2006年 11月 06日
【6301】 半世紀後、母校に集った「志縁の絆」 |
★ 昨11月5日は、終日、老妻と京都に小旅行しました。早朝に出発して戻ったのは深夜。一夜あけた今も、興奮冷めやらず、夜も明けぬうちに目が覚め、パソコンに向かっています。
★ 母校・同志社大学ホームカミングの一環として行われた学内サークル「同志社大学盲学生友の会」の”OBの集い”に参加する旅でした。 実に52年ぶりの母校訪問。”三つ子の魂”が躍動する中、集って下さったのは30人を超えるかつての同志たち。
★ これまで全く、お目にかかることが無かった後輩会員たちです。しかし、それは、明らかに懐かしい志を共にし、それによってこの学園に学んだ同志の”再会”でした。
★ 正式名称は「同志社大学盲学生友の会」 昭和27(1952)年秋、私が提唱して結成したボランティア組織です。途中から、「盲友会」と改名されましたが、その後、約20数年間、後輩達は同じ学園で勉強していた盲目の友の学内誘導、点訳、教科書朗読を助け、時には”共にパチンコ”まで興ずる活動を続けてきました。
★ この日、集ったのは、一番、若い人でも40歳代後半。しかもほとんどがお互い「初めまして」の仲でした。ただ青春の日、同じ盲目の学友と”福祉の志”を共にし、学園生活を送った絆で結ばれた。それを確認しあった”再会”でした。
★ 集いは、最初から最後まで、タイムトンネルを遡る語らいで進行しました。めいめいが、それぞれに活動した時代の思い出を語り合って過ごしました。
★ 時代こそは違いましたが、懐かしの”ボックス”。会の活動拠点は、同志社大学正門を入って右手の致遠館。1階入り口を入って左手にあった小部屋でした。後、その前にあった旧教授控え室に移り、全国に学園紛争が巻き起こった時、全共闘の一つの拠点に”占領”された苦難の時を経験しています。
★ 参加者全員が一人一人、思い出を語りました。
この会活動が、そのまま、卒業後の仕事に繋がり、盲学校教師を31年、勤め上げ「青春の志が自分の人生すべてを決めた」と深い感慨を吐露した女性会員。
「風紀紊乱を規律するため男女交際を御法度にした」という超硬派の3代目会長。 続いて立ったのが仲むつまじいご夫婦。
「実は、その禁を破り交際。こうして夫婦になりまして・・・」と大爆笑。驚きましたね。なんと、禁を破った旧会員同士夫婦が3組も出席していました。
★ 私は、思わず、合いの手を入れましたね。
「サスガに我れらが同志社。出雲大社のお世話にはならぬ。盲友会だけで十分だ」
最初は、真面目な会活動の苦労話などが出ていましたが、”軟派”会員の秘話が飛び出すと、「実は・・・」と、会に参加したホンネ動機や、「専ら、パチンコに連れ出すのが”活動”だった」と、知られざる内幕披露もあり、爆笑が続きました。
★ 話し合っていると、奇縁の数々が飛び出します。
「今日は、都合が悪くて来れないけど・・・◎◎君は、今、こうしている」
その名を聞けば、思い出す人もたくさんいました。中でもビックリしたのは大阪の盲人情報センターの館長をしている人の消息。仕事を通じて古くから知っている若い友人です。
「彼も、盲友会のOBですよ」
初めて知った”新事実”にもうビックリ。
★ 最後にお世話役の求めにより、この会を作り、初代会長になった私の「会結成当時の懐旧談」を語らせていただきました。予め準備し持参した10㌻にもおよぶ手記を配布し、延々40分の”大演説”をぶってしまいました。
★ 我が初心を何代も引き続いて下さった皆さん。
志を共にした同志・・・語りながら、万感胸に迫るものを感じました。目の前にいる人々で、顔見知りは、ただ一人。私が卒業した翌年に入学してきた盲目の友だけです。
★ 更に・・・
会結成当時、私を助けてくれた多くの同級生達・・・・名前を挙げながら気づきました。ほとんどすべてが既に故人。生き残っているのは私一人です。結成当時の昭和27年~29年、あの懐かしの小さなボックスで毎日、集ってノート整理をしながら夢を語り合った学友達はすべて逝ってしまいました。
★ 集会は、予定の時間を遙かに上回り、終わりに近づき、誰言うともなく、新しい提言が出てきました。
「このOB会を常設組織に新発足させて、旧会員を発掘し、これから度々、集うおうではないか」
みんな大賛成。顔ぶれをみると、ほとんど今をときめく”団塊の世代”です。
「やろう、やろう・・・大賛成。是非とも・・・・拙者が消える前に」 半ば本気でこう提案しました。
「これからはネット時代。帰ったら直ぐ、SNSにこのOB会のコミュニティを開設します。まず、ここに登録を」
★ 閉会後、学内を散策しました。老妻と義姉。そして同志社現役の甥を伴い、”我が足跡”を辿って回りました。ここが我が懐かしのボックスがあった場所。致遠館の裏口です。入り口の直ぐ左手の部屋でした。
だが、回りの”風景”は「もう無い。ここにはあれが・・・・ あの向こうには・・・ 全部、無くなった」 そして回った周囲は大変貌を遂げています。 私が学んだ時代、同志社は御所に面し、ゆったりした広い空間に赤煉瓦の校舎が散在する静かな学園でした。
★ 夕闇迫る中、立ち去る前に正門に向かいました。母校建学の祖・新島襄先生の遺志を刻んだ『良心碑』の今を確かめるためです。同志社はどう姿を変えても、建学の精神はここにあります。131年の歴史の礎石です。安心しました。本当に涙がこぼれるほどうれしいです。『良心碑』は、56年前、ここに立ち、入学式に向かった当時のままに大切に保存されていました。
正門を踏みしめると広がるこの光景・・・新島先生が迎えて下さいます。
良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起コリ来タラン事ヲ
ああ、素晴らしい。やはり我が母校・同志社は素晴らしい。この言葉の由来を記した銅板がありました。それを読みながら新島先生の熱い想いをかみしめました。
大きな感動が胸を突き上げます・・・最大の土産を胸に刻んで帰路につきました。
★ 母校・同志社大学ホームカミングの一環として行われた学内サークル「同志社大学盲学生友の会」の”OBの集い”に参加する旅でした。 実に52年ぶりの母校訪問。”三つ子の魂”が躍動する中、集って下さったのは30人を超えるかつての同志たち。
★ これまで全く、お目にかかることが無かった後輩会員たちです。しかし、それは、明らかに懐かしい志を共にし、それによってこの学園に学んだ同志の”再会”でした。
★ この日、集ったのは、一番、若い人でも40歳代後半。しかもほとんどがお互い「初めまして」の仲でした。ただ青春の日、同じ盲目の学友と”福祉の志”を共にし、学園生活を送った絆で結ばれた。それを確認しあった”再会”でした。
★ 集いは、最初から最後まで、タイムトンネルを遡る語らいで進行しました。めいめいが、それぞれに活動した時代の思い出を語り合って過ごしました。
★ 時代こそは違いましたが、懐かしの”ボックス”。会の活動拠点は、同志社大学正門を入って右手の致遠館。1階入り口を入って左手にあった小部屋でした。後、その前にあった旧教授控え室に移り、全国に学園紛争が巻き起こった時、全共闘の一つの拠点に”占領”された苦難の時を経験しています。
★ 参加者全員が一人一人、思い出を語りました。
この会活動が、そのまま、卒業後の仕事に繋がり、盲学校教師を31年、勤め上げ「青春の志が自分の人生すべてを決めた」と深い感慨を吐露した女性会員。
「風紀紊乱を規律するため男女交際を御法度にした」という超硬派の3代目会長。 続いて立ったのが仲むつまじいご夫婦。
「実は、その禁を破り交際。こうして夫婦になりまして・・・」と大爆笑。驚きましたね。なんと、禁を破った旧会員同士夫婦が3組も出席していました。
★ 私は、思わず、合いの手を入れましたね。
「サスガに我れらが同志社。出雲大社のお世話にはならぬ。盲友会だけで十分だ」
最初は、真面目な会活動の苦労話などが出ていましたが、”軟派”会員の秘話が飛び出すと、「実は・・・」と、会に参加したホンネ動機や、「専ら、パチンコに連れ出すのが”活動”だった」と、知られざる内幕披露もあり、爆笑が続きました。
★ 話し合っていると、奇縁の数々が飛び出します。
「今日は、都合が悪くて来れないけど・・・◎◎君は、今、こうしている」
その名を聞けば、思い出す人もたくさんいました。中でもビックリしたのは大阪の盲人情報センターの館長をしている人の消息。仕事を通じて古くから知っている若い友人です。
「彼も、盲友会のOBですよ」
初めて知った”新事実”にもうビックリ。
★ 最後にお世話役の求めにより、この会を作り、初代会長になった私の「会結成当時の懐旧談」を語らせていただきました。予め準備し持参した10㌻にもおよぶ手記を配布し、延々40分の”大演説”をぶってしまいました。
★ 我が初心を何代も引き続いて下さった皆さん。
志を共にした同志・・・語りながら、万感胸に迫るものを感じました。目の前にいる人々で、顔見知りは、ただ一人。私が卒業した翌年に入学してきた盲目の友だけです。
★ 更に・・・
会結成当時、私を助けてくれた多くの同級生達・・・・名前を挙げながら気づきました。ほとんどすべてが既に故人。生き残っているのは私一人です。結成当時の昭和27年~29年、あの懐かしの小さなボックスで毎日、集ってノート整理をしながら夢を語り合った学友達はすべて逝ってしまいました。
★ 集会は、予定の時間を遙かに上回り、終わりに近づき、誰言うともなく、新しい提言が出てきました。
「このOB会を常設組織に新発足させて、旧会員を発掘し、これから度々、集うおうではないか」
みんな大賛成。顔ぶれをみると、ほとんど今をときめく”団塊の世代”です。
「やろう、やろう・・・大賛成。是非とも・・・・拙者が消える前に」 半ば本気でこう提案しました。
「これからはネット時代。帰ったら直ぐ、SNSにこのOB会のコミュニティを開設します。まず、ここに登録を」
★ 閉会後、学内を散策しました。老妻と義姉。そして同志社現役の甥を伴い、”我が足跡”を辿って回りました。ここが我が懐かしのボックスがあった場所。致遠館の裏口です。入り口の直ぐ左手の部屋でした。
だが、回りの”風景”は「もう無い。ここにはあれが・・・・ あの向こうには・・・ 全部、無くなった」 そして回った周囲は大変貌を遂げています。 私が学んだ時代、同志社は御所に面し、ゆったりした広い空間に赤煉瓦の校舎が散在する静かな学園でした。
★ 夕闇迫る中、立ち去る前に正門に向かいました。母校建学の祖・新島襄先生の遺志を刻んだ『良心碑』の今を確かめるためです。同志社はどう姿を変えても、建学の精神はここにあります。131年の歴史の礎石です。安心しました。本当に涙がこぼれるほどうれしいです。『良心碑』は、56年前、ここに立ち、入学式に向かった当時のままに大切に保存されていました。
正門を踏みしめると広がるこの光景・・・新島先生が迎えて下さいます。
良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起コリ来タラン事ヲ
ああ、素晴らしい。やはり我が母校・同志社は素晴らしい。この言葉の由来を記した銅板がありました。それを読みながら新島先生の熱い想いをかみしめました。
大きな感動が胸を突き上げます・・・最大の土産を胸に刻んで帰路につきました。
by zenmz
| 2006-11-06 08:42
| 新島襄先生との対座