2005年 06月 19日
「5015」 ”終の棲家”への感慨 |
★机に向かい続けた疲れた目を窓外に向けると,眼前にこんな借景が広がります。
★手前の庭先に成長したサクラと松、その先に広がる紅葉の茂み、そして小高い丘に這い登るように伸びた家並み。私の“吉備の庵”は岡山県・吉備高原都市北角の住宅区に位置します。
★私たち夫婦が、この地に移り住んでもう17年になります。当時、眼前の一帯はむき出しの赤土で人影はもちろん雑草さえ生えていませんでした。
★そこに建った1軒家、その冬、雪が降ると、郵便屋さんとキツネの足跡が何日も残るのに感動。
★「ヘェー何時、こられたンですか?」 忘れることはありません。昭和天皇が亡くなられた昭和64年1月7日が地鎮祭。早朝、大阪から新幹線で駆けつけ岡山駅について手にした号外で新しい年号が平成に決まったことを知りました。
★京都生まれの京都育ち、一時、広島へ学童疎開し、社会人になってからは大阪。千里ニュータウンにで団地生活、そして新聞社定年後、迷い込んだのがこの地でした。
★バブル最盛期、地元テレビは『都会を捨てて田舎生活』番組に私たちを取り上げ誘導尋問で“田舎暮らしの決意”を語らされました。庭で孫たちに焼き芋を焼かせるなど、マユツバのヤラセいっぱいのビデオが手元に残っています。
★以来、17年、文字通り、この街の発展と共に歩んできました。我が人生、最後に辿り着いた”終の棲家”が実感としてあります。これから時々、私の好きなこの街の見所を新連載【吉備高原を散策】でご紹介してまいりましょう。
★手前の庭先に成長したサクラと松、その先に広がる紅葉の茂み、そして小高い丘に這い登るように伸びた家並み。私の“吉備の庵”は岡山県・吉備高原都市北角の住宅区に位置します。
★私たち夫婦が、この地に移り住んでもう17年になります。当時、眼前の一帯はむき出しの赤土で人影はもちろん雑草さえ生えていませんでした。
★そこに建った1軒家、その冬、雪が降ると、郵便屋さんとキツネの足跡が何日も残るのに感動。
★「ヘェー何時、こられたンですか?」 忘れることはありません。昭和天皇が亡くなられた昭和64年1月7日が地鎮祭。早朝、大阪から新幹線で駆けつけ岡山駅について手にした号外で新しい年号が平成に決まったことを知りました。
★京都生まれの京都育ち、一時、広島へ学童疎開し、社会人になってからは大阪。千里ニュータウンにで団地生活、そして新聞社定年後、迷い込んだのがこの地でした。
★バブル最盛期、地元テレビは『都会を捨てて田舎生活』番組に私たちを取り上げ誘導尋問で“田舎暮らしの決意”を語らされました。庭で孫たちに焼き芋を焼かせるなど、マユツバのヤラセいっぱいのビデオが手元に残っています。
★以来、17年、文字通り、この街の発展と共に歩んできました。我が人生、最後に辿り着いた”終の棲家”が実感としてあります。これから時々、私の好きなこの街の見所を新連載【吉備高原を散策】でご紹介してまいりましょう。
by zenmz
| 2005-06-19 16:39