2010年 07月 11日
【10055】 ”学び”の揺らぎと自己開放 |
★ 私たち、昭和ヒトケタ生まれは、誰もが、親・教師から「学問」の大切さを教えられ、踏むべき道の心得を叩き込まれました。でも正直なところ、言われた「学問」って、どれほどのものであったのか? 人生も終わりに近づくと、フト、そんな思いが脳裏を横切ります。
★ 今、2500年も前に書かれた2冊の本を見比べ,先哲の教えをかみ締めながら、それを考えています。『老子』と『論語』 この二つは、共に「学問する」根本を問い、お互い、180度相反する結論を出しています。私が、今、共感するのは『老子』
★ 『老子』は、「上篇」(道教)と「下篇」(徳教)の2篇全81章からなっています。
その第20章の出だしは、次の句で始まります。
★ 人が憚ることだけ学び従えばいい。あとはすべて”あげつらい”、つきることなく、拘れば、身を滅ぼすモトだ・・・・・だが、しかし、お言葉ですが、私は、子供の頃から学問至上主義で育ちました。??? 即座に、『論語』の最初、第一巻第一 「学而篇」を思い出しました。
★ この過激な攻撃は、明らかに『論語』の著者、孔子に向けた老子の挑戦ですね。
思わずニンマリしてしまいました。「学問」をめぐる考え方は、要・不要、すでに2500年前にまっぷたつに割れていたのですね。『論語』の最初に出てくる「学而篇」
★ 事実、「人生終生、これ学問」の思いは揺らいだことはありません。それが、出来る、出来ないを問う前に、「学而時習之、不亦説乎」は厳然たる真実。我が日常で目指すべき理想としてきました。それを疑うことさえありませんでした。
★ 「学ぶ」とは何か?
私は18歳まで、旧制師範学校で学びましたが、当時、漢文で、教わった意味解釈を今も覚えています。
★ ところが、馬齢を重ねて80年、今、対座する「老子」は、いとも簡単に
確かに私には「学而の蔵。修。息。游。」が、呪縛のように纏い付いています。
★ 終生、学問を生業としている人ならともかく、私のような凡人、浅学非才の人間は、このような教えを奉戴し、日常を生きようとすると、人生、日常のすべてが、難行苦行の鍛錬場に連れ込まれるハメに陥ります。
★ しかも、悪いことに、実行出来ない我が身を苛む毎日、それでも我が身を縛って、叱咤激励する”憑きモノ”の正体は、実に、”こうでなければイケナイ”「学而・・・蔵。修。息。游」で、むち打ちます。精神衛生上、これほど健康に悪いものはありません。いつも纏い付く”ねばならない”教条の数々・・・・
多分、私のこの心境は、大学進学を前にした高校生が共感してくれるでしょう。
★ 「老子」は言います。「安んぜよ」 そして知れ!
一体、「学問」の名において行われているものは何か?
日常生活の礼儀作法、年長者に対する応対のあり方、一挙手一投足を批判する善し悪し論議・・・顰めっ面で、”これぞ正論”と述べ立てる聖職者、職業学者、道学者、政治家。
★ 見よ! これら”賢しら”の者すべてが、自らは、絶対に己に体現することのない言説を述べ立てる。 「そんな輩(やから)に関わらず、彼らが唱導する”ガク”など、やめてしまえ」 と。
確かに・・・目からウロコ、落として見れば、エライ人々の虚飾の教養も透けて見えます。
”ガク”を捨てる・・・その先にあるのは「無憂」(屈託なき人生)
★ 第20章は、三つの部分に分かれていて、「学問を絶て」につづいて、こざかしい世渡り上手の退廃・浪費人生を批判し、何事も理論・理屈で割り切れると、うぬぼれる名士・文化人を揶揄しています。そして、最後に、激烈な一撃で結んでいます。
「知者が愚者になることは、愚者が知者になることより、遙かに難しいことである」
何とも深い、含蓄に富んだ重い言葉であることでしょう。
★ 「学ぶことは、良きこと」とされています。
中でも「学問は人間の人格成長に資すると考える教養主義。
人生の理想として、真(学問)・善(道徳)・美(芸術)のすべてを追求し、人格としての「自己完成」をめざすための”学び”・・・・教育基本法の第一条に歌われている学校教育の目的です。
★ ・・・・が、文字で飾り立てたその知の教育は子供たちに何をもたらしているか?
またその全課程を終えて社会に立っている我々、大人たちは如何に理想を自己完成出来たか?
現実を直視するとき、「学び」の限界を思わざるを得ません。
★ 特に最近の大学。学部、大学院を含めて、果たして就学する意味があるのか、どうか?
大学の学生定員より受験生が少ない時代です。大学の半数近くが定員割れで、学生が集まらず、廃校するところが出始めました。数年後にはバタバタ、と来そう、と、関係者は頭を抱えています。
こうなると、もう「学問の府」ではありませんね。大学卒業前にもなって、卒業研究で「概念って何ですか?」と訊ねる学生はゴマンといます。一体全体、・・・4年間、何したの?
★ その問いかけは、我が身にも向けねばならぬ、かもしれません。
馬齢を重ねて80年、「学び」一つを取り上げても、一体、私は何を学んだのか?
先哲の教えに従って、その軌跡を辿って見ると、我が人生の紆余曲折は、まあ、何ともいい加減なものとの格闘だったことよ、と、むなしさを覚えています。
★ 『老子』と『孔子』の”学而”論。 共に2500年前の彼方から、先哲が語りかけて下さる教えです。老境に入り、これより先、お二人と対座し、耳を傾ける時間を、出来るだけ、多く得たいと願っています。 私にとって今、なにより大事なのは、自己開放、”賢しら”の囚われからの脱却です。
★ 「絶学無憂」(学を絶てば憂いなし) 素晴らしい四文字哲理ですね。 心を揺さぶります。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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★ 今、2500年も前に書かれた2冊の本を見比べ,先哲の教えをかみ締めながら、それを考えています。『老子』と『論語』 この二つは、共に「学問する」根本を問い、お互い、180度相反する結論を出しています。私が、今、共感するのは『老子』
★ 『老子』は、「上篇」(道教)と「下篇」(徳教)の2篇全81章からなっています。
その第20章の出だしは、次の句で始まります。
「絶学無憂」(学を絶てば憂いなし)★ この4文字を見て、我が心の深奥で、常に「ねばならぬ、こうあらねば・・・」と、自己規制をかけている”憑き物”の正体が見えた思いがしました。物心ついてから、親・教師に叩き込まれた「学問」 疑いなき「真理への道」 『老子』は、それをえぐり出し、喝(かつ)を入れます。賢者の言葉、何とも痛快、歯切れがいいです。
学問をやめてしまえば、人生に屈託はない。
「絶学!」 学問やめよ!
◎ 「唯之與亜、相去幾何」(唯と亜と、相去ること幾何ぞ)
ハイと返事するのと、アアと応答するのとどれほどの違いがあるのか?
「善之與悪。相去何若」(善と悪と、相去ること如何)
善と悪にどれほどの違いがあるというのだ
◎ 「人之所畏。不可不畏」(人の畏るる所は、畏れざるべからず)
人が憚ることは憚らぬわけにはまいらぬ
「荒分其未央哉」(荒として其れ未だ央きざる哉)
それ以上の”あげつらい”は、茫漠としてつきることはない。
★ 人が憚ることだけ学び従えばいい。あとはすべて”あげつらい”、つきることなく、拘れば、身を滅ぼすモトだ・・・・・だが、しかし、お言葉ですが、私は、子供の頃から学問至上主義で育ちました。??? 即座に、『論語』の最初、第一巻第一 「学而篇」を思い出しました。
★ この過激な攻撃は、明らかに『論語』の著者、孔子に向けた老子の挑戦ですね。
思わずニンマリしてしまいました。「学問」をめぐる考え方は、要・不要、すでに2500年前にまっぷたつに割れていたのですね。『論語』の最初に出てくる「学而篇」
◎ 子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不温、不亦君子乎★ これまでの私は、それを意識したか、どうかは、定かではありませんが、子供の頃から社会人になり、老齢で隠棲する今日まで『論語』が指し示す人のあるべき道を素直に歩んできたように思えます。
「子、曰く、学んで時に習う、亦説(よろこ)ばしからずや。有朋、遠きより方(ならび)来るまた楽しからずや
人知らずして怒らず、また君子ならずや」
物事を教わる、そして後で練習する。なんと楽しいことではないか。友達が遠くからそろってやってくる。
なんとうれしいことではないか。他人が認めなくとも気にかけない。なんと奥ゆかしい人柄ではないか。
★ 事実、「人生終生、これ学問」の思いは揺らいだことはありません。それが、出来る、出来ないを問う前に、「学而時習之、不亦説乎」は厳然たる真実。我が日常で目指すべき理想としてきました。それを疑うことさえありませんでした。
★ 「学ぶ」とは何か?
私は18歳まで、旧制師範学校で学びましたが、当時、漢文で、教わった意味解釈を今も覚えています。
★ 確かに、私は、少年時代に習い覚えた「学問の蔵 修 息 游」を、今も暗唱出来るほど、頭にたたき込んでいます。それこそ金科玉条、書に向かう時、常に奉戴してきた教えでした。
◎ 『論語』の”学而”を解釈した、『礼記』は、それを「蔵 修 息 游」である、と説明している。
学問の始まりはまず「蔵」・・・書物を読んで”覚える”こと。読んだだけではつまらない。
「蔵」の内容は、自ら追試、実践を重ね、修練されて我が身の血となり、肉とならなければならない。この段階が「修」。
これができてくると人物が形作られてくる。やがて学問したことがまるで呼吸をしているかのように自然なものとして身に付いている。この段階が「息」である。
学問が極まった折り、その内容に拘ることなく、ゆったりと遊べるようになる。まことに学問の目的は、この最後の段階の「游」でにある。
★ ところが、馬齢を重ねて80年、今、対座する「老子」は、いとも簡単に
「絶学無憂」(学を絶てば憂いなし)と、私に渇(かつ)を入れます。目が覚める思いがしましたね。
確かに私には「学而の蔵。修。息。游。」が、呪縛のように纏い付いています。
★ 終生、学問を生業としている人ならともかく、私のような凡人、浅学非才の人間は、このような教えを奉戴し、日常を生きようとすると、人生、日常のすべてが、難行苦行の鍛錬場に連れ込まれるハメに陥ります。
★ しかも、悪いことに、実行出来ない我が身を苛む毎日、それでも我が身を縛って、叱咤激励する”憑きモノ”の正体は、実に、”こうでなければイケナイ”「学而・・・蔵。修。息。游」で、むち打ちます。精神衛生上、これほど健康に悪いものはありません。いつも纏い付く”ねばならない”教条の数々・・・・
多分、私のこの心境は、大学進学を前にした高校生が共感してくれるでしょう。
★ 「老子」は言います。「安んぜよ」 そして知れ!
一体、「学問」の名において行われているものは何か?
日常生活の礼儀作法、年長者に対する応対のあり方、一挙手一投足を批判する善し悪し論議・・・顰めっ面で、”これぞ正論”と述べ立てる聖職者、職業学者、道学者、政治家。
★ 見よ! これら”賢しら”の者すべてが、自らは、絶対に己に体現することのない言説を述べ立てる。 「そんな輩(やから)に関わらず、彼らが唱導する”ガク”など、やめてしまえ」 と。
確かに・・・目からウロコ、落として見れば、エライ人々の虚飾の教養も透けて見えます。
”ガク”を捨てる・・・その先にあるのは「無憂」(屈託なき人生)
★ 第20章は、三つの部分に分かれていて、「学問を絶て」につづいて、こざかしい世渡り上手の退廃・浪費人生を批判し、何事も理論・理屈で割り切れると、うぬぼれる名士・文化人を揶揄しています。そして、最後に、激烈な一撃で結んでいます。
◎ 「我獨異於人而貴食母」(われ独り、人に異なりて、食母を貴ぶ)★ 学を絶って、得られる安らかさは、自分を乳で育ててくれた(母なる)女性、万物の生成者である”道”に身を寄せることにある。文字で飾り立てた知のかけらでなく、あたかも嬰児の心に宿る、かの清らかな”愚”がもっとも尊いと認知する「食母」=「道」に戻ることにある。
私だけは、変わり者で、乳母なる”道”を大切にしている。
「知者が愚者になることは、愚者が知者になることより、遙かに難しいことである」
何とも深い、含蓄に富んだ重い言葉であることでしょう。
★ 「学ぶことは、良きこと」とされています。
中でも「学問は人間の人格成長に資すると考える教養主義。
人生の理想として、真(学問)・善(道徳)・美(芸術)のすべてを追求し、人格としての「自己完成」をめざすための”学び”・・・・教育基本法の第一条に歌われている学校教育の目的です。
★ ・・・・が、文字で飾り立てたその知の教育は子供たちに何をもたらしているか?
またその全課程を終えて社会に立っている我々、大人たちは如何に理想を自己完成出来たか?
現実を直視するとき、「学び」の限界を思わざるを得ません。
★ 特に最近の大学。学部、大学院を含めて、果たして就学する意味があるのか、どうか?
大学の学生定員より受験生が少ない時代です。大学の半数近くが定員割れで、学生が集まらず、廃校するところが出始めました。数年後にはバタバタ、と来そう、と、関係者は頭を抱えています。
こうなると、もう「学問の府」ではありませんね。大学卒業前にもなって、卒業研究で「概念って何ですか?」と訊ねる学生はゴマンといます。一体全体、・・・4年間、何したの?
★ その問いかけは、我が身にも向けねばならぬ、かもしれません。
馬齢を重ねて80年、「学び」一つを取り上げても、一体、私は何を学んだのか?
先哲の教えに従って、その軌跡を辿って見ると、我が人生の紆余曲折は、まあ、何ともいい加減なものとの格闘だったことよ、と、むなしさを覚えています。
★ 『老子』と『孔子』の”学而”論。 共に2500年前の彼方から、先哲が語りかけて下さる教えです。老境に入り、これより先、お二人と対座し、耳を傾ける時間を、出来るだけ、多く得たいと願っています。 私にとって今、なにより大事なのは、自己開放、”賢しら”の囚われからの脱却です。
★ 「絶学無憂」(学を絶てば憂いなし) 素晴らしい四文字哲理ですね。 心を揺さぶります。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2010-07-11 10:02
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