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【9074】 親子2代、感動の豪州奇譚(上)
★ 誠に申し訳ありません。今日と明日は、日記を休みます。
実は、オーストラリアの古い友人から、かなり前に私がネット上に公開した「親子2代・奇縁の地 オーストラリア」という手記を是非、再録して欲しい、との依頼が届きました。 ★ その文章は「PDFファイル」で作ったもので、あるプロバイダーのサーバーに置いてリンクして公開していたのですが、そのプロバイダーが閉鎖され、ネット上では見ることが出来なくなっておりました。 ★ 元原稿は、手元に残っておりますので、急遽、このブログを使って、発信することにいたしました。52年も前の昔物語ですが、もし、ご関心がございましたら、どうぞご覧ください。かなり長文ですので、今日と明日、上下に分けて掲載いたします。ご了承をおねがいいたします。 ------------------------------------ Ⅰ. プロローグ ★ 私が、生まれて初めて外国に旅をしたのは1957年、27歳の時でした。それも、当時、対日感情が最も悪いと言われたオーストラリア。そして生まれて初めての外国人の家庭に泊めて貰ったのもオーストラリアでの体験が最初でした。ですから、私の中では、オーストラリアは、「第二の故郷」への望郷の思いをかき立て、憧憬の念を募らせる心情がいつも漂っています。 ★ このオーストラリアで、私と、次男は、父子2代にまたがる不思議な出会いを経験しています。その要(かなめ)にいるのが西オーストラリアの首都、パースのブランク・バーニーとその妻・べティ。そしてバニー一家の一人娘キャシーです。 この一家は、貧乏旅行中の見知らぬ私を家に招き、2週間もの長い期間、一所懸命、もてなしてくれました。 ★ そのオーストラリアで、それから30年後、私の次男が、偶然、同じパースを訪れ、全く予想もしなかったキャシーと街中で出会い、その母・ベティと奇跡的な出会いを経験したのです。その経緯を記録しておきたいと思います。 Ⅱ. 1950年代の海外旅行 ★ 1957年に海外に出る、と言うことは大変なことでした。 今では、海外に行くことは地下鉄に乗るのとあまり変わりなく、取り立ててコメントする必要もないのですが、当時、日本人で海外に出ることが許されたのは、政府の公務出張者とマスコミの特派員、それと貿易振興に必要と認められた経済人に限定されていました。 ★ 学術研究者や留学生は、海外の団体からの招待があることが前提で、その身元保証がなければパスポートの申請は出来なかった。どんな金持ちも自由にドルに替えることが出来なかった時代でした。 ★ 当時、私は、毎日新聞に入社して3年目が終わることで、やっと新聞記者として仕事に慣れ始めたころ、何をやっても新鮮で、毎日が面白い、そんな張り切った生活を楽しんでいました。今でも不思議に思うのですが、何故、あの貧しい時代に充実感を覚える毎日が送れたのか? ★ その前年に結婚し、長男が生まれたばかりでした。私の渡航は、海外からの招待によるもので、シドニーで開かれた大陸間宗教会議に日本代表として招かれたもので、業務とは全く関係ないものでした。新聞社の大先輩たちも折りあらば、海外取材をとみんながチャンスを窺っていた。そんな折り、ひよこ記者が海外旅行を申請してみたところで認めてくれる雰囲気は職場にはありませんでした。 ★ ところが、当時の上司だった社会部長は、奇妙な理屈をつけて役員会に推薦して下さったのです。 「我が社の社員が国際会議で日本代表に選ばれたのは社にとって大きな名誉である」 これですんなり役員会もパス。おまけに公務扱いにして1ヵ月の有給出張と、支度金2万円をいただけるという幸運。当時の私の月給は、1万5千円前後でしたから、思いもかけぬ大金を手にして大喜びしたものです。 ★ 問題のパスポート申請も、報道関係者ということですんなり運びました。特に時間がかかったのは日銀の外貨購入許可書の手続きでした。渡航目的から滞在期間、おまけに社内での格付けまで申請しなければならない。購入できる外貨は、滞在費1日当たりいくらと定められており、一般社員と管理職では購入出来る割り当てが異なるものです。 ★ 手続きも大仕事でした。当時、大阪に住んでいましたが、東京へ3度、足を運ばねばなりませんでした。そして2ヵ月目にやって念願のパスポートを手に入れ、3月初旬に羽田国際空港をカンタス航空機で出発しました。当時は、ジェット機ではなく、4発のプロペラ機、香港まで9時間、それからマニラ、ジャカルタ、ポート・ダーウィンと給油の寄港を繰り返しながら40時間もかかって目的地のシドニーに着きました。 Ⅲ. カルチャーショック ★ シドニーに着いたのは深夜でした。初めての異国。それも長旅の後でホテルに着いても興奮してなかなか眠れませんでした。未明近くウトウトし始めたころ、甲高い少年の声で目が覚めました。大きな声で「パーイパ、パイパ」と怒鳴っています。何か、事件でも起こったような緊張を誘う叫びです。何のことかさっぱり分からないで、不安なままに朝食を済ませました。 ★ そして、外に出ました。眼前に広がる風景は正しく西洋。夢にまで見た異国の町並みでありました。店がありそうな下町に向かって歩きました。しばらく行くと、街角で新聞売りのおじさんがいました。この人が通る人に「パーイパ、パイパ」と、先ほどの少年と同じ言葉を繰り返しています。手にした新聞を突き出しているので新聞を売っていることは仕草で分かりました。途端に、パッと頭に閃きました。 ★ それは、新聞売りがNewpaper, Newspaper! と呼びかけている、と気付いたのです。 出発前、友人だった『英文毎日』の記者から、 「オーストラリア英語は、英米の“正調”英語が「エイ」と発音するところを「アイ」と発音する。 I came to Kobe today. (今日、神戸に来ました。)が「アイ・カム・ツゥ・コウベ・ツゥダイ」(I came to Kobe to die.)に聞こえるから注意を」 と伝授してもらっていたのですが、Newspaperを”paper” と短縮し、しかも、それが「パイパ」と発音するとは思いもしなかったことでした。 所変われば品変わると言うが、それは本当だ、と感じ入った記憶があります。 ★ それから数日後のことですが、国際会議の接待係が動物園に連れていってくれました。 Look! Michy, there’s a swan. ホラ、スワンよ。驚くべきことにオーストラリアでは、swanは黒鳥だったのです。 ★ 北半球と南半球では季節が逆になる。それは小学校でも分かる常識ですね。だけど、その常識も、実際に体験すると、理屈を超えて情緒的不安を醸し出すものです。オーストラリアに来て1週間ほど、「何か、変だ」と身体になじまない想いがした。最初は、慣れない西洋式生活、例えば、居間でも、寝室でも靴を脱ぐことがない。そんなことだろう思っていました。 ★ ところが、ある朝、ハッと気がついたのです。 太陽が右から上がっているではありませんか! 毎日、そして、それが一日かけてゆっくりと左に180度、回転し、そのまま没する。太陽の運行も日本と逆。ソレと気付くと、家の造りも皆、北向きです。町全体が、いやひょっとすると、国全体が北向きで生きているのです。 ★ 北が明るい・・・北に向いて生活するようになると、“西空”に日の出あり、“東空”に夕日が沈む、そんな感じになります。本当は、東西の向きは変わらないのですが、東は常に左にあり、西は常に右にしかなかった。 私に、突然、「右が東、左が西」の生活感覚を強いられる生活が始まったのです。それは、突然、東西逆になったと同然の奇妙な体験に思えました。 ★ カンタス航空が赤道を越えた時、「あなたは1957年3月4日午後**時**分、赤道を越えて南半球に入りました」と一人一人の名前を付した歓迎カードを配ってくれたが、それが何を意味するのか?そこではっきりわかったように思えます。 ★ 南と北では地球の様相は相似形に見えるが、体感は逆になるのである。当時は、航空会社のサービスも、このように行き届いたものでしたね。 ついでながら、オーストラリア人にはWhite Christmasはおとぎ話、そのリアリティはありません。オーストラリア人にとってクリスマスは、真夏の最中、ビーチで裸身のお祝いです。 ★ 逆に、草原と言えば富士のすそ野しか浮かばない日本人には、日本全体を三つ、四つ、放り込んでも空き間だらけのオーストラリアの大草原は、実際にこの地に立ってみないと想像も出来ないほど広大です。当時の飛行機で横断するのに8時間です。 ★ 単語一つ取り上げても日本語と英語の意味・内容の違いやズレは随分あって、文化摩擦も、並大抵ではありませんでした。本で学ぶ世界は知識を広めるために大きな意味を持っています。それはそれで大事でしょうが、それだけではダメ、実際に自分で体得する、その事の重要さが見に沁みて分かりました。 ★ その時、シミジミ思ったことがあります。私は、若い父親になったばかりでした。 「我が子には、早い時期に外国を経験させよう」 生まれて誕生日も迎えていなかった長男に深い思いを寄せて、その事を日本に書き送ったものです。しかし、それは、当時として、途方もない夢でした。 私の月給は1万5千円。忘れもしない東京-シドニーの航空券は1000ドル。当時の為替レートで36万円もしたのです。 ★ 余談ですが、長男は後年、大学の時に、文部省派遣交換留学生としてドイツ・ハイデルベルク大学に学び、私の念願を果たしました。この子も今、52歳。学校の校長をしています。何と世の中の進歩の早いこと。今では、外国へ行くなど地下鉄の下駄履き旅行並みですね。 時代の変化の猛スピードを改めて想います。 Ⅳ. 異邦人 ★ この旅行で私は丸々2ヶ月をオーストラリアで過ごしました。 出発時には8日間、シドニーの会場に出席するだけの予定で直ちに東京に戻るつもり でしたが、未だ日本人が珍しかった頃のこと、現地の方々が次々と、私を招いてくれる計画が持ち上がり、それをお受けしながら、結局、シドニー-メルボルン-アデレイド-パースと南海岸線にある4大代表都市を歴訪しながら、大陸を西へ横断することになったのです。 ★ その2ヶ月間、私は、どこに行っても“異邦人”でした。今でこそオーストラリアはアジア人を迎え入れ、世界でも最も解放的な移民政策で有名ですが、1950年代は未だWhite Australia、いわゆる「白豪主義」を掲げており、有色人種の移民を厳しく制限していました。 ★ その上、第2次世界大戦での日本軍による“残虐行為”がかなり広範に宣伝されていて、日本に対する国民のイメージは、一般的に良くなかったのです。どこに行っても、 「夜間の外出だけは・・・」とクギをさされ、日没後に町に出ることはありませんでした。 ★ 事実、一度だけ、シドニーでは酔っ払った男に「ハイ、ユー、ジャップ」と凄まれ、横にいた人が助けてくれた不愉快な事態に持ち込まれて弱ったこともありました。町を歩いても、電車に乗っても、好奇の眼差しに取り囲まれたものです。外国人の好奇の眼差しは実に緊張感を覚えさせるものでした。私は、この時ほど自分の自意識に疲れたことは ありません。 ★ 大衆の中で目立たない、そうするためには点と点を結んで歩く・・・・どれほど多くタクシーを使ったことか・・・貧乏人には、それは大きな、“要らざる”出費でした。そうした緊張の日々の中で、メルボルンとアデレイドでは実に楽しい交流の日々を過ごしました。 ![]() 実態でした。 ★ 敗戦で日本は連合軍に占領されました。東日本を米軍、西日本を英連邦軍が駐留して、全体をGHQという本部組織が統轄し、D・マッカーサー元帥が統治しました。 やがて日本が独立し、駐留軍兵士たちも日本人妻を連れて母国へ帰ったのですが、これら駐留軍の若い兵士と結ばれた日本人妻は、日本でも、海外でも“戦争花嫁”と呼ばれていました。 ★ そして、私がオーストラリアに行った1950年代後半には、日本人妻の悲喜劇が日本で大きな話題になっていました。その中で際だっていたのは、アメリカに渡った日本人妻の90パーセントが離婚し、異国での再出発を図った健気な物語であり、一方、オーストラリアに行った日本人妻の90パーセントが成功裏に幸福な家庭を築いた、という明暗が常識的に語られていました。 ★ それは、今では想像も出来ないほど、当時の日本人の関心を集めた大きな話題になっていました。ですから、日本を出る時、私は、もしその機会に恵まれるならば、それを取材し、記事に書いてみたいと思っていました。 ![]() アデレイヂの中心街を散歩していたら、突然、「日本の方?」と声がかかったのです。 振り向くと、日本人と分かる女性がこどもを連れて立っていた。「お暇なら・・・」と家に 招いてくれ、夫と、その父母に紹介してくださいました。そして私の希望を聞くと、「それはちょうど、良かった。明日、“日豪友好会”があるから行きましょう。」と誘ってくれたのです。「そこなら、あなたが聞きたい話はいっぱい、あるわよ。」 ★ 翌日、所定の公園に行ったら、20数組の日本人妻の家庭が集まっていました。随分、多くのカップルの話を聞きましたが、一番、感銘を受けたのは、オーストラリア人のおじいちゃんが言った次の言葉でした。「私は、サム(孫の名)が大好きだ。クラスで一番、学校でも人気者だ。私の誇りだよ、サムは。」 ★ 横にいたおばあちゃんも嫁を誉めました。 「もうオーストラリアには、この子のように控えめな、細やかな気がつく女の子なんていないよ。お料理も上手だしね・・・」 オーストラリアの父母は息子が連れて帰った異国の妻を暖かく迎え入れていたのです。続いて、メルボルンでも同じグループに会って、日本人妻の見事な現地同化の実際に、具体的に触れることが出来ました。そして私は、見聞きしたすべてを現地発のニュースで書き送りました。 ★ 直ちに本社からから「詳細な現地ルポを送れ」との注文があり、それは1957年6月の「サンデー毎日」特集号に写真入りで大きく報道され、とりわけ日本にいる花嫁たちの家庭に喜ばれました。若い頃の私の海外発の初原稿でありました。 (後半は、明日に続けます) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって 私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 長文だと思うこともありませんでした。読み始めたら、引き込まれてしまいます。知らないことばかりで、本当に興味深いです。 続きを楽しみにしております。 こんばんは! 現在シドニーは午前3時44分なり! |爆| もうそろそろ寝なくちゃと思いながらちょっとだけチェックしたら、この記事! 明日、さっそく拝読させて頂きます。 オーストラリアの記事大変懐かしく読ませて頂きました、私h息子がアデレードに住んでいたことや、私自身の白血病の治療もありしばらくアデレードに住んでいたので懐かしいです。今はシドニー、メルボルン、パースなど直行便もあり8時間ほどで付きますが答辞は大変でしたね。50年ほど前のアメリカ行きも大変でした、船がほとんどでした。羽田からの出発で家族との別れ、という感じでした。有難う御座います 明日が待ちきれません。 手元にある本ならば、夜更かししても読みきってしまうのに と。 いつも思うのですが、吉備野様の文章は、映像をも、提供してくださっているのですね。 今日は 当時のオーストラリアを旅させていただきました。明日の日程は さて、どちらでしょう。 仕方ありません、一日待つことといたします。 ありがとうございました。 すごい出会いですね。 私の娘も大学時代に交換留学生として米国シアトルへ一年間滞在していました。往路は娘たった一人で旅立ちましたが、帰りは迎えに行きがてら 私一人でシアトルまで行きました。 現地の空港には、娘が当時お世話になった大学の教授ご夫妻が出迎えに来て頂き、その夜はゲストハウスに泊めて頂きました。 夜はなかなか暮れず、食事の後、まだまだ明るい夜の10時に近くへ散歩に行きました。日本では考えられない時間でした。 今、孫も生まれ、先生の日記のように、また孫がシアトルに行って娘がお世話になった先生や、交友した当時の方々に偶然にでも出会う事があり得るのかも・・・なんて思ってしまいました。 出会いとは不思議なものですね。偶然のようでもあり、しかし、何かに繋がっているようなそんな体験をよまさせていただきました。 ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。 余りにも迫力のある 長文に圧倒されながら 読み進んでいました。2年ほど前 娘がワーキングホリディで1年間、ゴールドコーストとシドニーに滞在しました。私達も1度位は海外旅行に…と、娘にも招待?されまして出掛けました。 吉備野様のこの日記は失礼とは思いましたが、とても身近に感じられました。 歴史に疎い私は、ちっぽけな知識しか持ち合わせていないことを恥ずかしくも感じました。 もう既に この場に1時間は、とどまっています。pcに触れ1年しか経って居ませんが、心良くない 書き込みなど 目にします。でもこのような場面に出会えて善かったと嬉しい気持ちです。 明日も楽しみにしています。では… 吉備野禅三様、こんばんは、 ブログ拝見させて頂きました。私が生まれた年に豪州とはすごい。 私のオヤジは76なのでとほとんど同い年ですが、エネルギーの違いを感じました。 今後もお邪魔させていただこうと思います。 p.s.ゴールドコーストマラソンにいつかは挑戦しようと思っています。 当時高校生だった私達の憧れはフルブライト奨学資金に合格し留学することでした。大学を終えるまでそうでした。サクラ丸に雇われてゆこうかと友人と真剣に相談しました。それにしてもオーストラリア戦争花嫁の話は初耳でした。夫が20年来半年に一度ケアンズの大学へ2週間ほど行きます。老後はそこの友人と交歓したいと話しております。
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★ 翌日、所定の公園に行ったら、20数組の日本人妻の家庭が集まっていました。随分、多くのカップルの話を聞きましたが、一番、感銘を受けたのは、オーストラリア人のおじいちゃんが言った次の言葉でした。