2010年 06月 11日
【10020】 点字新聞の話(5)社会の木鐸・中村京太郎先生 |
★ 好本先生の夢を実現したのは、最愛の弟子であった中村京太郎先生でした。
中村京太郎という方は、どんな人であったのか? このシリーズの最後として、そのことをお話しいたします。先生の年譜を辿りながら、時、折々の有名なエピソードを交えながら中村先生の人物像をご紹介していきたいと思います。
***** 中村先生の足跡 *****
★ 中村先生は、明治13年(1880)に、今は浜松市に併合されている旧静岡県浜名郡和地村にお生まれになりました。生来、眼疾で視力が弱かったのですが、地元の小学校に入って間もなく失明し、退学しました。そして13歳になって浜松の鍼灸治療院に弟子入りしましたが、数ヶ月で飛び出し、翌年、志を立てて、上京し、官立東京盲唖学校(現在の筑波大学付属視覚特別支援学校)に入学しました。
★ この時、同郷の石川倉次先生と運命的な出会いをし、点字の指導を受けました。石川倉次先生は、日本点字の考案者で「点字の父」と仰がれている方ですが、当時、同校教諭をなさっていました。中村少年はかなり目立った生徒だったようで、石川先生の懐旧談:「他の学生と違う、点字を一日で覚えてしまった」 「好奇心旺盛でカナタイプを貸した」 「希望したのでハガキ用点字板を作ってやった」など・・・が残っています。
★ 明治30年(1897)、17歳の時、同窓会を設立し、初代会長に就任しました。在学中に同窓会などを結成する・・・血気盛んな青年を想わせますね。そして明治33年(1900)20歳の時、鍼按科(現在の理療科研究科相当)を卒業し、直ちに母校の雇いとなります。
★ 中村青年の東京盲唖学校教師登用は、日本の盲教育史上、画期的な意味を持つものでありました。それは、日本の教育史上、始めて全盲者の普通科教員第一号の登用であったのです。鍼灸・按摩の職業コースではなく、「普通科」の教員に全盲の方が採用されたのはこれが初めてです。
★ 教員になって2年目の明治35年、中村先生は激烈な点字論争を展開します。
日本点字は、明治23年(1890)11月1日に、同盲唖学校教諭だった石川倉次先生によって完成しましたが、その当初は、表記法が歴史的仮名遣いが主流で、表音式表記を主張する人々と大きく対立していました。
★ 中村先生は、表音式表記の少数派で、新たに開発された点字拗音の採用を熱心に主張しておられました。この騒動で、中村先生は同窓会長を辞任しますが、翌明治36年(1903)、自ら編集していた同窓会報『盲人世界』を『むつぼしの光』と改題して、新たに考案された拗音点字を採用し、点字の表音表記を初めて実用化します。
★ このことが、19年後、『点字大阪毎日』(後「点字毎日」と改題)発刊で全面的に表音式点字表記法を採用し、マスコミを通じて表音式の日本語点字表記法を確立することになるのですが、『むつぼしの光』の先駆的実験は、日本の点字史上、画期的というべき一大壮挙でありました。
★ ちょっと余談になりますが、中村先生の日本語表記を歴史的仮名遣いではなく、表音式で、との主張は、戦後の国語表記法の大改革で日本語全体の表記法が真似ることになります。点字の表音表記法は一般の国語・国字表記法より半世紀以上も先行していることは、注目されねばならぬ事実だと思います。
★ 戦後、アメリカ占領軍の指導で、日本語の「歴史的仮名遣い」が現在、私たちがつかっている「現代仮名づかい」に大変換を遂げるのですが、実に点字の世界では、それ以前、明治36年(1903)に実現していたのです。
★ 中村先生は、この後、同校を依願退職し、台湾に渡り、明治38年から7年間、現地の「慈恵院盲教育部」(現台南盲学校)の部長(校長)を勤めます。 そして明治45年(1912) ”盲人初の”文部省派遣海外留学生として英国・ロンドンに赴きました。辞令に「海外盲教育並びに盲人福祉事業の視察」と記され、渡航費、滞在費などその費用は全額を好本先生が負担されました。
★ ロンドンには明治45年(1912)から大正3年(1914)まで3年間滞在し、Royal Midland Institution for the Blind と、Royal Normal College(王立師範学校) で学びました。そして帰国に先立ち、大正3年(1914) ウエストミンスター寺院で開かれた「盲人問題に関する国際会議」に日本代表として参加し、帰国の途につきましたが、第一次世界大戦が始まり、急遽、シベリア鉄道で陸路、帰国の旅をし、途中、朝鮮・平壌で開かれて「東亜盲教育会議」に参加しました。
★ 帰国してからは、若い盲学校教員を集めて、新しい構想のもと、「日本盲学校」開設運動を興しますが、好本督先生から「そのような小さな志ではダメだ。新聞を発行し、失明の同朋を啓発せよ」と厳しい叱責を受け、点字ジャーナリズム創始に専念するようになります。
★ そして大正10年(1921) 42歳の時、小学校教師をしていた阿野アツさん(当時37歳)と結婚。その翌年の大正11年(1922)に大阪毎日新聞に招かれ、『点字大阪毎日』(後に「点字毎日」と改題)を創刊されました。
★ それから昭和10年(1935)に定年を迎えられましたが、引き続き”嘱託”身分で昭和18年(1943)まで編集長を続け、昭和19年(1944)「点字毎日編集顧問」に。そして終戦と同時に第一線を退かれました。
★ この間、社会福祉事業家としての一面で、忘れられない偉大な貢献は、盲婦人解放・救済運動の先駆者となった越岡ふみ女史を助けて、昭和5年、西宮市に「関西盲婦人ホーム」を開設し、盲婦人専用の更生援護事業を開始しました。これは、好本先生同様にキリスト教徒としての信仰の証しとも言うべき実践活動でありました。因みにこの事業は、現在も活動を続けています。
★ 終戦後は、横浜訓盲院や東京ヘレン・ケラー学院で教鞭をとり、後進の教育に尽くされた他、文部省職業教育指導委員、盲聾教育義務制度実施準備委員、東京盲人会館理事、中央盲人福祉協会理事、ユネスコ国際点字統一会議日本代表など数、多くの公職に就かれ、終生、現役の華々しい活動を続けられ、昭和39年(1964)12月24日、亡くなられました。享年85歳。実に見事な人生でありました。
★ 奇しくも『点字毎日』は、この年、日本の盲人福祉・教育に貢献した先覚盲人を顕彰する「点字毎日文化賞」を創設し、その第一回受賞者に好本督翁を選定しております。
その好本先生は、昭和48年(1973) 英国オックスフォードの自宅で永眠されました。享年95歳。誠に見事な大往生でありました。
***** 語り継ぎ言い継ぎ行かん *****
★ 私は、先生ご存命中の晩年、亡くなられる2年前の昭和46年2月から、先生の創案になる「点字毎日」の編集長を務める光栄を担うことになりました。その節、差し上げたご挨拶に誠にご丁寧な激励のお便りを戴き、それが最後となりました。
★ 新聞記者としての後半、実に15年間もの長きに亘って、私は「点字毎日」の編集長を務めて、定年まで視覚障害者の皆さんと共に歩むことになりました。誠に私にとっても好本、中村両先生は、我が人生の”正師”でありました。その奇縁を思わざるを得ません。そして、その私も、間もなく傘寿(80歳)を迎えます。誠に一つの時代の終わりを思わざるを得ません。
★ 最後に一言、付け加えることをお許しいただきたいと思います。
『点字毎日』は、失明者の言論であります。それは、失明者自身によって創刊され、自ら失明者である先覚盲人記者、中村京太郎(初代編集長)、大野加久二(第2代編集長)のお二人が育てられました。その志を継いだのは、私を補佐してくれた、共に全盲者である石森優、高橋実の両編集委員(副部長)でありました。
★ そして今、若い全盲記者が時代を拓く新しいITジャーナリズムを開発しました。『点字毎日』出身の全盲記者、岩下恭士さん。IT時代に障害者と健常者を結ぶすばらしいネット・ジャーナル「ユニバーサロン」を立ち上げ、自ら編集長となって大活躍中です。
「点字毎日」は、このような有能な全盲記者によって未来志向の新しいジャーナリズムを創始し、発展させつつあります。皆様も,、このすばらしいサイトを是非、ご訪問下さいまして、暖かく育てて下さいますようお願い申し上げます。 【ユニバーサロン】
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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中村京太郎という方は、どんな人であったのか? このシリーズの最後として、そのことをお話しいたします。先生の年譜を辿りながら、時、折々の有名なエピソードを交えながら中村先生の人物像をご紹介していきたいと思います。
***** 中村先生の足跡 *****
★ 中村先生は、明治13年(1880)に、今は浜松市に併合されている旧静岡県浜名郡和地村にお生まれになりました。生来、眼疾で視力が弱かったのですが、地元の小学校に入って間もなく失明し、退学しました。そして13歳になって浜松の鍼灸治療院に弟子入りしましたが、数ヶ月で飛び出し、翌年、志を立てて、上京し、官立東京盲唖学校(現在の筑波大学付属視覚特別支援学校)に入学しました。
★ この時、同郷の石川倉次先生と運命的な出会いをし、点字の指導を受けました。石川倉次先生は、日本点字の考案者で「点字の父」と仰がれている方ですが、当時、同校教諭をなさっていました。中村少年はかなり目立った生徒だったようで、石川先生の懐旧談:「他の学生と違う、点字を一日で覚えてしまった」 「好奇心旺盛でカナタイプを貸した」 「希望したのでハガキ用点字板を作ってやった」など・・・が残っています。
★ 明治30年(1897)、17歳の時、同窓会を設立し、初代会長に就任しました。在学中に同窓会などを結成する・・・血気盛んな青年を想わせますね。そして明治33年(1900)20歳の時、鍼按科(現在の理療科研究科相当)を卒業し、直ちに母校の雇いとなります。
★ 中村青年の東京盲唖学校教師登用は、日本の盲教育史上、画期的な意味を持つものでありました。それは、日本の教育史上、始めて全盲者の普通科教員第一号の登用であったのです。鍼灸・按摩の職業コースではなく、「普通科」の教員に全盲の方が採用されたのはこれが初めてです。
★ 教員になって2年目の明治35年、中村先生は激烈な点字論争を展開します。
日本点字は、明治23年(1890)11月1日に、同盲唖学校教諭だった石川倉次先生によって完成しましたが、その当初は、表記法が歴史的仮名遣いが主流で、表音式表記を主張する人々と大きく対立していました。
★ 中村先生は、表音式表記の少数派で、新たに開発された点字拗音の採用を熱心に主張しておられました。この騒動で、中村先生は同窓会長を辞任しますが、翌明治36年(1903)、自ら編集していた同窓会報『盲人世界』を『むつぼしの光』と改題して、新たに考案された拗音点字を採用し、点字の表音表記を初めて実用化します。
★ このことが、19年後、『点字大阪毎日』(後「点字毎日」と改題)発刊で全面的に表音式点字表記法を採用し、マスコミを通じて表音式の日本語点字表記法を確立することになるのですが、『むつぼしの光』の先駆的実験は、日本の点字史上、画期的というべき一大壮挙でありました。
★ ちょっと余談になりますが、中村先生の日本語表記を歴史的仮名遣いではなく、表音式で、との主張は、戦後の国語表記法の大改革で日本語全体の表記法が真似ることになります。点字の表音表記法は一般の国語・国字表記法より半世紀以上も先行していることは、注目されねばならぬ事実だと思います。
★ 戦後、アメリカ占領軍の指導で、日本語の「歴史的仮名遣い」が現在、私たちがつかっている「現代仮名づかい」に大変換を遂げるのですが、実に点字の世界では、それ以前、明治36年(1903)に実現していたのです。
★ 中村先生は、この後、同校を依願退職し、台湾に渡り、明治38年から7年間、現地の「慈恵院盲教育部」(現台南盲学校)の部長(校長)を勤めます。 そして明治45年(1912) ”盲人初の”文部省派遣海外留学生として英国・ロンドンに赴きました。辞令に「海外盲教育並びに盲人福祉事業の視察」と記され、渡航費、滞在費などその費用は全額を好本先生が負担されました。
★ ロンドンには明治45年(1912)から大正3年(1914)まで3年間滞在し、Royal Midland Institution for the Blind と、Royal Normal College(王立師範学校) で学びました。そして帰国に先立ち、大正3年(1914) ウエストミンスター寺院で開かれた「盲人問題に関する国際会議」に日本代表として参加し、帰国の途につきましたが、第一次世界大戦が始まり、急遽、シベリア鉄道で陸路、帰国の旅をし、途中、朝鮮・平壌で開かれて「東亜盲教育会議」に参加しました。
★ 帰国してからは、若い盲学校教員を集めて、新しい構想のもと、「日本盲学校」開設運動を興しますが、好本督先生から「そのような小さな志ではダメだ。新聞を発行し、失明の同朋を啓発せよ」と厳しい叱責を受け、点字ジャーナリズム創始に専念するようになります。
★ そして大正10年(1921) 42歳の時、小学校教師をしていた阿野アツさん(当時37歳)と結婚。その翌年の大正11年(1922)に大阪毎日新聞に招かれ、『点字大阪毎日』(後に「点字毎日」と改題)を創刊されました。
★ それから昭和10年(1935)に定年を迎えられましたが、引き続き”嘱託”身分で昭和18年(1943)まで編集長を続け、昭和19年(1944)「点字毎日編集顧問」に。そして終戦と同時に第一線を退かれました。
★ この間、社会福祉事業家としての一面で、忘れられない偉大な貢献は、盲婦人解放・救済運動の先駆者となった越岡ふみ女史を助けて、昭和5年、西宮市に「関西盲婦人ホーム」を開設し、盲婦人専用の更生援護事業を開始しました。これは、好本先生同様にキリスト教徒としての信仰の証しとも言うべき実践活動でありました。因みにこの事業は、現在も活動を続けています。
★ 終戦後は、横浜訓盲院や東京ヘレン・ケラー学院で教鞭をとり、後進の教育に尽くされた他、文部省職業教育指導委員、盲聾教育義務制度実施準備委員、東京盲人会館理事、中央盲人福祉協会理事、ユネスコ国際点字統一会議日本代表など数、多くの公職に就かれ、終生、現役の華々しい活動を続けられ、昭和39年(1964)12月24日、亡くなられました。享年85歳。実に見事な人生でありました。
★ 奇しくも『点字毎日』は、この年、日本の盲人福祉・教育に貢献した先覚盲人を顕彰する「点字毎日文化賞」を創設し、その第一回受賞者に好本督翁を選定しております。
その好本先生は、昭和48年(1973) 英国オックスフォードの自宅で永眠されました。享年95歳。誠に見事な大往生でありました。
***** 語り継ぎ言い継ぎ行かん *****
★ 私は、先生ご存命中の晩年、亡くなられる2年前の昭和46年2月から、先生の創案になる「点字毎日」の編集長を務める光栄を担うことになりました。その節、差し上げたご挨拶に誠にご丁寧な激励のお便りを戴き、それが最後となりました。
★ 新聞記者としての後半、実に15年間もの長きに亘って、私は「点字毎日」の編集長を務めて、定年まで視覚障害者の皆さんと共に歩むことになりました。誠に私にとっても好本、中村両先生は、我が人生の”正師”でありました。その奇縁を思わざるを得ません。そして、その私も、間もなく傘寿(80歳)を迎えます。誠に一つの時代の終わりを思わざるを得ません。
★ 最後に一言、付け加えることをお許しいただきたいと思います。
『点字毎日』は、失明者の言論であります。それは、失明者自身によって創刊され、自ら失明者である先覚盲人記者、中村京太郎(初代編集長)、大野加久二(第2代編集長)のお二人が育てられました。その志を継いだのは、私を補佐してくれた、共に全盲者である石森優、高橋実の両編集委員(副部長)でありました。
★ そして今、若い全盲記者が時代を拓く新しいITジャーナリズムを開発しました。『点字毎日』出身の全盲記者、岩下恭士さん。IT時代に障害者と健常者を結ぶすばらしいネット・ジャーナル「ユニバーサロン」を立ち上げ、自ら編集長となって大活躍中です。
「点字毎日」は、このような有能な全盲記者によって未来志向の新しいジャーナリズムを創始し、発展させつつあります。皆様も,、このすばらしいサイトを是非、ご訪問下さいまして、暖かく育てて下さいますようお願い申し上げます。 【ユニバーサロン】
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2010-06-11 00:00
| 歴史との対話