2006年 10月 22日
【6287】 抵抗ジャーナリストの運命 【新聞今昔物語】(7) |
【軍国主義国家の新聞統制】
◎ 昭和11(1936)年2月26日に軍事クーデター「2・26事件」が発生、軍部暴走を押さえる政府の粛軍工作は失敗し、軍部に支配された政府は、「日独伊3国防共協定」を結んでファシズムへと突進します。
新聞は政府の統制下に置かれ、記者・編集者は内閣情報局の検閲によって、言論の自由を完全に抑圧されることになります。情報源は大本営発表に統一され、記事表現に関わる統制法は26種。それが織り成す幾重もの検閲で、表現の自由は徹底的に否定されました。
★ 言論の自由を奪われ、すべての記事は内閣情報局の検閲を経て、許可されたものだけを印刷せざるを得なくなった新聞は軍部のプロパガンダ手段に変じました。その中で、”真実報道”の信念を曲げず、実行することは、生命を賭けて報道することを意味します。政府の意に添わない記事の執筆記者は年齢を問わず招集され、報復として最激戦地に送られる。掲載した新聞社は廃刊に追い込まれる。今日は、その実例を検討してみたいと思います。
★ 昨日の午後、私は、岡山県立図書館で戦時中の新聞に読みふけりました。そしてこの記事を探し当てました。昭和19年2月23日朝刊第一面中央に「勝利か滅亡か、戦局は茲まで来た」と大見出しをつけた囲み記事は、「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と脇見出しがついています。太平洋戦争も末期に近づいた頃、東条内閣は”非常時宣言”を発して国民に「本土決戦・一億玉砕」を呼びかけました。
正にその日に「竹槍では戦争は出来ない」との社説を掲げて痛烈に批判したのは、『毎日新聞』の新名丈夫論説記者でした。文字が不鮮明な写真版、何度も確かめながら読みふけりました。
★ 「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ。今こそわれらは戦勢の実相を直視しなけれぱならない。戦争は果たして勝っているか。」
と、かなり痛烈な批判を加えています。
モノ言えぬ、あの時代に、本当に、これだけのことを言い切った人がいたのか!? と、感動します。
★ この記事が掲載された当時、私は中学2年生。私の母も国防婦人会に駆り出され、小学高学年だった二人の弟も、みんな、その”間に合わない”竹槍訓練の経験を持っています。今も、生々しく思い出すのですが、竹先を鋭い刃物状に切り落とした竹槍を持って、狭い路地のあちこちに待ち伏せして敵の脇腹を突く。突いて、素早く抉る。そうしないと筋肉硬直で槍は突き刺さったままで殺傷効果がない・・・男も、女も、少年も、みんなわら人形相手に脇腹突きのゲリラ作戦の訓練を受けました。
★ 当時は未だ、14歳の子どものこと。親・教師の言うままに神国日本の聖戦と信じて疑わなかった”軍国少年”でしたから、このような新聞報道があったなどとは全く知りません。今、当時の新聞の現物を見ると、確かに当時としては信じられない記事が出ています。
しかも、その真上に掲載されていたのは、「首相、閣議で一大勇猛心強調」と見出しがついた東条内閣の「非常時宣言」。ご丁寧に「岐路に立つ皇国を守れ」との東条英機首相談話が顔写真入りで掲載されているのです。見た目には、【解説記事】の感じです。しかも、その”解説”は、一億玉砕、本土決戦を真っ向から反対し、「必勝」の空念仏を批判しているのです。本当にビックリします。その時に、どうしてこのような記事が書けたのか? 興味をもって諸資料を調べました。
タイム・トンネルをくぐり抜け62年前に遡ります。
***** 新名丈夫記者の「竹槍事件」 *****
★ 昭和19(1944)年2月23日朝激怒した東条首相は「これは反戦思想だ。なぜ処分しないのか」と陸軍報道部長を怒鳴りつけ、情報部は『毎日新聞』編集局長を呼びつけて社内責任者の処分を要求。更に内務省は掲載新聞朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達するなど大騒ぎになりました。編集責任者であった高田元三郎編集総長は軍部の執筆記者退社処分の要求を拒絶し、奥村信太郎社長も「新名を守る」と決意し、東条首相に面会を求めましたが、東条は会見を拒否しました。
★ それは、『毎日新聞』にとって存廃の危機でした。後に当時の政府情報局の次長だった村田五郎氏は、「東条首相は竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。これを取り締まらないでおくのは陸軍の作戦をバカにしたことになる。毎日を廃刊にしろ、と強く要求した」と述懐しておられます。結局、村田次長がなだめ、幸い毎日廃刊は、見送られました。
★ が、東条首相は執拗でした。新名記者に陸軍の懲罰招集を強行させたのです。強度の近視のため徴兵検査では兵役免除になっていた新名記者は当時、既に37歳。その人に2等兵として招集がかかったのです。この時、海軍が救済に乗り出しました。新名記者は、海軍省担当記者だったのです。(詳しくは後述)
★ ここで再び、陸軍は驚くべき暴挙を行います。海軍の主張は、「大正の兵役免除老兵を何故、一人だけ取るのか」と抗議したのですが、窮した陸軍は、大急ぎで同年配の兵役免除者250人を招集しました。しかし海軍は譲らず、結局、新名記者は海軍報道班員としてフィリピンに送られました。不幸だったのは陸軍が徴集した250人です。最激戦地硫黄島に送られ、全員、玉砕しました。暴挙は無辜の老兵達を殺しました。
★ 間もなく海軍は、新名に「内地出張」を命じ、3ヶ月後に帰国させました。陸軍の”再々招集”させない工夫だった、と言われます。
★ ここで、いくつかの疑問が湧きます。
一つは、なぜ、あの厳しい検閲の時代に、新名記者の痛烈な軍部批判の記事が掲載出来たのか?
そして、なぜ、海軍は新名記者をそこまでかばい続けたのか?
また、新聞廃刊の危機に立った『毎日新聞」は、新名記者を最後まで守り抜いたのか?
★ こうした疑問を最新の毎日新聞社史『毎日の3世紀』(上巻)の「竹槍事件とその結末」は、後に新名記者自身が書いた手記を掲載して、この記事が生まれた経緯を明らかにしています。
★ 戦局は日に日に悪化し、昭和19年2月には米機動艦隊によってついにマーシャル群島が陥落しました。正に「天下分け目の大決戦」に敗北したのです。しかし、大本営はその事実の公表をためらい、20日以上も封印してしまいました。 新名記者は、当時、政経部の海軍省担当キャップをしていました。「もはや言論機関が立ち上がるほかない。プレスキャンペーンを起こす決意を」と編集幹部に願い出て、社運を賭けてでも敗色強い日本の難局を国民に伝えるべきだ、と主張していました。
★ 新聞社の編集幹部が決断したのは、東条首相が「非常時宣言」を出したことでした。軍部が無謀にも「本土決戦、一億玉砕」を呼びかけた今こそ、その時期と判断した吉岡編集局長は、新名記者を呼び戻し、「直ぐ書け」と許可したのです。その記事の意味は重大でした。
★ マーシャルに米軍が来た時、日本海軍の航空兵力は100機に満たず、海軍は飛行機がなければ戦闘にならぬ、せめて1000機を我らに与えよ、と、大本営に訴え続けてきました。「竹槍では戦えない、飛行機を」との新名記者の記事は、本土に戦禍を招き入れず、「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」と実態を訴えたのでしたが、結果として海軍の意向に沿ったものになりました。
★ 当時、本土決戦を唱える陸軍と、海上決戦を主張する海軍とは大きく対立し、内紛状態にありました。海軍は、新名記者の記事を歓迎し、陸軍が激怒した背景には、軍部の内紛がありました。この記事が無検閲で掲載出来たのも、陸軍、海軍の縦割り行政、それも両者が鋭く対立することによって生じた”隙間”のお蔭でした。
★ 新名記者の手記によりますと、当時の新聞記事は原則、すべて情報局はじめ陸・海軍、内務省、外務省、憲兵隊などの検閲を受けねばならない取り決めでしたが、ただ海軍の記者が執筆したものは海軍省の検閲だけでパスしていました。特に海軍では、各社のキャップが書く記事は無検閲でよい、との紳士協定になったおり、その特典を利用して出稿した、そうです。
★ 海軍省は全面的に新名記者の記事を支持、絶賛しました。そして陸軍の暴挙とも言うべき”たった一人の老兵招集”に抗議し、海軍報道班員として救済したのでした。
★ 一方、自分の記事で新聞社が廃刊の危機に追い込まれた時、新名記者を『毎日新聞』は、どう取り扱ったか?
新名記者は、進退伺をだしました。当時の吉岡編集局長はそれを突き返す時、特賞金一封を添えました。その直後、吉岡編集局長は、一切の責任を負い辞任しました。東条首相の意を受けた陸軍は執拗に新名記者処分を要求し続けて来ましたが、『毎日新聞』は最後まで新名記者を守り抜きました。
★ 新名記者の”抵抗のジャーナリズム”は、反戦論説ではありません。真実報道を貫く記者魂です。しかし、戦争の時代に権力に楯突くときには、所属する新聞社を存廃の危機に立たせる冒険と、自らも命を賭ける決意を必要としました。更に無辜の250人の老兵達を巻き添えにしたことも忘れられません。戦争の時代に言論の自由を守るということは、正に命をかけて権力者に立ちむかうことを意味するのですね。それを確認しておきたいと思います。
***** 桐生悠々記者の『他山の石』 *****
★ もうお一人、忘れてはならない抵抗の先覚記者がおられます。大新聞の論説記者、主筆を歴任しながら、「真実報道は体制内新聞社に席を置いては不可能」と退社し、個人の言論誌を創刊して軍国主義国家と戦い、殉じた反骨のジャーナリスト、桐生悠々(ゆうゆう 1873-1941)氏です。大正から昭和にかけて朝日新聞、毎日新聞の論説記者を担当し、反権力・反軍的な言論をくりひろげ、その度に数多くの筆禍事件を引起して退社を繰り返しました。特に、『信濃毎日新聞』主筆時代に執筆した社説『関東防空大演習を嗤(わら)う』で有名です。
★ この記事の責任をとって『信濃毎日新聞』を退社した桐生悠々記者は、既成の新聞社での組織内で抵抗の言論を展開するのはもはや不可能と痛感し、自らが全責任を担って真実追究をする言論誌を創刊する決意を固めます。昭和9(1934)年6月『名古屋読書会第一回報告』を創刊、毎月2回発行のペースで出版を続けましました。
★ 半年後の12月からは、『他山の石』と改題。1941年9月10日、口頭ガンのため69歳で亡くなるその月まで続きました。合計177冊を刊行しました。その間、発禁は24回、削除は4回の計28回にも及んだ、と言われます。その理由は、【反戦思想醸成 10件】 【軍部の行動誹謗歪曲 6件】 【対支方針の非難歪曲 5件】など。
★ しかし軍部の徹底した弾圧は、熾烈を極めました。太田雅夫氏の名著『評伝桐生悠々』(不二出版、1987年)に詳細に検証されています。当初、400部前後あった『他山の石』の購読者にも”懲罰的”召集をかけたり、送金妨害を行うなど当局の弾圧で購読者も激減し、経営は惨憺たるものであった、と記録されています。貧乏のドン底に陥った悠々は、好きな酒を絶ち、百姓生活で自給自足し、『他山の石』の発行に資金をつぎ込んで病死しました。
★ 死期を悟った桐生悠々記者は「畜生道に堕落した地球より去る」というタイトルを付した『他山の石』廃刊の辞を最後に掲載しています。
「時偶小生の癖疾喉カタル非常に悪化し、流動物すら嚥下し能わざるように相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓喜居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」
★ 3年後、予言通り、”戦後の一大軍粛”東京裁判が行われ、東条英機首相はじめ戦争指導者は断罪されました。
***** 真実報道と読者 *****
★ 真実報道に殉じた記者魂・・・桐生悠々、新名丈夫両記者が、命を賭けてその信念を貫いた時代を私は知っています。二人の先覚大記者の偉業を検証しながら、私は深い感動を覚えます。しかし、と、一方では、こう思いもします。62年前のその時代に、私が大人であって、これらの記事を目にしていても、今ほどの共感と感動を持ち得たか、どうか?
★ あの時代は、暗く、辛い時代でした。滅私奉公、国に殉ずることが人生の目的とたたき込まれた時代でした。14歳から15歳の”軍国少年”の私にたたき込まれた教育は
★ その教師達は、こうした反骨の真実報道を前にすると、必ず、こう言ったでしょう。
「流言飛語に惑わされるな、コイツらは国賊だ」
国民の多くは、その”国賊”のレッテル貼りで、こうして命を賭けて訴えた真実報道を一笑に付した、と思います。
当時の国民の生活は過酷でした。その中で「滅私奉公、国に殉ずる」・・・一億玉砕の心の固めをしていた時代です。
それを否定する言説を受け入れる知性も、感性も、心すら、はもはや国民は失っていたように思います。
★ 折角の真実報道にも、国民は、それに感応する知性を失っていました。集団ヒステリーが社会を覆った時代、国民は大勢順応で動きます。その動きに棹さす者は”国賊” このレッテル貼りは決定的な効果を発揮します。なぜ、反骨のジャーナリストの真実報道が功を奏し得なかったのか? その原因に思いをいたすとき、一つの結論に到達します。国民の大半が判断能力を失っていたのです。真実報道も「国賊どもの反戦思想」と納得し、「流言飛語」を根絶やしするための検閲に疑いを抱かなかったのではないか。
★ 良心の記者達が命を賭けた【真実報道】を無価値としたのはだれか?
15歳の砌(みぎり)、同時代に生きた人間が今、慚愧の思いを乗せている反省する由縁です。
◎ 昭和11(1936)年2月26日に軍事クーデター「2・26事件」が発生、軍部暴走を押さえる政府の粛軍工作は失敗し、軍部に支配された政府は、「日独伊3国防共協定」を結んでファシズムへと突進します。
新聞は政府の統制下に置かれ、記者・編集者は内閣情報局の検閲によって、言論の自由を完全に抑圧されることになります。情報源は大本営発表に統一され、記事表現に関わる統制法は26種。それが織り成す幾重もの検閲で、表現の自由は徹底的に否定されました。
★ 言論の自由を奪われ、すべての記事は内閣情報局の検閲を経て、許可されたものだけを印刷せざるを得なくなった新聞は軍部のプロパガンダ手段に変じました。その中で、”真実報道”の信念を曲げず、実行することは、生命を賭けて報道することを意味します。政府の意に添わない記事の執筆記者は年齢を問わず招集され、報復として最激戦地に送られる。掲載した新聞社は廃刊に追い込まれる。今日は、その実例を検討してみたいと思います。
★ 昨日の午後、私は、岡山県立図書館で戦時中の新聞に読みふけりました。そしてこの記事を探し当てました。昭和19年2月23日朝刊第一面中央に「勝利か滅亡か、戦局は茲まで来た」と大見出しをつけた囲み記事は、「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と脇見出しがついています。太平洋戦争も末期に近づいた頃、東条内閣は”非常時宣言”を発して国民に「本土決戦・一億玉砕」を呼びかけました。
正にその日に「竹槍では戦争は出来ない」との社説を掲げて痛烈に批判したのは、『毎日新聞』の新名丈夫論説記者でした。文字が不鮮明な写真版、何度も確かめながら読みふけりました。
国家存亡の岐路に立つの事態が、開戦以来2年2ケ月、緒戦の赫々たるわが進攻に対する敵の盛り返しにより、勝利か滅亡かの現実とならんとしつつあるのだ。大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。われらの最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ。海洋戦の攻防は海上において決せられることはいうまでもない。しかも太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻し来(きた)るにおいては最早万事休すである。
竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ
今こそわれらは戦勢の実相を直視しなけれぱならない。戦争は果たして勝っているか。ガダルカナル以来、過去1年半余、わが忠勇なる陸海将士の血戦死闘にもかかわらず、太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来った血涙の事実をわれわれは深省しなけれぱならない。
空中戦闘と海上の艦隊決戦において、如何に勝利を獲得するとも、海上補給に際して敵航空機の網に罹っては補給はできないのである。敵航空機の海上補給攻撃に対してこれを防衛するには、わが航空兵力をもって対抗するほかなきは勿論である。
太平洋の攻防ともに航空兵力こそ勝敗の鍵を握るものなのである。敵の戦法に対してわれらの戦法を対抗せしめなければならない。敵が飛行機で攻めに来るのに、竹槍をもっては戦い得ないのだ。問題は戦力の結集である。帝国の存亡を決するものは、わが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないか。(以上、要点抜粋復刻)
★ 「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ。今こそわれらは戦勢の実相を直視しなけれぱならない。戦争は果たして勝っているか。」
と、かなり痛烈な批判を加えています。
モノ言えぬ、あの時代に、本当に、これだけのことを言い切った人がいたのか!? と、感動します。
★ この記事が掲載された当時、私は中学2年生。私の母も国防婦人会に駆り出され、小学高学年だった二人の弟も、みんな、その”間に合わない”竹槍訓練の経験を持っています。今も、生々しく思い出すのですが、竹先を鋭い刃物状に切り落とした竹槍を持って、狭い路地のあちこちに待ち伏せして敵の脇腹を突く。突いて、素早く抉る。そうしないと筋肉硬直で槍は突き刺さったままで殺傷効果がない・・・男も、女も、少年も、みんなわら人形相手に脇腹突きのゲリラ作戦の訓練を受けました。
★ 当時は未だ、14歳の子どものこと。親・教師の言うままに神国日本の聖戦と信じて疑わなかった”軍国少年”でしたから、このような新聞報道があったなどとは全く知りません。今、当時の新聞の現物を見ると、確かに当時としては信じられない記事が出ています。
しかも、その真上に掲載されていたのは、「首相、閣議で一大勇猛心強調」と見出しがついた東条内閣の「非常時宣言」。ご丁寧に「岐路に立つ皇国を守れ」との東条英機首相談話が顔写真入りで掲載されているのです。見た目には、【解説記事】の感じです。しかも、その”解説”は、一億玉砕、本土決戦を真っ向から反対し、「必勝」の空念仏を批判しているのです。本当にビックリします。その時に、どうしてこのような記事が書けたのか? 興味をもって諸資料を調べました。
タイム・トンネルをくぐり抜け62年前に遡ります。
***** 新名丈夫記者の「竹槍事件」 *****
★ 昭和19(1944)年2月23日朝激怒した東条首相は「これは反戦思想だ。なぜ処分しないのか」と陸軍報道部長を怒鳴りつけ、情報部は『毎日新聞』編集局長を呼びつけて社内責任者の処分を要求。更に内務省は掲載新聞朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達するなど大騒ぎになりました。編集責任者であった高田元三郎編集総長は軍部の執筆記者退社処分の要求を拒絶し、奥村信太郎社長も「新名を守る」と決意し、東条首相に面会を求めましたが、東条は会見を拒否しました。
★ それは、『毎日新聞』にとって存廃の危機でした。後に当時の政府情報局の次長だった村田五郎氏は、「東条首相は竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。これを取り締まらないでおくのは陸軍の作戦をバカにしたことになる。毎日を廃刊にしろ、と強く要求した」と述懐しておられます。結局、村田次長がなだめ、幸い毎日廃刊は、見送られました。
★ が、東条首相は執拗でした。新名記者に陸軍の懲罰招集を強行させたのです。強度の近視のため徴兵検査では兵役免除になっていた新名記者は当時、既に37歳。その人に2等兵として招集がかかったのです。この時、海軍が救済に乗り出しました。新名記者は、海軍省担当記者だったのです。(詳しくは後述)
★ ここで再び、陸軍は驚くべき暴挙を行います。海軍の主張は、「大正の兵役免除老兵を何故、一人だけ取るのか」と抗議したのですが、窮した陸軍は、大急ぎで同年配の兵役免除者250人を招集しました。しかし海軍は譲らず、結局、新名記者は海軍報道班員としてフィリピンに送られました。不幸だったのは陸軍が徴集した250人です。最激戦地硫黄島に送られ、全員、玉砕しました。暴挙は無辜の老兵達を殺しました。
★ 間もなく海軍は、新名に「内地出張」を命じ、3ヶ月後に帰国させました。陸軍の”再々招集”させない工夫だった、と言われます。
★ ここで、いくつかの疑問が湧きます。
一つは、なぜ、あの厳しい検閲の時代に、新名記者の痛烈な軍部批判の記事が掲載出来たのか?
そして、なぜ、海軍は新名記者をそこまでかばい続けたのか?
また、新聞廃刊の危機に立った『毎日新聞」は、新名記者を最後まで守り抜いたのか?
★ こうした疑問を最新の毎日新聞社史『毎日の3世紀』(上巻)の「竹槍事件とその結末」は、後に新名記者自身が書いた手記を掲載して、この記事が生まれた経緯を明らかにしています。
★ 戦局は日に日に悪化し、昭和19年2月には米機動艦隊によってついにマーシャル群島が陥落しました。正に「天下分け目の大決戦」に敗北したのです。しかし、大本営はその事実の公表をためらい、20日以上も封印してしまいました。 新名記者は、当時、政経部の海軍省担当キャップをしていました。「もはや言論機関が立ち上がるほかない。プレスキャンペーンを起こす決意を」と編集幹部に願い出て、社運を賭けてでも敗色強い日本の難局を国民に伝えるべきだ、と主張していました。
★ 新聞社の編集幹部が決断したのは、東条首相が「非常時宣言」を出したことでした。軍部が無謀にも「本土決戦、一億玉砕」を呼びかけた今こそ、その時期と判断した吉岡編集局長は、新名記者を呼び戻し、「直ぐ書け」と許可したのです。その記事の意味は重大でした。
★ マーシャルに米軍が来た時、日本海軍の航空兵力は100機に満たず、海軍は飛行機がなければ戦闘にならぬ、せめて1000機を我らに与えよ、と、大本営に訴え続けてきました。「竹槍では戦えない、飛行機を」との新名記者の記事は、本土に戦禍を招き入れず、「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」と実態を訴えたのでしたが、結果として海軍の意向に沿ったものになりました。
★ 当時、本土決戦を唱える陸軍と、海上決戦を主張する海軍とは大きく対立し、内紛状態にありました。海軍は、新名記者の記事を歓迎し、陸軍が激怒した背景には、軍部の内紛がありました。この記事が無検閲で掲載出来たのも、陸軍、海軍の縦割り行政、それも両者が鋭く対立することによって生じた”隙間”のお蔭でした。
★ 新名記者の手記によりますと、当時の新聞記事は原則、すべて情報局はじめ陸・海軍、内務省、外務省、憲兵隊などの検閲を受けねばならない取り決めでしたが、ただ海軍の記者が執筆したものは海軍省の検閲だけでパスしていました。特に海軍では、各社のキャップが書く記事は無検閲でよい、との紳士協定になったおり、その特典を利用して出稿した、そうです。
★ 海軍省は全面的に新名記者の記事を支持、絶賛しました。そして陸軍の暴挙とも言うべき”たった一人の老兵招集”に抗議し、海軍報道班員として救済したのでした。
★ 一方、自分の記事で新聞社が廃刊の危機に追い込まれた時、新名記者を『毎日新聞』は、どう取り扱ったか?
新名記者は、進退伺をだしました。当時の吉岡編集局長はそれを突き返す時、特賞金一封を添えました。その直後、吉岡編集局長は、一切の責任を負い辞任しました。東条首相の意を受けた陸軍は執拗に新名記者処分を要求し続けて来ましたが、『毎日新聞』は最後まで新名記者を守り抜きました。
★ 新名記者の”抵抗のジャーナリズム”は、反戦論説ではありません。真実報道を貫く記者魂です。しかし、戦争の時代に権力に楯突くときには、所属する新聞社を存廃の危機に立たせる冒険と、自らも命を賭ける決意を必要としました。更に無辜の250人の老兵達を巻き添えにしたことも忘れられません。戦争の時代に言論の自由を守るということは、正に命をかけて権力者に立ちむかうことを意味するのですね。それを確認しておきたいと思います。
***** 桐生悠々記者の『他山の石』 *****
★ もうお一人、忘れてはならない抵抗の先覚記者がおられます。大新聞の論説記者、主筆を歴任しながら、「真実報道は体制内新聞社に席を置いては不可能」と退社し、個人の言論誌を創刊して軍国主義国家と戦い、殉じた反骨のジャーナリスト、桐生悠々(ゆうゆう 1873-1941)氏です。大正から昭和にかけて朝日新聞、毎日新聞の論説記者を担当し、反権力・反軍的な言論をくりひろげ、その度に数多くの筆禍事件を引起して退社を繰り返しました。特に、『信濃毎日新聞』主筆時代に執筆した社説『関東防空大演習を嗤(わら)う』で有名です。
★ この記事の責任をとって『信濃毎日新聞』を退社した桐生悠々記者は、既成の新聞社での組織内で抵抗の言論を展開するのはもはや不可能と痛感し、自らが全責任を担って真実追究をする言論誌を創刊する決意を固めます。昭和9(1934)年6月『名古屋読書会第一回報告』を創刊、毎月2回発行のペースで出版を続けましました。
★ 半年後の12月からは、『他山の石』と改題。1941年9月10日、口頭ガンのため69歳で亡くなるその月まで続きました。合計177冊を刊行しました。その間、発禁は24回、削除は4回の計28回にも及んだ、と言われます。その理由は、【反戦思想醸成 10件】 【軍部の行動誹謗歪曲 6件】 【対支方針の非難歪曲 5件】など。
★ しかし軍部の徹底した弾圧は、熾烈を極めました。太田雅夫氏の名著『評伝桐生悠々』(不二出版、1987年)に詳細に検証されています。当初、400部前後あった『他山の石』の購読者にも”懲罰的”召集をかけたり、送金妨害を行うなど当局の弾圧で購読者も激減し、経営は惨憺たるものであった、と記録されています。貧乏のドン底に陥った悠々は、好きな酒を絶ち、百姓生活で自給自足し、『他山の石』の発行に資金をつぎ込んで病死しました。
★ 死期を悟った桐生悠々記者は「畜生道に堕落した地球より去る」というタイトルを付した『他山の石』廃刊の辞を最後に掲載しています。
「時偶小生の癖疾喉カタル非常に悪化し、流動物すら嚥下し能わざるように相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓喜居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」
★ 3年後、予言通り、”戦後の一大軍粛”東京裁判が行われ、東条英機首相はじめ戦争指導者は断罪されました。
***** 真実報道と読者 *****
★ 真実報道に殉じた記者魂・・・桐生悠々、新名丈夫両記者が、命を賭けてその信念を貫いた時代を私は知っています。二人の先覚大記者の偉業を検証しながら、私は深い感動を覚えます。しかし、と、一方では、こう思いもします。62年前のその時代に、私が大人であって、これらの記事を目にしていても、今ほどの共感と感動を持ち得たか、どうか?
★ あの時代は、暗く、辛い時代でした。滅私奉公、国に殉ずることが人生の目的とたたき込まれた時代でした。14歳から15歳の”軍国少年”の私にたたき込まれた教育は
「オマエたちは天皇陛下の赤子(せきし) 天皇陛下のお恵みにより、この世に生をうけた。戦争の時代、こうして勉強をさせていただいておる。そのご恩に報いるに”辺(へ)にこそ死なめ”。陛下のために命を捧げる。それがオマエ達の向かうべき”義勇公に奉じずべき道である」
★ その教師達は、こうした反骨の真実報道を前にすると、必ず、こう言ったでしょう。
「流言飛語に惑わされるな、コイツらは国賊だ」
国民の多くは、その”国賊”のレッテル貼りで、こうして命を賭けて訴えた真実報道を一笑に付した、と思います。
当時の国民の生活は過酷でした。その中で「滅私奉公、国に殉ずる」・・・一億玉砕の心の固めをしていた時代です。
それを否定する言説を受け入れる知性も、感性も、心すら、はもはや国民は失っていたように思います。
★ 折角の真実報道にも、国民は、それに感応する知性を失っていました。集団ヒステリーが社会を覆った時代、国民は大勢順応で動きます。その動きに棹さす者は”国賊” このレッテル貼りは決定的な効果を発揮します。なぜ、反骨のジャーナリストの真実報道が功を奏し得なかったのか? その原因に思いをいたすとき、一つの結論に到達します。国民の大半が判断能力を失っていたのです。真実報道も「国賊どもの反戦思想」と納得し、「流言飛語」を根絶やしするための検閲に疑いを抱かなかったのではないか。
★ 良心の記者達が命を賭けた【真実報道】を無価値としたのはだれか?
15歳の砌(みぎり)、同時代に生きた人間が今、慚愧の思いを乗せている反省する由縁です。
by zenmz
| 2006-10-22 10:25
| 現代社会論