2006年 05月 04日
【6115】 日本最初の新聞記者 |
★ このところ、新聞に関するお問い合わせが続いて来ます。殆ど20歳前後の若い人たち。それも「新聞記者って、なんですか? 何をする人ですか?」 ギクッと来ました。さて何だろう。MIXI 友の若い女性からお問い合わせがありました。「zensan 新聞記者だったんですね」と冠付きのご質問。字引を引いて出てくるような答えでは納得してもらえないでしょう。さて、困った。
★ ジッと「記者」の字を見つめます。”記”は、「記録する」こと。それを生業にしている人・・・だれでも知りたいような事柄の現場へ行って、そこで見たこと、聞いたことを他人に伝えるために書き記す。もう一つ、重要なポイントは、日付。日付のない事柄はニュースではない。記者は歴史を最初に記録する人。それには常にニュースをかぎ分ける力が必要。
★ それじゃ、一体、「ニュース」って何? 今度は「新聞」の意味ですね。 NEWS north east west south 東西南北・四方八方、探し回って”今日”始めて出くわす新しいこと。よく言われるのは、どんな名犬でも、犬が人間にほえているのは普通の日常、ニュースにならない。人間が犬に吠えてればニュースになる。なるか、ならぬかは、時と場合による。ニュース価値をかぎ分ける「史観」という目利きが必要。記者の素養とも言うべき隠された部分でしょう。
★ まあ、そんなことをウダウダと想ってしまいます。だけど、一言で、ピシッと決めるとなると、やはりニュースを見つけて記録する人、としか言いようがありません。それを業とする、という枠組みも、最近は意味をなさなくなりました。「生業」としないフリーのジャーナリストがゴマンと出てきて月給取りの新聞記者よりいい仕事をするようになりました。”生業”であろうと、なかろうと、ニュースを見つけて記録する人、と言えば、まあ、間違いないでしょう。
★ 一応、言葉整理が出来た、と安心できません。では、歴史上、最初の記者はだれか?
ハタ、と詰まります。直ぐアタマに浮かぶのはキリスト教の聖書。最初の4福音書です。マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝。それぞれの記者が伝える史上初の福音。神の言葉。最高のニュースです。上の定義で言えば、こうなってしまいます。
★ やはり社会のあり方、一定の発達段階に達した社会で機能している装置と見るべきでしょう。細かい議論はちょっと省いて、それは近世の夜明けと共に生まれたのではないか、と、漠然と考えています。日本で言えば、江戸時代の瓦版作家がその嚆矢ではなかろうか、と思っています。
★、その意味での日本最初の新聞は、【大阪安部之合戦之図】です。400年も前、実際にあった戦いを報じたものです。 これは、いろんな意味で今日の新聞の特徴を表していると思います。最大の特徴は、ニュースの本質を明らかにしていることです。人々の興味・関心を一番、ひくのは争いごとです。そのトップにくるのが”戦争”。
★ 以上、考えを巡らせてきた「新聞記者」の仕事をビジネスとして毎日、記録し、販売する商売が始まりました。商業新聞、つまり、現在、私たちが馴染んでいる「新聞」の始まりです。その意味で、日本最初の日刊新聞は明治5年(1872)創刊された「東京日日新聞」。 日本最初の近代的記者は岸田吟香と言えましょう。なぜか? 従軍記者として台湾に行き、現地ルポ記事を書いた日本最初の戦争特派員だからです。日本の新聞記者は、この人に始まる、と言っても過言ではないと思います。
★ それで・・・「新聞ってなんですか?」 また一言で言うのですか? まあ、日々、新聞記者が”新しいこと”を掘り起こして、それで毎日、歴史を刻んでいくお仕事、と言うのはどうでしょう。単に東西南北、キョロキョロ見渡し、書き記すのは雑文です。雑文は記事ではありません。近未来を見通す史観に裏打ちされた”新しきもの” 透徹した目と筆が歴史を形作っていくのではないでしょうか・・・・まあ、この辺りで、ご勘弁下さい。この先は、前に書いた雑文をご覧下さい。
【日本新聞事始め:福地桜痴】
【日本新聞事始め:岸田吟香】
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ニューヨークにお住まいの【クマさん】と、国内の教養深い【トコさん】のお二人から非常に重要なご指摘を頂きました。日本最初の新聞記者は、日本最初の邦字新聞『海外新聞』を創刊したジョセフ・ヒコではなかったか? とのご質問です。
私は、次の事情から、それは、少し、問題がある、と考えます。その理由をご説明しておきたいと思います。
以下、【補遺】を追加し、私の見解を述べされていただきます。
★ 我が国最初の邦文新聞は、横浜にあった米国領事館付き通訳、ジョセフ・ヒコによって発刊されたのは事実です。元治元年(1864年)6月であった、と言われます。ジョセフは日本名・浜田彦蔵、播州播磨(兵庫県)の出身ですが、13歳の時、船で江戸見物に出かけ、帰路、遠州灘で暴風に襲われて遭難。米国の商船に助けられて、以後、アメリカで成育するという異常な体験をしました。
★ 篤志家の世話でミッションスクールを卒業し、9年後の安政6年(1859年)日本に帰国。初代駐日米大使のハリスによって領事館通訳に採用されました。ジョセフが新聞を発行したのは、文久2年(1862年)6月28日です。前年に米領事館を辞め、商社を設立して『新聞誌』と題する手書き新聞を月に3~4回、発行し始めました。
★ 元号が慶応に変わった1865年6月、ジョセフの『新聞誌』も『海外新聞』に改題。木版刷りの改題『海外新聞』は、「二つ折り半紙を数枚、綴じて表紙をつけたもの」だった、と伝えられています。その内容については、ジョセフ自身が、自分の「自伝」を残しており、「これは、郵便で着くたびに外国新聞から翻訳し、日本人のために”輸入品” ”輸出品”の現地における《今日の値段》を知らせる新聞である」と記しています。つまり内容はすべて《翻訳物》。もっと、言い切ってしまうなら、自分の商社の商売情報を、仲間に流す、のが主目的でした。
★ ジョセフは、時に25歳。 共に、『海外新聞』の発行に携わった日本人が二人いましたが、その一人が30歳の岸田吟香。後に日本最初の日刊商業紙『東京日々新聞』の初代主筆(この人については既に別項でご説明しました) もう一人は20歳の本間清雄、後に明治政府に出仕し、外交官となって活躍しました。
★ たしかにジョセフの『海外新聞』は、それ自体、画期的な偉業ではありますが、業者仲間向けの限定された情報の”翻訳物”ではなく、
【記者本人が、現場に赴き、自らの目・耳で確かめたニュースを、毎日、報道する】
現在の新聞の原型が登場するまでには、先に述べた『東京日々新聞』の発刊を待たねばなりませんでした。
★ 私が、日本最初の新聞記者を、ジョセフ・ヒコではなく、福地桜痴と岸田吟香としたのは、そのためです。念のために申し添えますと、日本最初の新聞創刊に到るまでの前史としては、
文久元年(1861) 英字紙『ジャパンヘラルド』 『官板バタビア新聞』
文久2年(1862) 『官板海外新聞』
文久3年(1963) 『ジャパン・コマーシャル・ニュース』(英文)
などがあり、元治元年(1864)のジョセフ・ヒコの『海外新聞』発刊となるのです。
★ さらに新聞前史は続き、
慶応元年(1865) 『日本新聞』 『日本交易新聞』
慶応2年(1866) 邦字紙『万国新聞社』
明治元年(1868) 新政府『太政官日誌』 『日々新聞』 『江城日誌』 『横浜新報もしほ草』など・・・
が続々と刊行されています。
★ そうしたことから、簡単に、ジョセフ・ヒコの『海外新聞』を、”日本最初の邦字新聞”とするのはちょっと早計です。やはり、新聞は毎日、発行が命です。原点は、そこに置かねばならないと思います。私が、敢えて、明治5年(1872)2月21日発行の『東京日々新聞』をもって日本新聞事始めの出発点とするのは、そのためです。
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【ご挨拶】
GREE おほび MIXI にご参加の皆様、
ようこそお越し下さいました。心からお礼を申し上げます。
私は、これまで、このブログと、GREE おほび MIXI にも参加し、トロイカでネット上を走り回って来ました。しかし、やはり老齢の身、それぞれの場での記事更新、コメント対応に疲れを生じ始めました。
そこで、勝手ながら、三者を一本化して運営させて頂くことにいたしました。
これを機に、少し、在庫整理もさせて頂きたいと思います。過去に書いたもののうち、鮮度に関係なく皆様にご披露出来る退蔵品を、虫干しを兼ねてご披露したいと思います。場合によりましては、既にご覧下さった方々には重複掲載する場合もあろうかと思いますが、ご協力をお願い申し上げます。
皆様、どうか、これからもよろしくご厚誼の程、お願い申し上げます。
岡山・吉備高原都市から 銭本 三千年
★ ジッと「記者」の字を見つめます。”記”は、「記録する」こと。それを生業にしている人・・・だれでも知りたいような事柄の現場へ行って、そこで見たこと、聞いたことを他人に伝えるために書き記す。もう一つ、重要なポイントは、日付。日付のない事柄はニュースではない。記者は歴史を最初に記録する人。それには常にニュースをかぎ分ける力が必要。
★ それじゃ、一体、「ニュース」って何? 今度は「新聞」の意味ですね。 NEWS north east west south 東西南北・四方八方、探し回って”今日”始めて出くわす新しいこと。よく言われるのは、どんな名犬でも、犬が人間にほえているのは普通の日常、ニュースにならない。人間が犬に吠えてればニュースになる。なるか、ならぬかは、時と場合による。ニュース価値をかぎ分ける「史観」という目利きが必要。記者の素養とも言うべき隠された部分でしょう。
★ まあ、そんなことをウダウダと想ってしまいます。だけど、一言で、ピシッと決めるとなると、やはりニュースを見つけて記録する人、としか言いようがありません。それを業とする、という枠組みも、最近は意味をなさなくなりました。「生業」としないフリーのジャーナリストがゴマンと出てきて月給取りの新聞記者よりいい仕事をするようになりました。”生業”であろうと、なかろうと、ニュースを見つけて記録する人、と言えば、まあ、間違いないでしょう。
★ 一応、言葉整理が出来た、と安心できません。では、歴史上、最初の記者はだれか?
ハタ、と詰まります。直ぐアタマに浮かぶのはキリスト教の聖書。最初の4福音書です。マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝。それぞれの記者が伝える史上初の福音。神の言葉。最高のニュースです。上の定義で言えば、こうなってしまいます。
★ やはり社会のあり方、一定の発達段階に達した社会で機能している装置と見るべきでしょう。細かい議論はちょっと省いて、それは近世の夜明けと共に生まれたのではないか、と、漠然と考えています。日本で言えば、江戸時代の瓦版作家がその嚆矢ではなかろうか、と思っています。
★、その意味での日本最初の新聞は、【大阪安部之合戦之図】です。400年も前、実際にあった戦いを報じたものです。 これは、いろんな意味で今日の新聞の特徴を表していると思います。最大の特徴は、ニュースの本質を明らかにしていることです。人々の興味・関心を一番、ひくのは争いごとです。そのトップにくるのが”戦争”。
★ 以上、考えを巡らせてきた「新聞記者」の仕事をビジネスとして毎日、記録し、販売する商売が始まりました。商業新聞、つまり、現在、私たちが馴染んでいる「新聞」の始まりです。その意味で、日本最初の日刊新聞は明治5年(1872)創刊された「東京日日新聞」。 日本最初の近代的記者は岸田吟香と言えましょう。なぜか? 従軍記者として台湾に行き、現地ルポ記事を書いた日本最初の戦争特派員だからです。日本の新聞記者は、この人に始まる、と言っても過言ではないと思います。
★ それで・・・「新聞ってなんですか?」 また一言で言うのですか? まあ、日々、新聞記者が”新しいこと”を掘り起こして、それで毎日、歴史を刻んでいくお仕事、と言うのはどうでしょう。単に東西南北、キョロキョロ見渡し、書き記すのは雑文です。雑文は記事ではありません。近未来を見通す史観に裏打ちされた”新しきもの” 透徹した目と筆が歴史を形作っていくのではないでしょうか・・・・まあ、この辺りで、ご勘弁下さい。この先は、前に書いた雑文をご覧下さい。
【日本新聞事始め:福地桜痴】
【日本新聞事始め:岸田吟香】
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ニューヨークにお住まいの【クマさん】と、国内の教養深い【トコさん】のお二人から非常に重要なご指摘を頂きました。日本最初の新聞記者は、日本最初の邦字新聞『海外新聞』を創刊したジョセフ・ヒコではなかったか? とのご質問です。
私は、次の事情から、それは、少し、問題がある、と考えます。その理由をご説明しておきたいと思います。
以下、【補遺】を追加し、私の見解を述べされていただきます。
★ 我が国最初の邦文新聞は、横浜にあった米国領事館付き通訳、ジョセフ・ヒコによって発刊されたのは事実です。元治元年(1864年)6月であった、と言われます。ジョセフは日本名・浜田彦蔵、播州播磨(兵庫県)の出身ですが、13歳の時、船で江戸見物に出かけ、帰路、遠州灘で暴風に襲われて遭難。米国の商船に助けられて、以後、アメリカで成育するという異常な体験をしました。
★ 篤志家の世話でミッションスクールを卒業し、9年後の安政6年(1859年)日本に帰国。初代駐日米大使のハリスによって領事館通訳に採用されました。ジョセフが新聞を発行したのは、文久2年(1862年)6月28日です。前年に米領事館を辞め、商社を設立して『新聞誌』と題する手書き新聞を月に3~4回、発行し始めました。
★ 元号が慶応に変わった1865年6月、ジョセフの『新聞誌』も『海外新聞』に改題。木版刷りの改題『海外新聞』は、「二つ折り半紙を数枚、綴じて表紙をつけたもの」だった、と伝えられています。その内容については、ジョセフ自身が、自分の「自伝」を残しており、「これは、郵便で着くたびに外国新聞から翻訳し、日本人のために”輸入品” ”輸出品”の現地における《今日の値段》を知らせる新聞である」と記しています。つまり内容はすべて《翻訳物》。もっと、言い切ってしまうなら、自分の商社の商売情報を、仲間に流す、のが主目的でした。
★ ジョセフは、時に25歳。 共に、『海外新聞』の発行に携わった日本人が二人いましたが、その一人が30歳の岸田吟香。後に日本最初の日刊商業紙『東京日々新聞』の初代主筆(この人については既に別項でご説明しました) もう一人は20歳の本間清雄、後に明治政府に出仕し、外交官となって活躍しました。
★ たしかにジョセフの『海外新聞』は、それ自体、画期的な偉業ではありますが、業者仲間向けの限定された情報の”翻訳物”ではなく、
【記者本人が、現場に赴き、自らの目・耳で確かめたニュースを、毎日、報道する】
現在の新聞の原型が登場するまでには、先に述べた『東京日々新聞』の発刊を待たねばなりませんでした。
★ 私が、日本最初の新聞記者を、ジョセフ・ヒコではなく、福地桜痴と岸田吟香としたのは、そのためです。念のために申し添えますと、日本最初の新聞創刊に到るまでの前史としては、
文久元年(1861) 英字紙『ジャパンヘラルド』 『官板バタビア新聞』
文久2年(1862) 『官板海外新聞』
文久3年(1963) 『ジャパン・コマーシャル・ニュース』(英文)
などがあり、元治元年(1864)のジョセフ・ヒコの『海外新聞』発刊となるのです。
★ さらに新聞前史は続き、
慶応元年(1865) 『日本新聞』 『日本交易新聞』
慶応2年(1866) 邦字紙『万国新聞社』
明治元年(1868) 新政府『太政官日誌』 『日々新聞』 『江城日誌』 『横浜新報もしほ草』など・・・
が続々と刊行されています。
★ そうしたことから、簡単に、ジョセフ・ヒコの『海外新聞』を、”日本最初の邦字新聞”とするのはちょっと早計です。やはり、新聞は毎日、発行が命です。原点は、そこに置かねばならないと思います。私が、敢えて、明治5年(1872)2月21日発行の『東京日々新聞』をもって日本新聞事始めの出発点とするのは、そのためです。
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【ご挨拶】
GREE おほび MIXI にご参加の皆様、
ようこそお越し下さいました。心からお礼を申し上げます。
私は、これまで、このブログと、GREE おほび MIXI にも参加し、トロイカでネット上を走り回って来ました。しかし、やはり老齢の身、それぞれの場での記事更新、コメント対応に疲れを生じ始めました。
そこで、勝手ながら、三者を一本化して運営させて頂くことにいたしました。
これを機に、少し、在庫整理もさせて頂きたいと思います。過去に書いたもののうち、鮮度に関係なく皆様にご披露出来る退蔵品を、虫干しを兼ねてご披露したいと思います。場合によりましては、既にご覧下さった方々には重複掲載する場合もあろうかと思いますが、ご協力をお願い申し上げます。
皆様、どうか、これからもよろしくご厚誼の程、お願い申し上げます。
岡山・吉備高原都市から 銭本 三千年
by zenmz
| 2006-05-04 22:27
| 現代社会論