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【9075】  親子2代、感動の豪州奇譚(下)
Ⅴ. オーストラリア国営放送

★  珍しいものには、珍しいというだけで価値が生ずるのですね。
私のオーストラリア滞在はその連続であったように思います。
そうなると、"異邦人"も、それなりに居心地のいい状況に置かれるようになります。

★ メルボルンに着くと、待ち受けていたABC(オーストラリア国営放送)が、婦人向け番組に出て欲しい、と言ってきました。日本の新聞記者が来たらしい、と、知って、「ちょうどいい、インタビュー番組に出て欲しい」と、現地の受け入れ団体を通じて依頼がありました。

★ OKしたものの、私は、海外に出るのは初めて。第一、こんなトツトツ英語でいいのか、不安に思って聞き質すと、「それが、いいのだ」と言う。ハラを決めて出演することにしました。慣れ親しんでいたNHKの大阪放送局の施設と比較すると、何とも貧弱に思えました。スタジオは小学校の音楽教室の感じでした。

★ 本番前に簡単な打ち合わせに入ったのですが、その時、初めて放送局側の意図を知ってシマッタ、と思いました。ディレクターは、「日本で今年、売春禁止法が成立したが、その背景と、果たしてその法律で日本の売春の悪弊がなくなるのか? そこがポイント。解説してほしい。」と言うのです。

★ 話の筋は、こちらで誘導するからインタビューアの質問に答えてもらえればいいとも言います。 何か、すべて筋書きが出来てしまっているような感じなのです。その年に、新生民主主義文化国家の象徴として売春防止法が成立したのは事実です。でも、そんな話題にコメントする力量など私にはありません。
そこで、私は、はっきり言いました。

★ "売春禁止法のことは私は全く分からない。だから答えようがない。それをコメントする準備も、知識もない。 もし、私をラジオ出演させるのであれば、今回、初めてこの国で出会った日本人妻とその家族についての話をさせて欲しい。オーストラリア人の舅、姑の広い心と、それに応えた日本人妻とのインタビューを紹介したい。

★ この国で私が一番感動したのは、日本の戦争花嫁の見事な現地同化と、それを喜んだオーストラリアの舅姑の話だ。これは、かつて憎しみあった戦争当事者がどうしても向かい合わなければならぬ和解の理想的なエピソードではないか、それをはなさせてほしい。"

★ もう放送の本番は、刻々と迫ってきています。今更、出演者を変えることもできないのでしょう。 ディレクターはしぶしぶ、OKしました。応対のアナウンサーも台本はそっちのけに30分間、”適当に”私を誘導しました。トツトツと、慣れない英語を使いながら、私は、日本人妻の見事な現地同化振りを紹介しました。

★ この放送をした後、ABC(オーストラリア国営放送)のディクレター氏が、お茶を勧めながら面白い提案をしてくれました。
  オーストラリアでは、アブロジニという先住民の同化政策をやっているのだが、これがどうもうまくいかない。アブロジニの人たちには白人拒否の心情が根強い。ひとつ、君に頼みたいが、ここに止まって、それをやってみないか? その気があるなら、直ぐに政府筋に推薦する
と言うのです。

★ お申し出はありがたいが、私は新聞記者が気に入っている。当分、この仕事を続けたい、とやんわりお断りしました。それにしても、ラジオ番組のインタビューを受けただけで、外国人旅行者に仕事の斡旋を持ちかけるとは??? 何とおおらかな開けた社会であることよ!と、感心した事が、今なお、当時の強い印象として残っています。

★ ラジオ番組出演のことは、事前に「日豪友好会」の皆さんにもお知らせしておいたので、その夜は、メルボルンで楽しい夕食に招かれ、それをサカナに大いに盛り上がりました。心配だったのは英語。
「大丈夫!。全部、ワカッタ!」
大男のオーストラリアのオシュートさん、ビル・ジョンソン氏が太鼓判を押してくれてホッとしました。そして、公開講演会も準備されました。ラジオの話をみんなにしろ、というわけです。

 ★ 「オーストラリア人の開拓精神と日本から来た戦争花嫁」・・・ 翌日、私は、地元の公民館に集まった人々を前に大演説をぶちました。生まれて初めての英語演説でした。終わったら、白髪の老婦人が前に立ちました。
「ウチのヨメは日本人ョ。私はネ。自分の他の(白人の)孫たちに、嫁を選ぶなら日本へ行け、と、いつも、教えているョ。日本の女性は本当に素晴らしい」  私に何度も顔を向けながら、聴衆に向かって、こうコメントしてくれました。
★ 「日豪友好会」やABCの体験は、勿論、つぶさに記事にして日本へ送りました。それは、『サンデー毎日』7月特別号の特集「女ゆえの人生記録・・国際結婚の真実 に組み込まれて大きく報道されました。

★ 「週刊新潮」が発刊されて、いわゆる雑誌系週刊誌が輩出し始めた頃ですが、今とは異なり、未だ『サンデー毎日』 『週刊朝日』の新聞系週刊誌が両雄として、共に発行部数100万部を誇り、競い合っていた時代のこと。私にとっては思い出深い記事の一つとなりました。


Ⅵ. 日の丸とフランク&ベティ

★ そして、オーストラリア大陸西端のパースへ。着いたその日に、飛行場に出迎えた地元引き受け世話人に誘われてフリーマントル港を見に行きました。 もう4月に入って朝夕は冬の訪れを思わせる秋冷の候でオーバーコートに身をくるんで出かけました。

◎ その日の出来事は、今なお、鮮明に覚えています。それは、私に、戦前・戦後を分ける大きな回心をもたらしたものだったからです。

★ 港に立ったちょうど、そのとき、日の丸を掲げた船が入港してきました。
あまり大きな船ではありません。海事については全く知識を持ち合わせなかった私には、その船が貨物輸送船だったのか、漁船だったのか、その区別もつかず、何の船だったのかは全く覚えていません。

★ ただ、その船に大きな日の丸がはためいていたことに感動しました。
胸にこみ上げるような感情とともに「自分は日本人だ」と強く自覚したのです。
昭和ヒトケタ、いま「後期高齢者」と言われる年齢層の高齢者にとって日の丸は特別の意味を持っています。
○ 青春時代には、それは、神国日本の象徴、邪な鬼畜米英を挫く「錦の御旗」でありました。そして”勇猛果敢”な兵士たちは、この旗の下で「テンノウヘイカ万歳」と叫んで八紘一宇(はっこういちう)天皇を盟主とするアジア共同体建設の礎(いしずえ)になりました。

○ 1945年の敗戦を境にそれは一転して「一億総懺悔」の下に土蔵の奥にしまい込まれ、恥の象徴のように取り扱われてきました。事実、日の丸は、独立の日まで決して公共の場に持ち出されることはなかったのです。

○ 戦争の時代、10代から50代を生きた人間にとって、日の丸は、精神の昂揚とその崩壊を象徴するものでありました。その宴は、終わってしまうと、なんとも疎ましいものであったのです。私はといえば、青春の時、その疎ましさを自分の外に置きたい強い願望を持ちつづけました。

○ 特に大学生時代には、日の丸にまつわる忌まわしい思いを告発し、それを過去の忘却に閉じかめることに意を尽くしたように思います。左翼運動には積極的に参加し、エスペランド語運動や世界連邦運動にも足をつっこんできました。時には無政府主義に心を奪われたものです。
★ ところが・・・・・1957年4月、フリーマントルで日の丸をはためかせながら入港した日本船を見たとたん、私の魂は大きく揺り動かされたのです。それは、改めて、「自分は日本人」と心に確証させて、力強さで私に迫ってきたのです。

★ 瞼ににじむ涙はいつしか頬を流れ始めていました。そして私は、その感動の正体を
つかみかねていました。あれほど疎ましく、否定し続けてきた日の丸が何故、これほどの感激を私にもたらすのか?

★ 恐らく、それは、初めて外国に出て、舐めた屈辱感があったからであろう、と思います。何かの縁で、あちこちで出会い、世話をしてくれたオーストラリア人はみんな底抜けに親切でした。だが、道すがらすれ違うオーストラリア人は、ほとんど例外なく、私を日本人と知ると、フン、フンと鼻先であしらい、見下げた表情で一瞥をくれるだけ、が普通だったのです。私も、いつも構えて町を歩いていました。

★ そんな思いを深めていた時、突然、私の横で拍手が起こった。先ず、海に行こうと誘ってくれたパースの3人のグループの人たちです。ずっと、私の傍らに付いていてくれました。
 Look, Michy!   A Japanese vessel entering into harbour!   Hi, there!
 (ほら、ミッチー! 日本の船が港に入ってくるよ。オーィ)
3人揃って、船上の乗組員に向かって、声をかけ、手を振り始めてもいます。
それは、異国の人々を歓迎する天使の祝福のように私には思えました。

★ この”外人”たちは、オーストラリア人。つい12,3年前、15歳の”軍国少年”だった私には、揃って不倶戴天の“鬼畜米英”たちです。3人の表情からその幻影が完全に消え失せ、代わって天使の微笑みをもって、私に優しく語りかえてくれているような気がしました。 「君は、日本人なんだ。ミッチー、新生ニッポンの国民なんだ。よくオーストラリアへやって来たネ。大歓迎だ」と。

★ 瞬間、すべての、それまでの我が心のわだかまりが氷解したような気分になりました。そう、この日の丸は、新生ニッポンの象徴。その確信は、自分の中で生じると、同時にオーストラリアの友人たちが承認している・・・・

★ それは、私にとって、正に劇的な回心の瞬間であったのです。私の戦前は、ここで、はっきりピリオドを打った、と思います。そのピリオドの杭打ちに最初の拍手を始めたのが、フランク・バニーでした。

★ パースの無名の、しかし、篤実な機械工であった。フランクはこう言いました。 「ミッチー、君は、今夜からうちに泊まる。さあ、行こう」

★ そして、私は、パースに滞在した15日間、ずっとフランクの家に泊めてもらい、その妻、ベティと一人娘のキャッシーと共にオーストラリア最後の日々を楽しむことになったのです。

★ 以来、私の新しい“日の丸”は、常にバニー一家と共にあり、“日の丸”を見るたびにバニー一家を思い出します。我が回心に微笑んだ天使の家族に思えるのです。バニー一家は、私に日本人の誇りを取り戻してくれました。 この時、私は、はっきり”日の丸”を肯定的に受け入れる回心をしたと思います。

★ パースのフリーマントル港で・・・バニー一家の暖かい家庭で、私は”生まれ変わり”ました。そしてオーストラリアは、生まれ変わりの第二の故郷になりました。その真ん中に「白地に赤い日の丸」がありました。


Ⅶ. カンガルー

★ 招かれた家は、郊外の“労働者”団地の一角にありました。
未だ、日本では、「ニュータウン」は全く、お目見えしていなかったじだいです。しかし、オーストラリアでは、既に各所でニュータウンが建設中でした。ニュータウンのイメージは中流家庭のイメージと重なっているのは、その後の日本の状況に似ています。

★ ただ、オーストラリアは、何とも、だだ広い。敷地も、道路も、公園も、すべてがキング・サイズです。
 「だが、うちは貧乏だから」とフランクは、ガタガタ、音を立てる中古国産車「ホルデン」でニュータウンは見過ごして、その先にあった古い勤労者の長屋団地に私を案内しました。

★ たしかにそれは、建物も古く、敷地も狭い。それに水道が来ていない貧乏団地でした。どの家にも祭り櫓のような木組みが屋根より高く上がっていて、大きなドラム缶が載せてありました。雨水を溜めて高所から給水する貴重な水源なのです。

★ でも、家の内装は立派でした。これは、おじいさんが、イングランドから持ってきたもの、これはおばあさんが嫁入り道具に、と一つ一つ、丁寧に説明してもらいました。
だが、部屋は三つしかない。玄関の戸を開けると、今と食堂が一つにまとまったホール。その先に、左に夫婦の寝室。右手にキャッシーの書斎兼寝室がありました。

★ つつましい生活ぶりですが、調度品だけは凄く立派でありました。
「君が寝る場所がない。今日中に準備するから・・・まあ、今日は今のソファで寝るといい。ベッドもソファも眠れば同じサ。」
フランクは、実におおらか。大声で、声を出すたびに冗談付きの陽気な人でした。 奥さんの名はエリザベス。「みんなベティと呼ぶよ。あなたもそう呼んで。」

★ フランクは私と同じ背丈で痩せた人だったが、ベティは一回り大きい大柄な女性でした。夫婦共に先祖はイングランドの出身。キャッシーは、美しい少女でした。まだ16歳の高校生。

★ 内気な、はにかみ屋で、私を呼ぶ時にも、必ず側に来て、「ミッチー、来て」とか、「お母さんが呼んでるよ」とか、「ご飯ョ」と、言葉少なに言います。いつも本を手にしていた文学少女。

★ 翌日、フランクは、私のために棟続きの納屋を整理して一室造ってくれました。納屋といっても棟続きの物置に使っているようで、部屋の延長のような感じの部屋です。
にわか作りのベッドには分厚く蕎麦が敷かれ、その上に真っ白のシーツで覆った敷布団と毛布が準備されていました。枕元にはランプ。まるで開拓時代を思わせるムードで私は大喜びしました。

★ 「パースは、雨がめったに降らないから心配ナイヨ」
 フランクは、いつも冗談を飛ばすときそうしたように、片目ウインクして横になるよう促しました。

★ もうオーストラリアに来て10日近くになっています。シドニー、メルボルン、アデレイド、そこは 夢のような西洋の別世界でした。人々は日本では、とても考えられないほど豊かでした。

★ しかし、パースは違っていました。ここには、私たちと変わらぬ生活水準で生きている人々がいる。どうしてだろう・・・いろいろ考えているうちに眠ってしまいました。

★ 翌朝、顔を生ぬるいタオルで撫でられたような気がしました。払いのけようと、あげた手が止まりました。眠気眼を開くと、何と・・・目の前にカンガルーがいる!
正しくカンガルーだ。私はビックリして飛び上がりました。
母屋に飛び込んで、「キャッシーかと思ったのに・・・」と言ったら、みんな大笑いしました。この一家は、庭でカンガルーを飼っていたのです。


Ⅷ. 我が内なるフランク

★ パースには当初、シンガポールへ渡る航空機待ちの3日間だけ、滞在する予定でいました。ところが、出発前に確保しておいた座席予約が取れないことが分かりました。それは明らかに私のミスでした。

★ シドニーを出て西へ、南海岸線沿いに大陸を横断したのですが、当時は、大陸横断列車はパースまでは繋がっておらず、大陸を列車で移動するのは無理でした。シドニーや、メルボルン・アデレードなどからパースへは国内航空機を使っていました。それはバスに乗るのと同様、実に簡単でした。

★ ところが国際線は、そういうわけにはいかない。座席予約は、必ず、確認を取らないと自動的にキャンセルされ、予約待ちの他の客に渡ってしまう。今では、誰でも知っている「リコンファーム」は基礎的常識ですが、未だ国内旅行でも飛行機利用などする人が少なかった時代のことです。

★ 「リコンファーム」は、旅行者から出発前、くどいほど、説明を受けたのですが、オーストラリアでの国内旅行の慣れが、それを忘れさせていました。慌てて、次便を予約しようとしたのですが満席。その次は、と訊ねると「一週間後になります」
と言う。カンタス航空機は週2便しか運行していなかったのです。

★ 「一つ、ダーウィンで乗り換え、そこから東京へ行く便なら確保出来ます」と言うので喜んだが、追加料金が2万円ほど要ると言うのであきらめました。一月分以上の月給です。とても払えない。弱っていたら、フランクが横から交渉に加わってくれました。だが、結局、うまくいかない。

★ フランクは、明るく、こう言いました。
「ミッチー、また、オーストラリアに来ることが出来るかどうか、それは分からない。これはチャンスだ。もう2週間私たちと暮らせ。そうしたら、もっとオーストラリアを知ることが出来る。ね、そうしろ!」

★ 家に帰ると、ベティも、キャッシーも、それは良かった、と喜んでくれました。 「私ね、友達にミッチーのこと、話したの、呼んできていいかしら・・・日本のこと話して」
キャッシーは早速、学校の友達を連れて来る提案をしてくれた。私を退屈させないための心配りであることは、直ぐに分かりました。

★ ベティも言いました。
「明後日は、夜、ダンス・パーティがあるよ。みんなで行きましょう」
家族ぐるみと言うが、その後、2週間、私は、文字通り、バニー一家の一員としてあらゆる行動を共にさせていただきました。オーストラリア人のことを親愛の情を込めて“オッジー”と呼ぶことも、そのとき、教わりました。

★ 典型的なオージーであったバニー一家は、底抜けに明るく、オープンな、愉快な人々でありました。ある日、フランクが、こう言いました。
「いいかい、ミッチー、よく覚えておくことだ。世界で一番、美しく、教養深い人の英語は
キングズ・イングリッシュ。 2番目にオーストラリア英語、 そして一番、低級なのがアメリカ英語だ。君のはアメリカ英語っぽい。それじゃダメだ。早く、オーストラリア英語に直せ」

★ 例の片目がウィンクしています。
「OK(オーカイ)・・・これでいいかい、フランク」
「うん、その調子、もっと、言えよ。オレが直してやる」
私たちは勿論、そうした駄洒落を毎日、繰り返し、ベティもキャッシーも大喜びでその会話を楽しんでくれました。

★ そして2週間後、別れの時、私は唯一、私の宝物であったYashikaFlexという最新鋭の2眼レフ・カメラをフランクに贈りました。それは、私がフランクに示せる精一杯の感謝の気持ちの表現だったのです。フランクは相好を崩して喜んでくれました。

★ 帰国して手紙のやりとりは頻繁に続きました。そして半年後、ベティからと訃報が届いたのです。
「フランクは、もうあの時にガンを病んでいました。あなたと別れてしばらく後、少しの療養の後、死亡しました。」

★ 私は言葉を失いました。そして深い悲しみがこみ上げてきました。そして、次の言葉をベティに書き送りました。
「ベティ、フランクは、永遠に私の中で行き続けている。フランクが死ぬ時は、あなたと私が、この世を去る時だよ」


Ⅸ. これぞ奇跡!

★ それから27年経った1984年2月のことでした。
 私の次男は、当時、広島大学大学院の学生だったのですが、修士論文作成のため南極海で調査研究をしていました。半年におよぶ長期の調査で、月1回は、南アフリカのポートエリザベスやオーストラリアのフリーマントル港で休養して研究調査を続けていました。

★ ポートエリザベスで、南アフリカの猛烈な人種差別をその目で見た次男は、大きなショックを受け、その惨状を書き送って来ました。そして次の機会にフリーマントル港に行った時、パースの町で人種差別撤廃の集会があり、フラリとそこに足を向けたのです。

★ その会合入り口でパンフレットを受け取った時、中年の女性が「日本人か」と声をかけたそうです。更に名前を訊くので「ゼニモト」と言うと、その女性は、次男の顔をしげしげと見つめて、更に訊ねました。

★ 「日本では、ゼニモトという名前は多いの?」
いや、めったにない、と答えると、その女性は、いきなり、両手を大きく広げて
「私はキャッシー、あなたのお父さんを知っている。うちへいらっしゃい。おばあさんに会って。」
と、自宅に招いてくれたそうです。

★ 何のことか?と、訝りながらも次男は、キャッシーと名乗る、その女性の後をついていきました。家につくとキャッシーは大声で叫んだ。
「ママ、驚かないで・・・ミッチーが帰ってきたよ!」
姿を現した老婆は、目を大きく開いて叫ぶや、次男を抱き、「オー、ミッチー!」

★ 驚く次男に二人は、次々と私が青年時代、バニー一家の客であった物語を始めたのです。やっと、事情がのみ込めた次男は、細やかに、その奇跡的な出会いを書き送ってきました。「おばさんは」と書いているのはキャッシーのこと。そうだろう、16歳の少女も27年経てば43歳になっている。

★ ベティも、わが子に「おばあさん」と呼ばれても仕方があるまい。もうその年齢になっているはず。
「おばあさんは、あなたはミッチーとそっくり。本当にミッチーが昔のままで帰ってきたと
思ったよ。と懐かしがっていました。もっとも、“英語はあなたほど上手じゃなかったね”とも言ってました。」

★ 何が言いたいのだ、コイツは・・・そう言いながらも私は、状況を十分、理解出来ました。実は、次男は、私の若い頃と生き写しなのです。私の若い頃の写真を出して、「これが次男」と言っても、恐らく疑う人はいないでしょう。しかも、ベティにとっては27歳の私の面影しかない。同じ年頃の、同じ顔をした青年が現れたのだから、それは驚いただろうと思います。

★ 「ふたりとも、とてもパパに会いたがっています。」
思いは、同じです。ちょうど、その時、私は新聞社の定年直前でした。
「ベティ、今度はホンモノが行くよ。元気でね。」私は、直ぐに手紙を書きました。
そして、この奇遇を奇跡と思いました。また、地球は、本当に狭い、とも思いました。更に、それ以上に国境を越えて人情は一つとの想いをかみしめました。

★ それから、更に15年が経ちました。定年後も職を持ち、今日までベティとの約束も果たせないままで過ごしてきました。来年こそは・・・フランクへの鎮魂の祈りを覚えながら、その約束は何時、果たせるのか?
常にそれが今の私の心の重荷になっていました。

★ そして、やっと、それがかなう条件が整った時、通信は途絶えました
。「母は亡くなりました。私は離婚。父母の故郷に戻ります」 
キャッシーからの傷心の手紙が届いたのが最後でした。どこへ行ったのか?

★ ヨーロッパの偉大な田舎・オーストラリア。純粋で、素朴なオージー家族。私が夢見続けた我が「第二の故郷」・・・だが、もう半世紀以上、足を踏み入れてはいません。フランク、ベティ、キャッシー。この3人がいないオーストラリアとは何か。今はただ「故郷は遠くにありて思う」心境です。

★ しかし、この物語は、未だ終わりません。
 続いて起こった第二の奇蹟をご覧ください。 【半世紀後に届いた友情】

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** ご挨拶 **  ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって 
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz | 2009-03-16 00:08 | Oh! オーストラリア | Comments(0)
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