2005年 09月 09日
[5115] ”恨”を超えた望郷の念・・・朱有保君の世界 |
한국어는 이쪽으로한국어
★ 夕べの帷(とばり)が降りると、吉備高原は静寂に包まれます。周りの野山は既に秋。深更になると虫の鳴く声が延々と続きます。その中で、今日の昼、分かれた韓国の旧友・朱有保君が語ってくれた母国に帰ってからの苦難の生活を反芻しています。
★ 「私が何故、西条に格別の想いを抱いているのか、ゼニモトさんには分からないでしょう」 朱君は何度もそう繰り返しました。それと言うのも、同じく西条で少年時代を過ごしていても私は、かの地に郷愁がないことを知っているからです。
★ 「実はね・・・私には、学校と言えば【西条小学校】しかないのです。15歳で韓国に戻ったが、それから中学校に行けなかった。韓国語を知らないから・・・・だから、『学校』と言えば、たった一つ、西条の小学校しか知らないのですヨ」
★ 差別に苦しみ、そこに戻れば苦労から解放される、温かく抱き迎え入れてくれるはずの母国は”日本語しか知らない変な韓国人”に好奇の目を向けるだけで、想いの外に冷たい対応を見せました。言葉が分からないのでは・・・と中学校への進学は断られ、仕事も日雇いのメッセンジャーボーイ。やっと人並みに扱って貰えたのは20歳を過ぎて海軍に入隊した時だったと言います。本格的に韓国語を学べたのも軍隊に入ってから。
★ 「だからネ。西条小学校が私のたった一つの大事な学校。もう廃校になって跡形もないけど、日本に来ると、必ず、校舎跡に立って、当時を偲びますよ」
★ 「75歳になった今でも、私の心は日本人のような気がします。何故か? 韓国でネ。私の妻の父、亡くなるまで『オマエの韓国語はナンだ!”日本人が喋ってるようだ』とからかいました。友達も、酒を飲むと、私の日本語アクセントの韓国語を真似して笑います。仕方ないです。恐らく私の韓国語は正調になりません。若い時に韓国の学校でキチンとした教育を受けていないから・・・そんな時、何時も思いますヨ。そうだ、オレはある意味では日本人だ、と。
★ 「私は若いときから経理が得意でした。言葉は分からなくても数字の論理はよく分かる。ですから30歳~40歳頃には比較的大きな会社で経理部員として活躍しましたが、昇進の話が出る度に、消えました。学歴がない、前例がない・・・・結局、ずっと平社員でしたが、40歳近くになったある時、突然、課長を飛び越えて部長に抜擢されました。
★ 「でも、嬉しいとは思わなかった。学歴がない者はサラリーマンはダメだ、と思って独立するつもりで自分で会社を作る計画を進めていましたから抜擢された直後に辞めましたヨ。それから30年、蓄電池工場を経営して、息子や娘をアメリカ、ドイツで勉強させました」
★ 「振り返ってみると、すべて運命。悲しいことも、苦しかったことも、それを乗り越えたことも・・・・すべて運命です。そして、今、こうして平和な生活がある。それを思うと、何もかも、良かったネー」 私は朱君が少年時代に受けた屈辱といじめの数々を細やかに知っています。しかし、朱君は、その一つも口にすることはありませんでした。それどころか、韓国人の執念の特徴である”恨”の念を超越して、ただ「これで総て良かった」と述懐するばかりです。
★ 「西条小学校が私の唯一の学校」と言う朱君。実を言えば、小学校4年生から高等小学校2年生までのたった4年間の就学でした。それだけの教育で培われたこの高度な深い味わいのある言葉の数々。60年を経ても忘れなかったこの日本語こそ朱君の心の誠を伝えているように思いました。
★ 夕べの帷(とばり)が降りると、吉備高原は静寂に包まれます。周りの野山は既に秋。深更になると虫の鳴く声が延々と続きます。その中で、今日の昼、分かれた韓国の旧友・朱有保君が語ってくれた母国に帰ってからの苦難の生活を反芻しています。
★ 「私が何故、西条に格別の想いを抱いているのか、ゼニモトさんには分からないでしょう」 朱君は何度もそう繰り返しました。それと言うのも、同じく西条で少年時代を過ごしていても私は、かの地に郷愁がないことを知っているからです。
★ 「実はね・・・私には、学校と言えば【西条小学校】しかないのです。15歳で韓国に戻ったが、それから中学校に行けなかった。韓国語を知らないから・・・・だから、『学校』と言えば、たった一つ、西条の小学校しか知らないのですヨ」
★ 差別に苦しみ、そこに戻れば苦労から解放される、温かく抱き迎え入れてくれるはずの母国は”日本語しか知らない変な韓国人”に好奇の目を向けるだけで、想いの外に冷たい対応を見せました。言葉が分からないのでは・・・と中学校への進学は断られ、仕事も日雇いのメッセンジャーボーイ。やっと人並みに扱って貰えたのは20歳を過ぎて海軍に入隊した時だったと言います。本格的に韓国語を学べたのも軍隊に入ってから。
★ 「だからネ。西条小学校が私のたった一つの大事な学校。もう廃校になって跡形もないけど、日本に来ると、必ず、校舎跡に立って、当時を偲びますよ」
★ 「75歳になった今でも、私の心は日本人のような気がします。何故か? 韓国でネ。私の妻の父、亡くなるまで『オマエの韓国語はナンだ!”日本人が喋ってるようだ』とからかいました。友達も、酒を飲むと、私の日本語アクセントの韓国語を真似して笑います。仕方ないです。恐らく私の韓国語は正調になりません。若い時に韓国の学校でキチンとした教育を受けていないから・・・そんな時、何時も思いますヨ。そうだ、オレはある意味では日本人だ、と。
★ 「私は若いときから経理が得意でした。言葉は分からなくても数字の論理はよく分かる。ですから30歳~40歳頃には比較的大きな会社で経理部員として活躍しましたが、昇進の話が出る度に、消えました。学歴がない、前例がない・・・・結局、ずっと平社員でしたが、40歳近くになったある時、突然、課長を飛び越えて部長に抜擢されました。
★ 「でも、嬉しいとは思わなかった。学歴がない者はサラリーマンはダメだ、と思って独立するつもりで自分で会社を作る計画を進めていましたから抜擢された直後に辞めましたヨ。それから30年、蓄電池工場を経営して、息子や娘をアメリカ、ドイツで勉強させました」
★ 「振り返ってみると、すべて運命。悲しいことも、苦しかったことも、それを乗り越えたことも・・・・すべて運命です。そして、今、こうして平和な生活がある。それを思うと、何もかも、良かったネー」 私は朱君が少年時代に受けた屈辱といじめの数々を細やかに知っています。しかし、朱君は、その一つも口にすることはありませんでした。それどころか、韓国人の執念の特徴である”恨”の念を超越して、ただ「これで総て良かった」と述懐するばかりです。
★ 「西条小学校が私の唯一の学校」と言う朱君。実を言えば、小学校4年生から高等小学校2年生までのたった4年間の就学でした。それだけの教育で培われたこの高度な深い味わいのある言葉の数々。60年を経ても忘れなかったこの日本語こそ朱君の心の誠を伝えているように思いました。
by zenmz
| 2005-09-09 19:20
| 我が内なる韓国