2010年 12月 09日
【10209】 「ある教育的配慮」・・・救われた”軍国少年”の告白記 |
★ 昨日は”太平洋戦争開戦”の記念日でした。今から69年前、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地と、マレー半島北端に、同時に奇襲作戦を展開して、米英両国と戦争を始めた日です。
★ 米英、オランダの帝国主義が植民地化したアジア諸国民を解放し、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」を建設・・・その大義を掲げた夢は儚く消えて日本軍は3年半後の1945年8月15日、無条件降伏しました。
★ 「軍国少年」だった私は、開戦当時、11歳。当時を振り返ってみて思い出すことを綴ったことがあります。もしご興味をお持ちでしたらこちらをご披見下さい。
【《12/08開戦記念日と大詔奉戴日》の教訓】
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★ 今日、お話ししておきたいことは、そんな緊迫した時代に、田舎の小学校で起こった小事件のことです。私自身が主人公。そして、私は、このことについて、今までだれにも語ることはありませんでした。しかし、もう時効。
心からの感謝の念を込めて、恩師・安藤先生の追憶を記したいと思います。
★ 既にその頃、日本軍はかなり長期間、中国と争っていて、その「日中戦争」が米英オランダを相手に拡大し、後に「太平洋戦争」または「第二次世界大戦」と呼ばれるようになったのですが、このことにより日本本土が攻撃される危険性が高まり、都会の子ども達は田舎へ移すことになりました。
★ 「学童疎開(そかい)」と呼ばれ、田舎に親戚など身よりのある者は「縁故疎開」 無い者は学校ごとまとめての「集団疎開」が強制的に実施されました。私は父の故郷を頼って京都から広島へ「縁故疎開」しました。
★ その頃、都会、田舎の区別無く、すべての小学校正門入り口には奉安殿(ほうあんでん)というお社のようないかめしい建物がありました。天皇・皇后両陛下の写真が飾ってあって、その前を通るときには必ず最敬礼することが強制されました。
★ なぜか? 当時、天皇陛下は「神国日本の天子。天から降された現人神(あらひとがみ)」つまり生き神様。お顔を直視したら目が潰れる、と、教えられていました。そして、学校、官庁だけでなく、一般企業、家庭でも、両陛下のお写真を掲げ、日夜、最敬礼し、忠義の誠を捧げるよう奨励されていました。お写真は「御真影(ごしんえい)」と呼んでいました。
★ 奉安殿には、御真影の他、桐の白木に収められた「教育勅語」が祀られていました。そして、太平洋戦争が始まると、「宣戦の詔勅」が追加、奉安されて、校長先生が白手袋でウヤウヤシク巻物を取りだして最敬礼し、読み上げる儀式がありました。
★ 太平洋戦争が始まると、「開戦の日」に因んで、毎月8日が「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」と定められて、”聖戦貫徹”のための国民運動が開始されました。毎朝の朝礼では、国旗掲揚、君が代吹奏、宮城遥拝が行われました。
★ 毎月8日には、特に教職員、児童全員が講堂に集められて、校長先生が「開戦の詔勅」と「教育勅語」をウヤウヤシク読み上げられ、それが終わると、全員が校庭に出て、奉安殿前で学年ごとに分列行進をしました。
★ 6年生になって間がない4月8日のこと。朝礼が始まる間際に、私はトイレに駆け込みました。用を足している教頭先生と鉢合わせ。気まずい思いをしながら伏し目がちにフト見ると、オシッコをしながら小脇に、桐の箱を挟んでいらっしゃいます。
★ 講堂に戻り、列に並んでウヤウヤしい態度でアタマを下げてはいますが、私は、朝礼で、教頭先生が校長先生にその巻物を渡すたびにこみ上げる笑いを押さえるのに苦労しました。が・・・夏も近づく頃の「大詔奉戴日」・・・とうとう爆発しました。
★ 講堂正面に校長先生が立ち、そこへ教頭先生が桐の箱を頭上に捧げて進まれ、校長先生がおもむろに祝詞をあげるような口調で詔勅を読み始められた時、こみ上げる笑いを押さえきれずに私はその場に蹲ってしまいました。涙がでるほど可笑しかった。多分、体も震るわせて笑いを殺していたのでしょう。
★ 直ちに担任の安藤先生が駆けつけて来て、私を抱きかかえて、休養部屋へ運び込んで下さいました。「どうした!?・・・大丈夫か?」 何も言えず、私は、流れ出ている涙を拭いました。ベッドに寝かせ、ヒタイに手を当てた先生は、「熱はない。静かに寝ていなさい」と、言い残して、出て行かれました。
★ 異変が起こったのは、それから暫くしてからでした。
学校の雰囲気が違って来たのです。何よりも仲間が私に向ける態度、眼差しが良い雰囲気。それ以上に、先生達の目が優しい。若い女性の先生が「あんた、エライわね」と褒めてもくれるようになったのです。何のことか? さっぱり理由がつかめず、奇妙な気分になったまま数日を経ました。
★ やがてビックリ。私は、いつの間にか、「宣戦の詔勅」を聞いて感泣し、卒倒した「模範生」になっていて、「あらまほしき軍国少年」に祭り上げられていたのです。賞賛は、その後も続き、高等科に進んだ時には、先生方一致の推薦を受けて「校友長」に選ばれました。
★ だれにも言えない真実・・・内心、忸怩たるものを覚えながら、説明する勇気もなく、私は、ただ流れのままに、「校友長」として分列行進の先頭に立っておりました。
高等科を卒業すると、私は旧官立師範学校に進学しましたが、そのこともあって内申書は非常に良かった、と仄聞しました。
★ それから20年後。私は35歳の新聞記者になっていましたが、福山市に創設された「福山平成大学」の取材に出かけた折、まったく偶然なキッカケで、同大学の教授に迎えられていた安藤先生とお会いしました。昔そのままの風貌で、直ぐ分かりましたが、先生は、全くお分かりになりませんでした。
★ が・・・共に過ごした小学校での「大詔奉戴日」に”ぶっ倒れた”一件を持ち出すと、「ああ、ゼニモト君」と、即座に思い出してくださいました。「実は・・・」と、私は、コトの真相を告白しました。
が・・・驚いたのは先生の反応。「いいんだョ。そんなこと。分かってる」
★ 咄嗟にすべて氷解しました。先生は、すべてをご承知で、私を救ってくださったのです。あの集団ヒステリーの時代・・・しかも校長先生はバリバリの軍国主義者。立ち回りの要領良さで知られていた教頭先生・・・そんな中での安藤先生の”教育的配慮”に救われて、今、自分のあることを思います。
★ 狂気の時代にも、かように立派な教育者がおられた・・・皆様にそれを知って頂きたく、長年、私の心に閉じこめていた秘話を明かすことにしました。やっと心の重荷を取り外せたように思います。
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庵主の自己紹介とご挨拶・・・【吉備野庵】へようこそ
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★ 米英、オランダの帝国主義が植民地化したアジア諸国民を解放し、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」を建設・・・その大義を掲げた夢は儚く消えて日本軍は3年半後の1945年8月15日、無条件降伏しました。
★ 「軍国少年」だった私は、開戦当時、11歳。当時を振り返ってみて思い出すことを綴ったことがあります。もしご興味をお持ちでしたらこちらをご披見下さい。
【《12/08開戦記念日と大詔奉戴日》の教訓】
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★ 今日、お話ししておきたいことは、そんな緊迫した時代に、田舎の小学校で起こった小事件のことです。私自身が主人公。そして、私は、このことについて、今までだれにも語ることはありませんでした。しかし、もう時効。
心からの感謝の念を込めて、恩師・安藤先生の追憶を記したいと思います。
★ 既にその頃、日本軍はかなり長期間、中国と争っていて、その「日中戦争」が米英オランダを相手に拡大し、後に「太平洋戦争」または「第二次世界大戦」と呼ばれるようになったのですが、このことにより日本本土が攻撃される危険性が高まり、都会の子ども達は田舎へ移すことになりました。
★ 「学童疎開(そかい)」と呼ばれ、田舎に親戚など身よりのある者は「縁故疎開」 無い者は学校ごとまとめての「集団疎開」が強制的に実施されました。私は父の故郷を頼って京都から広島へ「縁故疎開」しました。
★ その頃、都会、田舎の区別無く、すべての小学校正門入り口には奉安殿(ほうあんでん)というお社のようないかめしい建物がありました。天皇・皇后両陛下の写真が飾ってあって、その前を通るときには必ず最敬礼することが強制されました。
★ なぜか? 当時、天皇陛下は「神国日本の天子。天から降された現人神(あらひとがみ)」つまり生き神様。お顔を直視したら目が潰れる、と、教えられていました。そして、学校、官庁だけでなく、一般企業、家庭でも、両陛下のお写真を掲げ、日夜、最敬礼し、忠義の誠を捧げるよう奨励されていました。お写真は「御真影(ごしんえい)」と呼んでいました。
★ 奉安殿には、御真影の他、桐の白木に収められた「教育勅語」が祀られていました。そして、太平洋戦争が始まると、「宣戦の詔勅」が追加、奉安されて、校長先生が白手袋でウヤウヤシク巻物を取りだして最敬礼し、読み上げる儀式がありました。
★ 太平洋戦争が始まると、「開戦の日」に因んで、毎月8日が「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」と定められて、”聖戦貫徹”のための国民運動が開始されました。毎朝の朝礼では、国旗掲揚、君が代吹奏、宮城遥拝が行われました。
★ 毎月8日には、特に教職員、児童全員が講堂に集められて、校長先生が「開戦の詔勅」と「教育勅語」をウヤウヤシク読み上げられ、それが終わると、全員が校庭に出て、奉安殿前で学年ごとに分列行進をしました。
★ 6年生になって間がない4月8日のこと。朝礼が始まる間際に、私はトイレに駆け込みました。用を足している教頭先生と鉢合わせ。気まずい思いをしながら伏し目がちにフト見ると、オシッコをしながら小脇に、桐の箱を挟んでいらっしゃいます。
★ 講堂に戻り、列に並んでウヤウヤしい態度でアタマを下げてはいますが、私は、朝礼で、教頭先生が校長先生にその巻物を渡すたびにこみ上げる笑いを押さえるのに苦労しました。が・・・夏も近づく頃の「大詔奉戴日」・・・とうとう爆発しました。
★ 講堂正面に校長先生が立ち、そこへ教頭先生が桐の箱を頭上に捧げて進まれ、校長先生がおもむろに祝詞をあげるような口調で詔勅を読み始められた時、こみ上げる笑いを押さえきれずに私はその場に蹲ってしまいました。涙がでるほど可笑しかった。多分、体も震るわせて笑いを殺していたのでしょう。
★ 直ちに担任の安藤先生が駆けつけて来て、私を抱きかかえて、休養部屋へ運び込んで下さいました。「どうした!?・・・大丈夫か?」 何も言えず、私は、流れ出ている涙を拭いました。ベッドに寝かせ、ヒタイに手を当てた先生は、「熱はない。静かに寝ていなさい」と、言い残して、出て行かれました。
★ 異変が起こったのは、それから暫くしてからでした。
学校の雰囲気が違って来たのです。何よりも仲間が私に向ける態度、眼差しが良い雰囲気。それ以上に、先生達の目が優しい。若い女性の先生が「あんた、エライわね」と褒めてもくれるようになったのです。何のことか? さっぱり理由がつかめず、奇妙な気分になったまま数日を経ました。
★ やがてビックリ。私は、いつの間にか、「宣戦の詔勅」を聞いて感泣し、卒倒した「模範生」になっていて、「あらまほしき軍国少年」に祭り上げられていたのです。賞賛は、その後も続き、高等科に進んだ時には、先生方一致の推薦を受けて「校友長」に選ばれました。
★ だれにも言えない真実・・・内心、忸怩たるものを覚えながら、説明する勇気もなく、私は、ただ流れのままに、「校友長」として分列行進の先頭に立っておりました。
高等科を卒業すると、私は旧官立師範学校に進学しましたが、そのこともあって内申書は非常に良かった、と仄聞しました。
★ それから20年後。私は35歳の新聞記者になっていましたが、福山市に創設された「福山平成大学」の取材に出かけた折、まったく偶然なキッカケで、同大学の教授に迎えられていた安藤先生とお会いしました。昔そのままの風貌で、直ぐ分かりましたが、先生は、全くお分かりになりませんでした。
★ が・・・共に過ごした小学校での「大詔奉戴日」に”ぶっ倒れた”一件を持ち出すと、「ああ、ゼニモト君」と、即座に思い出してくださいました。「実は・・・」と、私は、コトの真相を告白しました。
が・・・驚いたのは先生の反応。「いいんだョ。そんなこと。分かってる」
★ 咄嗟にすべて氷解しました。先生は、すべてをご承知で、私を救ってくださったのです。あの集団ヒステリーの時代・・・しかも校長先生はバリバリの軍国主義者。立ち回りの要領良さで知られていた教頭先生・・・そんな中での安藤先生の”教育的配慮”に救われて、今、自分のあることを思います。
★ 狂気の時代にも、かように立派な教育者がおられた・・・皆様にそれを知って頂きたく、長年、私の心に閉じこめていた秘話を明かすことにしました。やっと心の重荷を取り外せたように思います。
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庵主の自己紹介とご挨拶・・・【吉備野庵】へようこそ
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by zenmz
| 2010-12-09 11:07
| 戦争秘話:平和への戒め