2008年 12月 09日
【8259】 《12/08開戦記念日と大詔奉戴日》 の教訓 |
★ 実は、昨日、迷いました。この話をご紹介すべきか、どうか。それを考えあぐみながら、シリーズの連載をアップロードしました。しかし、今、再び思いました。今日の予定は変更、やはり、【12月8日】のこと、皆さんにご紹介しておこうと思います。
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★ 私は、毎年、12月8日になると、少年時代に最も重要な国民的行事であった「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび)を思い出します。今から67年前の1941年12月8日、日本は、米英に対して宣戦布告し、太平洋戦争が始まりました。
★ 英米相手に開戦・・・その天皇陛下の 「宣戦の詔勅」(せんせんのしょうちょく) が公布された翌年1月から毎月8日が「大詔奉戴日」として、「聖戦貫徹」のため国家総動員の精神運動が始まりました。当時、私は11歳。小学校5年生でしたが、今も、「大詔奉戴日」を生々しく思い出します。
★ 先ず、登校は、必ず地区ごとに上級生が下級生を指揮して”小隊”を組み、足並み揃えて学校に向かいました。そして校門入り口にある奉安殿(ほうあんでん)に最敬礼。そこには軍服姿の天皇と皇后両陛下の写真が納められていました。
★ 朝礼は、「君が代」を合唱する中、国旗掲揚、教職員・児童一同、東方に向かって「宮城遥拝」し、天皇陛下への忠誠を誓いました。そして、全員、頭を垂れて、校長先生が朗読される「宣戦の詔勅」を拝聴しました。
★ 上級生になると、「教育勅語」(きょういくちょくご)の暗記・暗唱が強制され、それが言えなかったり、間違うと「テンノウヘイカに代わって」殴られました。その最初の出だし文
★ 中学生になると、男も女も学徒動員で軍需工場や勤労奉仕に。私は、近所の軍需工場で弾丸のゲージを削りました。女性も国防婦人会で”銃後の守り”訓練。本土大空襲が始まっていました。お母さんたちは、連日、屋根を突き破って天井で止まった焼夷弾のたたき落としと、バケツリレーの消火訓練。
★ 戦争末期、沖縄が陥落し、「本土決戦」が叫ばれるようになると、物陰に隠れて竹槍で”鬼畜米英”の脇腹を突く「竹槍ゲリラ作戦」の訓練を受けました。その頃には、食糧も尽き、お米の配給も”遅配・欠配”。一億国民総飢餓の地獄の中で本土決戦に備えました。
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★ 「大詔奉戴日」を、実際に体験した人は、今、70歳以上の高齢者になっています。本当に骨身に染みて知っているのは、後期高齢者だけでしょう。それより若い方は、多分、ご自身で身をもって体験したことをご存じではないだろうと思います。
★ 皆さん、是非、知って下さい。
一旦、戦争が始まると、何が起こるか? 挙国一致。全国民が一丸となる。有無を言わさぬ強権が国民を嗾(け)したてます。反対すれば、即、牢獄。戦争の地獄図は戦場だけではありません。祖国・郷土の隅々まで闘いが浸透します。
★ 言いたいことは何でも自由に言える。それは、咎められることはない。絶対にない。それに慣れきった現在の人々は、戦争の話をすると、必ず、こう言います。
「戦争? イヤだったらみんなで反対すればよかったのに・・・それが民主主義でしょ なぜ、みんなはんたいしなかったの?」
どうか、このトシヨリの遺言をきちんと受け止め、心に刻んで下さい、と。
父よ、母よ、およそ親たるもの、絶対に、我が子を戦場に送ってはなりませぬ。
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★ 67年前・・・・ 1941年12月8日早暁、日本は、米英に対して宣戦布告しました。そして何が起こったか? 連合艦隊がハワイの真珠湾を奇襲し火ぶたを切った。と、よく言われます。戦争を知らぬ世代の多くも、そう思い、アメリカ人がそれをいつまでも忘れずに「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)を合い言葉にしたなどと、英語を学んだものです。
★ しかし、事実は、それよりも2時間前の12月8日午前1時30分、日本陸軍第18師団・歩兵第23旅団は、当時、英領だったマレー半島東北端のコタバル(現在のマレーシアとタイとの国境に近い港町)に敵前上陸を敢行し、火ぶたを切っていました。それから3年9ヶ月つづいた「太平洋戦争」。それは、この時に始まったのです。
★ 後に「驚異のマレー作戦」として知られるようになった日本軍の奇襲攻撃は、たった55日間で1,100キロを進撃し、半島南端のジョホール・バル市に突入し、シンガポールを制圧しました。華名「新嘉坡」を「昭南」と日本名に改名しました。それは、戦史上まれに見る快進撃でした。
★ 昭和ヒトケタの旧「軍国少年」たちが忘れられない風景があります。重厚な戦車で逃げる英国軍、それを追っかける日本陸軍の自転車部隊。まるでマンガをみるような戦争風景がニュース映画館で映し出されていました。テレビのない時代。映画館が唯一、”ナマの戦場”を映し出す「活動映画」を見せてくれました。それは、少年の血を沸き立たせ、肉躍らせる興奮でした。
★ が、しかし、この作戦の中で、日本軍は、現地の華僑の人々をスパイ容疑で次々と拘束、投獄し、あちこちで虐殺しました。戦後、それが明らかにされ、関係者はB級、C級戦争犯罪人として断罪されました。以上のような話は、我々、昭和ヒトケタは、同時代の親たちから「手柄話」として聞かされて来ました。だから強烈に記憶に留めています。でも、もう、それは遠い記憶の彼方に消えようとしています。
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★ それから半世紀を経て、3年前の12月8日、私は、マレーシアのマラッカで、この「大詔奉戴日」を思い出していました。マレーシアの華僑で、マラッカ市商工会議所のウイリアム会頭のお宅に招かれ、パーティを楽しんでいました。
★ そこで、私は、ウイリアム会頭から「叔父です」と紹介されたのが、シンガポール在住の孫氏でした。私より10歳下、「65歳。もう隠居です」と自己紹介されました。シンガポール華人は、日本軍のマレー半島・シンガポール作戦」の最中、スパイ容疑で無差別虐殺の被害を受けています。 私は、反射的に、そのことに言及し、「戦争時代を知る者として慙愧に堪えません」と申し上げました。
★ その時、孫氏が返した言葉を、私は忘れません。
★ 何という雅量でありましょう。アメリカ人の若者は、原爆や太平洋戦争の話をすると、必ず「リメンバー・パールハーバー」を口にします。日本人の若者も、この英語を良く知っています。アメリカ人は忘れません。
★ しかし、日本軍に一番、長く、苦しめられた蒋介石総統は、戦争が終わると、いち早く、「賠償放棄」を宣言しました。「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と、日本兵の故国帰国を円滑に行わせるため穏便な撤退に最大限の努力をつくされまし。
★ 「ゼニもとさん、何故、私に(戦争のことを)思い出させるのですか?」 私は、本当のことは、何もしらない。知っているのは”学んだこと”だけ。その教わったことは、すべて忘れた方がいいことばかり・・・孫氏の言葉を聞きながら、私は、蒋介石総統を思い浮かべていました。
★ 今日は、皆さんにも、是非、その時の話を聞いて頂きたいです。
幸い、その記録が、このブログにありました。ちょうど3年前の話ですが、是非、ご一読をお願いいたします。 【5216】 何故、思いおこさせるのですか?
【関連記事・・・本稿の補遺です】
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** ご挨拶 ** ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
私のネット交友に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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★ 私は、毎年、12月8日になると、少年時代に最も重要な国民的行事であった「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび)を思い出します。今から67年前の1941年12月8日、日本は、米英に対して宣戦布告し、太平洋戦争が始まりました。
★ 英米相手に開戦・・・その天皇陛下の 「宣戦の詔勅」(せんせんのしょうちょく) が公布された翌年1月から毎月8日が「大詔奉戴日」として、「聖戦貫徹」のため国家総動員の精神運動が始まりました。当時、私は11歳。小学校5年生でしたが、今も、「大詔奉戴日」を生々しく思い出します。
★ 先ず、登校は、必ず地区ごとに上級生が下級生を指揮して”小隊”を組み、足並み揃えて学校に向かいました。そして校門入り口にある奉安殿(ほうあんでん)に最敬礼。そこには軍服姿の天皇と皇后両陛下の写真が納められていました。
★ 朝礼は、「君が代」を合唱する中、国旗掲揚、教職員・児童一同、東方に向かって「宮城遥拝」し、天皇陛下への忠誠を誓いました。そして、全員、頭を垂れて、校長先生が朗読される「宣戦の詔勅」を拝聴しました。
★ 上級生になると、「教育勅語」(きょういくちょくご)の暗記・暗唱が強制され、それが言えなかったり、間違うと「テンノウヘイカに代わって」殴られました。その最初の出だし文
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ読めますかネ? 当時は、10歳以上の子どもに、これを読み、覚えることを強制したのです。そして、全員が、それを実行しました。教師、上級生の”鉄拳”が子どものアタマを叩いて覚え込ませたからです。
チン、オモウニ、ワガ、コウソ コウソウ、クニヲ ハジムル コト コウエンニ トクヲ タツル コト シンコウナリ・
★ 中学生になると、男も女も学徒動員で軍需工場や勤労奉仕に。私は、近所の軍需工場で弾丸のゲージを削りました。女性も国防婦人会で”銃後の守り”訓練。本土大空襲が始まっていました。お母さんたちは、連日、屋根を突き破って天井で止まった焼夷弾のたたき落としと、バケツリレーの消火訓練。
★ 戦争末期、沖縄が陥落し、「本土決戦」が叫ばれるようになると、物陰に隠れて竹槍で”鬼畜米英”の脇腹を突く「竹槍ゲリラ作戦」の訓練を受けました。その頃には、食糧も尽き、お米の配給も”遅配・欠配”。一億国民総飢餓の地獄の中で本土決戦に備えました。
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★ 「大詔奉戴日」を、実際に体験した人は、今、70歳以上の高齢者になっています。本当に骨身に染みて知っているのは、後期高齢者だけでしょう。それより若い方は、多分、ご自身で身をもって体験したことをご存じではないだろうと思います。
★ 皆さん、是非、知って下さい。
一旦、戦争が始まると、何が起こるか? 挙国一致。全国民が一丸となる。有無を言わさぬ強権が国民を嗾(け)したてます。反対すれば、即、牢獄。戦争の地獄図は戦場だけではありません。祖国・郷土の隅々まで闘いが浸透します。
★ 言いたいことは何でも自由に言える。それは、咎められることはない。絶対にない。それに慣れきった現在の人々は、戦争の話をすると、必ず、こう言います。
「戦争? イヤだったらみんなで反対すればよかったのに・・・それが民主主義でしょ なぜ、みんなはんたいしなかったの?」
違う。★ 私は、訴えます。 我が子・孫の世代の人々よ
戦争に向けて動き出すと、自由な言論は、簡単に封じられます。
反対すれば、有無を言わさず、即、牢獄にぶち込んで拷問。
その見せしめだけで、みんな黙ります。言われるままに盲従します。
徹底的な思想改造が始まり、成果をチェックし、叱咤激励する。
それが、毎月8日の「大詔奉戴日」の行事でした。
皆さん、是非、「たいしょうほうたいび」の教訓を覚えておいて下さい。
どうか、このトシヨリの遺言をきちんと受け止め、心に刻んで下さい、と。
父よ、母よ、およそ親たるもの、絶対に、我が子を戦場に送ってはなりませぬ。
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★ 67年前・・・・ 1941年12月8日早暁、日本は、米英に対して宣戦布告しました。そして何が起こったか? 連合艦隊がハワイの真珠湾を奇襲し火ぶたを切った。と、よく言われます。戦争を知らぬ世代の多くも、そう思い、アメリカ人がそれをいつまでも忘れずに「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)を合い言葉にしたなどと、英語を学んだものです。
★ しかし、事実は、それよりも2時間前の12月8日午前1時30分、日本陸軍第18師団・歩兵第23旅団は、当時、英領だったマレー半島東北端のコタバル(現在のマレーシアとタイとの国境に近い港町)に敵前上陸を敢行し、火ぶたを切っていました。それから3年9ヶ月つづいた「太平洋戦争」。それは、この時に始まったのです。
★ 後に「驚異のマレー作戦」として知られるようになった日本軍の奇襲攻撃は、たった55日間で1,100キロを進撃し、半島南端のジョホール・バル市に突入し、シンガポールを制圧しました。華名「新嘉坡」を「昭南」と日本名に改名しました。それは、戦史上まれに見る快進撃でした。
★ 昭和ヒトケタの旧「軍国少年」たちが忘れられない風景があります。重厚な戦車で逃げる英国軍、それを追っかける日本陸軍の自転車部隊。まるでマンガをみるような戦争風景がニュース映画館で映し出されていました。テレビのない時代。映画館が唯一、”ナマの戦場”を映し出す「活動映画」を見せてくれました。それは、少年の血を沸き立たせ、肉躍らせる興奮でした。
★ が、しかし、この作戦の中で、日本軍は、現地の華僑の人々をスパイ容疑で次々と拘束、投獄し、あちこちで虐殺しました。戦後、それが明らかにされ、関係者はB級、C級戦争犯罪人として断罪されました。以上のような話は、我々、昭和ヒトケタは、同時代の親たちから「手柄話」として聞かされて来ました。だから強烈に記憶に留めています。でも、もう、それは遠い記憶の彼方に消えようとしています。
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★ それから半世紀を経て、3年前の12月8日、私は、マレーシアのマラッカで、この「大詔奉戴日」を思い出していました。マレーシアの華僑で、マラッカ市商工会議所のウイリアム会頭のお宅に招かれ、パーティを楽しんでいました。
★ そこで、私は、ウイリアム会頭から「叔父です」と紹介されたのが、シンガポール在住の孫氏でした。私より10歳下、「65歳。もう隠居です」と自己紹介されました。シンガポール華人は、日本軍のマレー半島・シンガポール作戦」の最中、スパイ容疑で無差別虐殺の被害を受けています。 私は、反射的に、そのことに言及し、「戦争時代を知る者として慙愧に堪えません」と申し上げました。
★ その時、孫氏が返した言葉を、私は忘れません。
「ゼニモトさん。戦争の時、あなたは15歳。私は5歳。お互い、子どもでした。何故、戦争があったのか? 私は、何も知らない。知っているのは、【教わったことだけ】です。その教わったことの多くは、忘れた方がいいことばかり。私とあなたの友好に何の関係もありません」
★ 何という雅量でありましょう。アメリカ人の若者は、原爆や太平洋戦争の話をすると、必ず「リメンバー・パールハーバー」を口にします。日本人の若者も、この英語を良く知っています。アメリカ人は忘れません。
★ しかし、日本軍に一番、長く、苦しめられた蒋介石総統は、戦争が終わると、いち早く、「賠償放棄」を宣言しました。「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と、日本兵の故国帰国を円滑に行わせるため穏便な撤退に最大限の努力をつくされまし。
★ 「ゼニもとさん、何故、私に(戦争のことを)思い出させるのですか?」 私は、本当のことは、何もしらない。知っているのは”学んだこと”だけ。その教わったことは、すべて忘れた方がいいことばかり・・・孫氏の言葉を聞きながら、私は、蒋介石総統を思い浮かべていました。
★ 今日は、皆さんにも、是非、その時の話を聞いて頂きたいです。
幸い、その記録が、このブログにありました。ちょうど3年前の話ですが、是非、ご一読をお願いいたします。 【5216】 何故、思いおこさせるのですか?
【関連記事・・・本稿の補遺です】
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by zenmz
| 2008-12-09 00:01
| 戦争秘話:平和への戒め