2007年 11月 16日
【7435】 デジタル・デバイドを埋める”愛” |
★ 今月に入って、約2週間、私は、意識的にパソコンのネットを切断して過ごしました。
12年間、慣れ親しんできたインターネットですが、気づかぬうちに新種の”文明病”に罹患してしまっていることに気づき、”転地療法”気分で、アナログ世界に身を置き、静かに自らを省みておりました。
★ やはり、何か、ちょっと、変? 自分のネット人生に大きな疑問を抱き始めた直接の出来事は、尊敬する大先輩が白寿を迎えられた、と、いうニュースでした。その方への想いは、かつて、このブログにもご紹介したことがあります。 【6310】 人生の師・藤井郁子さん
★ この我が”人生の師”が、めでたく白寿を迎えられたのですが、それを知ったのは、かつて、共に勤めていた毎日新聞から送られて来た社報によってでした。そこには、OB会が集って、白寿を祝った、との記事が掲載されていました。その記事を目にした瞬間、大きなショックを受けました。
★ 私にとっては、最も大切な、その方との交流の断絶を思い知った瞬間でした。すべての仕事から引退した後、私はパソコンとネットで老後人生を再構築したいと思いつき、それを実行して来ました。その結果、ネットならではのすばらしい人々との新しい出会いがあり、そこへのめり込んでいました。
★ ところが、気がつくと、最も大切な半世紀以上にも亘って深い交際を重ねて来た、多くの人々との交流が疎遠になっています。”人生の師”と仰ぐ先輩の白寿のお祝いの席に我が身が無かったこと。いや、その催しさえ知らなかったことを怪しみ、それを思うにつけこみ上げる慚愧の念を押さえ切れません。
★ 私自身の存念では、ネット時代、この人々にも我が想いは伝わっている(はず)と一人合点していました。しかし、この私と同時代を共に生きた人々・・・その多くはパソコンには馴染まず、ケイタイ・メールも使いません。私は、旧友たちと異なる世界に生きていることを痛感した瞬間でした。
★ SNS ブログ、メール・・・老後人生をデジタルにシフトした結果、こうした本来、最も大切な恩師・友人たちと疎遠になっていることに愕然としました。IT時代の始まりから指摘されている「デジタル・デバイド」・・・理屈は分かっていても、次々と、発生するこうした人間関係の変革に、恐ろしさを感じるようになりました。
★ 時折、都会に出て行く時、異様に写る風景は、雑踏の中で人々がひたすらケイタイ・メールに没頭していることです。電車、喫茶店、病院・・・どこでも人々の目はケイタイに向かい、周りの人々は意識することはありません。目の前の現世は架空、リアルな生活は虚空の先にあるかのように逆転しています。
★ 世界を覆うネットとケイタイの普及は、世界中の個々人を瞬時に結びつけるコミュニケーション革命を起こしました。誰でも、何時でも、何処でも、自由に繋がる夢が実現しました。ところが皮肉なことに世間では親子断絶、肉親同士のコミュニケーションがとれない人間関係を出現させています。家庭内でも、みんながケイタイ・メールに向かっている???
★ 私のネット生活のどこかが間違っている。この2週間、ネットを離れてしみじみと、それを反省しました。我が老後生活充実を願って、私はネット発信を続けて来ました。そこに欠けているのは何でしょう?
★ 1952年秋。今からもう55年も前のこと。未だ大学3年生だった私に「愛について」教えてくださった故アグネス・アレキザンダー先生のお言葉を思い起こしています。
★ 多分、ネットで一番、欠落しているポイントだと思います。
デジタル時代、人々は、日に何度も・・・そうですね。若い人々は、時分単位にメール・チェックをします。インターネットのサーフィン族もクリックに余念がありません。
★ それは・・・例えてみれば、日常的なご近所間の情報伝達でも起こっています。
ホームページで毎日更新。見たいときに何時でも・・・確かに便利ですね。でも・・・ドライです。乾き切っています。
一昔前には、同じことを回覧板がやっていました。戸口から戸口へ。
「皆さん、お元気? お変わりなく」
回覧板を回す度に交わされるナマの挨拶に心が籠もっていました。情報伝達に愛の情感が漂っていました。
★ ネット生活を変えねばならぬ、と、痛感しています。
さしあたり、白寿を迎えられた我が”人生の師”と共に共有出来る新しいブログの取り組みを試みたいと思っています。
12年間、慣れ親しんできたインターネットですが、気づかぬうちに新種の”文明病”に罹患してしまっていることに気づき、”転地療法”気分で、アナログ世界に身を置き、静かに自らを省みておりました。
★ やはり、何か、ちょっと、変? 自分のネット人生に大きな疑問を抱き始めた直接の出来事は、尊敬する大先輩が白寿を迎えられた、と、いうニュースでした。その方への想いは、かつて、このブログにもご紹介したことがあります。 【6310】 人生の師・藤井郁子さん
★ この我が”人生の師”が、めでたく白寿を迎えられたのですが、それを知ったのは、かつて、共に勤めていた毎日新聞から送られて来た社報によってでした。そこには、OB会が集って、白寿を祝った、との記事が掲載されていました。その記事を目にした瞬間、大きなショックを受けました。
★ 私にとっては、最も大切な、その方との交流の断絶を思い知った瞬間でした。すべての仕事から引退した後、私はパソコンとネットで老後人生を再構築したいと思いつき、それを実行して来ました。その結果、ネットならではのすばらしい人々との新しい出会いがあり、そこへのめり込んでいました。
★ ところが、気がつくと、最も大切な半世紀以上にも亘って深い交際を重ねて来た、多くの人々との交流が疎遠になっています。”人生の師”と仰ぐ先輩の白寿のお祝いの席に我が身が無かったこと。いや、その催しさえ知らなかったことを怪しみ、それを思うにつけこみ上げる慚愧の念を押さえ切れません。
★ 私自身の存念では、ネット時代、この人々にも我が想いは伝わっている(はず)と一人合点していました。しかし、この私と同時代を共に生きた人々・・・その多くはパソコンには馴染まず、ケイタイ・メールも使いません。私は、旧友たちと異なる世界に生きていることを痛感した瞬間でした。
★ SNS ブログ、メール・・・老後人生をデジタルにシフトした結果、こうした本来、最も大切な恩師・友人たちと疎遠になっていることに愕然としました。IT時代の始まりから指摘されている「デジタル・デバイド」・・・理屈は分かっていても、次々と、発生するこうした人間関係の変革に、恐ろしさを感じるようになりました。
★ 時折、都会に出て行く時、異様に写る風景は、雑踏の中で人々がひたすらケイタイ・メールに没頭していることです。電車、喫茶店、病院・・・どこでも人々の目はケイタイに向かい、周りの人々は意識することはありません。目の前の現世は架空、リアルな生活は虚空の先にあるかのように逆転しています。
★ 世界を覆うネットとケイタイの普及は、世界中の個々人を瞬時に結びつけるコミュニケーション革命を起こしました。誰でも、何時でも、何処でも、自由に繋がる夢が実現しました。ところが皮肉なことに世間では親子断絶、肉親同士のコミュニケーションがとれない人間関係を出現させています。家庭内でも、みんながケイタイ・メールに向かっている???
★ 私のネット生活のどこかが間違っている。この2週間、ネットを離れてしみじみと、それを反省しました。我が老後生活充実を願って、私はネット発信を続けて来ました。そこに欠けているのは何でしょう?
★ 1952年秋。今からもう55年も前のこと。未だ大学3年生だった私に「愛について」教えてくださった故アグネス・アレキザンダー先生のお言葉を思い起こしています。
何かあったら言ってください。出来ることは何でもします。だから困った時にはいらっしゃい。誰もが、それが、愛の形だと思っています。でも、それだけでは不十分。本当の愛は、行動します。
誰かのことが心配だったら、先ず行きなさい。その人を想い、待っていては駄目です。直ちにその人を訪ねて、自分の目で、状況を確かめて心を通わせなさい。それが愛です.
Visit him at his place!
(その人を、その人のいる場所に訪ねなさい)
凛とした口調の英語・・・今なお、耳にこびりついています。
★ 多分、ネットで一番、欠落しているポイントだと思います。
デジタル時代、人々は、日に何度も・・・そうですね。若い人々は、時分単位にメール・チェックをします。インターネットのサーフィン族もクリックに余念がありません。
★ それは・・・例えてみれば、日常的なご近所間の情報伝達でも起こっています。
ホームページで毎日更新。見たいときに何時でも・・・確かに便利ですね。でも・・・ドライです。乾き切っています。
一昔前には、同じことを回覧板がやっていました。戸口から戸口へ。
「皆さん、お元気? お変わりなく」
回覧板を回す度に交わされるナマの挨拶に心が籠もっていました。情報伝達に愛の情感が漂っていました。
★ ネット生活を変えねばならぬ、と、痛感しています。
さしあたり、白寿を迎えられた我が”人生の師”と共に共有出来る新しいブログの取り組みを試みたいと思っています。
by zenmz
| 2007-11-16 12:15
| ネット考現学