2005年 09月 08日
[5114] 今、確かめる心の故郷、朱君、西条へ |
한국어는 이쪽으로한국어
★ 2泊3日の短い滞在の後、我が友、朱有保君は8日昼、次の目的地である東広島市西条町御園宇に向かいました。60年前、終戦直後、韓国に帰国するまで4年間を母と妹と共に過ごした懐かしい土地です。
★ 「満蒙開拓青少年義勇団訓練所があった側に住んでいました。もう跡形もないと思うけど、出来るだけ近くで宿を探して一泊したい。寝て、近所を散策するだけでいいのです」 京都でも昔住んでいた西院近くで宿を取ったといいます。文字通りの「望郷の旅」
★ 朱君が自分の古里と言う【西条】は、広島県のほぼ中央・標高400~700m前後の山々に囲まれた賀茂台地にあります。この盆地は古代、湖で堆積した西条湖成層が良質の地下水を生み出していて日本三大銘醸地として知られています。別名”酒都西條” 65年前、私たちはその地の小学校で学んでいました。
★ 「ところで朱君は京都生まれの京都育ちでしょう。なぜ、西条に来たの?」 「ああ、ソレ。悲しい話です。父がネ死んで、身寄りのない母は幼い私や妹を抱えて途方にくれていました。そのとき、母の身寄りの人が西条に呼んでくれたのですヨ」
★ そこで驚くような話を聞きました。私たちの同級生にやはり韓国人の子で月山君がいました。韓国名、崔秉大君。朱君は月山君と従兄弟同士の関係でしたが、「ゼニモトさん、月山君のおじさん、お母さんの弟が三永水源地を作ったの、知ってますか?」と言うのです。これは初耳。「もの凄い実力者で韓国から300人を連れてきてあの大工事をやり遂げたのですよ」
★ 三永水源地 というのは呉市に水道水を確保するために戦前に作られた人造湖です。現在は周囲7kmに及ぶ湖畔に藤棚100本が幅6m、長さ335mにも渡って植えられいて東広島ご自慢の観光地です。
★ ここに水源地が出来た当時、私も西条に住んでいたので村の水没に伴う悲話を多く聞かされて育ちました。旧下三永村の南丘陵地を瀬戸内海に下がる阿賀・警固屋・吉浦が呉市と合併すると呉市の人口は17万人を超えた。元々呉軍港があった所、海軍関係の従事者も増えて水不足が深刻になったのです。そこで下三永村を水没させて水源地を作ることになったのです。
★ 完成したのは確か終戦前の昭和18年だったと思います。小学校高等科1年生の私は学校から竣工式に行って、巨大なダムの完成に感動したことを覚えています。その大工事の一角を担ったのが月山君のおじさん。しかも労務者を韓国で300人も調達してやり遂げた、とは! 「海軍にウケが良かったそうで、あの戦時中に随分、羽振りが良かったネ」
★ 恐らく海軍徴用の強権が背景にあったことでしょう。今は埋もれてしまって誰も語る人もない韓国人労務者の苦労。 訊ねても、朱君は口を閉ざしてこう言いました。「何事も運命です。誰も、どうすることも出来ない、運命です」
★ そこにどのような苦難の生活があったのか?
「私はいじめられました。妹もいじめられました。でも・・・15歳までの私の生活は日本人でした。京都・西院と西条は私の本当の故郷です。私も75歳。この先、短い。出来るだけたびたび、心の故郷を訪れて、これからの人生の愉しみにします。今度はただ、昔、住んでいた西条の家があった近くで寝て、空気を吸ったらそれでいい」
★ アメリカに留学した長男、ドイツで学んだ長女共に今はソウルで成功した社会人として事業を営んでいる二人の子どもたちはそうした父を経済的に支えて夢を叶えてくれるといいます。「いるだけ使ってください、と、今度も旅費・諸経費をくれました。今度、余りましたヨ。 このお金、残しておいてまた直ぐ、来ますよ」
★ 幼なじみ・・・今は国境を隔ててお互い異国に別々に住む身ですが、老境の思いは同じ。朱君望郷の念に心からの共感を覚えた三日間でした。
【次ページへ続く】
★ 2泊3日の短い滞在の後、我が友、朱有保君は8日昼、次の目的地である東広島市西条町御園宇に向かいました。60年前、終戦直後、韓国に帰国するまで4年間を母と妹と共に過ごした懐かしい土地です。
★ 「満蒙開拓青少年義勇団訓練所があった側に住んでいました。もう跡形もないと思うけど、出来るだけ近くで宿を探して一泊したい。寝て、近所を散策するだけでいいのです」 京都でも昔住んでいた西院近くで宿を取ったといいます。文字通りの「望郷の旅」
★ 朱君が自分の古里と言う【西条】は、広島県のほぼ中央・標高400~700m前後の山々に囲まれた賀茂台地にあります。この盆地は古代、湖で堆積した西条湖成層が良質の地下水を生み出していて日本三大銘醸地として知られています。別名”酒都西條” 65年前、私たちはその地の小学校で学んでいました。
★ 「ところで朱君は京都生まれの京都育ちでしょう。なぜ、西条に来たの?」 「ああ、ソレ。悲しい話です。父がネ死んで、身寄りのない母は幼い私や妹を抱えて途方にくれていました。そのとき、母の身寄りの人が西条に呼んでくれたのですヨ」
★ そこで驚くような話を聞きました。私たちの同級生にやはり韓国人の子で月山君がいました。韓国名、崔秉大君。朱君は月山君と従兄弟同士の関係でしたが、「ゼニモトさん、月山君のおじさん、お母さんの弟が三永水源地を作ったの、知ってますか?」と言うのです。これは初耳。「もの凄い実力者で韓国から300人を連れてきてあの大工事をやり遂げたのですよ」
★ 三永水源地 というのは呉市に水道水を確保するために戦前に作られた人造湖です。現在は周囲7kmに及ぶ湖畔に藤棚100本が幅6m、長さ335mにも渡って植えられいて東広島ご自慢の観光地です。
★ ここに水源地が出来た当時、私も西条に住んでいたので村の水没に伴う悲話を多く聞かされて育ちました。旧下三永村の南丘陵地を瀬戸内海に下がる阿賀・警固屋・吉浦が呉市と合併すると呉市の人口は17万人を超えた。元々呉軍港があった所、海軍関係の従事者も増えて水不足が深刻になったのです。そこで下三永村を水没させて水源地を作ることになったのです。
★ 完成したのは確か終戦前の昭和18年だったと思います。小学校高等科1年生の私は学校から竣工式に行って、巨大なダムの完成に感動したことを覚えています。その大工事の一角を担ったのが月山君のおじさん。しかも労務者を韓国で300人も調達してやり遂げた、とは! 「海軍にウケが良かったそうで、あの戦時中に随分、羽振りが良かったネ」
★ 恐らく海軍徴用の強権が背景にあったことでしょう。今は埋もれてしまって誰も語る人もない韓国人労務者の苦労。 訊ねても、朱君は口を閉ざしてこう言いました。「何事も運命です。誰も、どうすることも出来ない、運命です」
★ そこにどのような苦難の生活があったのか?
「私はいじめられました。妹もいじめられました。でも・・・15歳までの私の生活は日本人でした。京都・西院と西条は私の本当の故郷です。私も75歳。この先、短い。出来るだけたびたび、心の故郷を訪れて、これからの人生の愉しみにします。今度はただ、昔、住んでいた西条の家があった近くで寝て、空気を吸ったらそれでいい」
★ アメリカに留学した長男、ドイツで学んだ長女共に今はソウルで成功した社会人として事業を営んでいる二人の子どもたちはそうした父を経済的に支えて夢を叶えてくれるといいます。「いるだけ使ってください、と、今度も旅費・諸経費をくれました。今度、余りましたヨ。 このお金、残しておいてまた直ぐ、来ますよ」
★ 幼なじみ・・・今は国境を隔ててお互い異国に別々に住む身ですが、老境の思いは同じ。朱君望郷の念に心からの共感を覚えた三日間でした。
【次ページへ続く】
by zenmz
| 2005-09-08 19:20
| 我が内なる韓国