2009年 04月 15日
【9100】 吉栗山と空中神殿の”宇豆柱” |
★ 3泊4日の出雲旅行をしました。久しぶりに次男夫婦を訪ねる旅でした。いくつか、心に残った出来事を記します。
★ 「今日一日は、やはり出雲大社で・・・パパが楽しみにしていた”古代出雲歴史博物館”は、出雲大社に隣接しているからゆっくり見られる。お昼は出雲そば・・・それから今日一日は、”出雲風土記”の世界で寛いでください」
★ 今回の出雲見学プランは、次男夫婦にすべてを委ねて過ごすことにしました。ああ、あの”歴史博物館”・・・前回、2006年秋に訪れた折、「来年3月には”出雲風土記”をテーマにした歴史博物館が出来る。その頃にまた・・・」と、挨拶を交わしたことを思い出しました。
★ それから2年半、夢み続けた「古代出雲歴史博物館」は、出雲大社の東隣にあった巨大な森を切り開いて建っていました。意外だったのはデザインと建材。まるでコンテナをつなぎ合わせた感じの鉄筋コンクリート建物で、素材も鉄とガラスだけ。ビックリしました。
★ パンフレットで、確かめましたら、
「壁面の鋼は古代のたたら製鉄、ガラスは現代性をそれぞれ象徴する役割も担い、古代と現代の融合という意味合いをもたせている」
とか。
★ しかし、私は、率直に言って大きな違和感を抱きました。”古代出雲”は、「出雲風土記」の世界です。出雲大社と調和した”古代”こそが、この森には相応しい・・・そう思いました。なのに・・・ 何という無粋な?! グロデスク!
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★ しかし、中に入って満足しました。中央ロビーに入ると、正面中央に出雲大社境内の遺跡から出土した「宇豆柱」がどっかりと座っています。正に”古代出雲”の中心である主神の社の主柱の現物が巨大なガラス容器に収められてそこにありました。
★ 展示室は、向かって、左に出雲大社と神々の諸国、ごく最近発掘されて古代史を一変させたという荒神谷遺跡の銅剣や加茂岩倉遺跡の銅鐸の現物が揃って陳列されています。共に国宝。それは見事なものでした。
★ 銅鐸は、これまでにもあちこちの博物館で眺めたことはあります。しかし、ここでは、発掘された銅鐸の実物を自分で叩いて音を確かめることが出来ます。これには驚きました。古代の音色。それは、敬神の言祝ぎでありました。出雲の森の静寂を破ってこそ魂に響くものであったに違いありません。
★ 正面は「総合展示室」 ここには古代から現代に至る”たたら製鉄”や玉作りなど島根の人々の生活文化が紹介されています。ただ、”出雲”にこだわるなら、ちょっと離れた石見銀山の事蹟が紛れ込んでいるのは、何故でしょう? ちょっと違和感があります。
★ やはり”世界遺産”の話題性にあやかっているのかもしれませんね。でも、率直なところ、これは、ない方がいいです。ちょっと興ざめ、古代出雲、「風土記」の世界に石見銀山は関係ありません。
★ 右手の特別展示室は、折々にテーマを立てて、関連事物を展示する催し会場になっています。現在は、「玉作り」 全く知らなかったのですが、古代の装飾品と言えば「勾玉」が有名ですが、「勾玉」は、古代出雲の特産品であったのですね。展示されている膨大な”実証”現物資料を見て、初めて知りました。
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★ たっぷり3時間。いくら眺めていても、飽きることはありません。
多分、私は、これから出雲に来るたびに、ここを何度も訪れるでありましょう。それは、それは、見事な”出雲風土記”の世界の再現ぶりでした。
★ 中でも、荒神谷遺跡の銅剣や加茂岩倉遺跡の銅鐸、それと出雲大社境内遺跡出土の「宇豆柱」には、感動すら覚えました。とりわけ「宇豆柱」(うづばしら)と呼ばれている社の棟を支える主柱。
★ これが発掘されたのは、次男が出雲に家を新築し、移り住んだ平成12年から13年にかけてでありました。出雲大社の境内の工事中に直径が約6mもある柱穴がみつかり人の頭の大きさかそれ以上の大きな石がぎっしりと積み込まれていました。
★ そこにスギの大木3本を1組にし、直径が約3m60センチにもなる巨大な柱が3カ所で発見されたのです。しかも、柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家(こくそうけ)に伝わる、いにしえの巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)に描かれたものとほぼ同じ。
★ 考古学者やマスコミ総動員の出雲ブームが巻き起こり、柱材の科学分析調査や、考古資料・絵画、文献記録などの大調査の結果、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である、と推定され、今ではそれが、ほぼ定説になっています。
★ 第一展示室の奥まった場所には、それらの資料に基づき復元された平安時代の出雲大社本殿の10分の1模型が展示されています。「心御柱」の直径は3.6メートル、階段の長さは109メートル。1000年の昔、日本に高さ48メートルの空中神殿が存在したのです。
★ 以来、私は、岡山にあって、この「宇豆柱」が物語るロマンに浸って来ました。そして、一つの興味深い”新事実”に気付いておりました。
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★ 帰宅して、食堂でお茶を飲みながら、私は、次男に語り始めました。
「中央ロビーにあった、あの巨大な”宇豆柱”は、どこから持って来たのか? それを知っているかね?」・・・・サスガに”地元民”でした。
「知ってるよ。ホラ、あれ、吉栗山。双子山が見えるでしょう。アレ」
★ そうです。この山から切り出したのです。「大木3本を1組にし、直径が約3m60センチ」にもなる巨大杉は、一体、どこで、造林されたのか? この杉巨木が発掘された当時、それが大問題になり、議論が沸騰しました。が、答えは、「出雲風土記」にありました。
★ 古来、神殿に用いる木材は通常の森の樹木ではありません。「出雲風土記」にも《所謂「天下大神宮」材造山》なる記述があり、それは、特別の森林で栽培された建材であることを示しています。
★ では出雲大社のあの巨大な”宇豆柱”は、どこから持って来たのか? 「出雲風土記」は、ズバリ、そのヒミツを解き明かしていました。「天下造らしし大神の宮材造る山なり」と記載されてあった”山”の名前は、「郡家西南28里。吉栗山。有檜・杉」 出雲役所の西南29里、”出雲風土記”の版図の西の果てにある吉栗山。
★ 今、次男の家の食堂ベランダから西南に眺めるこの吉栗山こそ、その山であったのです。切り出された杉の巨木は眼下を流れる神戸川を下り、出雲大社近くの稲佐浜に運ばれて本殿造営に用いられた。樹齢はおよそ195年、それは、意図的に造林された、との研究成果も公表されています。
★ 出雲大社と伊勢神宮・・・私は、最近、日本を代表する二つの社殿に詣でました。
この見事な借景を愛でながら、私は、次男相手に語り続けました。
「伊勢神宮の天照大神は神々のすむ高天原の代表神。出雲大社は豊葦原の中津国、つまり地上俗界の代表神。出雲はいいね。すべてが民と共にある」
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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★ 「今日一日は、やはり出雲大社で・・・パパが楽しみにしていた”古代出雲歴史博物館”は、出雲大社に隣接しているからゆっくり見られる。お昼は出雲そば・・・それから今日一日は、”出雲風土記”の世界で寛いでください」
★ 今回の出雲見学プランは、次男夫婦にすべてを委ねて過ごすことにしました。ああ、あの”歴史博物館”・・・前回、2006年秋に訪れた折、「来年3月には”出雲風土記”をテーマにした歴史博物館が出来る。その頃にまた・・・」と、挨拶を交わしたことを思い出しました。
★ それから2年半、夢み続けた「古代出雲歴史博物館」は、出雲大社の東隣にあった巨大な森を切り開いて建っていました。意外だったのはデザインと建材。まるでコンテナをつなぎ合わせた感じの鉄筋コンクリート建物で、素材も鉄とガラスだけ。ビックリしました。
★ パンフレットで、確かめましたら、
「壁面の鋼は古代のたたら製鉄、ガラスは現代性をそれぞれ象徴する役割も担い、古代と現代の融合という意味合いをもたせている」
とか。
★ しかし、私は、率直に言って大きな違和感を抱きました。”古代出雲”は、「出雲風土記」の世界です。出雲大社と調和した”古代”こそが、この森には相応しい・・・そう思いました。なのに・・・ 何という無粋な?! グロデスク!
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★ しかし、中に入って満足しました。中央ロビーに入ると、正面中央に出雲大社境内の遺跡から出土した「宇豆柱」がどっかりと座っています。正に”古代出雲”の中心である主神の社の主柱の現物が巨大なガラス容器に収められてそこにありました。
★ 展示室は、向かって、左に出雲大社と神々の諸国、ごく最近発掘されて古代史を一変させたという荒神谷遺跡の銅剣や加茂岩倉遺跡の銅鐸の現物が揃って陳列されています。共に国宝。それは見事なものでした。
★ 銅鐸は、これまでにもあちこちの博物館で眺めたことはあります。しかし、ここでは、発掘された銅鐸の実物を自分で叩いて音を確かめることが出来ます。これには驚きました。古代の音色。それは、敬神の言祝ぎでありました。出雲の森の静寂を破ってこそ魂に響くものであったに違いありません。
★ 正面は「総合展示室」 ここには古代から現代に至る”たたら製鉄”や玉作りなど島根の人々の生活文化が紹介されています。ただ、”出雲”にこだわるなら、ちょっと離れた石見銀山の事蹟が紛れ込んでいるのは、何故でしょう? ちょっと違和感があります。
★ やはり”世界遺産”の話題性にあやかっているのかもしれませんね。でも、率直なところ、これは、ない方がいいです。ちょっと興ざめ、古代出雲、「風土記」の世界に石見銀山は関係ありません。
★ 右手の特別展示室は、折々にテーマを立てて、関連事物を展示する催し会場になっています。現在は、「玉作り」 全く知らなかったのですが、古代の装飾品と言えば「勾玉」が有名ですが、「勾玉」は、古代出雲の特産品であったのですね。展示されている膨大な”実証”現物資料を見て、初めて知りました。
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★ たっぷり3時間。いくら眺めていても、飽きることはありません。
多分、私は、これから出雲に来るたびに、ここを何度も訪れるでありましょう。それは、それは、見事な”出雲風土記”の世界の再現ぶりでした。
★ 中でも、荒神谷遺跡の銅剣や加茂岩倉遺跡の銅鐸、それと出雲大社境内遺跡出土の「宇豆柱」には、感動すら覚えました。とりわけ「宇豆柱」(うづばしら)と呼ばれている社の棟を支える主柱。
★ これが発掘されたのは、次男が出雲に家を新築し、移り住んだ平成12年から13年にかけてでありました。出雲大社の境内の工事中に直径が約6mもある柱穴がみつかり人の頭の大きさかそれ以上の大きな石がぎっしりと積み込まれていました。
★ そこにスギの大木3本を1組にし、直径が約3m60センチにもなる巨大な柱が3カ所で発見されたのです。しかも、柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家(こくそうけ)に伝わる、いにしえの巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)に描かれたものとほぼ同じ。
★ 考古学者やマスコミ総動員の出雲ブームが巻き起こり、柱材の科学分析調査や、考古資料・絵画、文献記録などの大調査の結果、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である、と推定され、今ではそれが、ほぼ定説になっています。
★ 第一展示室の奥まった場所には、それらの資料に基づき復元された平安時代の出雲大社本殿の10分の1模型が展示されています。「心御柱」の直径は3.6メートル、階段の長さは109メートル。1000年の昔、日本に高さ48メートルの空中神殿が存在したのです。
★ 以来、私は、岡山にあって、この「宇豆柱」が物語るロマンに浸って来ました。そして、一つの興味深い”新事実”に気付いておりました。
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★ 帰宅して、食堂でお茶を飲みながら、私は、次男に語り始めました。
「中央ロビーにあった、あの巨大な”宇豆柱”は、どこから持って来たのか? それを知っているかね?」・・・・サスガに”地元民”でした。
「知ってるよ。ホラ、あれ、吉栗山。双子山が見えるでしょう。アレ」
★ 古来、神殿に用いる木材は通常の森の樹木ではありません。「出雲風土記」にも《所謂「天下大神宮」材造山》なる記述があり、それは、特別の森林で栽培された建材であることを示しています。
★ では出雲大社のあの巨大な”宇豆柱”は、どこから持って来たのか? 「出雲風土記」は、ズバリ、そのヒミツを解き明かしていました。「天下造らしし大神の宮材造る山なり」と記載されてあった”山”の名前は、「郡家西南28里。吉栗山。有檜・杉」 出雲役所の西南29里、”出雲風土記”の版図の西の果てにある吉栗山。
★ 今、次男の家の食堂ベランダから西南に眺めるこの吉栗山こそ、その山であったのです。切り出された杉の巨木は眼下を流れる神戸川を下り、出雲大社近くの稲佐浜に運ばれて本殿造営に用いられた。樹齢はおよそ195年、それは、意図的に造林された、との研究成果も公表されています。
★ 出雲大社と伊勢神宮・・・私は、最近、日本を代表する二つの社殿に詣でました。
この見事な借景を愛でながら、私は、次男相手に語り続けました。
「伊勢神宮の天照大神は神々のすむ高天原の代表神。出雲大社は豊葦原の中津国、つまり地上俗界の代表神。出雲はいいね。すべてが民と共にある」
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2009-04-15 12:31
| 出雲神話の郷