2007年 06月 18日
【7263】 昭和ヒトケタの幼なじみ |
★ 韓国・釜山から”月山君”がやって来ました。5年ぶり。 本当にうれしい。小学校時代の同級生。もう65年の付き合いです。誰にとっても懐かしい”幼なじみ”はいいものです。
しかし、昭和ヒトケタのその関係は、少々、複雑。
重い歴史を引きずっていて、私たちの想いの中はちょっとひと味、違います。
★ 月山君の本名は、崔秉大(チェ・ヨンデェ) ”月山”君は日本国民だったが、今は韓国籍の”崔”君。1945年(昭和20年)日本敗戦で、韓国は独立。「祖国建設に帰国する」と言って日本を離れたのは、私が15歳、”月山”君16歳の時でした。
そして40年後、再会した”崔”君と私は共に白髪と、ハゲを気にする年頃になっていました。
★ 40年間を互いに音信不通で過ごした後、再び、巡り会えたのは、本当に運命的でした。
間を取り持ったのは、朝日新聞の記者。韓国・釜山での取材に何かと協力してくれたのが当時、在釜山日本国総領事館の領事部次長をしていた崔君だったのです。私が新聞記者をしている、と、風の頼りで耳にしていたこともあり、「もし、分かれば・・・」と、私の消息を探すよう依頼したのでした。
★ その朝日記者は、各社の社員名簿をひっくり返して、私を捜し当てました。「銭本三千年」 めったに無い名が決め手になりました。そして24年前の1983年暮、私は老妻を伴い、釜山を訪れて懐かしい”月山”と再会したのです。
★ ともかく、会うたびに交わす会話は先ず、幼い日々に戻ります。何よりも不思議に思うのは、お互い一緒に過ごしたのは、小学校の2年半だけ。私にとっては、学童疎開先でしかありませんでした。私の母校はあくまで京都市立深草第一小学校。
★ 疎開先の広島の田舎町にあった小学校のクラスにどんな友がいたのか?
50人のクラスだったはずですが、覚えているのは5人だけ。
その中の二人が”月山”と”大山” この二人は韓国人でした。
★ 「何故、今も、こうして交友が続いているのは、君と、”大山”でけなのだろう?」
一度、”月山”君に訊ねたことがあります。即座に返事が返ってきました。
「お互い、いじめられっ子だった。きっとそれだよ」
★ 京都から広島へ、一番、苦労したのは言葉でした。何とも奇妙な言葉のアクセントに囲まれ、会話の意味もつかみかねている私に担任の先生が先ず厳命したのは、「早く広島の子になりなさい」 私は子どもの頃、内気で社交下手な子どもでした。だから広島弁にはついに慣れず、間もなく、カラカイ、イジメの対象になりました。いじめっ子には、先生の私への厳命「早く広島の子になりなさい」が、その行動の”錦の御旗”になっていたことを想います。
★ ”月山”君も言葉では苦労していました。会った当時は、日本に来て数年目。たどたどしい日本語で韓国人独特の訛りがありました。それをみんなが真似してカラカウ。”月山”君は、言葉の関係もあったのでしょう。2歳年長なのに我々のクラスにいました。ある日、堪忍袋の緒が切れて、カラカイ頭の税務署長の子をぶつ倒しました。
★ 全校児童を講堂に集め、校長先生は、”月山”を壇上に上げ、「自分の勉強不足をタナにあげ、皇国国民に暴力を揮うとは何事だ。恥を知れ」と大声で叱責し,ました。それを見て、私はオノノキました。どうしても広島弁が身に付かず、京都弁が抜けきらずにいることを「自分の努力不足」と叱責されている、と二重写しになったのです。
★ 「殴られた者の痛みは、殴ったヤツには分からんよ。ナ、ゼニモト君」 そう述懐した”月山”君に、後日談があります。
その後、”月山”君は何度か、日本に来るたびに、その小学校がある町に立ち寄って来た、と言います。
「何のために?」
訝る私に、こう答えました。
「当時は恨んだ。だが、大人になって、振り返ってみれば、やはり、校長先生は、私の恩師だった。そのご恩に思いが至り墓参するようになった。」
★ あの校長先生のお墓がどこにあるのか? 私には、意識することもありません。
いや、はっきり言って、終戦間際に15歳の子どもに竹槍使ってのゲリラ戦を教えた人、との忌まわしい記憶しかありあません。
★ 久しぶりに顔を合わせた昭和ヒトケタの懐旧談。同じ想いを、何度も、何度も、語り合い、繰り返してきたことですが、また同じ話の繰り返し。ともかく、乾杯! 久しぶりの再会。自然と、私たちの会話は、小学校時代に戻ります。
★ 朝鮮半島の朝鮮民族の現状については、我々日本に大きな責任があります。日韓両国民が乗り越えねばならなかった【愛憎の相克】 中でも日本人が忘れている次のエピソードは、是非、この機会に知っていただきたい、と思います。
★ 世に知られざる崔秉大君の献身について、日本人の皆様にご理解をいただければ幸甚に存じます。
【6136】 イルポン・ハルモニと崔秉大氏
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しかし、昭和ヒトケタのその関係は、少々、複雑。
重い歴史を引きずっていて、私たちの想いの中はちょっとひと味、違います。
★ 月山君の本名は、崔秉大(チェ・ヨンデェ) ”月山”君は日本国民だったが、今は韓国籍の”崔”君。1945年(昭和20年)日本敗戦で、韓国は独立。「祖国建設に帰国する」と言って日本を離れたのは、私が15歳、”月山”君16歳の時でした。
そして40年後、再会した”崔”君と私は共に白髪と、ハゲを気にする年頃になっていました。
★ 40年間を互いに音信不通で過ごした後、再び、巡り会えたのは、本当に運命的でした。
間を取り持ったのは、朝日新聞の記者。韓国・釜山での取材に何かと協力してくれたのが当時、在釜山日本国総領事館の領事部次長をしていた崔君だったのです。私が新聞記者をしている、と、風の頼りで耳にしていたこともあり、「もし、分かれば・・・」と、私の消息を探すよう依頼したのでした。
★ その朝日記者は、各社の社員名簿をひっくり返して、私を捜し当てました。「銭本三千年」 めったに無い名が決め手になりました。そして24年前の1983年暮、私は老妻を伴い、釜山を訪れて懐かしい”月山”と再会したのです。
★ ともかく、会うたびに交わす会話は先ず、幼い日々に戻ります。何よりも不思議に思うのは、お互い一緒に過ごしたのは、小学校の2年半だけ。私にとっては、学童疎開先でしかありませんでした。私の母校はあくまで京都市立深草第一小学校。
★ 疎開先の広島の田舎町にあった小学校のクラスにどんな友がいたのか?
50人のクラスだったはずですが、覚えているのは5人だけ。
その中の二人が”月山”と”大山” この二人は韓国人でした。
★ 「何故、今も、こうして交友が続いているのは、君と、”大山”でけなのだろう?」
一度、”月山”君に訊ねたことがあります。即座に返事が返ってきました。
「お互い、いじめられっ子だった。きっとそれだよ」
★ 京都から広島へ、一番、苦労したのは言葉でした。何とも奇妙な言葉のアクセントに囲まれ、会話の意味もつかみかねている私に担任の先生が先ず厳命したのは、「早く広島の子になりなさい」 私は子どもの頃、内気で社交下手な子どもでした。だから広島弁にはついに慣れず、間もなく、カラカイ、イジメの対象になりました。いじめっ子には、先生の私への厳命「早く広島の子になりなさい」が、その行動の”錦の御旗”になっていたことを想います。
★ ”月山”君も言葉では苦労していました。会った当時は、日本に来て数年目。たどたどしい日本語で韓国人独特の訛りがありました。それをみんなが真似してカラカウ。”月山”君は、言葉の関係もあったのでしょう。2歳年長なのに我々のクラスにいました。ある日、堪忍袋の緒が切れて、カラカイ頭の税務署長の子をぶつ倒しました。
★ 全校児童を講堂に集め、校長先生は、”月山”を壇上に上げ、「自分の勉強不足をタナにあげ、皇国国民に暴力を揮うとは何事だ。恥を知れ」と大声で叱責し,ました。それを見て、私はオノノキました。どうしても広島弁が身に付かず、京都弁が抜けきらずにいることを「自分の努力不足」と叱責されている、と二重写しになったのです。
★ 「殴られた者の痛みは、殴ったヤツには分からんよ。ナ、ゼニモト君」 そう述懐した”月山”君に、後日談があります。
その後、”月山”君は何度か、日本に来るたびに、その小学校がある町に立ち寄って来た、と言います。
「何のために?」
訝る私に、こう答えました。
「当時は恨んだ。だが、大人になって、振り返ってみれば、やはり、校長先生は、私の恩師だった。そのご恩に思いが至り墓参するようになった。」
★ あの校長先生のお墓がどこにあるのか? 私には、意識することもありません。
いや、はっきり言って、終戦間際に15歳の子どもに竹槍使ってのゲリラ戦を教えた人、との忌まわしい記憶しかありあません。
★ 久しぶりに顔を合わせた昭和ヒトケタの懐旧談。同じ想いを、何度も、何度も、語り合い、繰り返してきたことですが、また同じ話の繰り返し。ともかく、乾杯! 久しぶりの再会。自然と、私たちの会話は、小学校時代に戻ります。
★ 朝鮮半島の朝鮮民族の現状については、我々日本に大きな責任があります。日韓両国民が乗り越えねばならなかった【愛憎の相克】 中でも日本人が忘れている次のエピソードは、是非、この機会に知っていただきたい、と思います。
★ 世に知られざる崔秉大君の献身について、日本人の皆様にご理解をいただければ幸甚に存じます。
【6136】 イルポン・ハルモニと崔秉大氏
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by zenmz
| 2007-06-18 20:28
| 我が内なる韓国