2008年 12月 10日
【8260】 《12/08開戦記念日と大詔奉戴日》 の教訓(2) |
******* 【補遺】 ご質問に答えて *******
昨日の記事の コメント欄に、 あかちゃんから、次のご指摘を戴きました。ご指摘に不明確な点があり、お訊ねしましたが、「答えの無い議論をする心算はありません」とのこと。
しかし、ここに見られる事実誤認は非常に重要なことと思いますので、少し、詳しく、皆様に追加の情報を提供したいと思います。このご指摘は若い皆さんからたびたび、伺います。これに対する皆様のご判断資料にご利用下さい
なお、これは、前日の日記 【8259】 《12/08開戦記念日と大詔奉戴日》 の教訓 の続編です。最初からご覧くださる場合は、こちらからお入り下さい。
◎ 今回、このご指摘を受けて、改めて、ことの重大さに気づきました。
そこで、この記事の補遺として、追加の情報を加えて、お答えに代えます。
◎ 先ず、「当時の」状況です。ここで仰っております「当時」は、当然、「1941年の対米英宣戦布告の時」を意味するのであろうと、思います。ご指摘は、”その時”に、小学校で”国民総動員の教育”が行われていても、子どもたちには、”実感があまりなかった”のではないか、と、指摘されています。
◎ 結論から申し上げますが、それは、戦争を知らない方の大きな誤解です。
◎ 先ず、問題の「戦争」とは何か? そこに食い違いがあります。
対米英宣戦布告があったのは、1941年12月8日です。しかし、「戦争」は、その時にはじまったのではありません。その前、1931年に中国に侵攻した日本陸軍関東軍が「満州事変」を起こし、それが何度か小さい小競り合いを繰り返して北京郊外での蘆溝橋事件をきっかけに本格的な「日中戦争」に拡大(1937年)し、日中戦争は、既に4年もの長い間、戦い続けている最中であったのです。
◎ つまり、日米戦争が始まった時、日本は既に中国と6年間に亘る緊張の軍事小競り合いを繰り返し、遂に戦火の火ぶたを切って大陸で4年間もの長い間、激戦を戦っていたのです。その前段の10年を無視して、「1941年日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争が勃発した」 ”その時”と、切り出したのでは、話が随分、違ってきます。
◎ ”当時の子どもたち”典型的な「軍国少年」の一人は、間違いなく「昭和5年生まれ」の私だと思います。ですから、自分のありのままの体験をお話しします。
未だ幼稚園児だった頃、多分、4,5歳だっただろうと思いますが、年月日は確認できません。ある日、突然、父に招集令状が届きました。数日後、広島・福山連隊に入隊せよとの命令です。母は、毅然として、私に申しました。
お父さんは、お国のために戦争に行く。あなたは長男、しっかりしなさい。
◎ 私の受け止めはかなり平気でした。父がいなくなるのは寂しいけれど、それは、当時は、どこの家でもあったこと。召集令状が来ると、村中が幟を立てて祝い、その家は「出征兵士の家」として称えられました。何人かの友達のお父さんは、白木の箱に入れられた遺骨で戻り、軍国の英雄と地域を挙げて称えました。そんな父になってほしい、とすら思ったように記憶します。
◎ 強調したいのは、一家の大黒柱が、突然、赤紙(招集令状)一つで、直ちに軍隊に召し上げられる体験です。それは、私の物心が付かぬ年齢から全国津々浦々で行われていました。庶民の家庭にとって、これほど大きな「戦争の実感」はありません。だれもが、一旦、戦争に行けば、白木の箱に入って帰って来る、と観念したものです。
◎ 戦争は、ただ、戦場でタマを撃ち合うことではありません。夫、父親、兄弟に赤紙(召集令状)が届いた時に身近になります。出征を見送る。それは、再び故郷に戻らぬであろう、と半ば諦めながら、「君、死に給おうなかれ」と、心に泣いて送り出したものです。バンザーイ、と両手をあげて”祝い”ながら、誰も、ホンネは口に出せませんでした。庶民にとって、戦争がズッシリ重い現実になるのは、この時です。
◎ 私が、尋常小学校に上がったのは、日中戦争が拡大している最中でした。その後4年間、学年が上がるごとに戦争の緊迫度は高まりました。そして対米宣戦布告を迎えたのです。今でも忘れない先生の解説。
はっきり申し上げますが、《子どもたちには、”実感があまりなかった”》 どころか、当事者として、お国のために死ぬ。その覚悟を固めていました。当時の言葉、子どもたちが自分の中に叩き込んだ言葉、忘れません。それを習字の時間に書きました。
「大君(天皇陛下)の辺(へ)にこそ死なめ」
◎ 実は、対英米宣戦布告の後、実施された「大詔奉戴日」の前に、全国で「興亜奉公日」という戦争翼賛運動が展開されていました。こちらは、毎月ついたちに「一億一心、滅私奉公」を合い言葉に始まった”節約報国”運動です。「欲しがりません勝つまでは」 飲食店は全廃され、食事は一汁一菜。こどもの弁当は日の丸弁当(ご飯に梅干し)とすることが決められて、実行されていました。
◎ 1942年1がつからの「大詔奉戴日」の開始で、「興亜奉公日」は統合されましたが、実は、国家総動員教育は、”その時”に始まったのではなく、長く実践されてきた下地が最後の仕上げに入った。そう言うべきでありましょう。老人、女、子どもも含めて国民は聖戦貫徹を誓い、それに異を唱える人などいませんでした。
◎ 私たち昭和ヒトケタ人間は、この”15年戦争”の全期間を通じて、「軍国少年・少女」の教育を受けました。それは、何をもたらしたか。沖縄陥落時、住民の集団自殺が発生しました。「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」 「軍国少年・少女」たちは、軍人の”戦陣訓”で徹底的にマインド・コントロールされていました。忠実にそれに従いました。
◎ 更に・・・アメリカ兵に「狂気の戦略」と恐れられた神風特攻隊。的中率を100パーセントにするため体当たり攻撃や人間爆弾「桜花」 人間魚雷「回天」などに進んで志願したのは「軍国少年」たちでした。その多くは学徒動員の士官と予備兵。この若者たちは、決して、強制徴集された者ではありません。自ら志願したのです。
◎ ご指摘にあるように、「こどもたちには、実感があまり、なかったのではないでしょうか」どころではありません。子どもたちは、殆ど、特攻隊員になる決意を固めていたのです。私自身、もう1年、戦争が長引いておれば、予科練に応募するつもりでした。
15年間にわたる「軍国少年」教育は、徹底的に人間改造に成功していました。
◎ 戦争を知らない人々は、テレビに映し出されるイラク、アフガニスタン、パキスタンの戦争を安楽いすで眺めながら評論しあう気安さに慣れています。しかし、私たち、昭和ヒトケタにとっては、そこに映し出されている銃を手にした少年兵の姿は、自分たちの15歳の実像です。
◎ 昭和ヒトケタ族「軍国少年・少女」にとって”あの時”は、15年間。誕生から15年間、国家によって”仮想敵”を教えられ、それに向けての憎しみを植え付けられ、その民族の殲滅こそ”天皇陛下の赤子(せきし)の義勇である、と教え込まれたのです。
◎ 小学校の教室では、「今、兵隊さんたちは命を賭けて戦っている。その中で、このように勉強させていただいておる。この世に生をうけ、このように勉強させていただいている。これすべて現人神(アラヒトガミ・この世の生き神様)テンノウヘイカのお陰である」と教わりました。
◎ そして、自らの心に築き上げたのは、「天皇陛下の辺(へ)にこそ死なめ」を実現するため、我が身を兵器とした特攻隊に身を投ずるのが夢でありました。
私たちは、国家に瞞された。だからこそ、その悪夢を信じた愚を繰り返すな、と叫んでいます。
◎ どうか、戦争を知らない方々にお願いします。私たちは、決して、嫌がるのを戦争に連れ込まれたのではありません。巧みに仕組まれた国家の教育装置で、自ら進んで戦争に向かうように教育され、それに疑いを抱かなかったのです。
◎ 若い方々にお願いいたします。老人の戦争談議に耳を傾ける時、そのことを思い出しながら、私たちの悔悟の証言を聞いて下さい。
どうか、先行き短い人生を思い、一所懸命、訴えている、”最後の戦争語り部”の、か細い声に、「答えの無い議論」などと、戸を立て、門前払いしないで下さい。お耳障りであれば、どうぞ無視して素通りなさってください。
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** ご挨拶 ** ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
私のネット交友に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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昨日の記事の コメント欄に、 あかちゃんから、次のご指摘を戴きました。ご指摘に不明確な点があり、お訊ねしましたが、「答えの無い議論をする心算はありません」とのこと。
しかし、ここに見られる事実誤認は非常に重要なことと思いますので、少し、詳しく、皆様に追加の情報を提供したいと思います。このご指摘は若い皆さんからたびたび、伺います。これに対する皆様のご判断資料にご利用下さい
なお、これは、前日の日記 【8259】 《12/08開戦記念日と大詔奉戴日》 の教訓 の続編です。最初からご覧くださる場合は、こちらからお入り下さい。
当時の尋常小学校?で、国民総動員の教育が行われていても、こどもたちには、実感があまりなかったのではないでしょうか。上空に、B29が飛んできて、初めて戦争を実感したのでは?◎ 私は、戦争体験を語るとき、しばしば、ある種の「虚しさ」を感じることがあります。体験の有無によって、話の内容の伝わり方が大きくずれることが、ママ起こります。それは、多分、語る側の説明不足から生じているのであろうと思います。
と考えてしまいます。
◎ 今回、このご指摘を受けて、改めて、ことの重大さに気づきました。
そこで、この記事の補遺として、追加の情報を加えて、お答えに代えます。
◎ 先ず、「当時の」状況です。ここで仰っております「当時」は、当然、「1941年の対米英宣戦布告の時」を意味するのであろうと、思います。ご指摘は、”その時”に、小学校で”国民総動員の教育”が行われていても、子どもたちには、”実感があまりなかった”のではないか、と、指摘されています。
◎ 結論から申し上げますが、それは、戦争を知らない方の大きな誤解です。
◎ 先ず、問題の「戦争」とは何か? そこに食い違いがあります。
対米英宣戦布告があったのは、1941年12月8日です。しかし、「戦争」は、その時にはじまったのではありません。その前、1931年に中国に侵攻した日本陸軍関東軍が「満州事変」を起こし、それが何度か小さい小競り合いを繰り返して北京郊外での蘆溝橋事件をきっかけに本格的な「日中戦争」に拡大(1937年)し、日中戦争は、既に4年もの長い間、戦い続けている最中であったのです。
◎ つまり、日米戦争が始まった時、日本は既に中国と6年間に亘る緊張の軍事小競り合いを繰り返し、遂に戦火の火ぶたを切って大陸で4年間もの長い間、激戦を戦っていたのです。その前段の10年を無視して、「1941年日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争が勃発した」 ”その時”と、切り出したのでは、話が随分、違ってきます。
◎ ”当時の子どもたち”典型的な「軍国少年」の一人は、間違いなく「昭和5年生まれ」の私だと思います。ですから、自分のありのままの体験をお話しします。
未だ幼稚園児だった頃、多分、4,5歳だっただろうと思いますが、年月日は確認できません。ある日、突然、父に招集令状が届きました。数日後、広島・福山連隊に入隊せよとの命令です。母は、毅然として、私に申しました。
お父さんは、お国のために戦争に行く。あなたは長男、しっかりしなさい。
◎ 私の受け止めはかなり平気でした。父がいなくなるのは寂しいけれど、それは、当時は、どこの家でもあったこと。召集令状が来ると、村中が幟を立てて祝い、その家は「出征兵士の家」として称えられました。何人かの友達のお父さんは、白木の箱に入れられた遺骨で戻り、軍国の英雄と地域を挙げて称えました。そんな父になってほしい、とすら思ったように記憶します。
◎ 強調したいのは、一家の大黒柱が、突然、赤紙(招集令状)一つで、直ちに軍隊に召し上げられる体験です。それは、私の物心が付かぬ年齢から全国津々浦々で行われていました。庶民の家庭にとって、これほど大きな「戦争の実感」はありません。だれもが、一旦、戦争に行けば、白木の箱に入って帰って来る、と観念したものです。
◎ 戦争は、ただ、戦場でタマを撃ち合うことではありません。夫、父親、兄弟に赤紙(召集令状)が届いた時に身近になります。出征を見送る。それは、再び故郷に戻らぬであろう、と半ば諦めながら、「君、死に給おうなかれ」と、心に泣いて送り出したものです。バンザーイ、と両手をあげて”祝い”ながら、誰も、ホンネは口に出せませんでした。庶民にとって、戦争がズッシリ重い現実になるのは、この時です。
◎ 私が、尋常小学校に上がったのは、日中戦争が拡大している最中でした。その後4年間、学年が上がるごとに戦争の緊迫度は高まりました。そして対米宣戦布告を迎えたのです。今でも忘れない先生の解説。
大日本帝国は、欧米の植民地支配で隷属化にあるアジア諸国同胞を解放するため立ち上がった。シナ(当時、中国をそう呼んでいました)は、卑怯にもアメリカ、イギリス、オランダと組み、我が国を包囲して兵糧攻めに出た。堪忍袋の緒は切れた。これは「八紘一宇」建設のための聖戦である。神国日本は負けることはない。国家危急の折は神風が吹く。◎ 私たちは、胸を弾ませてこの訓話を聞いたものです。心に固く誓ったのは、殲滅!鬼畜米英。それが私の小学校5年生でありました。
はっきり申し上げますが、《子どもたちには、”実感があまりなかった”》 どころか、当事者として、お国のために死ぬ。その覚悟を固めていました。当時の言葉、子どもたちが自分の中に叩き込んだ言葉、忘れません。それを習字の時間に書きました。
「大君(天皇陛下)の辺(へ)にこそ死なめ」
◎ 実は、対英米宣戦布告の後、実施された「大詔奉戴日」の前に、全国で「興亜奉公日」という戦争翼賛運動が展開されていました。こちらは、毎月ついたちに「一億一心、滅私奉公」を合い言葉に始まった”節約報国”運動です。「欲しがりません勝つまでは」 飲食店は全廃され、食事は一汁一菜。こどもの弁当は日の丸弁当(ご飯に梅干し)とすることが決められて、実行されていました。
◎ 1942年1がつからの「大詔奉戴日」の開始で、「興亜奉公日」は統合されましたが、実は、国家総動員教育は、”その時”に始まったのではなく、長く実践されてきた下地が最後の仕上げに入った。そう言うべきでありましょう。老人、女、子どもも含めて国民は聖戦貫徹を誓い、それに異を唱える人などいませんでした。
◎ 私たち昭和ヒトケタ人間は、この”15年戦争”の全期間を通じて、「軍国少年・少女」の教育を受けました。それは、何をもたらしたか。沖縄陥落時、住民の集団自殺が発生しました。「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」 「軍国少年・少女」たちは、軍人の”戦陣訓”で徹底的にマインド・コントロールされていました。忠実にそれに従いました。
◎ 更に・・・アメリカ兵に「狂気の戦略」と恐れられた神風特攻隊。的中率を100パーセントにするため体当たり攻撃や人間爆弾「桜花」 人間魚雷「回天」などに進んで志願したのは「軍国少年」たちでした。その多くは学徒動員の士官と予備兵。この若者たちは、決して、強制徴集された者ではありません。自ら志願したのです。
◎ ご指摘にあるように、「こどもたちには、実感があまり、なかったのではないでしょうか」どころではありません。子どもたちは、殆ど、特攻隊員になる決意を固めていたのです。私自身、もう1年、戦争が長引いておれば、予科練に応募するつもりでした。
15年間にわたる「軍国少年」教育は、徹底的に人間改造に成功していました。
◎ 戦争を知らない人々は、テレビに映し出されるイラク、アフガニスタン、パキスタンの戦争を安楽いすで眺めながら評論しあう気安さに慣れています。しかし、私たち、昭和ヒトケタにとっては、そこに映し出されている銃を手にした少年兵の姿は、自分たちの15歳の実像です。
◎ 昭和ヒトケタ族「軍国少年・少女」にとって”あの時”は、15年間。誕生から15年間、国家によって”仮想敵”を教えられ、それに向けての憎しみを植え付けられ、その民族の殲滅こそ”天皇陛下の赤子(せきし)の義勇である、と教え込まれたのです。
◎ 小学校の教室では、「今、兵隊さんたちは命を賭けて戦っている。その中で、このように勉強させていただいておる。この世に生をうけ、このように勉強させていただいている。これすべて現人神(アラヒトガミ・この世の生き神様)テンノウヘイカのお陰である」と教わりました。
◎ そして、自らの心に築き上げたのは、「天皇陛下の辺(へ)にこそ死なめ」を実現するため、我が身を兵器とした特攻隊に身を投ずるのが夢でありました。
私たちは、国家に瞞された。だからこそ、その悪夢を信じた愚を繰り返すな、と叫んでいます。
◎ どうか、戦争を知らない方々にお願いします。私たちは、決して、嫌がるのを戦争に連れ込まれたのではありません。巧みに仕組まれた国家の教育装置で、自ら進んで戦争に向かうように教育され、それに疑いを抱かなかったのです。
◎ 若い方々にお願いいたします。老人の戦争談議に耳を傾ける時、そのことを思い出しながら、私たちの悔悟の証言を聞いて下さい。
どうか、先行き短い人生を思い、一所懸命、訴えている、”最後の戦争語り部”の、か細い声に、「答えの無い議論」などと、戸を立て、門前払いしないで下さい。お耳障りであれば、どうぞ無視して素通りなさってください。
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** ご挨拶 ** ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
私のネット交友に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2008-12-10 00:32
| 戦争秘話:平和への戒め