2007年 07月 20日
【7335】 10年目の特別講義 |
★ 2007年7月に77歳のお誕生日! ラッキーナンバー「7777」 何と目出度い喜寿をお迎えになられたことでしょう。私までうれしくなります。おめでとうございます・・・
全国に散った卒業生からだけではありません。ネットで知り合いになった見知らぬ方々から・・・、遠く海外の友人から、皆さん、異口同音に、「7777」のお祝いを送ってくださいました。 当人は、そのことを全く意識しておらず、改めて数字の語呂合わせの偶然に驚いています。
皆様、本当にありがとうございました。自分の誕生日への意味付けが出来ました。
昭和5年の7月生まれの老年男女は、全員、「7777」のラッキー・シニアです。
★ ところで、卒業生たちが祝ってくれた「喜寿の祝い」
今年は、この日は、とりわけ私にとって意味のある年でした。昨夕、午後7時。いつもの会場である岡山空港側の温泉会館「レスパール藤ヶ鳴」に集まってくれた卒業生たちを前に、開会に先立ち、
「短時間でいい。、”10年目の特別講義”をさせて欲しい」
と、口を開きました。
この日を迎える私の特別の感動を伝えたかったのです。
==== 10年目の特別講義 ====
○ 皆さん、私は平成元年(1988)4月に、我らの母校である高梁市の順正短期大学に来ました。皆さんが学んだ保健福祉専攻をスタートさせ、専攻主任を務めました。
○ そして平成10年(1998).3月に定年を迎えるまで、10年間、この学校で教員をし、数百人に上る若い人々と出会いました。
奇しくも、本日は、その最初の第一期生と、最後の9期性が席を共にして私の喜寿を祝ってくれています。
この事実は、私にとって、格別の意味があります。こみ上げる感動を覚えながら、今夕は、その意味を語らせていただきたいと思います。
○ 皆さんは、既に十分、ご存知の通り、私は、新聞記者から大学の教員になった者です。教育に関しては素人でしかありません。その素人が教壇に立ち、皆さんと出会って何を、どのように教えたのか? 自分が行った教育のすべてを総決算する日が本日、やってきました。それを吟味してもらうため、私が行った教育実践の記録をまとめて、皆さんのお手元にお渡ししています。後ほど、これをじっくり読んでもらいたい、と、願います。
【卒業生の皆さんへ】
(この日、用意した資料の一部は、ネット上でご覧下さい。【私の取り組んだ教育】 かなり長編です。全編リンクしてあります。最初から見て下さい。)
○ 一番、若い、第9期生の皆さんは、「銭本ゼミ」の同士でした。そして、私たちは、平成10年(1998).3月に一緒に、この学校を卒業しました。
○ 私は、卒業を前に「銭本ゼミ」最後の授業で皆さんにこう挨拶しました。
覚えていますか?
○ 正に、本日、その日が来ました。
皆さんが二十歳前の2年間、「銭本ゼミ」で、それこそ寝食忘れて研究に取り組んだ成果を、今こそ、冷静に、じっくり見つめなおして見ましょう。
それは、同時に、指導にあたった教師である私の教育観、教育方法について問い質し、厳正な評価・批判を行うものです。
それを適切に行うことは、これから学齢期を迎える子どもの親として教育問題と取り組む上できっと役立つに違いありません。
○ 私が行った教育実践・・・細かいことは、お渡しした資料を読んでください。
しかし、私の教育を思い出していただくために、私が一番、重視した一つの事柄だけを、今夕は語っておきたいと思います。きっと皆さんも生々しく思い出すでしょう。
○ 私は、教育という営みは、出来る、出来ないといった功利的な目的にあるのではなく、ただひたすらに没頭することだと信じています。教師は教え浸り、学生・生徒は学び浸る。ただそれだけが一番、大切。その先に何が生まれるか? それは誰も予断できません。
そう信じてきました。
○ 私が「銭本ゼミ」参加者に求めたのは、ただ学び浸る。それだけでした。
当然、学校教育という制度は、それを支え、助長・促進するものと思っていました。しかし、私は、モノ知らずでした。素人教員のナイーブな理想は無残にも打ち砕かれたのです。
○ 先ず直面したのは、それを許さぬ学校管理体制でした。10時、11時、そして時には深夜にわたって研究室に赤々と電気を灯し、研究に没頭する学生たちは、間も無く、建物管理の事務員から厄介者扱いされるようになりました。
○ それは、教授会でも問題視されるようになり、「消灯・閉門は午後8時。以降は学校に滞留してはならない」との管理注意を、私がしばしば受けるようになりました。
「先生も管理責任者です。その立場もお考えいただかないと・・・」
○ 私たちの「学び浸り」は、突然、立ちふさがった、この”妨害”と戦い抜きながら、あるべき教育の姿の真実を貫かねばなりませんでした。しかし、最後まで、私たちは「学び浸る」情熱を失わず貫きました。私は、皆さんのその情熱を思い起し、誇らしい気持ちを温めています。
○ 私も、さまざまの管理主義の妨害と、皆さんと共に戦い、この志を最後まで貫いたことを誇りに思っています。だからこそ、今、ここに集う同士との「志縁・知縁」の強い絆に、特別の感慨がこもる思いをいたしています。
○ 皆さんが行った卒業研究「介護保険制度とは何か?」
それは、優れた業績でした。 介護保険が始まる2年前のこと。未だ何が始まるのか? 誰も知らないときに10年後に起こりうるであろうシミュレーションに取り組みました。
○ 今、皆さんが残した研究要録を見て私は、その確かさに改めて驚いています。特にYグループが意欲的に取り組んだ「モラル・ハザードの発生」 コムソンの一大不祥事が明るみに出て、その分析の確かさが立証されました。特筆すべきだと思っています。改めて「優」評価を出したい想いです。
○ 皆さん、思い起してください。
学び浸りの私たちの砦でした。
○ 最後に、もう一言、最も重要なことを申し上げねばなりません。
皆さんとともに、毎年、毎年、私の誕生会に出席し、かつまた、母校の「卒業生セミナー」の運営役をして下さっている、皆さんの先輩。そして私と一緒に、この学校にやって来た第1期生のO君。今、私の傍らに付き添っています。
○ このO君こそ、私にとって、そして、恐らく皆さんすべての後輩にとって記憶されるべき大恩人なのです。この人が居なかったら、多分、私たちの出会いは無かったでしょう。
○ 12年前、65歳の時、私は、教室で倒れました。運び込まれた病院で検査結果、腎臓ガン。直ちに摘出手術を受けました。かなり重篤な状況に陥り、インターフェロンの投与が開始されました。皆さんもご存知でしょうが、インターフェロンは自殺願望を起こす副作用があります。ひどい欝(うつ)状態が続きました。
○ そんな時、このO君が見舞ってくれました。渡りに船。悶々と悩んでいた言葉を出しました。
「O君、ボクはもうダメだ。キミはご苦労だが、直ぐ、その足で、学校へ辞職願いを出してくれないか? もう教壇に戻れない」
ジッと、私を見つめながら聞き入っていたO君が言いました。
「先生、生死を戦い抜かれた教授からこそ魂のこもった講義を聞きたい。それが学生たちの答えです」
○ その一声が私を目覚めさせてくれました。
それから1ヶ月後、主治医が止めるのを振り切り、私は新学期が始まった教壇に復帰しました。
「これより、私の授業はすべて変える。これより私の語る言葉はすべてホンネだ。命をかけた講義を始める」
○ 9期生の皆さん、こうして、皆さんと、私がお出会いできたのでした。
そして、皆さんと最後の研究に励み、一緒に、この学校を卒業し、その後、毎年、毎年、誕生会に招いていただく。深い、深い絆が結ばれたのです。
その意味の深さ、誠に尊いものがあります。
改めて御礼を申し上げます。O君、ありがとう。
全国に散った卒業生からだけではありません。ネットで知り合いになった見知らぬ方々から・・・、遠く海外の友人から、皆さん、異口同音に、「7777」のお祝いを送ってくださいました。 当人は、そのことを全く意識しておらず、改めて数字の語呂合わせの偶然に驚いています。
皆様、本当にありがとうございました。自分の誕生日への意味付けが出来ました。
昭和5年の7月生まれの老年男女は、全員、「7777」のラッキー・シニアです。
★ ところで、卒業生たちが祝ってくれた「喜寿の祝い」
今年は、この日は、とりわけ私にとって意味のある年でした。昨夕、午後7時。いつもの会場である岡山空港側の温泉会館「レスパール藤ヶ鳴」に集まってくれた卒業生たちを前に、開会に先立ち、
「短時間でいい。、”10年目の特別講義”をさせて欲しい」
と、口を開きました。
この日を迎える私の特別の感動を伝えたかったのです。
==== 10年目の特別講義 ====
○ 皆さん、私は平成元年(1988)4月に、我らの母校である高梁市の順正短期大学に来ました。皆さんが学んだ保健福祉専攻をスタートさせ、専攻主任を務めました。
○ そして平成10年(1998).3月に定年を迎えるまで、10年間、この学校で教員をし、数百人に上る若い人々と出会いました。
奇しくも、本日は、その最初の第一期生と、最後の9期性が席を共にして私の喜寿を祝ってくれています。
この事実は、私にとって、格別の意味があります。こみ上げる感動を覚えながら、今夕は、その意味を語らせていただきたいと思います。
○ 皆さんは、既に十分、ご存知の通り、私は、新聞記者から大学の教員になった者です。教育に関しては素人でしかありません。その素人が教壇に立ち、皆さんと出会って何を、どのように教えたのか? 自分が行った教育のすべてを総決算する日が本日、やってきました。それを吟味してもらうため、私が行った教育実践の記録をまとめて、皆さんのお手元にお渡ししています。後ほど、これをじっくり読んでもらいたい、と、願います。
【卒業生の皆さんへ】
(この日、用意した資料の一部は、ネット上でご覧下さい。【私の取り組んだ教育】 かなり長編です。全編リンクしてあります。最初から見て下さい。)
○ 一番、若い、第9期生の皆さんは、「銭本ゼミ」の同士でした。そして、私たちは、平成10年(1998).3月に一緒に、この学校を卒業しました。
○ 私は、卒業を前に「銭本ゼミ」最後の授業で皆さんにこう挨拶しました。
覚えていますか?
○ 「私は、君たちを、10年先からの近未来の留学生と思い、10年後、社会はどうなっているか? それを留学生たちが明らかにする意欲を沸き立たせる教育に取り組んで来ました。
○ 「これから10年。石の上にも3年ということわざがある。どうか、新しい”介護”という専門職を完成する実践に取り組んで欲しい。私たちのゼミは2年後に始まる介護保険制度のシュミレーションをテーマに研究し、卒業研究を完成させました」
○ 「その成果は、研究集録と、研究発表「介護保険とは何か」で、プレゼンテーション発表を行い、公表しました。そのすべてはCD-Rに記録し、卒業記念に皆さんにお渡しします。10年後、皆さんは、30歳になっています。多分、多くは結婚し、家庭をもち、そして、子育てに勤しんでいることでしょう」
○ 「若き日、情熱をたぎらせ、研究に打ち込んだ勉強の成果を、10年後に社会人生活を生き十分な人生経験を積んたオトナの目で評価しようではありませんか?
10年後、再び、共に集い、この成果を再検討することにしましょう」
○ 正に、本日、その日が来ました。
皆さんが二十歳前の2年間、「銭本ゼミ」で、それこそ寝食忘れて研究に取り組んだ成果を、今こそ、冷静に、じっくり見つめなおして見ましょう。
それは、同時に、指導にあたった教師である私の教育観、教育方法について問い質し、厳正な評価・批判を行うものです。
それを適切に行うことは、これから学齢期を迎える子どもの親として教育問題と取り組む上できっと役立つに違いありません。
○ 私が行った教育実践・・・細かいことは、お渡しした資料を読んでください。
しかし、私の教育を思い出していただくために、私が一番、重視した一つの事柄だけを、今夕は語っておきたいと思います。きっと皆さんも生々しく思い出すでしょう。
○ 私は、教育という営みは、出来る、出来ないといった功利的な目的にあるのではなく、ただひたすらに没頭することだと信じています。教師は教え浸り、学生・生徒は学び浸る。ただそれだけが一番、大切。その先に何が生まれるか? それは誰も予断できません。
そう信じてきました。
○ 私が「銭本ゼミ」参加者に求めたのは、ただ学び浸る。それだけでした。
当然、学校教育という制度は、それを支え、助長・促進するものと思っていました。しかし、私は、モノ知らずでした。素人教員のナイーブな理想は無残にも打ち砕かれたのです。
○ 先ず直面したのは、それを許さぬ学校管理体制でした。10時、11時、そして時には深夜にわたって研究室に赤々と電気を灯し、研究に没頭する学生たちは、間も無く、建物管理の事務員から厄介者扱いされるようになりました。
○ それは、教授会でも問題視されるようになり、「消灯・閉門は午後8時。以降は学校に滞留してはならない」との管理注意を、私がしばしば受けるようになりました。
「先生も管理責任者です。その立場もお考えいただかないと・・・」
○ 私たちの「学び浸り」は、突然、立ちふさがった、この”妨害”と戦い抜きながら、あるべき教育の姿の真実を貫かねばなりませんでした。しかし、最後まで、私たちは「学び浸る」情熱を失わず貫きました。私は、皆さんのその情熱を思い起し、誇らしい気持ちを温めています。
○ 私も、さまざまの管理主義の妨害と、皆さんと共に戦い、この志を最後まで貫いたことを誇りに思っています。だからこそ、今、ここに集う同士との「志縁・知縁」の強い絆に、特別の感慨がこもる思いをいたしています。
○ 皆さんが行った卒業研究「介護保険制度とは何か?」
それは、優れた業績でした。 介護保険が始まる2年前のこと。未だ何が始まるのか? 誰も知らないときに10年後に起こりうるであろうシミュレーションに取り組みました。
○ 今、皆さんが残した研究要録を見て私は、その確かさに改めて驚いています。特にYグループが意欲的に取り組んだ「モラル・ハザードの発生」 コムソンの一大不祥事が明るみに出て、その分析の確かさが立証されました。特筆すべきだと思っています。改めて「優」評価を出したい想いです。
○ 皆さん、思い起してください。
銭本研究室フロントページのモットー【志縁・知縁】
訪れる人に喜びと幸いを
Joy & happiness upon those who visit
去りゆく人に希望と大志を
Hope & aspiration upon those who leave
学び浸りの私たちの砦でした。
○ 最後に、もう一言、最も重要なことを申し上げねばなりません。
皆さんとともに、毎年、毎年、私の誕生会に出席し、かつまた、母校の「卒業生セミナー」の運営役をして下さっている、皆さんの先輩。そして私と一緒に、この学校にやって来た第1期生のO君。今、私の傍らに付き添っています。
○ このO君こそ、私にとって、そして、恐らく皆さんすべての後輩にとって記憶されるべき大恩人なのです。この人が居なかったら、多分、私たちの出会いは無かったでしょう。
○ 12年前、65歳の時、私は、教室で倒れました。運び込まれた病院で検査結果、腎臓ガン。直ちに摘出手術を受けました。かなり重篤な状況に陥り、インターフェロンの投与が開始されました。皆さんもご存知でしょうが、インターフェロンは自殺願望を起こす副作用があります。ひどい欝(うつ)状態が続きました。
○ そんな時、このO君が見舞ってくれました。渡りに船。悶々と悩んでいた言葉を出しました。
「O君、ボクはもうダメだ。キミはご苦労だが、直ぐ、その足で、学校へ辞職願いを出してくれないか? もう教壇に戻れない」
ジッと、私を見つめながら聞き入っていたO君が言いました。
「先生、生死を戦い抜かれた教授からこそ魂のこもった講義を聞きたい。それが学生たちの答えです」
○ その一声が私を目覚めさせてくれました。
それから1ヶ月後、主治医が止めるのを振り切り、私は新学期が始まった教壇に復帰しました。
「これより、私の授業はすべて変える。これより私の語る言葉はすべてホンネだ。命をかけた講義を始める」
○ 9期生の皆さん、こうして、皆さんと、私がお出会いできたのでした。
そして、皆さんと最後の研究に励み、一緒に、この学校を卒業し、その後、毎年、毎年、誕生会に招いていただく。深い、深い絆が結ばれたのです。
その意味の深さ、誠に尊いものがあります。
改めて御礼を申し上げます。O君、ありがとう。
by zenmz
| 2007-07-20 17:30
| 一期一会