2008年 12月 12日
【8262】 ”姑息の計を為すが如き軟骨漢”への戒め |
★ 今日、届いた "One Purpose" No.157 母校・同志社大学が同窓生のために送ってくる「大学通信」冊子です。卒業してもう54年。半世紀以上を経過しましたが、私の心は、常に新島襄先生と対座しています。先生は、我が人生の”正師”でありました。
★ 真ん中、第15ページを開いてビックリしました。ことしは新島先生ご生誕165周年に当たります。それを記念して「明治維新を邁進した新島襄を知る2冊刊行」の大見出し。何と! 出版されるのは、「マンガで読む新島襄」とクイズ様式の「新島襄検定100問」の二冊。
★ これを見て、特別、違和感を抱かれない方も多いでしょうね。エッ!? と、目を瞠って詳しい記事を確かかめる人もいるかもしれません。人それぞれに受け止め方が違うでしょう。しかし、78歳の私には受け入れがたい強い違和感があります。
★ それをウチに秘めて黙認する。若いモンがすることに口出ししない。それが大人というのかも、とも思います。だが、やはり、オカシイことは、オカシイ。私も残り少ない余生の身、これは率直に申し上げねばならぬ。イマドキちょっと時代錯誤な”原理主義”、と反発を受けるかもしれませんが、やはり、全国の心ある同志社人に訴えることにします。
★ なんという貧しい発想 ・・見た瞬間、私が感じ取った印象です。一体、誰に読ませるためにこんな冊子を作るのか? 校祖生誕記念出版ともなれば、在校生と同窓生に向けたもの、もう少し広げても、同志社を目指す受験生向けと見るのが妥当でしょう。でも、マンガとクイズとは!?
★ まあ、説明も聞かずに、カッカするのも大人げない。刊行趣旨を読んでみました。
「世はマンガ全盛。日本のマンガは世界的ブーム。”活字離れ世代”のために、あえて挑戦」したのだそうです。一読、アホチャウカ! 思わず京都弁が飛び出しました。
★ 世がどうあろうと、同志社は大学。新島先生の遺著が読めぬはずはない。読めないならば、読めるようにするのが教育というもの。イマドキ学生は、本は読めぬ、字は知らぬ、だからマンガでの”親心”とでも言うのでしょうか?
それで大学の教育、と言えるのか、どうか??? 少なくとも、大学の研究・教育の基礎は、原典主義。第一次資料に当たらせるのが基本の基本です。私は、この同志社で、今井仙一先生からそれを叩き込まれて育ちました。 その訓練なくして、何が大学か!?
★ 時代が違う、との反論は、論者自らの責任に属する教育不作為の自己弁護、現状追認のための詭弁というべきでしょう。その時代の逆行は、誰が行ったのか? 矛先を自らに向けよ!挙げ句の果てに だからイマドキの学生に迎合して・・・マンガ、とは!? それで、新島精神がたたき込めるのか!?
★ 制作の苦労話: 「フィクションとストーリー創作の狭間で苦悩させられました」
言うに事欠き、何たる放言 ・・・ マンガ向きに新島先生レプリカ像を”創作”してどうする! もう怒りは止まる所を知りません。この人、マンガ刊行の監修者で、現職教授だそうです。もう言葉も出ません。 ただ呆然とするのみ。
★ だから、この種の刊行物を、殊更に、同志社大学が、《校祖165周年記念事業》に謳い上げるのには相応しくない、と言っているのです。大学教育の本筋から外れた、単なる出版に類する営利的事業の性格が濃厚です。
★ 新島先生の遺志に添った大学の歩むべき正道を指し示す発想が、何故、出ないのか? この教師を含めて関係者は、私のウンと後輩に違いはありません。あなたたちは、同志社に職を奉じて、平素、新島精神を如何に生き、それを教学に生かしておられるのか?
★ 私は、昭和29年(1954)法学部政治学科を卒業した同窓生です。今、78歳。この老骨は、卒業後も新島精神を忘れることはなかった。卒業してから54年、常に、「新島襄全集」に向かい合って生きて来ました。
★ 決して忘れることの無かった座右の銘は、今出川学舎正門の「良心碑」に刻まれた言葉。
良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起コリ来タラン事ヲ 新島襄
★ 新島先生は、更に「(良心を)生きるために学び、学ぶために生きよ」と教えられた。
同志社人なら、よもや新島先生の次の言葉を忘れまい。
目先の時流に乗って、安易なウケ狙い出版に向かう志の貧しさを想います。
★ 私は、最近の同志社に一抹の懸念を抱いています。だからこそ訴えます。
同志社よ、後輩たちよ! 同志社は大学です。その正道に校祖生誕を記念する顕彰を敷設してほしい。
★ かりそめにも先生ご生誕165周年を掲げながら”優柔不断にして安逸を貪り”、”姑息の計を為すが如き軟骨漢”の真似事をするようなことがあってはなりません。新島先生ご自身も、こう仰っています ・・・ 「これ予の切に望み、ひとえに希うところである」 と。
★ 78歳の砌(みぎり) 私は、「少々角ある、奇骨ある」変わり者ですが、新島先生生誕165周年に先生の遺訓をかみ締める時、憂慮に耐えぬ想いがこみ上げてきます。新島先生のご遺志を奉戴して、同志社で教学の任にある方々に、あえてお訊ねいたしたい。 皆さんの志や如何? と。
==== いただいたコメント ====
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** ご挨拶 ** ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
私のネット交友に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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★ 真ん中、第15ページを開いてビックリしました。ことしは新島先生ご生誕165周年に当たります。それを記念して「明治維新を邁進した新島襄を知る2冊刊行」の大見出し。何と! 出版されるのは、「マンガで読む新島襄」とクイズ様式の「新島襄検定100問」の二冊。
★ これを見て、特別、違和感を抱かれない方も多いでしょうね。エッ!? と、目を瞠って詳しい記事を確かかめる人もいるかもしれません。人それぞれに受け止め方が違うでしょう。しかし、78歳の私には受け入れがたい強い違和感があります。
★ それをウチに秘めて黙認する。若いモンがすることに口出ししない。それが大人というのかも、とも思います。だが、やはり、オカシイことは、オカシイ。私も残り少ない余生の身、これは率直に申し上げねばならぬ。イマドキちょっと時代錯誤な”原理主義”、と反発を受けるかもしれませんが、やはり、全国の心ある同志社人に訴えることにします。
★ なんという貧しい発想 ・・見た瞬間、私が感じ取った印象です。一体、誰に読ませるためにこんな冊子を作るのか? 校祖生誕記念出版ともなれば、在校生と同窓生に向けたもの、もう少し広げても、同志社を目指す受験生向けと見るのが妥当でしょう。でも、マンガとクイズとは!?
★ まあ、説明も聞かずに、カッカするのも大人げない。刊行趣旨を読んでみました。
「世はマンガ全盛。日本のマンガは世界的ブーム。”活字離れ世代”のために、あえて挑戦」したのだそうです。一読、アホチャウカ! 思わず京都弁が飛び出しました。
★ 世がどうあろうと、同志社は大学。新島先生の遺著が読めぬはずはない。読めないならば、読めるようにするのが教育というもの。イマドキ学生は、本は読めぬ、字は知らぬ、だからマンガでの”親心”とでも言うのでしょうか?
それで大学の教育、と言えるのか、どうか??? 少なくとも、大学の研究・教育の基礎は、原典主義。第一次資料に当たらせるのが基本の基本です。私は、この同志社で、今井仙一先生からそれを叩き込まれて育ちました。 その訓練なくして、何が大学か!?
★ 時代が違う、との反論は、論者自らの責任に属する教育不作為の自己弁護、現状追認のための詭弁というべきでしょう。その時代の逆行は、誰が行ったのか? 矛先を自らに向けよ!挙げ句の果てに だからイマドキの学生に迎合して・・・マンガ、とは!? それで、新島精神がたたき込めるのか!?
★ 制作の苦労話: 「フィクションとストーリー創作の狭間で苦悩させられました」
言うに事欠き、何たる放言 ・・・ マンガ向きに新島先生レプリカ像を”創作”してどうする! もう怒りは止まる所を知りません。この人、マンガ刊行の監修者で、現職教授だそうです。もう言葉も出ません。 ただ呆然とするのみ。
私は、若い同志である在学生に訴えます。★ 誤解のないよう付け加えますが、私は、新島先生の生涯をマンガやクイズ様式のハウツー本の出版は絶対、ダメだ、と言ってはいません。それは、それなりの意味を持つし、それは、いつでも、誰でも出来ること。特に同志社であらねばならぬ理由は全くありません。
もし、君が同志社に来た自らの心を問う時があったら、「新島襄全集」を開きなさい。誰でも読める日本語だ。新島先生は、君に、ご自身の珠玉の言葉で語りかけられる。 この大学に学ぶ意味は、と、問えば、新島先生ご自身が君に答えを与えられる。直に対座しなさい。
★ だから、この種の刊行物を、殊更に、同志社大学が、《校祖165周年記念事業》に謳い上げるのには相応しくない、と言っているのです。大学教育の本筋から外れた、単なる出版に類する営利的事業の性格が濃厚です。
★ 新島先生の遺志に添った大学の歩むべき正道を指し示す発想が、何故、出ないのか? この教師を含めて関係者は、私のウンと後輩に違いはありません。あなたたちは、同志社に職を奉じて、平素、新島精神を如何に生き、それを教学に生かしておられるのか?
★ 私は、昭和29年(1954)法学部政治学科を卒業した同窓生です。今、78歳。この老骨は、卒業後も新島精神を忘れることはなかった。卒業してから54年、常に、「新島襄全集」に向かい合って生きて来ました。
★ 決して忘れることの無かった座右の銘は、今出川学舎正門の「良心碑」に刻まれた言葉。
良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起コリ来タラン事ヲ 新島襄
★ 新島先生は、更に「(良心を)生きるために学び、学ぶために生きよ」と教えられた。
同志社人なら、よもや新島先生の次の言葉を忘れまい。
わが校の門をくぐりたるものは、政治家になるもよし、★ 制作者が苦悩したか、どうかはともかく、そのマンガを抱えて、卒業後、54年間、師の面影を偲ぶ人が一体、何人いるでしょう? ”記念”事業を謳うからには、もう少し、意味のある、校史に残るような高い理念を掲げた企画が何故、出来なのか?
宗教家になるもよし、実業家になるもよし、
教育家になるもよし、文学者になるもよし、
且つ少々角あるも可、奇骨あるも可、
ただかの優柔不断にして安逸を貪り、
苟くも姑息の計を為すが如き軟骨漢には決してならぬこと、
これ予の切に望み、ひとえに希うところである。
目先の時流に乗って、安易なウケ狙い出版に向かう志の貧しさを想います。
★ 私は、最近の同志社に一抹の懸念を抱いています。だからこそ訴えます。
同志社よ、後輩たちよ! 同志社は大学です。その正道に校祖生誕を記念する顕彰を敷設してほしい。
★ かりそめにも先生ご生誕165周年を掲げながら”優柔不断にして安逸を貪り”、”姑息の計を為すが如き軟骨漢”の真似事をするようなことがあってはなりません。新島先生ご自身も、こう仰っています ・・・ 「これ予の切に望み、ひとえに希うところである」 と。
★ 78歳の砌(みぎり) 私は、「少々角ある、奇骨ある」変わり者ですが、新島先生生誕165周年に先生の遺訓をかみ締める時、憂慮に耐えぬ想いがこみ上げてきます。新島先生のご遺志を奉戴して、同志社で教学の任にある方々に、あえてお訊ねいたしたい。 皆さんの志や如何? と。
==== いただいたコメント ====
【お願い】 同志社関係の皆さん、大麻事件に関して憂慮する一文も、ご披見をお願いいたします。
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** ご挨拶 ** ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
私のネット交友に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2008-12-12 00:06
| 新島襄先生との対座