2010年 09月 04日
【10115】 偉大なる104歳老師の”原爆稲”平和運動 |
★ 私は、心密かに、曻地(しょうち)三郎先生を、わが老後人生の師表と仰いでおります。みなさんも ご存じでしょう。 「しいのみ学園」を創設し、障害児教育の先駆者として知られる偉大な教育者です。先生は、私の亡父が卒業した広島・片田舎の「寺西小学校」(現東広島市西条町寺西・既に廃校)のご卒業で、我が父と同窓生でありました。
★ また、そのご縁は、私が学んだ旧広島師範学校の大先輩であり、かつまた先生が大学院長をなさった韓国大邱大学の李泰栄理事長は私の若い頃からの友人。名誉教授である上海・華東師範大学は私も講義をした経験がある親しい大学です。全く偶然ですが、先生の足跡を私も辿らせていただいておりました。
★ さらに・・・先生が「しいのみ学園」を創立された昭和29年(1954)に私は大学を出て新聞記者になりました。未だ知的障害者の教育・福祉が未着手の時代のこと、先生の取り組みはすべて新しく、大きなニュースでありました。何度も取材に訪れ、お目にかかって取材をさせていただきました。
★ そうした奇縁が幾重にも重なっていて、私は、若い頃から先生に心密かに師事してまいりました。先生は、4年前には100歳記念の「世界一周講演旅行」に出かけられ、マスコミに大きく取りあげられましたが、104歳になられる現在も矍鑠(かくしゃく)としておられるお姿をネットで拝見しました。本当におめでたい限りであります。
★ 障害者教育の先覚者としての曻地先生は、どなたもご存じですが、先生がナガサキ原爆で被爆し、その後、延々と生き続けている”原爆稲”を育てながら粘り強い平和運動を続けておられることを知る人は少なかろうと思います。。
★ 先生の寺西小学校の同窓生に故重藤文夫医博がいらっしゃいます。長く広島原爆病院長を務められた著名な方です。多分、重藤先生ご生前にはご親交があったはずだと推察しております。なぜならば、両先生とも平和運動に半生を捧げられました。
★ 曻地先生は、生存被爆者が生涯に亘ってくるしんでいる原爆放射性物質による後障害の恐怖は、「原爆稲」が如実に物語る、と確信されて、「原爆稲」を育てることで反原爆の平和運動を興す発想を得られました。
★ 「原爆稲」とはなにか? ご存知でしょうか?
原爆が広島・長崎に落とされた昭和20年(1945) 被爆2ヶ月後の10月、文部省が行った原爆影響調査で、長崎の調査に随行した九州大学の研究者が浦上天主堂横の水田で”生きている”稲を見つけ、被爆稲の種子を系統的に分類しながらその後 も育生しながら研究を続け、さまざまな異変が稲にいつまでも残ることを突き止めたのです。
★ その研究成果は、「原爆稲後代に現われたトリゾーミック植物の粒形質について」と題する研究論文として公表されましたが、原爆の放射能で染色体が切れるなどの後障害が起き、何代にも亘って多くの稲穂が実を結ばない事実が判明しました。
★ 研究対象の役割は終えた”原爆稲”は九州のNPOなどが種子を継承し、現在は平和運動として希望者に種子を配っています。その重要な一翼を担っているのが曻地先生が創設された「しいのみ学園」なのです。
★ 65年目を迎えた「原爆の日」 私たちは、被爆の影響を今も宿す原爆稲が、自らのイノチで、被爆者の消えることのない苦痛を訴え続けていることに心を向けるべきでありましょう。
★ 曻地三郎先生は、今、104歳! ご長寿を寿ぎながら、去りゆく夏と共に、忘れてはならぬ、偉大な老師の隠れた”原爆稲”平和運動の偉業を書き残す責任を痛感しました。是非、皆様に知っていただきたく、日記に取りあげた次第です。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
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★ また、そのご縁は、私が学んだ旧広島師範学校の大先輩であり、かつまた先生が大学院長をなさった韓国大邱大学の李泰栄理事長は私の若い頃からの友人。名誉教授である上海・華東師範大学は私も講義をした経験がある親しい大学です。全く偶然ですが、先生の足跡を私も辿らせていただいておりました。
★ さらに・・・先生が「しいのみ学園」を創立された昭和29年(1954)に私は大学を出て新聞記者になりました。未だ知的障害者の教育・福祉が未着手の時代のこと、先生の取り組みはすべて新しく、大きなニュースでありました。何度も取材に訪れ、お目にかかって取材をさせていただきました。
★ そうした奇縁が幾重にも重なっていて、私は、若い頃から先生に心密かに師事してまいりました。先生は、4年前には100歳記念の「世界一周講演旅行」に出かけられ、マスコミに大きく取りあげられましたが、104歳になられる現在も矍鑠(かくしゃく)としておられるお姿をネットで拝見しました。本当におめでたい限りであります。
★ 障害者教育の先覚者としての曻地先生は、どなたもご存じですが、先生がナガサキ原爆で被爆し、その後、延々と生き続けている”原爆稲”を育てながら粘り強い平和運動を続けておられることを知る人は少なかろうと思います。。
★ 先生の寺西小学校の同窓生に故重藤文夫医博がいらっしゃいます。長く広島原爆病院長を務められた著名な方です。多分、重藤先生ご生前にはご親交があったはずだと推察しております。なぜならば、両先生とも平和運動に半生を捧げられました。
★ 曻地先生は、生存被爆者が生涯に亘ってくるしんでいる原爆放射性物質による後障害の恐怖は、「原爆稲」が如実に物語る、と確信されて、「原爆稲」を育てることで反原爆の平和運動を興す発想を得られました。
★ 「原爆稲」とはなにか? ご存知でしょうか?
原爆が広島・長崎に落とされた昭和20年(1945) 被爆2ヶ月後の10月、文部省が行った原爆影響調査で、長崎の調査に随行した九州大学の研究者が浦上天主堂横の水田で”生きている”稲を見つけ、被爆稲の種子を系統的に分類しながらその後 も育生しながら研究を続け、さまざまな異変が稲にいつまでも残ることを突き止めたのです。
★ その研究成果は、「原爆稲後代に現われたトリゾーミック植物の粒形質について」と題する研究論文として公表されましたが、原爆の放射能で染色体が切れるなどの後障害が起き、何代にも亘って多くの稲穂が実を結ばない事実が判明しました。
★ 研究対象の役割は終えた”原爆稲”は九州のNPOなどが種子を継承し、現在は平和運動として希望者に種子を配っています。その重要な一翼を担っているのが曻地先生が創設された「しいのみ学園」なのです。
★ 65年目を迎えた「原爆の日」 私たちは、被爆の影響を今も宿す原爆稲が、自らのイノチで、被爆者の消えることのない苦痛を訴え続けていることに心を向けるべきでありましょう。
★ 曻地三郎先生は、今、104歳! ご長寿を寿ぎながら、去りゆく夏と共に、忘れてはならぬ、偉大な老師の隠れた”原爆稲”平和運動の偉業を書き残す責任を痛感しました。是非、皆様に知っていただきたく、日記に取りあげた次第です。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
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by zenmz
| 2010-09-04 00:29
| 一期一会