2006年 10月 09日
【6274】 捨てて、捨てて、人生「初期化」 |
★ 人間、アタマで行動するクセがつくと、物事が複雑になりすぎる。先日、書店で、目に飛び込んできた本を手にして思わず吹き出してしまいました。『捨てる技術』 何も技術なんて要るまいに・・・捨てるなら、捨てればいいじゃないか! 著者を拝見すると、無学な私も知っている学者さん。こんなテーマでも、書いて売れればゼニになる。文筆家っていい商売ですね。
★ 定年後、まる3年、私は、「身軽になる」を、老後人生再構築の生活信条にして来ました。身も、心も、身軽になる。その基本の基本は、「捨てることと見つけたり」、て、実践してきました。
何よりも先ず、捨てたのが蔵書。仕事や趣味、あるいは書評や友達との会話に煽られて”遅れてはならじ”と買い求めた諸々の書籍。時を経れば積んどくだけですが、なかなか捨てられない。それが山なしていました。それを、
「この1年、開かなかったものは無用、紙くずと同じだ、」
と割り切って捨てました。
★ 365日、一年中、我が家が生活の本拠となりますと、そこは、本当に”我が城”です。自分が住むのに一番、住みよいようにすればいい。私は、老後を身軽にしたいので、不要と思うものは、目に付き次第、捨ててきました。早い話、我が家には、昨日の新聞もありません。週遅れ、月遅れの雑誌もない。チラシ類も見たら紙くず箱。居間も、書斎も、何も置いてなくて、ガランとしています。よく訪ねてこられた方が「なぜ?」と仰るのですが、理屈はない、ただ、これが、身軽で、楽なのです。
★ 当初、私も、「捨てる」のに一番、こだわったのは本でした。一冊、一冊に思い入れがあります。手にすれば、なんとなく【貴重】に思える想念が甦ります。だが・・・・図書館に行けばもっとある。自分の手元に置かなくとも、身を運べば、何でもある。そう気づいた途端、拘りの黒雲が晴れました。
★ 必要な時には、我が身を運ぶ。博物、美術、芸術的調度品・・・我が持てるもののどれひとつ、取り上げてもこれに太刀打ちできる一品もありません。まがい物、ゲテモノ、すべて、お払い箱。夾雑物も随分、減りました。
★ 心の重荷は「柵」(しがらみ) 3年も経ちますと、これまでの仕事や社会生活の様々な場面で出来上がった”義理の柵(しがらみ)”も、かなり簡単に断ち切れるようになります。先ず冠婚葬祭。続いていわゆる「おつきあい」 中には、老後にこそ、これは必要、と、思うこともありますが、かなり身勝手に過ぎます。それを期待する根性がいけないと、惜しい柵も努めて切るようにして来ました。
今はかなり人為の無理なく、流れるままの自然体を願うようになっています。要するに我が”老”の身を束縛する「柵」(しがらみ)と意識すれば解く。
★ 今では日常が、かなり身軽になりました。人間自由に生きる為に、一番、大切なのはモノへの執着を断つこと。それを本当に実感したのは、今年の2月にまるまる一ヶ月、マレーシアのマラッカで過ごした時でした。老妻と二人、小さな旅行カバンをひとつずつ引っ提げて、出かけ、レンタル・アパートで過ごしたのですが、全く不自由はありませんでした。利用したアパートも3寝室、トイレ、シャワーが二つもあり、居間、食堂、台所完備で言うことなし。
★ 衛星テレビでNHKTVは見られるのですが、新聞、テレビは全部、シャットアウト。ニュースも無用で過ごしました。毎日、ニュースなしの生活。実にいいです。朝、起きて、夜、眠るまで、出会う人々との交流が実存の日常。生きて我ありの実感がヒシと伝わる生活です。つまらぬタテマエ、ネバナラヌ構え・・・・何も私に迫ってきません。不自由な言葉も、習い覚えた単語を非言語動作で補い、ホンネのインフォメーションを伝え合いながら過ごすナマの生の実感。ハダカです。
★ 『捨てる技術』・・・このような本を必要とする現代人。観念で生きるアタマでっかち人間の悲劇ですね。笑っておれない哀しみを感じます。肥大化した観念がタテマエ行動を促す。ネバナラヌと強迫観念に追い立てられるように行動の意味づけをする。得体のしれぬ漠とした不安を抱え込まされる日常。その意味を解くために手にする書物。明らかに現代人は神経性恐怖症に囚われています。
★ 「捨てる」
誰でも出来る簡単なこと。その理屈を求めねば、全く不要のものを、我が身の外に置くこと。それだけのことです。
それで私たちは、随分、自由になります。「捨てる」・・・ハダカになって、”生”本来の姿に戻る。それには”技術”なんて要りません。
★ 私たちは、パソコン使ってますね。エクセル、ワード、静止画、動画、それにゲーム・・・いろんなそふとを使いまくるとヒスを起こしフリーズします。そんな時、誰でもやるのが「初期化」 指でポンと「delete」キーを押してやれば、パソコンは、元の誕生当時の姿に戻ります。「捨てる」って、そんなモノでしょう。要するに人生の「初期化」です。
「技術」なんて・・・パソコンが笑ってますよ。
★ 定年後、まる3年、私は、「身軽になる」を、老後人生再構築の生活信条にして来ました。身も、心も、身軽になる。その基本の基本は、「捨てることと見つけたり」、て、実践してきました。
何よりも先ず、捨てたのが蔵書。仕事や趣味、あるいは書評や友達との会話に煽られて”遅れてはならじ”と買い求めた諸々の書籍。時を経れば積んどくだけですが、なかなか捨てられない。それが山なしていました。それを、
「この1年、開かなかったものは無用、紙くずと同じだ、」
と割り切って捨てました。
★ 365日、一年中、我が家が生活の本拠となりますと、そこは、本当に”我が城”です。自分が住むのに一番、住みよいようにすればいい。私は、老後を身軽にしたいので、不要と思うものは、目に付き次第、捨ててきました。早い話、我が家には、昨日の新聞もありません。週遅れ、月遅れの雑誌もない。チラシ類も見たら紙くず箱。居間も、書斎も、何も置いてなくて、ガランとしています。よく訪ねてこられた方が「なぜ?」と仰るのですが、理屈はない、ただ、これが、身軽で、楽なのです。
★ 当初、私も、「捨てる」のに一番、こだわったのは本でした。一冊、一冊に思い入れがあります。手にすれば、なんとなく【貴重】に思える想念が甦ります。だが・・・・図書館に行けばもっとある。自分の手元に置かなくとも、身を運べば、何でもある。そう気づいた途端、拘りの黒雲が晴れました。
★ 必要な時には、我が身を運ぶ。博物、美術、芸術的調度品・・・我が持てるもののどれひとつ、取り上げてもこれに太刀打ちできる一品もありません。まがい物、ゲテモノ、すべて、お払い箱。夾雑物も随分、減りました。
★ 心の重荷は「柵」(しがらみ) 3年も経ちますと、これまでの仕事や社会生活の様々な場面で出来上がった”義理の柵(しがらみ)”も、かなり簡単に断ち切れるようになります。先ず冠婚葬祭。続いていわゆる「おつきあい」 中には、老後にこそ、これは必要、と、思うこともありますが、かなり身勝手に過ぎます。それを期待する根性がいけないと、惜しい柵も努めて切るようにして来ました。
今はかなり人為の無理なく、流れるままの自然体を願うようになっています。要するに我が”老”の身を束縛する「柵」(しがらみ)と意識すれば解く。
★ 今では日常が、かなり身軽になりました。人間自由に生きる為に、一番、大切なのはモノへの執着を断つこと。それを本当に実感したのは、今年の2月にまるまる一ヶ月、マレーシアのマラッカで過ごした時でした。老妻と二人、小さな旅行カバンをひとつずつ引っ提げて、出かけ、レンタル・アパートで過ごしたのですが、全く不自由はありませんでした。利用したアパートも3寝室、トイレ、シャワーが二つもあり、居間、食堂、台所完備で言うことなし。
★ 衛星テレビでNHKTVは見られるのですが、新聞、テレビは全部、シャットアウト。ニュースも無用で過ごしました。毎日、ニュースなしの生活。実にいいです。朝、起きて、夜、眠るまで、出会う人々との交流が実存の日常。生きて我ありの実感がヒシと伝わる生活です。つまらぬタテマエ、ネバナラヌ構え・・・・何も私に迫ってきません。不自由な言葉も、習い覚えた単語を非言語動作で補い、ホンネのインフォメーションを伝え合いながら過ごすナマの生の実感。ハダカです。
★ 『捨てる技術』・・・このような本を必要とする現代人。観念で生きるアタマでっかち人間の悲劇ですね。笑っておれない哀しみを感じます。肥大化した観念がタテマエ行動を促す。ネバナラヌと強迫観念に追い立てられるように行動の意味づけをする。得体のしれぬ漠とした不安を抱え込まされる日常。その意味を解くために手にする書物。明らかに現代人は神経性恐怖症に囚われています。
★ 「捨てる」
誰でも出来る簡単なこと。その理屈を求めねば、全く不要のものを、我が身の外に置くこと。それだけのことです。
それで私たちは、随分、自由になります。「捨てる」・・・ハダカになって、”生”本来の姿に戻る。それには”技術”なんて要りません。
★ 私たちは、パソコン使ってますね。エクセル、ワード、静止画、動画、それにゲーム・・・いろんなそふとを使いまくるとヒスを起こしフリーズします。そんな時、誰でもやるのが「初期化」 指でポンと「delete」キーを押してやれば、パソコンは、元の誕生当時の姿に戻ります。「捨てる」って、そんなモノでしょう。要するに人生の「初期化」です。
「技術」なんて・・・パソコンが笑ってますよ。
by zenmz
| 2006-10-09 14:04
| 現代社会論