ペルシア語で書かれた上陸記念碑を建設。後生に貴重な歴史遺産とされる遺跡を残しました。この第2次航海でシャムに向かったのはマラッカやスマトラを圧迫するアユタヤ朝の行動を抑えるためだったと言われます。
★ 第3次航海は、48隻27000人で出帆。この航海は成立したばかりの「マラッカ王国」を明の朝貢国家に組み込み、これを保護する外交政策を主眼としました。鄭和はマラッカに「官廠」を建設して、艦隊の集結地あるいは遠征の中継地としたのです。アユタヤ朝の脅威から解放されたマラッカは以来、東南アジアにおける最も繁栄した港市国家に急成長します。
★ 更に訪れた「古里(カリカット)・柯枝(コーチン)・蘇門答刺(スマトラ)・阿魯(アルー)・彭享(バハン)・急蘭丹(ケランタン)・南巫里(ランブリ)・加異勒(カヤール)・爪哇(ジャワ)の新村(グリッセ)の国々は明に朝貢を開始し、明朝の保護を要請する大成果を収めました。鄭和について希代の外交官との評価がなされるゆえんです。
★ 第3次航海で 鄭和は、錫蘭山(セイロン)の朝貢交渉に失敗、6日間の戦闘の後、セイロン王を生け捕りにし中国まで連れ帰っています。永楽帝はセイロン王の帰国を許し、セイロンは朝貢を開始し友好関係が築かれました。鄭和大航海で唯一の本格的な戦闘でしたが、これが後年、西洋の学者の「鄭和侵略説」の根拠にされます。
★ 第4次航海は、63隻27670人。訪問先は、アラビア半島、アフリカ東海岸に広がりました。鄭和本隊は南インドを経て、最終目的地の忽魯謨厮(オルムズ)へ。初めて企画された分遣隊は蘇門答刺(スマトラ)から溜山(モルディフ)を経て、西に向かい、木骨都刺(束)(モガディシオ)・卜比刺あるいは不刺哇(ブラワ)・麻林(マリンディ)を歴訪し、そして北上して、阿丹(アデン)・刺撤(ラサ)・祖法児(ズファール)を経て、忽魯謨厮国(オルムズ)に至った、と言われます。この航海で、おびただしい国、地域が新たに明朝に朝貢を行いました。
★ 第5次航海は、第4次航海で連れ帰っていた満刺加(マラッカ)など19か国の使節団を帰国させるのが主目的。再び戻りに17か国の使節に加えて阿魯(アルー)・喃渤里(ランブリ)の王子を迎えて同行するという外交を展開。この時にも分遣隊が編成され、忽魯謨厮国(オルムズ)が獅子や豹、大西馬、麟麟(きりん) シマウマ、駱駝といった”珍獣”を献上品として持ち帰っています。
★ 第6次航海も外交目的。15か国の使節を乗せて出帆。答礼に暹羅(シャム)など15か国1200人の使節が来朝したと言われます。そして鄭和最後の第7次航海は、それまでの航海を総括する大航海でした。何よりも驚くべきことは、この航海に出張を命ぜられた官僚の氏名、主な宝船の船名、艦隊の編成、航海の行程などについて、詳細な記録が残っていることです。
★ その資料に基づき考証を加えられた大著が、「鄭和博物館」で陳館長からいただいた大著『鄭和史詩』ですが、残念ながら全部、中国語。それも現代の省略簡体字で歯が立ちません。帰国してから中国語の分かる方のご協力を得て、この旅行記の欠落を埋めたいと思います。ここでは、とりあえず、陳館長著「CHENG HO AND MALACCA」(鄭和とマラッカ)で分かる範囲の事柄を記しておきましょう。
★ 宣徳5年(1430年) 宣徳帝の命で準備されたのは61隻の大艦隊。27550人が乗組んで12月、冬のモンスーンに乗って出航。衰微の兆しを見せ始めた朝貢外交を補強し、交易を勧めるのが目的でした。本隊は、従来通りまず古里国(カリカット)経由で忽魯謨厮(オルムズ)へ。ここで分遣隊を編成。
★ 分遣隊も、従来通り、蘇門答刺(スマトラ)からアフリカ東岸に向かったのですが、今回はさらにもう1つ、古里国(カリカット)からアラビア半島を経て、天方(メッカ)に向かいました。鄭和は、全航海が成功裏に終わり、帰還中、病を得、立ち寄った古里国(カリカット)で、63歳の生涯を閉じました。時に1433年。不思議なことに正確な日時は不明。享年も64歳、死亡時期も「旅を終えて帰国後」など諸説があります。
★ 非常に大ざっぱですが、とりあえず、7次にわたった航路だけをたどってみました。未開の荒波を超えた彼方に何があったのか? 交易で何を持ち込み、何を持ち帰ったのか? 平均2万5千人の乗組員たちはどう暮らしたのか?
★ そもそも60艘、70艘という大船団はどんな船を、どう編成したのか? これからが本当に興味深いテーマですが、これから追々、分かった事柄をエピソード風に綴ってまいります。では、今日もこれから「鄭和博物館」へ参ります。
【6049】 Ⅴ 西洋を揺るがせた「巨大帆船」。 に続く
★ それから先は、派遣時期によって三つの航路に分かれます。「第一期」第1次から第3次ま、「第二期」第4次から第6次、そして最後の「第三期」第7次です。話が少々、理屈っぽくなってくるのですが、先ず、7次にわたる航海は、それぞれ何時、行われたのか? それを確認しておきましょう。以下、『鄭和史詩』にまとめられている「鄭和七下西洋筒表」一覧解説です。
第1次・・・永楽3年(1405年)6月~永楽5年(1407年)9月
第2次・・・永楽5年(1407年)9月~永楽7年(1409年)夏
第3次・・・永楽7年(1409年)9月~永楽9年(1411年)6月
第4次・・・永楽10年(1412年)11月~永楽13年(1415年)7月
第5次・・・永楽14年(1416年)12月~永楽17年(1419年)7月
第6次・・・永楽19年(1421年)正月~永楽20年(1422年)8月
第7次・・・宣徳5年(1430年)6月~宣徳8年(1433年)7月
★ 第7次で、年号が変わっています。鄭和大航海を推進してきた永楽帝が死に継いだ洪熙帝は航海を中断。洪熙次いで登場した宣徳帝が8年後に再開しました。が、それが最後となりました。航海の最中に鄭和が病を得て死亡し、同時に国内では、膨大な出費が政治問題となり、歴史に輝かしい足跡を残した鄭和大航海は幕を閉じました。
★ この一覧解説は、中国江蘇省鄭和研究会の李金明氏が作成されたもので、それぞれの航海の訪問先を詳細に記録し、「古今地名対照表」で、古地名、今地(現在地) 外文名(外国語表記)で検証しておられます。それぞれの航海は、どのようなものであったのか? これを参考に、『鄭和博物館』の陳館長の著作「CHENG HO AND MALACCA」(鄭和とマラッカ)によって、それぞれの航海の概要をまとめてみましょう。
★ 「鄭和七下西洋筒表」では第1次航海は、1405年6月になっていますが、当時の航海は”冬モンスーンを利用”する絶対的な条件がありました。その後の研究によって、実際に船出したのは、その年の冬であった、との推論が定説です。初艦隊は62隻・27800余人。長江(揚子江)河口の劉家港を出航し、爪哇(ジャワ) 蘇門答刺(スマトラ)など東南アジア地域を一巡しました。
★ 第2次航海は、ほぼ同じ規模でしたが、第1次にはなかった暹羅(シャム)に足を伸ばし、更に錫蘭山(セイロン)を訪問し、その折り、漢文、タミル語、ペルシア語で書かれた上陸記念碑を建設。後生に貴重な歴史遺産とされる遺跡を残しました。この第2次航海でシャムに向かったのはマラッカやスマトラを圧迫するアユタヤ朝の行動を抑えるためだったと言われます。
★ 第3次航海は、48隻27000人で出帆。この航海は成立したばかりの「マラッカ王国」を明の朝貢国家に組み込み、これを保護する外交政策を主眼としました。鄭和はマラッカに「官廠」を建設して、艦隊の集結地あるいは遠征の中継地としたのです。アユタヤ朝の脅威から解放されたマラッカは以来、東南アジアにおける最も繁栄した港市国家に急成長します。
★ 更に訪れた「古里(カリカット)・柯枝(コーチン)・蘇門答刺(スマトラ)・阿魯(アルー)・彭享(バハン)・急蘭丹(ケランタン)・南巫里(ランブリ)・加異勒(カヤール)・爪哇(ジャワ)の新村(グリッセ)の国々は明に朝貢を開始し、明朝の保護を要請する大成果を収めました。鄭和について希代の外交官との評価がなされるゆえんです。
★ 第3次航海で 鄭和は、錫蘭山(セイロン)の朝貢交渉に失敗、6日間の戦闘の後、セイロン王を生け捕りにし中国まで連れ帰っています。永楽帝はセイロン王の帰国を許し、セイロンは朝貢を開始し友好関係が築かれました。鄭和大航海で唯一の本格的な戦闘でしたが、これが後年、西洋の学者の「鄭和侵略説」の根拠にされます。
★ 第4次航海は、63隻27670人。訪問先は、アラビア半島、アフリカ東海岸に広がりました。鄭和本隊は南インドを経て、最終目的地の忽魯謨厮(オルムズ)へ。初めて企画された分遣隊は蘇門答刺(スマトラ)から溜山(モルディフ)を経て、西に向かい、木骨都刺(束)(モガディシオ)・卜比刺あるいは不刺哇(ブラワ)・麻林(マリンディ)を歴訪し、そして北上して、阿丹(アデン)・刺撤(ラサ)・祖法児(ズファール)を経て、忽魯謨厮国(オルムズ)に至った、と言われます。この航海で、おびただしい国、地域が新たに明朝に朝貢を行いました。
★ 第5次航海は、第4次航海で連れ帰っていた満刺加(マラッカ)など19か国の使節団を帰国させるのが主目的。再び戻りに17か国の使節に加えて阿魯(アルー)・喃渤里(ランブリ)の王子を迎えて同行するという外交を展開。この時にも分遣隊が編成され、忽魯謨厮国(オルムズ)が獅子や豹、大西馬、麟麟(きりん) シマウマ、駱駝といった”珍獣”を献上品として持ち帰っています。
★ 第6次航海も外交目的。15か国の使節を乗せて出帆。答礼に暹羅(シャム)など15か国1200人の使節が来朝したと言われます。そして鄭和最後の第7次航海は、それまでの航海を総括する大航海でした。何よりも驚くべきことは、この航海に出張を命ぜられた官僚の氏名、主な宝船の船名、艦隊の編成、航海の行程などについて、詳細な記録が残っていることです。
★ その資料に基づき考証を加えられた大著が、「鄭和博物館」で陳館長からいただいた大著『鄭和史詩』ですが、残念ながら全部、中国語。それも現代の省略簡体字で歯が立ちません。帰国してから中国語の分かる方のご協力を得て、この旅行記の欠落を埋めたいと思います。ここでは、とりあえず、陳館長著「CHENG HO AND MALACCA」(鄭和とマラッカ)で分かる範囲の事柄を記しておきましょう。
★ 宣徳5年(1430年) 宣徳帝の命で準備されたのは61隻の大艦隊。27550人が乗組んで12月、冬のモンスーンに乗って出航。衰微の兆しを見せ始めた朝貢外交を補強し、交易を勧めるのが目的でした。本隊は、従来通りまず古里国(カリカット)経由で忽魯謨厮(オルムズ)へ。ここで分遣隊を編成。
★ 分遣隊も、従来通り、蘇門答刺(スマトラ)からアフリカ東岸に向かったのですが、今回はさらにもう1つ、古里国(カリカット)からアラビア半島を経て、天方(メッカ)に向かいました。鄭和は、全航海が成功裏に終わり、帰還中、病を得、立ち寄った古里国(カリカット)で、63歳の生涯を閉じました。時に1433年。不思議なことに正確な日時は不明。享年も64歳、死亡時期も「旅を終えて帰国後」など諸説があります。
★ 非常に大ざっぱですが、とりあえず、7次にわたった航路だけをたどってみました。未開の荒波を超えた彼方に何があったのか? 交易で何を持ち込み、何を持ち帰ったのか? 平均2万5千人の乗組員たちはどう暮らしたのか?
★ そもそも60艘、70艘という大船団はどんな船を、どう編成したのか? これからが本当に興味深いテーマですが、これから追々、分かった事柄をエピソード風に綴ってまいります。では、今日もこれから「鄭和博物館」へ参ります。
【6049】 Ⅴ 西洋を揺るがせた「巨大帆船」。 に続く
by zenmz
| 2006-02-13 17:44
| マラッカと鄭和