2006年 05月 19日
【6133】 草にあらず、人にあらず、木にあらず |
★ 今日も又、朝から雨。どんよりと、低く垂れ込めている鉛色の空は今日一日、晴れそうにありません。なす事もなく、先ほどから この陶芸を前にして、背後に横たわる重厚な物語を思い起こしています。これは、55年前、二十歳の学生だった私に、かの日本陶芸界の巨匠・河井寛次郎先生が直接、下さった作品です。
★ その話をすると、どなたもビックリ。「どうしてあんたが・・・?」と、怪訝な顔を向けられます。当然です。当時、既に河井先生は、『世界のカワイ』 国際美術界に揺らぎない地位を築き上げておられました。そんな巨匠の元に二十歳の学生がどうして気安く出入り出来たのか?
★ 当時、河井先生は、今、先生のお名前を冠した記念館がある京都・五条坂に窯を構えておられました。その頃、私は、アグネス・アレキザンダー先生というアメリカの老婦人から懇篤なご指導をいただいておりました。
★ 既に76歳。ちょうど私の今と同年齢でしたが、二十歳の日本人青年に懇切・丁寧に諸宗教が文明社会に果たす役割の大きさ、そして既存3大宗教が表面的相違を乗り越えて、「世界は一つ、神は一つ」の認識の元、分断した東西両世界融和の必要を説かれました。
アレキザンダー先生は鈴木大拙先生とも深い親交があった偉大な宗教家だったのです。
★ アレキザンダー先生は、私をいつも"my dear"とか、"my son"と呼んで慈しんで下さいました。先生の祖父であられるアレキザンダー教授は、アメリカ本土からハワイにキリスト教を伝えた宣教師でハワイでは知らぬ人はないほど有名な家系のご出身です。
★ そんな名家の方が、京都・大徳寺の脇にあった6畳一間の下宿に住み、東西和合の宗教を説いておられたこと自体、おどろくべきことでした。アメリカの日本占領が終わったばかり。アメリカ人と言えば、雲上人と思えた時代でした。その時代に市電で移動なさっていました。
★ 大正時代に来日された先生は、京都で幅広い交際がありました。そして、私に屡々、そうした友人たちに先生の手紙を届けるよう依頼されました。電話など普通の家庭には無かった時代です。勿論、宅急便などありません。郵便は速達でも二日かかる時代のことです。先生のメッセンジャー・ボーイとして、その都度、京都市内を動き回りました。が、それは、先生の暖かい”仕掛け”であったのです。私に、その方々の知遇を得させるためであったのです。
★ 大徳寺や相国寺、それに知恩院・・・お寺が多かったですが、事実、どこへ伺っても、「アグネスの弟子? まあ上がりなさい」と歓迎されました。が、お寺はやはり”苦手”でした。足繁く、出入りしたのは、五条坂の河井先生のお宅でした。河井先生は、いつも私を自室に招き入れ、アレクザンダー先生とのお二人の交際などをお話下さいました。
★ それを何度か繰り返したある日、そこで私は偉大な英国の陶芸家バナード・リーチ先生に引き合わされました。しかし、私は、本当に無粋・無教養で、陶芸の世界など全く関心が無かったので、お二人の会話は聞き流しておりました。無教養は哀しいものです。文字通り、千載一遇のチャンス、全く、勿体ないことをしたと悔やまれます。
★ でも、その後、「お茶を進ぜよう」と河井先生のお招きで、リーチ先生と二人、お茶をいただきました。その時の会話が忘れられません。河井先生は、リーチ先生の横に私を座らせて、こうつぶやかれたのです。
「茶とはなんぞや」
★ 何のことか? 私は、ただ戸惑うばかり・・・・先生のお顔に目を向けたものの出すべき声がありません。
すると、何とも流暢な日本語で、リーチ先生がお答えになりました。
「草に非ず、人に非ず、木に非ず」・・・・・「茶」!
それ、と、気付いて、ポカンとしている私を見て、お二人は楽しそうに笑われました。
★ 正直、その時、私は、からかわれたと思い、不愉快になりました。戻るなり、アレクザンダー先生にその話をしましたら、「そうなのョ、あの二人、いつも、そんな会話を楽しんでいるノ」 それが、”文人”たちの優雅な時の過ごし方であった、と、気付いたのは、その後、随分、時を経てからでした。
★ それから数年後、リーチ先生は、秘書のジャネットさんと結婚され、私も結婚して、妻共々、暫くリーチ先生ご夫妻と交流させて頂きました。勿論、アレキザンダー先生共々です。1950年代の後半でした。心の満たされた、想い出がいっぱいです。
★ それにつけても・・・今、感じ入ること。私の二十歳を語ると、先ず、何よりも飢餓を想います。「飢餓」は「空腹」ではありません。何でも、口にするものがあれば、ガツガツと食べたい、その強い衝動が抑えられない状態です。そんな暗い時代に、何と私は恵まれた人脈に包まれていたことか!
その僥倖を想わずにはいられません。
★ 既にご紹介しました恩師、平賀春三先生、ゼミの今井仙一先生、英語のバートン・ワトソン先生、憲法学者・田畑忍先生、それに点字の恩師・鳥居篤次郎先生(京都市名誉市民) そして、河井寛次郎先生とバナード・リーチ先生。アグネス・アレキザンダー先生・・・・今、思い出しても、勿体ないほど偉大な先生のご薫陶を授かって、私は、育ちました。
★ この方々との出会いは、昭和27年から29年。私が二十歳前後の頃、”我が飢餓の時代”の出会い!
豊かな時代の今日では、絶対に望めない希有の出会いであったと思います。本当に僥倖続きの学生時代でありました。
★ 中でも、アレキザンダー先生は、私が結婚した後も年末年始には我が家で過ごし、とくに長男を可愛がって下さいました。
★ その長男も今は、49歳、「アレキさんの婆ちゃん、良く覚えている」と言います。子どもたちにとっては、”アレキさん”というアメリカの優しいおばあさんでした。が、「太平洋の母」との信望を集めておられる生涯独身の方でした。
★ それからずっと後の話。
今度は、新聞記者として、河井先生と対座した時、先生が仰ったことが蘇ります。
「銭本君、大原美術館がね、私とリーチ、それに富本、浜田の作品を並べて陶器館を創ることになりましたよ」
大原美術館は、この吉備高原都市から車で僅か1時間。そうだ、身近におられた・・・妙に両先生を生々しく偲ばれる気持ちになっています。
★ その話をすると、どなたもビックリ。「どうしてあんたが・・・?」と、怪訝な顔を向けられます。当然です。当時、既に河井先生は、『世界のカワイ』 国際美術界に揺らぎない地位を築き上げておられました。そんな巨匠の元に二十歳の学生がどうして気安く出入り出来たのか?
★ 当時、河井先生は、今、先生のお名前を冠した記念館がある京都・五条坂に窯を構えておられました。その頃、私は、アグネス・アレキザンダー先生というアメリカの老婦人から懇篤なご指導をいただいておりました。
★ 既に76歳。ちょうど私の今と同年齢でしたが、二十歳の日本人青年に懇切・丁寧に諸宗教が文明社会に果たす役割の大きさ、そして既存3大宗教が表面的相違を乗り越えて、「世界は一つ、神は一つ」の認識の元、分断した東西両世界融和の必要を説かれました。
アレキザンダー先生は鈴木大拙先生とも深い親交があった偉大な宗教家だったのです。
★ アレキザンダー先生は、私をいつも"my dear"とか、"my son"と呼んで慈しんで下さいました。先生の祖父であられるアレキザンダー教授は、アメリカ本土からハワイにキリスト教を伝えた宣教師でハワイでは知らぬ人はないほど有名な家系のご出身です。
★ そんな名家の方が、京都・大徳寺の脇にあった6畳一間の下宿に住み、東西和合の宗教を説いておられたこと自体、おどろくべきことでした。アメリカの日本占領が終わったばかり。アメリカ人と言えば、雲上人と思えた時代でした。その時代に市電で移動なさっていました。
★ 大正時代に来日された先生は、京都で幅広い交際がありました。そして、私に屡々、そうした友人たちに先生の手紙を届けるよう依頼されました。電話など普通の家庭には無かった時代です。勿論、宅急便などありません。郵便は速達でも二日かかる時代のことです。先生のメッセンジャー・ボーイとして、その都度、京都市内を動き回りました。が、それは、先生の暖かい”仕掛け”であったのです。私に、その方々の知遇を得させるためであったのです。
★ 大徳寺や相国寺、それに知恩院・・・お寺が多かったですが、事実、どこへ伺っても、「アグネスの弟子? まあ上がりなさい」と歓迎されました。が、お寺はやはり”苦手”でした。足繁く、出入りしたのは、五条坂の河井先生のお宅でした。河井先生は、いつも私を自室に招き入れ、アレクザンダー先生とのお二人の交際などをお話下さいました。
★ それを何度か繰り返したある日、そこで私は偉大な英国の陶芸家バナード・リーチ先生に引き合わされました。しかし、私は、本当に無粋・無教養で、陶芸の世界など全く関心が無かったので、お二人の会話は聞き流しておりました。無教養は哀しいものです。文字通り、千載一遇のチャンス、全く、勿体ないことをしたと悔やまれます。
★ でも、その後、「お茶を進ぜよう」と河井先生のお招きで、リーチ先生と二人、お茶をいただきました。その時の会話が忘れられません。河井先生は、リーチ先生の横に私を座らせて、こうつぶやかれたのです。
「茶とはなんぞや」
★ 何のことか? 私は、ただ戸惑うばかり・・・・先生のお顔に目を向けたものの出すべき声がありません。
すると、何とも流暢な日本語で、リーチ先生がお答えになりました。
「草に非ず、人に非ず、木に非ず」・・・・・「茶」!
それ、と、気付いて、ポカンとしている私を見て、お二人は楽しそうに笑われました。
★ 正直、その時、私は、からかわれたと思い、不愉快になりました。戻るなり、アレクザンダー先生にその話をしましたら、「そうなのョ、あの二人、いつも、そんな会話を楽しんでいるノ」 それが、”文人”たちの優雅な時の過ごし方であった、と、気付いたのは、その後、随分、時を経てからでした。
★ それから数年後、リーチ先生は、秘書のジャネットさんと結婚され、私も結婚して、妻共々、暫くリーチ先生ご夫妻と交流させて頂きました。勿論、アレキザンダー先生共々です。1950年代の後半でした。心の満たされた、想い出がいっぱいです。
★ それにつけても・・・今、感じ入ること。私の二十歳を語ると、先ず、何よりも飢餓を想います。「飢餓」は「空腹」ではありません。何でも、口にするものがあれば、ガツガツと食べたい、その強い衝動が抑えられない状態です。そんな暗い時代に、何と私は恵まれた人脈に包まれていたことか!
その僥倖を想わずにはいられません。
★ 既にご紹介しました恩師、平賀春三先生、ゼミの今井仙一先生、英語のバートン・ワトソン先生、憲法学者・田畑忍先生、それに点字の恩師・鳥居篤次郎先生(京都市名誉市民) そして、河井寛次郎先生とバナード・リーチ先生。アグネス・アレキザンダー先生・・・・今、思い出しても、勿体ないほど偉大な先生のご薫陶を授かって、私は、育ちました。
★ この方々との出会いは、昭和27年から29年。私が二十歳前後の頃、”我が飢餓の時代”の出会い!
豊かな時代の今日では、絶対に望めない希有の出会いであったと思います。本当に僥倖続きの学生時代でありました。
★ 中でも、アレキザンダー先生は、私が結婚した後も年末年始には我が家で過ごし、とくに長男を可愛がって下さいました。
★ その長男も今は、49歳、「アレキさんの婆ちゃん、良く覚えている」と言います。子どもたちにとっては、”アレキさん”というアメリカの優しいおばあさんでした。が、「太平洋の母」との信望を集めておられる生涯独身の方でした。
★ それからずっと後の話。
今度は、新聞記者として、河井先生と対座した時、先生が仰ったことが蘇ります。
「銭本君、大原美術館がね、私とリーチ、それに富本、浜田の作品を並べて陶器館を創ることになりましたよ」
大原美術館は、この吉備高原都市から車で僅か1時間。そうだ、身近におられた・・・妙に両先生を生々しく偲ばれる気持ちになっています。
by zenmz
| 2006-05-19 12:57
| 一期一会