2008年 08月 06日
【講演c】 最後のトマト (竹本成徳氏講演・下) |
(前ページから続きです。
翌朝、5時過ぎになってやっと父が帰ってきました。徹夜の作業で疲れたのか、台所の板の間にあぐらをかいて座り、しばらくしていましたが、いきなり正座をしなおしたかと思うと、私を呼びつけました。そして、
「成徳、裏の畑へいって、トマトをもいでこい」
といいつけたのです。
「あっ」とわたしは思いました。父は正座したまま、目は1点だけをじっと見すえていました。わたしはまだ中学2年生にすぎませんでしたが、子供心にも父が覚悟を決めたことがわかりました。
わたしがトマトをもいで戻ると、父は急須にトマトを絞ってジュースをつくりはじめました。トマトは姉の大好物でした。「冷子はものすごくトマトが好きな子やから……。」父はそうつぶやきながら、ジュースを絞り終えると、枕元にいって、吸い口を姉の口にあてました。姉はコクコクとのどを鳴らしながら、「おいしい、おいしい」といって飲みました。
やけどや大けがをすると、人間はのどが乾きます。原爆で死んでいく人たちも、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい」といいながら死んでいきました。ところが、水を飲ませると死んでしまいますから、「水を飲んだら死ぬから、水は飲んだらいかんよ」といって、だれも与えないのです。
だから、仏様をおがむようにして、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい。死んでもいいから水をください」と手を合わせて頼むのです。わたしの姉も水をほしがりましたが、飲ませたら死ぬということがわかっていましたから、絶対に与えませんでした。
柔らかい布に水を含ませて、、くちびるを少し湿らせやる程度です。姉が小康状態を取り戻したのを見ると、父はまた救護班の活動で小学校へ出かけていきました。九時ごろ、とうとう姉の息づかいがあやしくなってきました。
父はまだ戻ってきません。枕元にはわたしと祖父、もうひとりの姉と生まれたばかりの赤ん彷を抱いたわたしの兄の嫁がいるだけでした。「おとうさん、おとうさん」父がいないのに、姉は父を呼びました。わたしたちがかわるがわる覗きこんで励ますのですが、気がつかない様子でした。もう目が見えなくなっていたのでしょう。
「もう少ししたら、おかあさんが迎えにきてくれるよぉ」ともいいました。姉は自分が死ぬことを覚悟したんだな、とわたしは思いました。しばらくすると、また口を開いて、「おとうさん、先立つ不幸をお許しください」といいました。
「なにをいうとるんじゃ。しつかりせい。もしかわってやれるものなら、わしがこの子のかわりに死んでやるのに……。」祖父が励ましましたが、途中から涙声になってよく聞きとれませんでした。
「しっかりせい、ねえちゃん。おれは海軍の飛行機乗りになって、ねえちゃんのかたきは絶対にとってやる。だから頑張れ、ねえちゃん。」しかし、励ましのことばもむなしく、姉は息を引きとりました。8月7日午後9時40分……
静かな最期《さいご》でした。
~~~~~~~~~~~
人が死んでも、もちろん棺桶《かんおけ》などありません。ありあわせの木を棺桶のように仕立てて姉のからだを納め、白い布でおおってやるぐらいのことしかできません。それを家族みんなで山まで担いでいきます。」
山に穴を掘って、薪を敷きつめ、その上に棺を置いて荼毘にふすのです。町じゅう、どこを見ても犠牲者のいない家ははとんどありませんでした。どこの家でもおなじようなことがあったと思いますが、わが子を自分の手で焼かなければならなかった父の思いは、どれほど無念であったであろうと思います。
自分も子供を産み、育てる年齢になって、このときの父の気持ちを想像してみると、胸のつまる思いがします。原爆では、戦争では、残酷なことが、それはそれは数え切れないほどいっぱいありました。
しかし、もっとも残酷なことではなかったかと、わたしに思えるのは、わが子を自分の手で焼かなければならない、父のような人たちがいたことだったのではないでしょうか。それでも考えてみれば、家までつれ帰ってもらい、手当てを受け、肉親に見守られて亡くなっていった姉は、まだ幸せなほうだったかもしれません。
何万人という人が、身内のだれにも会えずに死んでいかなければならなかったからです。原爆投下から満五十年の平成六年の夏、わたしは母校・広島修道中学の慰霊祭に出席しました。
「慰霊」ときざまれた大きなか自然石の裏には、原爆で亡くなった、136名の先生と生徒の名前がきざまれています。ひとりひとりの名前を指でたどりながら読んでいくと、まぶたの裏には50年前の先生の顔、友達の顔がまざまざと浮かんできました。
しかし、このなかの多くの人は、いまだに遺骨が見つかっていません。おそらく今後も見つかることはないと思います。どこで死んだのか、永遠にわからないのです。ヒロシマの街は2週間ほど燃えつづけました。わたしの家から見る市内の上空は、夜になるとまっ赤な空にかわりました。
原爆のあと、わたしは幾度か広島市内に入りました。町のいたるところに死体が転がっていました。防火水槽のなかで、風呂に入るように座ったまま息絶えている人もあれば、半分入りかけたまま死んでいる人、さかさまにひっくりかえっている人もいました。川があれば川を求め、近くに川のない人たちはこぞって水を求めたのです。
人だけではなく、馬が倒れ、牛もひっくりかえっていました。 馬のお腹はものすごくふくれあがっていました。自動車も市電もひっくりかえったままでした。真夏ですから死体の腐乱も進みます。腐りはじめると、ものすごい臭いがします。それにもかまわず、みんなが自分の家族や知人を求めて探しまわったのです。
街では、くる日もくる日もわが子を求めて探しまわる母親の姿を見かけました。みんな半狂乱です。防火水槽のなかに浮いている死体を見つけると、わが子ではないかとひっくりかえして見ます。
どの川も、うつ伏せになって浮いている死体と、焼け焦げた木片でいっぱいでした。潮が満ちるとそのまま上流へ流れていき、引くとまたもとのところへ戻ってくるというようにたゆたって、2週間も3週間もそのままになっていました。
人びとは橋の上からその死体を見ると、ザブザブと川に入っていって、うつ伏せになった死体をひっくりかえして見るのです。死んでから何日もたって、もう顔のかたちも削れてしまっていますから、見ただけでは自分の肉親かどうかさえわかりません。それでもひっくりかえして、確かめずにはいられないのです。こんなことは親でなくて誰ができるのでしょうか。
きのうもきょうも、夜が明ければ収容所をたずね歩き、5日も6日も、「きょうもだめだった、きょうもだめだった」という日がつづいて、収容所という収容所は全部見たといっても、それでもたずねて歩くのです。
「戦場心理」ということばがあります。いまのわたしたちは、交通事故でひとりの人が倒れるのを見ただけでおそろしいと思うはずです。けれども、原爆のあとの広島は戦場とおなじで、死体が累々としたなかを何日も何日も歩きつづけていると、やがて死体を見てもなんとも感じなくなってくるのです。
おそろしいことですが、人間はそういうふしぎな面を持っているのです。こうして多くの人が肉親には会えずに亡くなっていきました。その死体は山のように積みあげ、ガソリンをかけて焼く以外に方法がありませんでした。焼いても遺骨を埋める場所がありませんでしたから、防空壕のなかに納めました。
しかし、防空壕はじきに骨でいっぱいになってしまいました。もちろん、どこのだれともわからない遺骨がいっぱいありました。こんな悲劇があっていいものか、こんな地獄があっていいものか、とわたしは何度も何度も思いました。また、そういうことを考えると、わたしの姉はまだ幸せなほうだったと思いました。
~~~~~~~~~~~
戦後、ずっとたってから、広島の原爆記念病院をたずねました。病院には広島市内の地図が貼《は》ってありました。この地図が普通の地図と違う点は、いたるところに赤と黄色のマチ針が刺さっていることです。無数のマチ針が刺さっていました。
赤は亡くなった人、黄色は重症の人です。当然、爆心地に近づけば近づくはど針の数は多くなっていきます。わたしが被爆した半径1キロ以内の円のなかは、はとんど赤い針ばかりです。しかしそのなかで、わたしは無傷で助かったのです。
病院の先生からは、100人にひとり、という非常に稀なケースだと教えられました。資料を見ると、半径500メートル以内では96・5%の人が死に、1キロ以
内では83%の人が死んでいます。
ヒロシマでは原爆投下の瞬間に、10数万という人の「いのち」が奪われました。そのうちの65%が子供、お年寄り、女の人でした。そのあとも原爆症にかかった人たちがつぎつぎに亡くなっていきました。
それなのに、爆心地からわずか1キロのところにいたわたしが、助かったのはなぜでしょうか。それも、やけどひとつせず、その後も多くの人たちが苦しんだ原爆症にもかからなかったのです。運がよかったことのひとつは、わたしが途中から方向をかえて、市の南に向かって逃げたことだと思います。
南が安全だと思ったわけではありません。 山のようになった瓦礫に邪魔をされて、それ以上進めなくなって方向をかえたのでした。原爆投下のあと、市の北側半分を中心として、はぼ3分の2の市域に、井伏鱒二さんの 『黒い雨』という小説に書かれて有名になった雨が降りました。黒い雨は非常に高濃度の放射能を含み、この雨に打たれた人たちはたいてい死んでしまっています。わたしが逃げた南半分には、運よく黒い雨が降らなかったのです。
もうひとつは、投下の瞬間、市役所の建物の壁面に張りついたようにしていたことでした。原爆は上空570メートルのところで炸裂していますから、建物の陰にいなかったら、熱線の直射を受けて全身にやけどを負い、吹き飛ばされて、どこかにたたきつけられていたことでしょう。それも朝から太陽がカンカンと照っていましたから、陽射しを避けて西側にいたことが幸いしました。もし昼過ぎだったら、熱線の直射を受けた場所に移っていたはずです。
~~~~~~~~~~~
わたしが理事長をしているコープこうべでは、組合員のおかあさんがたや職員に百円ずつカンパをしてもらって、そのお金で医療機器を買い、ずっと広島と長崎の原爆病院に寄付をさせていただいてきました。
原爆記念病院では、お金が十分ではないために、なかなか新しい医療機器を備えることができない、と困っておられました。ひとりひとりが出す金額は決して大きなものではなくても、多くの人が力を寄せあえば、一定の資金が集まります。
その資金で、毎年ひとつぐらいずつ医療機器を導入していただき、少しでも医療の向上に役立てていただきたい、という思いでカンパ活動をやってきました。平成3年、わたしが組合長に就任したときに、院長先生から「一度病院を見にきてください」とお誘いを受けて、拝見させていただくことにしました。
当日は院長先生はじめ、スタッフのみなさんがたの温かい歓迎を受けて、病院のなかをくまなく見せていただきました。原爆記念病院の建物は昭和12年にできた広島日赤病院で、わたしが被爆した広島市役所とわたしの母校のほぼ中間、爆心地からは1500メートルの距離にありましたが、倒壊をまぬがれて残りました。
玄関のタイルは被爆当時のままのものですが、1枚も剥離することなく、いまも残っています。わたしたちが寄贈させていただいた医療機器もありました。そこには年月日と「寄贈・灘神戸生協」と書いたプレートが貼ってありました。
前は「コープこうべ」ではなく、灘神戸生協という名前でした。医療機器は大量生産ができません。小さな機器でも500万も1000万もします。しかし、どんなに小さなものでも、それが組合員や職員のカンパによって贈られたということで、病院のかたがたはたいへんに喜んでおられました
。いろんなところを見せていただいたあと、最後に屋上にあがって見たのが、2850杯という透明なプラスチックのバケツでした。昭和20年からその年までのあいだに、この病院に入院して亡くなった被爆患者が2850人おられました。
そのかたがたの内臓が、ホルマリン漬けで保存されているのです。ひとつひとつに死亡年月日、年齢、お名前の書かれたプレートが貼ってあります。ひきだしのなかには、病歴と解剖所見がファイルされています。
保存するためには、毎年1回ホルマリンをとりかえなければならないそうですが、その作業は医学生など何百人という人のボランティアによつて支ええられています。それでも、年間8000万円もの維持費がかかるのに、国や県からは一円の補助も出ないのです。
病院を運営する費用のなかから捻出しなければならないのです。貴重なのを残しつづけるのはたいへんなことです。戦後、ずっと原爆症の治療にあたってこられたひとりの先生が、「わたしたちがこの内臓を研究の材料として使うときは、ほんとうにおがんで、こんなわずかな一片でも、非常にだいじに使うんです。これは人類にとって、未来永劫貴重な資産です。 もう二度とつくることができないし、二度とつくってはなりません」といわれました。
そのとおりです。わたしも「これを人類がもう一度つくるようなことがあっては、ほんとうにたいへんなことだ」と、あらためて感じました。ヒロシマとナガサキという厳粛な問題を後世に伝えるために、これらは永久に保存されるべきものです。現在のためにも、つぎの世代のためにも、これらがたいせつに保存されていることには感謝しなければならないと思います。
広島の平和記念公演に建つ石碑には、
安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから
と書かれてあります。ヒロシマは、今年63年目の夏を迎えます。被爆した日、14歳の誕生日が目前だったわたしも、もう喜寿を迎えます。あの日のヒロシマを知っている人もだんだん少なくなっていきます。ひとりひとりが、この 「ことば」を深く考える必要があります。この 「ことば」は、だれがだれに向かっていったことばか、と問いかける文章を読んだことがあります。
しかし、わたしは素直に読んだほうがいいと思うのです。たとえば、姉をうしなったわたし自身の「ことば」であってもいいと思います。いや、わたし自身の「ことば」でなければならないと思います。同時に、自分の「こころ」としたほうがいいと思うのです。自分の「ことば」として、自分の「こころ」として、語りつづけなければいけないと思います。
冷子ねえさん、安らかに眠ってください。戦争というおろかなことは、わたしを含めて、人類はふたたびこういうことをくりかえしませんから、許してください。安らかに眠ってください。
この「ことば」は人類共通の願いであり、叫びであり、わたしの心からの 「ことば」 でもあります。(終わり)
翌朝、5時過ぎになってやっと父が帰ってきました。徹夜の作業で疲れたのか、台所の板の間にあぐらをかいて座り、しばらくしていましたが、いきなり正座をしなおしたかと思うと、私を呼びつけました。そして、
「成徳、裏の畑へいって、トマトをもいでこい」
といいつけたのです。
「あっ」とわたしは思いました。父は正座したまま、目は1点だけをじっと見すえていました。わたしはまだ中学2年生にすぎませんでしたが、子供心にも父が覚悟を決めたことがわかりました。
わたしがトマトをもいで戻ると、父は急須にトマトを絞ってジュースをつくりはじめました。トマトは姉の大好物でした。「冷子はものすごくトマトが好きな子やから……。」父はそうつぶやきながら、ジュースを絞り終えると、枕元にいって、吸い口を姉の口にあてました。姉はコクコクとのどを鳴らしながら、「おいしい、おいしい」といって飲みました。
やけどや大けがをすると、人間はのどが乾きます。原爆で死んでいく人たちも、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい」といいながら死んでいきました。ところが、水を飲ませると死んでしまいますから、「水を飲んだら死ぬから、水は飲んだらいかんよ」といって、だれも与えないのです。
だから、仏様をおがむようにして、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい。死んでもいいから水をください」と手を合わせて頼むのです。わたしの姉も水をほしがりましたが、飲ませたら死ぬということがわかっていましたから、絶対に与えませんでした。
柔らかい布に水を含ませて、、くちびるを少し湿らせやる程度です。姉が小康状態を取り戻したのを見ると、父はまた救護班の活動で小学校へ出かけていきました。九時ごろ、とうとう姉の息づかいがあやしくなってきました。
父はまだ戻ってきません。枕元にはわたしと祖父、もうひとりの姉と生まれたばかりの赤ん彷を抱いたわたしの兄の嫁がいるだけでした。「おとうさん、おとうさん」父がいないのに、姉は父を呼びました。わたしたちがかわるがわる覗きこんで励ますのですが、気がつかない様子でした。もう目が見えなくなっていたのでしょう。
「もう少ししたら、おかあさんが迎えにきてくれるよぉ」ともいいました。姉は自分が死ぬことを覚悟したんだな、とわたしは思いました。しばらくすると、また口を開いて、「おとうさん、先立つ不幸をお許しください」といいました。
「なにをいうとるんじゃ。しつかりせい。もしかわってやれるものなら、わしがこの子のかわりに死んでやるのに……。」祖父が励ましましたが、途中から涙声になってよく聞きとれませんでした。
「しっかりせい、ねえちゃん。おれは海軍の飛行機乗りになって、ねえちゃんのかたきは絶対にとってやる。だから頑張れ、ねえちゃん。」しかし、励ましのことばもむなしく、姉は息を引きとりました。8月7日午後9時40分……
静かな最期《さいご》でした。
~~~~~~~~~~~
人が死んでも、もちろん棺桶《かんおけ》などありません。ありあわせの木を棺桶のように仕立てて姉のからだを納め、白い布でおおってやるぐらいのことしかできません。それを家族みんなで山まで担いでいきます。」
山に穴を掘って、薪を敷きつめ、その上に棺を置いて荼毘にふすのです。町じゅう、どこを見ても犠牲者のいない家ははとんどありませんでした。どこの家でもおなじようなことがあったと思いますが、わが子を自分の手で焼かなければならなかった父の思いは、どれほど無念であったであろうと思います。
自分も子供を産み、育てる年齢になって、このときの父の気持ちを想像してみると、胸のつまる思いがします。原爆では、戦争では、残酷なことが、それはそれは数え切れないほどいっぱいありました。
しかし、もっとも残酷なことではなかったかと、わたしに思えるのは、わが子を自分の手で焼かなければならない、父のような人たちがいたことだったのではないでしょうか。それでも考えてみれば、家までつれ帰ってもらい、手当てを受け、肉親に見守られて亡くなっていった姉は、まだ幸せなほうだったかもしれません。
何万人という人が、身内のだれにも会えずに死んでいかなければならなかったからです。原爆投下から満五十年の平成六年の夏、わたしは母校・広島修道中学の慰霊祭に出席しました。
「慰霊」ときざまれた大きなか自然石の裏には、原爆で亡くなった、136名の先生と生徒の名前がきざまれています。ひとりひとりの名前を指でたどりながら読んでいくと、まぶたの裏には50年前の先生の顔、友達の顔がまざまざと浮かんできました。
しかし、このなかの多くの人は、いまだに遺骨が見つかっていません。おそらく今後も見つかることはないと思います。どこで死んだのか、永遠にわからないのです。ヒロシマの街は2週間ほど燃えつづけました。わたしの家から見る市内の上空は、夜になるとまっ赤な空にかわりました。
原爆のあと、わたしは幾度か広島市内に入りました。町のいたるところに死体が転がっていました。防火水槽のなかで、風呂に入るように座ったまま息絶えている人もあれば、半分入りかけたまま死んでいる人、さかさまにひっくりかえっている人もいました。川があれば川を求め、近くに川のない人たちはこぞって水を求めたのです。
人だけではなく、馬が倒れ、牛もひっくりかえっていました。 馬のお腹はものすごくふくれあがっていました。自動車も市電もひっくりかえったままでした。真夏ですから死体の腐乱も進みます。腐りはじめると、ものすごい臭いがします。それにもかまわず、みんなが自分の家族や知人を求めて探しまわったのです。
街では、くる日もくる日もわが子を求めて探しまわる母親の姿を見かけました。みんな半狂乱です。防火水槽のなかに浮いている死体を見つけると、わが子ではないかとひっくりかえして見ます。
どの川も、うつ伏せになって浮いている死体と、焼け焦げた木片でいっぱいでした。潮が満ちるとそのまま上流へ流れていき、引くとまたもとのところへ戻ってくるというようにたゆたって、2週間も3週間もそのままになっていました。
人びとは橋の上からその死体を見ると、ザブザブと川に入っていって、うつ伏せになった死体をひっくりかえして見るのです。死んでから何日もたって、もう顔のかたちも削れてしまっていますから、見ただけでは自分の肉親かどうかさえわかりません。それでもひっくりかえして、確かめずにはいられないのです。こんなことは親でなくて誰ができるのでしょうか。
きのうもきょうも、夜が明ければ収容所をたずね歩き、5日も6日も、「きょうもだめだった、きょうもだめだった」という日がつづいて、収容所という収容所は全部見たといっても、それでもたずねて歩くのです。
「戦場心理」ということばがあります。いまのわたしたちは、交通事故でひとりの人が倒れるのを見ただけでおそろしいと思うはずです。けれども、原爆のあとの広島は戦場とおなじで、死体が累々としたなかを何日も何日も歩きつづけていると、やがて死体を見てもなんとも感じなくなってくるのです。
おそろしいことですが、人間はそういうふしぎな面を持っているのです。こうして多くの人が肉親には会えずに亡くなっていきました。その死体は山のように積みあげ、ガソリンをかけて焼く以外に方法がありませんでした。焼いても遺骨を埋める場所がありませんでしたから、防空壕のなかに納めました。
しかし、防空壕はじきに骨でいっぱいになってしまいました。もちろん、どこのだれともわからない遺骨がいっぱいありました。こんな悲劇があっていいものか、こんな地獄があっていいものか、とわたしは何度も何度も思いました。また、そういうことを考えると、わたしの姉はまだ幸せなほうだったと思いました。
~~~~~~~~~~~
戦後、ずっとたってから、広島の原爆記念病院をたずねました。病院には広島市内の地図が貼《は》ってありました。この地図が普通の地図と違う点は、いたるところに赤と黄色のマチ針が刺さっていることです。無数のマチ針が刺さっていました。
赤は亡くなった人、黄色は重症の人です。当然、爆心地に近づけば近づくはど針の数は多くなっていきます。わたしが被爆した半径1キロ以内の円のなかは、はとんど赤い針ばかりです。しかしそのなかで、わたしは無傷で助かったのです。
病院の先生からは、100人にひとり、という非常に稀なケースだと教えられました。資料を見ると、半径500メートル以内では96・5%の人が死に、1キロ以
内では83%の人が死んでいます。
ヒロシマでは原爆投下の瞬間に、10数万という人の「いのち」が奪われました。そのうちの65%が子供、お年寄り、女の人でした。そのあとも原爆症にかかった人たちがつぎつぎに亡くなっていきました。
それなのに、爆心地からわずか1キロのところにいたわたしが、助かったのはなぜでしょうか。それも、やけどひとつせず、その後も多くの人たちが苦しんだ原爆症にもかからなかったのです。運がよかったことのひとつは、わたしが途中から方向をかえて、市の南に向かって逃げたことだと思います。
南が安全だと思ったわけではありません。 山のようになった瓦礫に邪魔をされて、それ以上進めなくなって方向をかえたのでした。原爆投下のあと、市の北側半分を中心として、はぼ3分の2の市域に、井伏鱒二さんの 『黒い雨』という小説に書かれて有名になった雨が降りました。黒い雨は非常に高濃度の放射能を含み、この雨に打たれた人たちはたいてい死んでしまっています。わたしが逃げた南半分には、運よく黒い雨が降らなかったのです。
もうひとつは、投下の瞬間、市役所の建物の壁面に張りついたようにしていたことでした。原爆は上空570メートルのところで炸裂していますから、建物の陰にいなかったら、熱線の直射を受けて全身にやけどを負い、吹き飛ばされて、どこかにたたきつけられていたことでしょう。それも朝から太陽がカンカンと照っていましたから、陽射しを避けて西側にいたことが幸いしました。もし昼過ぎだったら、熱線の直射を受けた場所に移っていたはずです。
~~~~~~~~~~~
わたしが理事長をしているコープこうべでは、組合員のおかあさんがたや職員に百円ずつカンパをしてもらって、そのお金で医療機器を買い、ずっと広島と長崎の原爆病院に寄付をさせていただいてきました。
原爆記念病院では、お金が十分ではないために、なかなか新しい医療機器を備えることができない、と困っておられました。ひとりひとりが出す金額は決して大きなものではなくても、多くの人が力を寄せあえば、一定の資金が集まります。
その資金で、毎年ひとつぐらいずつ医療機器を導入していただき、少しでも医療の向上に役立てていただきたい、という思いでカンパ活動をやってきました。平成3年、わたしが組合長に就任したときに、院長先生から「一度病院を見にきてください」とお誘いを受けて、拝見させていただくことにしました。
当日は院長先生はじめ、スタッフのみなさんがたの温かい歓迎を受けて、病院のなかをくまなく見せていただきました。原爆記念病院の建物は昭和12年にできた広島日赤病院で、わたしが被爆した広島市役所とわたしの母校のほぼ中間、爆心地からは1500メートルの距離にありましたが、倒壊をまぬがれて残りました。
玄関のタイルは被爆当時のままのものですが、1枚も剥離することなく、いまも残っています。わたしたちが寄贈させていただいた医療機器もありました。そこには年月日と「寄贈・灘神戸生協」と書いたプレートが貼ってありました。
前は「コープこうべ」ではなく、灘神戸生協という名前でした。医療機器は大量生産ができません。小さな機器でも500万も1000万もします。しかし、どんなに小さなものでも、それが組合員や職員のカンパによって贈られたということで、病院のかたがたはたいへんに喜んでおられました
。いろんなところを見せていただいたあと、最後に屋上にあがって見たのが、2850杯という透明なプラスチックのバケツでした。昭和20年からその年までのあいだに、この病院に入院して亡くなった被爆患者が2850人おられました。
そのかたがたの内臓が、ホルマリン漬けで保存されているのです。ひとつひとつに死亡年月日、年齢、お名前の書かれたプレートが貼ってあります。ひきだしのなかには、病歴と解剖所見がファイルされています。
保存するためには、毎年1回ホルマリンをとりかえなければならないそうですが、その作業は医学生など何百人という人のボランティアによつて支ええられています。それでも、年間8000万円もの維持費がかかるのに、国や県からは一円の補助も出ないのです。
病院を運営する費用のなかから捻出しなければならないのです。貴重なのを残しつづけるのはたいへんなことです。戦後、ずっと原爆症の治療にあたってこられたひとりの先生が、「わたしたちがこの内臓を研究の材料として使うときは、ほんとうにおがんで、こんなわずかな一片でも、非常にだいじに使うんです。これは人類にとって、未来永劫貴重な資産です。 もう二度とつくることができないし、二度とつくってはなりません」といわれました。
そのとおりです。わたしも「これを人類がもう一度つくるようなことがあっては、ほんとうにたいへんなことだ」と、あらためて感じました。ヒロシマとナガサキという厳粛な問題を後世に伝えるために、これらは永久に保存されるべきものです。現在のためにも、つぎの世代のためにも、これらがたいせつに保存されていることには感謝しなければならないと思います。
広島の平和記念公演に建つ石碑には、
安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから
と書かれてあります。ヒロシマは、今年63年目の夏を迎えます。被爆した日、14歳の誕生日が目前だったわたしも、もう喜寿を迎えます。あの日のヒロシマを知っている人もだんだん少なくなっていきます。ひとりひとりが、この 「ことば」を深く考える必要があります。この 「ことば」は、だれがだれに向かっていったことばか、と問いかける文章を読んだことがあります。
しかし、わたしは素直に読んだほうがいいと思うのです。たとえば、姉をうしなったわたし自身の「ことば」であってもいいと思います。いや、わたし自身の「ことば」でなければならないと思います。同時に、自分の「こころ」としたほうがいいと思うのです。自分の「ことば」として、自分の「こころ」として、語りつづけなければいけないと思います。
冷子ねえさん、安らかに眠ってください。戦争というおろかなことは、わたしを含めて、人類はふたたびこういうことをくりかえしませんから、許してください。安らかに眠ってください。
この「ことば」は人類共通の願いであり、叫びであり、わたしの心からの 「ことば」 でもあります。(終わり)
by zenmz
| 2008-08-06 04:05