2005年 10月 14日
【5161】 検証:岸田吟香と日本の新聞事始め |
▼「日本新聞事始め」を語るなら、岸田吟香の偉業も落とすことは出来ません。事実、岸田は、福地とともに幕末から明治にかけて政財界を動かした大記者でした。この2大巨頭が『東京日々新聞』を舞台に見事なコンビを組んで、今日、我々が慣れ親しんでいる総合的な報道新聞の原型を作り上げたのです。
▼今日は、岸田吟香についてお話しします。が、普通、「吟香」と号で呼び慣わされている歴史上の人物。私たち新聞記者にとっては神様のような存在なのです。実は、私が現在、住んでいます町の北隣の旧・旭町(合併で現在は美咲町)の出身なのです。17年前、この地に引っ越して来て間もなく、近くにある円城寺という天台宗の名刹を訪ねた時、岸田吟香来訪の記念碑がありました。ご住職から「吟香は隣の旭町出身」と聞かされ、ビックリしました。早速、訪れましたが、当時は何もありませんでした。が、今は立派な『岸田吟香記念館』が出来ています。【リンク1】 【リンク2】 【注】年譜は【リンク1】にあります。ご参照下さい。
▼ところで、吟香を語るとなると、ハタと困惑するのは、何を取り上げても「日本事始め」の創始者にこの人が出てくるほどのマルチ人間です。「日本最初の海運業者」 「和英辞典の編集」 「日本で最初の従軍記者」 「盲唖学校の創設」 「目薬の調剤販売」・・・まだあります。「日本で最初に”たまごご飯”を食べた人」など数多くの分野で先駆的役割を果たした巨人です。しかし、吟香は岡山の寒村の農家の子でした。武士にあらずんば、人に非ず、の武士万能の時代です。ただ者ではなかったことは確かです。
▼東京・隅田川神社境内に岸田吟香を讃える有名な碑があります。そこには吟香の才能と個性とその業績を余すことなく紹介した漢詩が刻み込まれています。
維新諸業 翁実唱始 見幾制先 百蕨弗巳 及事就緒 模倣競起
後者勝先 功譲嚆矢 大書深刻 遠●干祠(●は、言偏に念)
【吟香翁は、維新下に様々な事業を創始されたが先見の明があった。
だから模倣する者続出、後には翁を抜いて成功者も出たが、翁は
創始の功を他に譲るほどの人物であった】
▼1873(明治6)年、 40歳の時、前年、創刊された『東京日々新聞』に入社。翌74(明治7) 台湾派遣軍に従軍し、観戦記を「東京日々」紙上に連載。日本最初の従軍記者となります。新聞記者の傍ら、英人ホールド等と「楽善会」を結成、現在の筑波大付属盲学校の前身で日本初の訓盲院(盲唖学校)の設立運動を起こします【1880(明治13)年、築地に開校】 晩年は日中文化交流事業に専念し、上海に東亜同文書院を創設して、72歳で亡くなりました。
▼目も眩むマルチ起業人間・吟香、その多才さが生み出した創業の数々は端折り、ジャーナリストとしての功績だけをたどってみましょう。続きは長文ですのでこちらの「問わず語り」でご覧下さい。
▼今日は、岸田吟香についてお話しします。が、普通、「吟香」と号で呼び慣わされている歴史上の人物。私たち新聞記者にとっては神様のような存在なのです。実は、私が現在、住んでいます町の北隣の旧・旭町(合併で現在は美咲町)の出身なのです。17年前、この地に引っ越して来て間もなく、近くにある円城寺という天台宗の名刹を訪ねた時、岸田吟香来訪の記念碑がありました。ご住職から「吟香は隣の旭町出身」と聞かされ、ビックリしました。早速、訪れましたが、当時は何もありませんでした。が、今は立派な『岸田吟香記念館』が出来ています。【リンク1】 【リンク2】 【注】年譜は【リンク1】にあります。ご参照下さい。
▼ところで、吟香を語るとなると、ハタと困惑するのは、何を取り上げても「日本事始め」の創始者にこの人が出てくるほどのマルチ人間です。「日本最初の海運業者」 「和英辞典の編集」 「日本で最初の従軍記者」 「盲唖学校の創設」 「目薬の調剤販売」・・・まだあります。「日本で最初に”たまごご飯”を食べた人」など数多くの分野で先駆的役割を果たした巨人です。しかし、吟香は岡山の寒村の農家の子でした。武士にあらずんば、人に非ず、の武士万能の時代です。ただ者ではなかったことは確かです。
▼東京・隅田川神社境内に岸田吟香を讃える有名な碑があります。そこには吟香の才能と個性とその業績を余すことなく紹介した漢詩が刻み込まれています。
維新諸業 翁実唱始 見幾制先 百蕨弗巳 及事就緒 模倣競起
後者勝先 功譲嚆矢 大書深刻 遠●干祠(●は、言偏に念)
【吟香翁は、維新下に様々な事業を創始されたが先見の明があった。
だから模倣する者続出、後には翁を抜いて成功者も出たが、翁は
創始の功を他に譲るほどの人物であった】
▼1873(明治6)年、 40歳の時、前年、創刊された『東京日々新聞』に入社。翌74(明治7) 台湾派遣軍に従軍し、観戦記を「東京日々」紙上に連載。日本最初の従軍記者となります。新聞記者の傍ら、英人ホールド等と「楽善会」を結成、現在の筑波大付属盲学校の前身で日本初の訓盲院(盲唖学校)の設立運動を起こします【1880(明治13)年、築地に開校】 晩年は日中文化交流事業に専念し、上海に東亜同文書院を創設して、72歳で亡くなりました。
▼目も眩むマルチ起業人間・吟香、その多才さが生み出した創業の数々は端折り、ジャーナリストとしての功績だけをたどってみましょう。続きは長文ですのでこちらの「問わず語り」でご覧下さい。
by zenmz
| 2005-10-14 00:05