2006年 12月 24日
【6353】 「内視鏡パック旅行」記(4) |
==== 病床で噛みしめる”宗教卒業”の幸い ====
★ 病状は早々と確認され、心配されたガンの兆しはなく、比較的単純な”憩室出血”で止血処置も終わりました。今は、ジッと内視鏡による過酷な検査で荒らされた全消化器を休養させながら回復を待っています。2日間水も飲めない絶食。そして腸内に送り込まれた多量の空気と水。お腹はパンパンです。いやぁー、体力消耗しましたね。
★ ほっと小康を得て、ベッドに横たわって見えるのは天井の消火栓とそれを取り囲むように走っているレールだけ。そこから垂れ下がったカーテンが回りを遮断し、私を孤独な空間に閉じこめています。見るものもなく、なすこともなし。そんな中でただ思案、思索。横たえた身に漫然とわき上がるよしなき事どもに思いを巡らすだけの入院2日目でした。
★ わき上がる感慨は、先ず、どうしても病気を考えます。私も年齢を重ねたものだ。喜寿の身。何が起ころうと、トシに不足はない。死の床に就こうと年貢の納め時と観念して・・・それも・・・ともかく一段落。生きながらえた、この先のこと。・・・
私は、それまで傾倒した欧米に関することよりも、日本文化に愛着を抱くようになり、民族の故郷に回帰する気持ちを強めています。これもやはりトシですかねぇー。
★ 特に古希を過ぎる頃から、どうも日本人は自らを必要以上に卑下する傾向が強すぎるように思うようになりました。自分たちの文化に誇りを持たず、いたずらに外国からの目を気にする自意識過剰。もうそろそろ、他国人の目など気にせず、自らの文化に自身と誇りを持ってはどうか? 今日は、無性に宗教のことが気になりました。
★ 宗教。これが持ち出されると、日本人は実に気弱になります。自虐的に卑屈になります。外国人、特にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教など一神教を信じる皆さんのライフ・スタイルはなんとなく高等で、高尚との先入観もあり、賞揚されることが多い。それに引き替え土俗宗教の低俗さにしがみついている我々は・・・といった自虐的想念に取り憑かれます。
★ 確かに外国人の目には日本人は何とも不可思議な民族に映るようです。生まれた時は神社に参り、その後も七五三のお参りを欠かさない。だけど年頃になると結婚式は教会で、亡くなったら老若男女みんなお寺さん。軍隊で死を遂げれば父祖伝来の墓とは別に護国の神となり靖国神社に別祀する、それで誰も、違和感を持たない。そんなのすべて偶像崇拝、と、頭から否定する人々にとっては、何とも不可解な話なのでしょうね。
★ 私もアメリカ人のビジネスマンから「分からない話」として指摘された経験があります。その人が勤めている会社の社長が商売の神様(稲荷神社のことです)を信じており、毎朝、神棚に向かって柏手を打つ。それを社員全員に要求する。言われるとおりやってはいるが、ある日、「社長は神道ですか?」と聞いたら「無宗教だ」と答えたのでたまげた。それで気になって日本人の同僚に聞いたら、みんな返事は「無宗教」 だったら・・・毎朝、あなた達は何をしているのか?
★ このような論法で畳みかけられますと、日本人は大抵、苦笑いして、議論もあいまいに逸らします。相手の外国人は、それで尚、分からなくなるのですね。このような議論は、アジア、とりわけ東南アジア諸国の人々とはめったに起こりません。お互い「仏教徒」と言えば、それ以上に踏み込まない。そこで同信の納得が生じて、一件落着です。
★ ところが仏教以外の異教徒となると、「なぜ、なぜ」の質問攻めにあいます。一神教の人々は、祈りに始まり祈りで終わる神と向かいあう毎日を信仰の証しとして生きています。「神と向かい合う」生活の建前は子どもの頃から心身に刷り込まれた疑うことのない宗教イデオロギーですから余程のことでもない限り疑うこともありません。
★ 一神教の信仰は、宇宙を創造した神を信じます。唯一無二の全知全能神が「我以外を神としてはならない」との前提で帰依する者を守護する。信ずる者との神の契約で成り立っている宗教です。しかもその創造の神は「己が姿に似せて人間を創った」人格神です。信仰というものは、その神との契約の遵守という態度が根本にあります。
★ そもそも日本人には、信仰が神と自分との間の契約で成り立っているという観念は全くありません。それどころか宗教に「契約」などという商用語を持ち込まれると戸惑ってしまう。宗教は、俗世の日常生活から幾分、乖離(かいり)した霊の世界に属することで、”聖別された”時間と場所に身を置いて「魂寄せ」する行為を意味するのですね。
★ だから、一神教を信じる人は、こと”神”がらみの話をすると、実に几帳面。”神”をないがしろにするような異教徒は「神の恩寵に与ることがない」者か、あるいは「神に反逆した」不信者としか思わない。少なくとも「無宗教」などという態度は全く理解出来ないのですね。彼らにとっては、この世は神とその宗教が先ずあっての人間。それが「無い」などと考えることさえ疎ましいことです。
★ ところが、日本人は、こと神さんがらみになると、そのように高飛車に迫って来る神々には「触らぬ神に祟りなし」で、徹底して「敬して遠ざける」術を心得ています。近代国家への仲間入りに際しては、先ず内外の奇妙な宗教的イデオロギーが俗界に持ち込まれないように憲法で「信教の自由」を保障すると同時にその自由を大きく制約する「政教分離」を強調する規定を設けました。本能的に宗教の社会的・政治的介入の危険性を排除する仕組みを制度化したのです。
★ その結果、宗教は完全に「自由な個人の心」の世界に置かれました。昔からの家の仏教、それよろしい。若者が傾倒するキリスト教、それもよろしい。イスラムも知らねば・・それもいい。全て、よろしいですね。「イワシの頭も信心から」のようないかがわしい宗教でもとやかく言わずに布教を認める徹底ぶりです。そしてお互い、自分の中では何の屈託もない。一家の中で家族のそれぞれが、どんな信仰を持とうと、そのことで諍いが起こらない。こんな国は他にありません。日本人ほど日常生活で”宗教的苦悶”から自由な国民は世界にないでしょう。実に好ましい特性と言わねばなりません。
★ 唯一無二の創造神に”固い信仰を持つ”国々の外国人の宗教観と、”あっても良し、無くても善し、神の善きものすべて善し”の宗教観ではかみ合わないのは当然です。神は一つ、と、その神と向かい合って生きているのと、神の実在を知らず、あると言えば、あちこちにいっぱいある、と言うのではかみ合わない。議論にもならないです。
★ そんな日本を、「何でもイエース、イエースと迎え入れる無原則」の国などと言う批判も随分、ありますが、それは見当違い。なにか”原理原則”を立てて、揺るぎなくその原則に従って行動すれば理屈の筋道は立てやすいです。立派に見えるかもしれませんが、実のところ、それは独善的な妄執です。
★ 現に、その妄執が信念となり、妄執が生み出したそれぞれの”信念”に生きる人々が兄弟げんかを2千年間も続けています。一神教信徒の宿命的悲劇を見れば、その過ちは誰の目にも明らかです。めいめいが”唯一無二の全知全能”神を奉戴し、相異なる「信念の正義」が揺るがぬ限り、この人々の戦争は止みませんね。
★ 宗教問題に関してズバリ、言えば、日本は、もう「イデオロギー宗教」を卒業してしまっています。こと宗教に関して言えば、日本はもう「悟った国」なのです。アニミズム信仰から一神教の預言進化に至るまで、神の形や在りようは自由に認める。要不要を論ずるのは自由、信じる信じないも自由。宗教が個人の信仰レベルであれば誰も干渉しない。しかし、特定宗教イデオロギーを社会生活に持ち込むことは許さない。卒業生が身につけた知恵です。
★ 宗教を卒業した国では「神の名を掲げて」戦争を起こす危険は、もう絶対にありません。私が生きた時代に日本は一度、神権政治を試みて国を滅ぼしました。神聖にして侵すべからざる”現人神”は自ら「人間天皇」を宣言し、その系譜は日本では終焉しました。昭和21(1946)年元旦の昭和天皇「人間宣言」は、日本国民が宗教を卒業した「卒業証書」です。その後、我々が享受した「宗教的妄執のない国」 なんと素晴らしいものであったことか!
★ その新しい社会を半世紀、生きて来た私の実感は、何と平和なことか。信ずる宗教の故に家族分散する例は外国には実に数多くあります。改宗者を一族一門から永久追放する社会は世界各地にいっぱいあります。家族の構成メンバー一人一人が何を信じようと自由。信仰の故に家族が壊れない。宗教卒業の成果です。これだけでも世界に誇れるユニークな文化です。
★ ただ、最近は、放任に近いこの「宗教の自由」が、オウムのような狂信テロ活動を野放しにする大きな危険性を抱えています。これに対処するのに治安法制の整備による国家権力行使がいいのか、あるいは、国民一人一人の良識で無視・拒否の対抗意思表示・行動で消滅させるか。その兼ね合いは難しいでしょうが、その歯止めはきちんとしなければならないでしょう。
★ もう一つの懸念は、宗教結社が政治に参入し、新しい”神権政治”を目指す勢力の台頭です。明治維新以来150年、日本には数多くの新興宗教が誕生し、社会的発言をするようになりました。中には自ら政治結社をつくり政治活動を展開し始め、勢力を持つようになって、歴代保守政党は、これらの宗教色の強い政党と手を組み、今では、こうした宗教政党の協力が無ければ保守政権自らの権力が維持出来ないほどにその政治的影響力を増してきています。
★ 今こそ、一度、日本文化が現に置かれている姿をあるがままに、見直してみる必要があるのではないでしょうか。
世界は神が創造したのか? 自然に生りなりて生ったのか?
豊かな自然は神が人の為に備えたのか? 万物の霊長の驕り意識は人間の無限のエゴ意識を増幅させて地球的自然破壊をもたらしました。
人は豊かな自然の一部としてそこにあるのか? エコロジーの生命観は人間を地球を取り巻く生態系の一部に位置付けます。森羅万象、草木・微生物に至るまで生命価値は横並び平等・・・アニミズムに戻ります。
一体、人間に具体的な権力行使をする”神意を体現した”絶対者など、この世に存在するのか、どうか?
★ 文化の態様は、宗教の在りようと深く関わった問題ですね。その間隙を縫っていろんな勢力が台頭します。
喜寿の砌、今こそ、心を自由に遊ばせて、自らが辿りきた道を振り返り、祖国の今、を観察し、子・孫への教訓を残したい思いに駆られます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
======== 古希残照人生日々是好日 ========
「”内視鏡パック旅行”記」は5回連載です
【6350】 (1)==== 内視鏡・初体験 ====
【6351】 (2) ==== まな板の鯉の恨み節 =====
【6352】 (3)==== 思いめぐらす”五色鞠” ====
【6353】 (4)==== 病床で噛みしめる”宗教卒業”の幸い ====
【6354】 (5)==== 変貌遂げた”患者様”の病院 ====
★ 病状は早々と確認され、心配されたガンの兆しはなく、比較的単純な”憩室出血”で止血処置も終わりました。今は、ジッと内視鏡による過酷な検査で荒らされた全消化器を休養させながら回復を待っています。2日間水も飲めない絶食。そして腸内に送り込まれた多量の空気と水。お腹はパンパンです。いやぁー、体力消耗しましたね。
★ ほっと小康を得て、ベッドに横たわって見えるのは天井の消火栓とそれを取り囲むように走っているレールだけ。そこから垂れ下がったカーテンが回りを遮断し、私を孤独な空間に閉じこめています。見るものもなく、なすこともなし。そんな中でただ思案、思索。横たえた身に漫然とわき上がるよしなき事どもに思いを巡らすだけの入院2日目でした。
★ わき上がる感慨は、先ず、どうしても病気を考えます。私も年齢を重ねたものだ。喜寿の身。何が起ころうと、トシに不足はない。死の床に就こうと年貢の納め時と観念して・・・それも・・・ともかく一段落。生きながらえた、この先のこと。・・・
私は、それまで傾倒した欧米に関することよりも、日本文化に愛着を抱くようになり、民族の故郷に回帰する気持ちを強めています。これもやはりトシですかねぇー。
★ 特に古希を過ぎる頃から、どうも日本人は自らを必要以上に卑下する傾向が強すぎるように思うようになりました。自分たちの文化に誇りを持たず、いたずらに外国からの目を気にする自意識過剰。もうそろそろ、他国人の目など気にせず、自らの文化に自身と誇りを持ってはどうか? 今日は、無性に宗教のことが気になりました。
★ 宗教。これが持ち出されると、日本人は実に気弱になります。自虐的に卑屈になります。外国人、特にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教など一神教を信じる皆さんのライフ・スタイルはなんとなく高等で、高尚との先入観もあり、賞揚されることが多い。それに引き替え土俗宗教の低俗さにしがみついている我々は・・・といった自虐的想念に取り憑かれます。
★ 確かに外国人の目には日本人は何とも不可思議な民族に映るようです。生まれた時は神社に参り、その後も七五三のお参りを欠かさない。だけど年頃になると結婚式は教会で、亡くなったら老若男女みんなお寺さん。軍隊で死を遂げれば父祖伝来の墓とは別に護国の神となり靖国神社に別祀する、それで誰も、違和感を持たない。そんなのすべて偶像崇拝、と、頭から否定する人々にとっては、何とも不可解な話なのでしょうね。
★ 私もアメリカ人のビジネスマンから「分からない話」として指摘された経験があります。その人が勤めている会社の社長が商売の神様(稲荷神社のことです)を信じており、毎朝、神棚に向かって柏手を打つ。それを社員全員に要求する。言われるとおりやってはいるが、ある日、「社長は神道ですか?」と聞いたら「無宗教だ」と答えたのでたまげた。それで気になって日本人の同僚に聞いたら、みんな返事は「無宗教」 だったら・・・毎朝、あなた達は何をしているのか?
★ このような論法で畳みかけられますと、日本人は大抵、苦笑いして、議論もあいまいに逸らします。相手の外国人は、それで尚、分からなくなるのですね。このような議論は、アジア、とりわけ東南アジア諸国の人々とはめったに起こりません。お互い「仏教徒」と言えば、それ以上に踏み込まない。そこで同信の納得が生じて、一件落着です。
★ ところが仏教以外の異教徒となると、「なぜ、なぜ」の質問攻めにあいます。一神教の人々は、祈りに始まり祈りで終わる神と向かいあう毎日を信仰の証しとして生きています。「神と向かい合う」生活の建前は子どもの頃から心身に刷り込まれた疑うことのない宗教イデオロギーですから余程のことでもない限り疑うこともありません。
★ 一神教の信仰は、宇宙を創造した神を信じます。唯一無二の全知全能神が「我以外を神としてはならない」との前提で帰依する者を守護する。信ずる者との神の契約で成り立っている宗教です。しかもその創造の神は「己が姿に似せて人間を創った」人格神です。信仰というものは、その神との契約の遵守という態度が根本にあります。
★ そもそも日本人には、信仰が神と自分との間の契約で成り立っているという観念は全くありません。それどころか宗教に「契約」などという商用語を持ち込まれると戸惑ってしまう。宗教は、俗世の日常生活から幾分、乖離(かいり)した霊の世界に属することで、”聖別された”時間と場所に身を置いて「魂寄せ」する行為を意味するのですね。
★ だから、一神教を信じる人は、こと”神”がらみの話をすると、実に几帳面。”神”をないがしろにするような異教徒は「神の恩寵に与ることがない」者か、あるいは「神に反逆した」不信者としか思わない。少なくとも「無宗教」などという態度は全く理解出来ないのですね。彼らにとっては、この世は神とその宗教が先ずあっての人間。それが「無い」などと考えることさえ疎ましいことです。
★ ところが、日本人は、こと神さんがらみになると、そのように高飛車に迫って来る神々には「触らぬ神に祟りなし」で、徹底して「敬して遠ざける」術を心得ています。近代国家への仲間入りに際しては、先ず内外の奇妙な宗教的イデオロギーが俗界に持ち込まれないように憲法で「信教の自由」を保障すると同時にその自由を大きく制約する「政教分離」を強調する規定を設けました。本能的に宗教の社会的・政治的介入の危険性を排除する仕組みを制度化したのです。
★ その結果、宗教は完全に「自由な個人の心」の世界に置かれました。昔からの家の仏教、それよろしい。若者が傾倒するキリスト教、それもよろしい。イスラムも知らねば・・それもいい。全て、よろしいですね。「イワシの頭も信心から」のようないかがわしい宗教でもとやかく言わずに布教を認める徹底ぶりです。そしてお互い、自分の中では何の屈託もない。一家の中で家族のそれぞれが、どんな信仰を持とうと、そのことで諍いが起こらない。こんな国は他にありません。日本人ほど日常生活で”宗教的苦悶”から自由な国民は世界にないでしょう。実に好ましい特性と言わねばなりません。
★ 唯一無二の創造神に”固い信仰を持つ”国々の外国人の宗教観と、”あっても良し、無くても善し、神の善きものすべて善し”の宗教観ではかみ合わないのは当然です。神は一つ、と、その神と向かい合って生きているのと、神の実在を知らず、あると言えば、あちこちにいっぱいある、と言うのではかみ合わない。議論にもならないです。
★ そんな日本を、「何でもイエース、イエースと迎え入れる無原則」の国などと言う批判も随分、ありますが、それは見当違い。なにか”原理原則”を立てて、揺るぎなくその原則に従って行動すれば理屈の筋道は立てやすいです。立派に見えるかもしれませんが、実のところ、それは独善的な妄執です。
★ 現に、その妄執が信念となり、妄執が生み出したそれぞれの”信念”に生きる人々が兄弟げんかを2千年間も続けています。一神教信徒の宿命的悲劇を見れば、その過ちは誰の目にも明らかです。めいめいが”唯一無二の全知全能”神を奉戴し、相異なる「信念の正義」が揺るがぬ限り、この人々の戦争は止みませんね。
★ 宗教問題に関してズバリ、言えば、日本は、もう「イデオロギー宗教」を卒業してしまっています。こと宗教に関して言えば、日本はもう「悟った国」なのです。アニミズム信仰から一神教の預言進化に至るまで、神の形や在りようは自由に認める。要不要を論ずるのは自由、信じる信じないも自由。宗教が個人の信仰レベルであれば誰も干渉しない。しかし、特定宗教イデオロギーを社会生活に持ち込むことは許さない。卒業生が身につけた知恵です。
★ 宗教を卒業した国では「神の名を掲げて」戦争を起こす危険は、もう絶対にありません。私が生きた時代に日本は一度、神権政治を試みて国を滅ぼしました。神聖にして侵すべからざる”現人神”は自ら「人間天皇」を宣言し、その系譜は日本では終焉しました。昭和21(1946)年元旦の昭和天皇「人間宣言」は、日本国民が宗教を卒業した「卒業証書」です。その後、我々が享受した「宗教的妄執のない国」 なんと素晴らしいものであったことか!
★ その新しい社会を半世紀、生きて来た私の実感は、何と平和なことか。信ずる宗教の故に家族分散する例は外国には実に数多くあります。改宗者を一族一門から永久追放する社会は世界各地にいっぱいあります。家族の構成メンバー一人一人が何を信じようと自由。信仰の故に家族が壊れない。宗教卒業の成果です。これだけでも世界に誇れるユニークな文化です。
★ ただ、最近は、放任に近いこの「宗教の自由」が、オウムのような狂信テロ活動を野放しにする大きな危険性を抱えています。これに対処するのに治安法制の整備による国家権力行使がいいのか、あるいは、国民一人一人の良識で無視・拒否の対抗意思表示・行動で消滅させるか。その兼ね合いは難しいでしょうが、その歯止めはきちんとしなければならないでしょう。
★ もう一つの懸念は、宗教結社が政治に参入し、新しい”神権政治”を目指す勢力の台頭です。明治維新以来150年、日本には数多くの新興宗教が誕生し、社会的発言をするようになりました。中には自ら政治結社をつくり政治活動を展開し始め、勢力を持つようになって、歴代保守政党は、これらの宗教色の強い政党と手を組み、今では、こうした宗教政党の協力が無ければ保守政権自らの権力が維持出来ないほどにその政治的影響力を増してきています。
★ 今こそ、一度、日本文化が現に置かれている姿をあるがままに、見直してみる必要があるのではないでしょうか。
世界は神が創造したのか? 自然に生りなりて生ったのか?
豊かな自然は神が人の為に備えたのか? 万物の霊長の驕り意識は人間の無限のエゴ意識を増幅させて地球的自然破壊をもたらしました。
人は豊かな自然の一部としてそこにあるのか? エコロジーの生命観は人間を地球を取り巻く生態系の一部に位置付けます。森羅万象、草木・微生物に至るまで生命価値は横並び平等・・・アニミズムに戻ります。
一体、人間に具体的な権力行使をする”神意を体現した”絶対者など、この世に存在するのか、どうか?
★ 文化の態様は、宗教の在りようと深く関わった問題ですね。その間隙を縫っていろんな勢力が台頭します。
喜寿の砌、今こそ、心を自由に遊ばせて、自らが辿りきた道を振り返り、祖国の今、を観察し、子・孫への教訓を残したい思いに駆られます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
======== 古希残照人生日々是好日 ========
「”内視鏡パック旅行”記」は5回連載です
【6350】 (1)==== 内視鏡・初体験 ====
【6351】 (2) ==== まな板の鯉の恨み節 =====
【6352】 (3)==== 思いめぐらす”五色鞠” ====
【6353】 (4)==== 病床で噛みしめる”宗教卒業”の幸い ====
【6354】 (5)==== 変貌遂げた”患者様”の病院 ====
by zenmz
| 2006-12-24 00:00
| 健康・医療