2006年 05月 11日
【6123】 【我が教育の出発点】(Ⅲ) |
**** 学び浸り、教え浸る、教育 ****
★ 素人のにわか教員が最初、頭をかかえたのは、教授法でした。何を教えるか、は比較的容易です。私の場合は、目の前の学生が何を求めているのか。それが掴めた瞬間、眼からウロコが取れました。問題は、どう教えるか? これも難問ですが、結論を言えば、時と場合によって人様々。ウマが合う、合わないを含めて正解はありません。大切なのは教職の身の心構え。その方がより大事だと思います。
★ 教師たる者、教育にたずさわる心構えはどうあるべきか? いろんな先駆者の実践記録を勉強しました。結局、コレだ!と、心に響いたのは大村はま先生です。教育関係者の方ならどなたでも,既にご存じの大先達。1928年(昭和3)年に東京女子大学を卒業されると同時に長野県諏訪高等女学校へ奉職。以来 1980(昭和55)年の退職まで52年間もの長い期間を一貫して公立中学校教諭を続け、”100年に一人の偉大な国語教師”(波多野完治)と絶賛された方です。教育界で、大村はま先生を知らない教師はいないでしょう。
★ 昨年4月、96歳の長寿を全うされましたが、先生の教育とはどのようなものであったか? 私は、先生が亡くなられる1週間前に書かれた遺作散文詩『優劣のかなたに』、とりわけ最後の結び3行に、そのすべてが凝縮されていると思います。それは、【学びひたり / 教えひたろう / 優劣のかなたで】(全文は、最後の【参考】に掲載しました)
★ ただ単に学ぶのではない。全身全霊を集中して学ぶ。ただ単に教えるのではない。力の限りを尽くしてひたすら教える。できる、できない。優か、劣か。そんなことは全く問題ではない。教師も、生徒も、共に無我の境地にひたりきっている”生”の営み。そんな姿が目に浮かんできます。重厚な実践が絞り出した珠玉の言葉ですね。
★ 現在、若い親たちは教育論に熱心です。ただ、我が子を通して、教師・学校が、何を、どう教えるのか? ハウツー論議、それも批判精神旺盛な軽評論ばかりです。本当は、そんな議論よりも、親も、教師も、等しく、子どもを前にして、【《自らの情念》をたぎらせて、共に《教え・学ぶ》実践】こそ大切です。現在の教育は、それを見失っています。
★ ちょっと、脇道に逸れますが、先生は生前、「大村はま国語教室」全15巻別巻1(筑摩書房)、「大村はまの国語教室 1-3」(小学館)、「教室をいきいきと 1-3」(筑摩書房)、「授業を創る」「教室に魅力を」(ともに国土社)などの著書と他に類例をみない独創的な「単元学習」実践資料約500点、学習記録約2000冊、及び、指導記録・指導資料類、更に実践・研究のため収集された文献6300冊などすべてを鳴門教育大学に寄贈されました。
★ 現在、同大学図書館に「大村はま文庫」として大切に保管されています。この大学は現職教員の再教育施設(修士課程)です。教育不毛が心配されている今日、特に若い先生方にジックリと大村先生の独創教育を学んでいただきたいと願います。
====== 意欲をもぎ取る学校管理システム ======
★ さて、本論に戻りましょう。新聞社を定年退職後、暫くして、私は、岡山・高梁市にある短期大学で、新たに制度化された「介護福祉士」の養成に当たることになりました。平成元年4月、保健科に新たに保健福祉専攻を設け、その主任教授に就任した私は、初めての「職業専門教育」に携わることになりました。短大は、それまで馴染んできた大学とは全く異なる教育機関でした。
★ 卒業と共に「介護福祉士」という国家資格を与えるこのコースは、施設・教員構成・カリキュラムのすべてを厚生労働省が許認可の権限を握っている学校です。文部科学省所管の短大でありながら、実質的な教育に関わる許認可、監督権は厚生労働省。何とも不可思議な国家による二重管理構造です。一番の問題は、カリキュラム編成の自由は殆どありません。授業計画の殆どは、厚生労働省の定める設置基準に基づき、雁字搦めになっています。一言で言って、すべて必修の規格授業です。
★ ここでは、国家資格に関わる教育制度の諸問題を論じるつもりはありませんので、これ以上は言及しませんが、”職業専門教育”は徹底した”詰め込み教育”です。毎日、朝から晩までビッシリ詰まった授業は、すべて必修です。そして夏、冬の休暇は、殆ど実習に費やされます。文部科学省はゆとりある休業を指導し、厚生労働省はこの実習強化を要求します。「学問の自由」など論ずる教員はいません。雰囲気がガラリと変わりました。
★ 全員が介護福祉士になる。その目的意識は実にはっきりしています。さらに、短大の学生たちは疑うことを知りません。「先生の仰ることをよく聞いて勉強する」と言う実に素直な18歳~20歳。これには驚きました。実にマジメによく勉強します。しかし、高い授業料と下宿の生活費。多くの学生はアルバイトをしなければ学業が継続できない者が多いのです。へとへとになり、息切れするものが続出します。
★ さて・・・教師たるもの、どう、学生と接するか? 私は、とにかく、既に大阪市立大学で実行済み、その手応え十分の自信を得ていた大村はま先生の実践をまねることにしました。
「優か 劣か それは、どうでもいい。それを超えて、お互い、学び浸り、教え浸ろう。この学園で・・・」
★ 先ず、銭本研究室報『志縁・知縁』を発行し、
「研究室を学生たちに全面開放する、何時でも自由に訪問を」
と伝え、私の学生たちに対する想いを掲げました。
訪れる人に喜びと幸いを Joy & happiness upon those who visit
去りゆく人に希望と大志を Hope & aspiration upon those who leave
それは、私が、その学校で開始する教育への決意を学生たちに送るメッセージでした。
★ 思い返せば、私は、実にナイーブでした。学校は、”学び浸り、教え浸る”そのような自由な教育を歓迎してくれる、と思いこんでいました。それまで慣れ親しんだ大阪市立大学は深夜まで学園内は煌々と電気が点っていました。どの研究室も、思う存分、研究に没頭出来ましたし、学生のゼミも、場合によっては夜を通して白熱した討論が繰り広げられることも多々、ありました。
===== 教育の自由獲得のための闘争 =====
★ ところが、この学校で授業を始めた途端、私は、思わぬ壁に突き当たりました。この学校は、朝はともかく、午後は6時になると閉門、午後8時には全校舎の出入り口が閉ざされ、消灯します。 一番、大切な図書館は午後5時に閉館。午後4時40分までは必修授業がビッシリ詰まっており、これでは学生たちは全く利用できません。
コトを始める前に、一体、学校とは何か? その根本を問いたださざるを得ない教育環境です。
★ 学校管理者との長い、交渉が始まりました。驚かれるかも知れません。それは、その学校を退職するまで10年間、続きました。学生たちのゼミ研究に全教員の研究室を開放しよう、図書館の開館時間を延長しよう、教室利用を午後11時まで延長しよう・・・叫び続けて10年。定年まで叫び続け、交渉を繰り返しながら、遂に実現しませんでした。
★ この間、私の研究室でゼミ参加者が午後10時を過ぎているのに勉強を続けていることが大問題になりました。困惑した顔で私の前に現れた事務局長の言葉が忘れられません。
「先生、専攻主任は管理職です。学校管理にご協力いただきませんと・・・・・」
「学生が時を忘れて研究に没頭している。それがいけないのですか」
「いや、研究は結構です。大いにやっていただきたい。しかし、学校施設は決まりにより午後8時閉鎖となっております」
「教育、研究に没頭している教師・学生を追い出す。それは教育環境の破壊ではありませんか」
「いや、一応、きそくですから・・・規則を守っていただかないと・・・・」
「工場ならそれでいいです。でも、学校です。学校管理は教育環境を良くする方向でやっていただかないと」
★ 同じやりとりが、何度も繰り返されました。そして回数が増えるたびに、私と、学校設置者との信頼関係は希薄になりました。でも、専攻所属教員は、大方が私の教育方針に同調してくれました。しかし、心ある若い教員たちが組合を結成し、教育環境改善を要求し始めると、状況は、ガラリと変わりました。
「先生、若い教員を善導していただかないと・・・・」
その一語で、それまで仲良く、何でも率直にハラを割って話していた事務局長との亀裂は深まりました。
★ この証言を書きながら、コメントしておかなければなりません。この追憶記で、問題にしている状況は、この学校だけのことではなく、今では、国公立大学を含めて、多くの学校に共通するゆゆしい問題です。もし、私が、この短大でなく、ほかの短大で教えることになっていたとしても、多分、同じ主張をし、改善されなかったら、同じ”闘争”を始めなければならなかったでしょう。
★ いまや、どこの学校も、それこそ小学校から大学に到るまで、児童・生徒・学生が居残ることを禁じます。学校に集う子どもを追い払う。それで教育が出来るのか、どうか? このように、一旦、教育の初心を失ってしまうと、気がついた時には修復できないほど、教職員の教育モラルは低下しまっています。そのことが、教育を大きく阻む重大な問題であることに気づかないほどに感性もマヒしてしまいます。”手抜き教育”に、いい口実が出来た、と、知らぬ顔を決め込んでいるのではないか、と疑わざるを得ないこともママあります。
★ 私は、トラブルが起こる度に自分のゼミ生を学外に連れ出し、近所のレストランで食事やお茶を摂りながら研究雑談に耽ることが多くなりました。教室ではなく、回転寿司で勉学意欲を刺激するコトもしょっちゅうです。教室とは違って気楽な会話の中で次への取り組みが話題になり、盛り上がります。これは、これで非常に意味があった、と思います。
★ しかし、ただ、建物管理の都合だけを理由に夕刻以降翌朝まで、一切、教員・学生を寄せ付けない学校とはなにか? この異常さが異常と思わない学校設置者、教員、学生が圧倒的に多いことも気になります。何故、私は、それを神経質なまでに憂慮するのか? それでは大学本来の研究は成立しないのです。よい教育は、よい研究によって担保されます。よい研究は時を忘れた没頭から生まれます。「遅くまで残ってもらっては困る」では、大学・短大は、社会が期待する水準を維持できないのです。
★ 自分の教育を大村先生の実践に学びながら進めようとした私は、結局、この学校に勤めた10年間、その教育実践確保に闘い続けねばなりませんでした。閉鎖されて利用できない必要な図書は、私の研究室に置いて学生が自由に利用できるような工夫もしました。が、退職時、その図書を返還したところ、紛失図書の弁済を、とかなりの額の弁償金を退職金から差し引かれました。闘争のツケはいろんな場面で支払わねばなりませんでした。信念を貫く教育を行うにはコストがかかることも身をもって知りました。
====== 浸り抜いた教育のかなたに ======
★ このように非常に困難な学習・研究環境に置かれた中で、私の最後の第9期ゼニ・ゼミ生は、連日夜10時、11時まで研究に没頭しました。学校管理者とはトラブルが絶えませんでしたが、私たちは、研究室で学び浸り、教え浸りました。パソコンを使わざるを得ない私のゼミでは、学外に出て研究を行うことは不可能でした。
★ 苦しい生活費に事欠きながら、「アルバイトなど止めろ」と怒鳴った私に従い、連日、研究室に籠もったこの学生たちを私は、終生の誇りとします。第9期ゼニ・ゼミ生・・・卒業した後も、今なお、堅い同志の絆で結ばれています。
★ その教え子たちから、メールや電話がかかってきます。
「食い逃げの○○です」
思わず口元が綻びます。回転寿司でのゼミ懇談の後、別れ際に口にした言葉、学生たちの間ではかなり評判になりました。
「いいか、今日、寿司食ったヤツは絶対に食い逃げ、許さない。食い逃げしたヤツには”ゼニ祟り”が待ってるゾ」
そして私は、学生たちがゼミに姿を見せないと、「食い逃げは許さん」と呼びつけるのが常でした。
「先生、分かりますか? ◎▼◇です」
「おお忘れない。出来の悪いのホド可愛いもんじゃ。元気?」
★ 隠居の身、私は、この教え子たちに囲まれて、実に楽しい至福の日々を過ごしています。
優、劣を忘れ、ただ学び浸り、教え浸って築き上げた同志の絆。
この教え子たちは、もう10年も前から、毎年、私の誕生日に寄り集い、祝いの会を開いてくれます。うれしいのは既に小学生子どもを連れて一家揃って参加してくれること。「センセ」 幼い児童が私に語りかける口調を聞いて、また感じ取る至福の思い。子どもは正直です。その表情の奥に親の私への思いが透視されます。
★ そうだね、みんな! 今こそ確かめ合おう、学問の自由を求めて、共に苦闘を越えて培った同志の絆。
学び浸り、教え浸った末、今ある私たちのこの幸福。今こそ、共に称えよう。大村はま先生の偉大な教育論の真実を噛みしめよう。どのような試練にたたされようと、揺るぎない教育の真実。
共に学び浸り、教え浸る。その優、劣を越えて
私たちは、毎年、集い、我らを育ててくれた高梁市の母校を懐かしんでいます。苦闘の怨念を超えて。 【志縁が結んだ同志の絆】
【参考】
【未来を拓く教育】(Ⅰ)へ続く
★ 素人のにわか教員が最初、頭をかかえたのは、教授法でした。何を教えるか、は比較的容易です。私の場合は、目の前の学生が何を求めているのか。それが掴めた瞬間、眼からウロコが取れました。問題は、どう教えるか? これも難問ですが、結論を言えば、時と場合によって人様々。ウマが合う、合わないを含めて正解はありません。大切なのは教職の身の心構え。その方がより大事だと思います。
★ 教師たる者、教育にたずさわる心構えはどうあるべきか? いろんな先駆者の実践記録を勉強しました。結局、コレだ!と、心に響いたのは大村はま先生です。教育関係者の方ならどなたでも,既にご存じの大先達。1928年(昭和3)年に東京女子大学を卒業されると同時に長野県諏訪高等女学校へ奉職。以来 1980(昭和55)年の退職まで52年間もの長い期間を一貫して公立中学校教諭を続け、”100年に一人の偉大な国語教師”(波多野完治)と絶賛された方です。教育界で、大村はま先生を知らない教師はいないでしょう。
★ 昨年4月、96歳の長寿を全うされましたが、先生の教育とはどのようなものであったか? 私は、先生が亡くなられる1週間前に書かれた遺作散文詩『優劣のかなたに』、とりわけ最後の結び3行に、そのすべてが凝縮されていると思います。それは、【学びひたり / 教えひたろう / 優劣のかなたで】(全文は、最後の【参考】に掲載しました)
★ ただ単に学ぶのではない。全身全霊を集中して学ぶ。ただ単に教えるのではない。力の限りを尽くしてひたすら教える。できる、できない。優か、劣か。そんなことは全く問題ではない。教師も、生徒も、共に無我の境地にひたりきっている”生”の営み。そんな姿が目に浮かんできます。重厚な実践が絞り出した珠玉の言葉ですね。
★ 現在、若い親たちは教育論に熱心です。ただ、我が子を通して、教師・学校が、何を、どう教えるのか? ハウツー論議、それも批判精神旺盛な軽評論ばかりです。本当は、そんな議論よりも、親も、教師も、等しく、子どもを前にして、【《自らの情念》をたぎらせて、共に《教え・学ぶ》実践】こそ大切です。現在の教育は、それを見失っています。
★ ちょっと、脇道に逸れますが、先生は生前、「大村はま国語教室」全15巻別巻1(筑摩書房)、「大村はまの国語教室 1-3」(小学館)、「教室をいきいきと 1-3」(筑摩書房)、「授業を創る」「教室に魅力を」(ともに国土社)などの著書と他に類例をみない独創的な「単元学習」実践資料約500点、学習記録約2000冊、及び、指導記録・指導資料類、更に実践・研究のため収集された文献6300冊などすべてを鳴門教育大学に寄贈されました。
★ 現在、同大学図書館に「大村はま文庫」として大切に保管されています。この大学は現職教員の再教育施設(修士課程)です。教育不毛が心配されている今日、特に若い先生方にジックリと大村先生の独創教育を学んでいただきたいと願います。
====== 意欲をもぎ取る学校管理システム ======
★ さて、本論に戻りましょう。新聞社を定年退職後、暫くして、私は、岡山・高梁市にある短期大学で、新たに制度化された「介護福祉士」の養成に当たることになりました。平成元年4月、保健科に新たに保健福祉専攻を設け、その主任教授に就任した私は、初めての「職業専門教育」に携わることになりました。短大は、それまで馴染んできた大学とは全く異なる教育機関でした。
★ 卒業と共に「介護福祉士」という国家資格を与えるこのコースは、施設・教員構成・カリキュラムのすべてを厚生労働省が許認可の権限を握っている学校です。文部科学省所管の短大でありながら、実質的な教育に関わる許認可、監督権は厚生労働省。何とも不可思議な国家による二重管理構造です。一番の問題は、カリキュラム編成の自由は殆どありません。授業計画の殆どは、厚生労働省の定める設置基準に基づき、雁字搦めになっています。一言で言って、すべて必修の規格授業です。
★ ここでは、国家資格に関わる教育制度の諸問題を論じるつもりはありませんので、これ以上は言及しませんが、”職業専門教育”は徹底した”詰め込み教育”です。毎日、朝から晩までビッシリ詰まった授業は、すべて必修です。そして夏、冬の休暇は、殆ど実習に費やされます。文部科学省はゆとりある休業を指導し、厚生労働省はこの実習強化を要求します。「学問の自由」など論ずる教員はいません。雰囲気がガラリと変わりました。
★ 全員が介護福祉士になる。その目的意識は実にはっきりしています。さらに、短大の学生たちは疑うことを知りません。「先生の仰ることをよく聞いて勉強する」と言う実に素直な18歳~20歳。これには驚きました。実にマジメによく勉強します。しかし、高い授業料と下宿の生活費。多くの学生はアルバイトをしなければ学業が継続できない者が多いのです。へとへとになり、息切れするものが続出します。
★ さて・・・教師たるもの、どう、学生と接するか? 私は、とにかく、既に大阪市立大学で実行済み、その手応え十分の自信を得ていた大村はま先生の実践をまねることにしました。
「優か 劣か それは、どうでもいい。それを超えて、お互い、学び浸り、教え浸ろう。この学園で・・・」
★ 先ず、銭本研究室報『志縁・知縁』を発行し、
「研究室を学生たちに全面開放する、何時でも自由に訪問を」
と伝え、私の学生たちに対する想いを掲げました。
訪れる人に喜びと幸いを Joy & happiness upon those who visit
去りゆく人に希望と大志を Hope & aspiration upon those who leave
それは、私が、その学校で開始する教育への決意を学生たちに送るメッセージでした。
★ 思い返せば、私は、実にナイーブでした。学校は、”学び浸り、教え浸る”そのような自由な教育を歓迎してくれる、と思いこんでいました。それまで慣れ親しんだ大阪市立大学は深夜まで学園内は煌々と電気が点っていました。どの研究室も、思う存分、研究に没頭出来ましたし、学生のゼミも、場合によっては夜を通して白熱した討論が繰り広げられることも多々、ありました。
===== 教育の自由獲得のための闘争 =====
★ ところが、この学校で授業を始めた途端、私は、思わぬ壁に突き当たりました。この学校は、朝はともかく、午後は6時になると閉門、午後8時には全校舎の出入り口が閉ざされ、消灯します。 一番、大切な図書館は午後5時に閉館。午後4時40分までは必修授業がビッシリ詰まっており、これでは学生たちは全く利用できません。
コトを始める前に、一体、学校とは何か? その根本を問いたださざるを得ない教育環境です。
★ 学校管理者との長い、交渉が始まりました。驚かれるかも知れません。それは、その学校を退職するまで10年間、続きました。学生たちのゼミ研究に全教員の研究室を開放しよう、図書館の開館時間を延長しよう、教室利用を午後11時まで延長しよう・・・叫び続けて10年。定年まで叫び続け、交渉を繰り返しながら、遂に実現しませんでした。
★ この間、私の研究室でゼミ参加者が午後10時を過ぎているのに勉強を続けていることが大問題になりました。困惑した顔で私の前に現れた事務局長の言葉が忘れられません。
「先生、専攻主任は管理職です。学校管理にご協力いただきませんと・・・・・」
「学生が時を忘れて研究に没頭している。それがいけないのですか」
「いや、研究は結構です。大いにやっていただきたい。しかし、学校施設は決まりにより午後8時閉鎖となっております」
「教育、研究に没頭している教師・学生を追い出す。それは教育環境の破壊ではありませんか」
「いや、一応、きそくですから・・・規則を守っていただかないと・・・・」
「工場ならそれでいいです。でも、学校です。学校管理は教育環境を良くする方向でやっていただかないと」
★ 同じやりとりが、何度も繰り返されました。そして回数が増えるたびに、私と、学校設置者との信頼関係は希薄になりました。でも、専攻所属教員は、大方が私の教育方針に同調してくれました。しかし、心ある若い教員たちが組合を結成し、教育環境改善を要求し始めると、状況は、ガラリと変わりました。
「先生、若い教員を善導していただかないと・・・・」
その一語で、それまで仲良く、何でも率直にハラを割って話していた事務局長との亀裂は深まりました。
★ この証言を書きながら、コメントしておかなければなりません。この追憶記で、問題にしている状況は、この学校だけのことではなく、今では、国公立大学を含めて、多くの学校に共通するゆゆしい問題です。もし、私が、この短大でなく、ほかの短大で教えることになっていたとしても、多分、同じ主張をし、改善されなかったら、同じ”闘争”を始めなければならなかったでしょう。
★ いまや、どこの学校も、それこそ小学校から大学に到るまで、児童・生徒・学生が居残ることを禁じます。学校に集う子どもを追い払う。それで教育が出来るのか、どうか? このように、一旦、教育の初心を失ってしまうと、気がついた時には修復できないほど、教職員の教育モラルは低下しまっています。そのことが、教育を大きく阻む重大な問題であることに気づかないほどに感性もマヒしてしまいます。”手抜き教育”に、いい口実が出来た、と、知らぬ顔を決め込んでいるのではないか、と疑わざるを得ないこともママあります。
★ 私は、トラブルが起こる度に自分のゼミ生を学外に連れ出し、近所のレストランで食事やお茶を摂りながら研究雑談に耽ることが多くなりました。教室ではなく、回転寿司で勉学意欲を刺激するコトもしょっちゅうです。教室とは違って気楽な会話の中で次への取り組みが話題になり、盛り上がります。これは、これで非常に意味があった、と思います。
★ しかし、ただ、建物管理の都合だけを理由に夕刻以降翌朝まで、一切、教員・学生を寄せ付けない学校とはなにか? この異常さが異常と思わない学校設置者、教員、学生が圧倒的に多いことも気になります。何故、私は、それを神経質なまでに憂慮するのか? それでは大学本来の研究は成立しないのです。よい教育は、よい研究によって担保されます。よい研究は時を忘れた没頭から生まれます。「遅くまで残ってもらっては困る」では、大学・短大は、社会が期待する水準を維持できないのです。
★ 自分の教育を大村先生の実践に学びながら進めようとした私は、結局、この学校に勤めた10年間、その教育実践確保に闘い続けねばなりませんでした。閉鎖されて利用できない必要な図書は、私の研究室に置いて学生が自由に利用できるような工夫もしました。が、退職時、その図書を返還したところ、紛失図書の弁済を、とかなりの額の弁償金を退職金から差し引かれました。闘争のツケはいろんな場面で支払わねばなりませんでした。信念を貫く教育を行うにはコストがかかることも身をもって知りました。
====== 浸り抜いた教育のかなたに ======
★ このように非常に困難な学習・研究環境に置かれた中で、私の最後の第9期ゼニ・ゼミ生は、連日夜10時、11時まで研究に没頭しました。学校管理者とはトラブルが絶えませんでしたが、私たちは、研究室で学び浸り、教え浸りました。パソコンを使わざるを得ない私のゼミでは、学外に出て研究を行うことは不可能でした。
★ 苦しい生活費に事欠きながら、「アルバイトなど止めろ」と怒鳴った私に従い、連日、研究室に籠もったこの学生たちを私は、終生の誇りとします。第9期ゼニ・ゼミ生・・・卒業した後も、今なお、堅い同志の絆で結ばれています。
★ その教え子たちから、メールや電話がかかってきます。
「食い逃げの○○です」
思わず口元が綻びます。回転寿司でのゼミ懇談の後、別れ際に口にした言葉、学生たちの間ではかなり評判になりました。
「いいか、今日、寿司食ったヤツは絶対に食い逃げ、許さない。食い逃げしたヤツには”ゼニ祟り”が待ってるゾ」
そして私は、学生たちがゼミに姿を見せないと、「食い逃げは許さん」と呼びつけるのが常でした。
「先生、分かりますか? ◎▼◇です」
「おお忘れない。出来の悪いのホド可愛いもんじゃ。元気?」
★ 隠居の身、私は、この教え子たちに囲まれて、実に楽しい至福の日々を過ごしています。
優、劣を忘れ、ただ学び浸り、教え浸って築き上げた同志の絆。
この教え子たちは、もう10年も前から、毎年、私の誕生日に寄り集い、祝いの会を開いてくれます。うれしいのは既に小学生子どもを連れて一家揃って参加してくれること。「センセ」 幼い児童が私に語りかける口調を聞いて、また感じ取る至福の思い。子どもは正直です。その表情の奥に親の私への思いが透視されます。
★ そうだね、みんな! 今こそ確かめ合おう、学問の自由を求めて、共に苦闘を越えて培った同志の絆。
学び浸り、教え浸った末、今ある私たちのこの幸福。今こそ、共に称えよう。大村はま先生の偉大な教育論の真実を噛みしめよう。どのような試練にたたされようと、揺るぎない教育の真実。
共に学び浸り、教え浸る。その優、劣を越えて
私たちは、毎年、集い、我らを育ててくれた高梁市の母校を懐かしんでいます。苦闘の怨念を超えて。 【志縁が結んだ同志の絆】
【参考】
『優劣のかなたに』 大村 はま
優か 劣か
そんなことが 話題になる,
そんなすきまのない
つきつめた。
持てるものを
持たせられたものを
出し切り,
生かし切っている
そんな姿こそ。
優か劣か,
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか,
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れている。
思うすきまもなく
学びひたり
教えひたっている,
そんな世界を
見つめてきた。
一心に 学びひたり
教えひたる,
それは 優劣のかなた。
ほんとうに 持っているものを生かし,
授かっているものに目覚め,
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない,
優劣を忘れて
持っているものを出し切っている。
できるできないを
気にしすぎていて,
持っているものが
出し切れていないのではないか。
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。
成績をつけなければ,
合格者をきめなければ,
それはそれだけの世界。
それがのり越えられず,
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。
学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。
【未来を拓く教育】(Ⅰ)へ続く
by zenmz
| 2006-05-11 22:01
| にわか教師の教育実践