2006年 07月 03日
【6180】 屈辱を超えて・・・涙の介護 & 【歴史との対話】(4) |
★ 今なお、暗澹たる思いに沈んで、キーボードを叩いています。今日の午後、若い教え子から涙のメールが飛び込んできました。
「先生、ごめんなさい。どうしようもなくって・・・聞いてください」
読むほどに、怒りが、こみ上げてきました。これは、是非、高齢者と呼ばれている人たちに是非、知ってもらわねばならない。出来るだけ多くの人々に・・・ただ、それを願い、世にアピールすることにしました。
★ 「新しく要介護認定を受けられた方の介護に出かけました。呼び鈴を押すと、インタホンで用件を聞かれ、介護に来ました、と言ったら、裏へ回って、と言われます。ちょっと変だな、とおもって勝手口から入ったんですけど、まあ、座って、と言われ、お話をききました」
★ 「息子さんが3人、みんな大学を出て、長男さんが文部科学省関係の課長補佐、次男、3男は大企業の幹部で忙しく、滅多に家に帰れない・・・・とにかく延々と子ども自慢を聞かされました。それは、いいんです。お年寄りの子ども自慢は、どこに行っても聞かされます。でも、このお年寄りはちょっと、度合いがひどいのです」
★ 子どもたちが如何に社会的に重要な仕事をしているか、を誇らしく語った後、
「だから、アンタに診てもらうの。だけど、お客さんじゃないから玄関から入らないで、勝手口を使ってね」
あまりにもしつれいなんでたまらなくなり、
「あのー、私、家政婦さんで来たんじゃないんですけど」
と、言ったら、
「掃除や洗濯をしてくれるんじゃないの」
と言われます。
「それは、お仕事の一つですから、必要ならします」
「先生、分かってもらえますか。ワタシ、もう我慢出来ない。でも、今日は、歯を食いしばって我慢しました。もう明日は、行きたくありません」
★ 私は、平成元年から平成15年までの15年間、短大で介護福祉士の養成をしました。今日、悩みを訴えて来たのは、その教え子の一人です。この子の悩みに、どう対処すべきか、
指導した具体的な内容は、ここでは触れません。ともかく、経験8年、ケア・マネジャーの試験もパスし、介護職場の第一線で後輩たちを指導する主任の地位にあります。話し合った結果、どんなに苦しくても、職業倫理に沿った解決を見いだす、新たな挑戦を自らに課しました。
★ 高齢になると、加齢に比例して心身に不自由を感じるようになります。それが一定の限界を超えると、介護が必要になります。誰でも心身障害が起これば、人のお世話にならなければならない。もともと、それは、誰がするのか? 家族がするのが本来の姿です。民法の扶養の義務は依然として生きています。
★ だが、息子・娘がいても、遠隔の地で自らの生活を築き、親が介護が必要になっても世話が出来ない。その矛盾を解決するために介護保険が出来て、〈社会全体が世代間扶養〉する、という新しい仕組みを作りました。介護保険制度で一番、利益を得るのは、高齢者ではありません。
都会に出ている息子・娘たちです。介護保険の第一の受益者は、要介護予備軍の親を持つ壮年者たちです。
★ なのに・・・・いくら息子・娘自慢としても、「うちの子どもたちは社会的に重要な地位にあり、親のメンドウまでみれない。それは、土地に残ったあんたたちの仕事」と言うようなバカ老人が出てきたのです。
お世話して頂く方に「裏口に回って」などとは!
★ 私は、卒業生の訴えを、ついに起こるべくして起こったモラル破壊。と思っています。
今から10年前、介護保険制度が制度化されることになり、我々、対人援助サービス関連の社会福祉領域の担当教員は、都道府県、市町村主催の啓蒙講演会に引っ張り出されていました。岡山県北部の小都市で行われた講演会で、一人の老人が質問と、意見を述べられたことを今、思い起こします。
★ その方の質問は、なぜ、都会に出て自分の親の面倒を診ない子どもたちの代わりに、村に残った者が、新たに保険料を出し、さらに村に残った若者が労力を提供しなければならないのか? せめて、都会にでたままで、自分の親を看ないものから特別徴収で必要経費を調達してはどうか? カネを出せ、労力も提供しろ、そして、都会に出た子どもたちには何の負担もかけない。そんな制度、保つとお思いですか?」
★ 「せめて、、市町村が都会にいる子どもたちを呼んで、親が介護が必要になった事実を告知し、どうするのか? 自分たちで世話をするのか? 公に依頼するのか? その意思を問いただしてはどうか? 公に依頼するならば、親の財産を市町村に寄託してもらい、亡くなられた時点で精算してはどうか?」
★ さらに、質問が出ました。「成年後見制度と言うものも出来て、痴呆性高齢者の財産を守ると言いますね。そのことはまあ、いいでしょう。必要だと思います。だが後見人選任に伴う費用を公費で賄う必要がありますか? 公費で守った財産、ご本人が亡くなれば、親の介護などまったくしたこともない息子・娘に渡るのです」
★ この方は、最後に、こう言われました。「何でもタダにすると、何もしない者が一番、得をする」
介護保険制度は、まさに、その通りになっています。
★ 田舎に住むまで、私は、田舎の人々の、心の深層を知りませんでした。学校を出て都会に出たのは、「優秀な人たち」 ある町長は、私にこう言いました。「過疎の本当の苦しみは、いい人材が出てしまったこと」と。 でも、現にある村は、その町長が”いい人材”と認めない残った人々が守り、作っているのです。その人々に向けて、”いい人材”の子を持った親たちは、常に鼻高に息子・娘の自慢話を語り続けてきました。そして今も語っているのです。
★ 高齢者の皆さん、一つ、冷酷な現実を知ってください。
半世紀前の高齢者と、今の高齢者は、全く違います。今の高齢者は豊かです。高い年金を貰っています。その高い年金は、例え重度の要介護になっても、息さえしておれば、生涯、受給が保証されます。特に公務員・教員だった皆さんは一般会社員より数段、高い年金を貰っています。
★ しかし、その人々を、24時間、介護している若い介護福祉士たちの給与は、ほとんど全員が皆さんの年金以下の給与なのです。国家資格を取り、10年の経験を積んだベテランと呼ばれる人でも皆さんの年金に達しない水準なのです。それでも「今の日本が、このような国であるのは、お年寄りの方々のお陰」と信じ、老後の幸福を、身を粉にしてたすけてくれる若者たちです。
★ 高齢者の皆さん、過酷な労働時間、3K仕事といわれるサービス内容、低い賃金・・・厳しい勤務条件など、若い介護福祉士の置かれている過酷な実態に目を向けて下さい。あなたの息子・娘に、そのような勤務に堪えられる精神の持ち主がどれだけいるでしょう?
★ 感謝の言葉を、とは、言いません。せめて、この若者たちを傷つける、蔑視の眼差しや、心ない言動を投げかけるのだけは慎みましょう。それが続くと、確実に、老人憎しの世代間抗争が起こります。介護労働と年金の”逆転現象”(介護される側の収入が介護する側の収入より多い)問題が表面化したら・・・きっと、それは爆発するでしょう。恐ろしいことです。
★ また、施設に親を預けたままで顔も見せない多くの息子や娘の皆さん、親御さんが亡くなられ、ご退所の折り、「貯金通帳は?」問いただし、広げて記載事項を吟味するような無礼は止めましょう。そのことが、どれだけ介護に当たってきた人々を落胆させるか。それも分からない、あなたの感性が、介護問題をどんどん悪くして行きます。
★ 私は、10年ほど前、岡山県北の小都市で予言されたお年寄りのご指摘を思い出しています。
「何でもタダにすると、何もしない者が一番、得をする」
****** 【7月3日:歴史との対話」(4) ******
小野妹子・遣隋使の派遣
★ やはり、確かめて、良かった。と、思いました。インフォシークの「今日は何の日」を見ると、「推古15(607)年の今日、 小野妹子、隋へ派遣される」となっています。聖徳太子の命により、日本の古代律令国家が初めて国書を携えた外交使節を時の大国・随にを送った故事が甦りました。遣隋使。あの有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々。)の挨拶で始まる国書、
★ 激怒した煬帝は、使者の小野妹子を捕らえ、危うく罰せられる寸前まで行ったが、その後、妹子は煬帝の家臣である斐世清を連れて帰国しました。 ところが、『日本書紀』は、小野妹子は、「煬帝からの返書は百済に盗まれて無くしてしまった」と報告した、と記録しています。小野妹子は、返書が、天皇を天子と認めず、「倭王」と呼び、属国扱いしていたので、天皇の怒りを買う事を恐れ、破棄してしまったのだろう、と言われています。まあ、お咎めもなく、次の年にはまた、遣隋使として派遣されています。
★ 国書を携えての初の使節・・・それは、607年の小野妹子による遣隋使。そのことは『日本書紀』にも正規に記録され学校でもそう教えています。私も、それを信じていました。しかし、小野妹子は、2回目で、第1回は、推古8(600)年に派遣されていたのです。この頃まだ倭国は、外交儀礼に疎く、国書も待たず使節をおくりました。そのことは、『日本書紀』には記されておらず、『隋書』「東夷傳」に「600年(推古8)の高祖文帝の問いに倭国の遣使が答えた」と、謁見の様子を伝えています。
★「高祖は所司を通じて倭国の風俗を尋ねさせた。使者は倭王を「姓は、阿毎(アメ) 多利思比孤(タラシヒコ) 号を「阿輩彌(オホキミ)」と述べた」 つまり日本の天子は、アメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)と、説明したと言うのですね。
★ 遣隋使は、結局、推古8(600)年から推古26(618)年までの18年間に5回、派遣されているのですね。大阪・難波津を経て瀬戸内海を九州へ向かい、そこから玄界灘に出る。1400年前、日本の対外海路は、唯一、瀬戸内海横断航路でした。万葉集の秀歌は、この航路沿いに生まれています。
★ ともかく、5世紀に、中国南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王の中国従属に終止符を打つ、新律令国家の独立宣言に類する外交の幕開けでした。国際社会のおいて、独り立ちする日本の姿を世界にアピールした最初の出来事。聖徳太子の意気込みを感じます。
「先生、ごめんなさい。どうしようもなくって・・・聞いてください」
読むほどに、怒りが、こみ上げてきました。これは、是非、高齢者と呼ばれている人たちに是非、知ってもらわねばならない。出来るだけ多くの人々に・・・ただ、それを願い、世にアピールすることにしました。
★ 「新しく要介護認定を受けられた方の介護に出かけました。呼び鈴を押すと、インタホンで用件を聞かれ、介護に来ました、と言ったら、裏へ回って、と言われます。ちょっと変だな、とおもって勝手口から入ったんですけど、まあ、座って、と言われ、お話をききました」
★ 「息子さんが3人、みんな大学を出て、長男さんが文部科学省関係の課長補佐、次男、3男は大企業の幹部で忙しく、滅多に家に帰れない・・・・とにかく延々と子ども自慢を聞かされました。それは、いいんです。お年寄りの子ども自慢は、どこに行っても聞かされます。でも、このお年寄りはちょっと、度合いがひどいのです」
★ 子どもたちが如何に社会的に重要な仕事をしているか、を誇らしく語った後、
「だから、アンタに診てもらうの。だけど、お客さんじゃないから玄関から入らないで、勝手口を使ってね」
あまりにもしつれいなんでたまらなくなり、
「あのー、私、家政婦さんで来たんじゃないんですけど」
と、言ったら、
「掃除や洗濯をしてくれるんじゃないの」
と言われます。
「それは、お仕事の一つですから、必要ならします」
「先生、分かってもらえますか。ワタシ、もう我慢出来ない。でも、今日は、歯を食いしばって我慢しました。もう明日は、行きたくありません」
★ 私は、平成元年から平成15年までの15年間、短大で介護福祉士の養成をしました。今日、悩みを訴えて来たのは、その教え子の一人です。この子の悩みに、どう対処すべきか、
指導した具体的な内容は、ここでは触れません。ともかく、経験8年、ケア・マネジャーの試験もパスし、介護職場の第一線で後輩たちを指導する主任の地位にあります。話し合った結果、どんなに苦しくても、職業倫理に沿った解決を見いだす、新たな挑戦を自らに課しました。
★ 高齢になると、加齢に比例して心身に不自由を感じるようになります。それが一定の限界を超えると、介護が必要になります。誰でも心身障害が起これば、人のお世話にならなければならない。もともと、それは、誰がするのか? 家族がするのが本来の姿です。民法の扶養の義務は依然として生きています。
★ だが、息子・娘がいても、遠隔の地で自らの生活を築き、親が介護が必要になっても世話が出来ない。その矛盾を解決するために介護保険が出来て、〈社会全体が世代間扶養〉する、という新しい仕組みを作りました。介護保険制度で一番、利益を得るのは、高齢者ではありません。
都会に出ている息子・娘たちです。介護保険の第一の受益者は、要介護予備軍の親を持つ壮年者たちです。
★ なのに・・・・いくら息子・娘自慢としても、「うちの子どもたちは社会的に重要な地位にあり、親のメンドウまでみれない。それは、土地に残ったあんたたちの仕事」と言うようなバカ老人が出てきたのです。
お世話して頂く方に「裏口に回って」などとは!
★ 私は、卒業生の訴えを、ついに起こるべくして起こったモラル破壊。と思っています。
今から10年前、介護保険制度が制度化されることになり、我々、対人援助サービス関連の社会福祉領域の担当教員は、都道府県、市町村主催の啓蒙講演会に引っ張り出されていました。岡山県北部の小都市で行われた講演会で、一人の老人が質問と、意見を述べられたことを今、思い起こします。
★ その方の質問は、なぜ、都会に出て自分の親の面倒を診ない子どもたちの代わりに、村に残った者が、新たに保険料を出し、さらに村に残った若者が労力を提供しなければならないのか? せめて、都会にでたままで、自分の親を看ないものから特別徴収で必要経費を調達してはどうか? カネを出せ、労力も提供しろ、そして、都会に出た子どもたちには何の負担もかけない。そんな制度、保つとお思いですか?」
★ 「せめて、、市町村が都会にいる子どもたちを呼んで、親が介護が必要になった事実を告知し、どうするのか? 自分たちで世話をするのか? 公に依頼するのか? その意思を問いただしてはどうか? 公に依頼するならば、親の財産を市町村に寄託してもらい、亡くなられた時点で精算してはどうか?」
★ さらに、質問が出ました。「成年後見制度と言うものも出来て、痴呆性高齢者の財産を守ると言いますね。そのことはまあ、いいでしょう。必要だと思います。だが後見人選任に伴う費用を公費で賄う必要がありますか? 公費で守った財産、ご本人が亡くなれば、親の介護などまったくしたこともない息子・娘に渡るのです」
★ この方は、最後に、こう言われました。「何でもタダにすると、何もしない者が一番、得をする」
介護保険制度は、まさに、その通りになっています。
★ 田舎に住むまで、私は、田舎の人々の、心の深層を知りませんでした。学校を出て都会に出たのは、「優秀な人たち」 ある町長は、私にこう言いました。「過疎の本当の苦しみは、いい人材が出てしまったこと」と。 でも、現にある村は、その町長が”いい人材”と認めない残った人々が守り、作っているのです。その人々に向けて、”いい人材”の子を持った親たちは、常に鼻高に息子・娘の自慢話を語り続けてきました。そして今も語っているのです。
★ 高齢者の皆さん、一つ、冷酷な現実を知ってください。
半世紀前の高齢者と、今の高齢者は、全く違います。今の高齢者は豊かです。高い年金を貰っています。その高い年金は、例え重度の要介護になっても、息さえしておれば、生涯、受給が保証されます。特に公務員・教員だった皆さんは一般会社員より数段、高い年金を貰っています。
★ しかし、その人々を、24時間、介護している若い介護福祉士たちの給与は、ほとんど全員が皆さんの年金以下の給与なのです。国家資格を取り、10年の経験を積んだベテランと呼ばれる人でも皆さんの年金に達しない水準なのです。それでも「今の日本が、このような国であるのは、お年寄りの方々のお陰」と信じ、老後の幸福を、身を粉にしてたすけてくれる若者たちです。
★ 高齢者の皆さん、過酷な労働時間、3K仕事といわれるサービス内容、低い賃金・・・厳しい勤務条件など、若い介護福祉士の置かれている過酷な実態に目を向けて下さい。あなたの息子・娘に、そのような勤務に堪えられる精神の持ち主がどれだけいるでしょう?
★ 感謝の言葉を、とは、言いません。せめて、この若者たちを傷つける、蔑視の眼差しや、心ない言動を投げかけるのだけは慎みましょう。それが続くと、確実に、老人憎しの世代間抗争が起こります。介護労働と年金の”逆転現象”(介護される側の収入が介護する側の収入より多い)問題が表面化したら・・・きっと、それは爆発するでしょう。恐ろしいことです。
★ また、施設に親を預けたままで顔も見せない多くの息子や娘の皆さん、親御さんが亡くなられ、ご退所の折り、「貯金通帳は?」問いただし、広げて記載事項を吟味するような無礼は止めましょう。そのことが、どれだけ介護に当たってきた人々を落胆させるか。それも分からない、あなたの感性が、介護問題をどんどん悪くして行きます。
★ 私は、10年ほど前、岡山県北の小都市で予言されたお年寄りのご指摘を思い出しています。
「何でもタダにすると、何もしない者が一番、得をする」
****** 【7月3日:歴史との対話」(4) ******
小野妹子・遣隋使の派遣
★ やはり、確かめて、良かった。と、思いました。インフォシークの「今日は何の日」を見ると、「推古15(607)年の今日、 小野妹子、隋へ派遣される」となっています。聖徳太子の命により、日本の古代律令国家が初めて国書を携えた外交使節を時の大国・随にを送った故事が甦りました。遣隋使。あの有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々。)の挨拶で始まる国書、
★ 激怒した煬帝は、使者の小野妹子を捕らえ、危うく罰せられる寸前まで行ったが、その後、妹子は煬帝の家臣である斐世清を連れて帰国しました。 ところが、『日本書紀』は、小野妹子は、「煬帝からの返書は百済に盗まれて無くしてしまった」と報告した、と記録しています。小野妹子は、返書が、天皇を天子と認めず、「倭王」と呼び、属国扱いしていたので、天皇の怒りを買う事を恐れ、破棄してしまったのだろう、と言われています。まあ、お咎めもなく、次の年にはまた、遣隋使として派遣されています。
★ 国書を携えての初の使節・・・それは、607年の小野妹子による遣隋使。そのことは『日本書紀』にも正規に記録され学校でもそう教えています。私も、それを信じていました。しかし、小野妹子は、2回目で、第1回は、推古8(600)年に派遣されていたのです。この頃まだ倭国は、外交儀礼に疎く、国書も待たず使節をおくりました。そのことは、『日本書紀』には記されておらず、『隋書』「東夷傳」に「600年(推古8)の高祖文帝の問いに倭国の遣使が答えた」と、謁見の様子を伝えています。
★「高祖は所司を通じて倭国の風俗を尋ねさせた。使者は倭王を「姓は、阿毎(アメ) 多利思比孤(タラシヒコ) 号を「阿輩彌(オホキミ)」と述べた」 つまり日本の天子は、アメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)と、説明したと言うのですね。
★ 遣隋使は、結局、推古8(600)年から推古26(618)年までの18年間に5回、派遣されているのですね。大阪・難波津を経て瀬戸内海を九州へ向かい、そこから玄界灘に出る。1400年前、日本の対外海路は、唯一、瀬戸内海横断航路でした。万葉集の秀歌は、この航路沿いに生まれています。
★ ともかく、5世紀に、中国南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王の中国従属に終止符を打つ、新律令国家の独立宣言に類する外交の幕開けでした。国際社会のおいて、独り立ちする日本の姿を世界にアピールした最初の出来事。聖徳太子の意気込みを感じます。
by zenmz
| 2006-07-03 00:03
| 歴史との対話