2005年 08月 05日
[5080] ”知られざるヒバクシャ”と「ヒロシマの心」 |
明日、8月6日、ヒロシマは被爆60年を迎えます。”史上初の原爆投下の日”は。それで命を奪われた20数万人犠牲者共通の命日でもあります。広島市民の多くにとって肉親の供養の日、浄土真宗・安芸門徒の町、ヒロシマは、この日、盆灯籠が灯ります
★「ヒロシマ・ナガサキ」は何であったのか? 毎年、この日が近づくと、新聞・テレビは一斉に特集を組み、今、生きてある者への教訓を呼び覚まします。息長く60年間、続いてきたその報道活動の中でもNHK広島放送局と中国新聞の取り組みは秀逸です。
★先ほどから、私は中国新聞の記事「ヒロシマの記録-原爆被災写真」に見入っています。被災直後の様子を広島市内だけでなく、古市、呉、西条など近郊9地点から撮影した生々しい当時の写真を発掘して掲載しているのですが、
★その中の一枚、西条療養所のため池から遠望したキノコ雲は、当時、その直ぐ近くに住んでいた15歳の私が、見たそのままの光景です。「ガスタンクが爆発したんジャロ」 これを目撃したすべての人がそう思いました。
★写真のキャプションはこう説明しています。「鴉田藤太郎さん(78年、60歳で死去)が勤めていた傷痍(しょうい)軍人西条結核療養所(東広島市)で撮影。爆心地から北東約25キロ。鴉田さんは警防団のトラックで午後2時ごろ救援に向かい、焼失を免れた広島東警察署(中区銀山町)で収容者の名前を書き取った」と。
★傷を負った人が何人か、徒歩で逃げ戻って来たのは深夜でした。やがて私たち動員学徒も救援に駆り出され、手足、顔が焼きただれてしゃがみ込んで動けない人々を担架で運びました。その傷の異常さで”新型爆弾”の凄まじさを知りました。「マチがノウナッタ!」 呆然とした表情で絞り出すように語った中年男性の言葉が未だに耳に残っています。でも・・聞く者、誰もが”動転したんジャロ」と慰めていました。
★ヒロシマとは何か? パンドラの箱を開き飛び出した”巨悪の鬼子”の制御術を知らない私たちは、何度も、何度も原爆被災の原点に立ち戻り、止めどない核兵器の新開発と拡散の危機を感じ取っています。
★あの悲劇の教訓は何か? 60年を経た今、全世界が放射能兵器による被爆に怯えています。とりわけ、これまでヒロシマを口にすることに拒否反応を示してきたアメリカ人も、やっと、「ヒロシマの声」の真意を理解し始めたようです。
★湾岸戦争に参加した米、英、カナダ、フランス、旧チェコスロバキアなどの退役軍人と、彼らが戦った戦場のイラク、クウェートの住民、そ れに米軍の空爆を受けたボスニアやコソボの住民、平和部隊としてそこに駐留した兵士たち・・立ち入った目的は様々ですが、一様に「湾岸戦争症候群」「バルカ ン症候群」と呼ばれる深刻な症状が起きている事実にやっと目覚めたのです。
★原爆投下後の広島・長崎に派遣された退役被爆軍人を先頭にその後、湾岸戦争に至るまで核兵器を使用した戦争に関与した退役軍人は40万人、その中に多くの被爆犠牲者が出ている事実を「全米被爆退役軍人会」(NAAV)が告発し始めたと言います。(毎日新聞8月4日)核兵器は、勝った側にも、負けたに側も、同様の苦難を担わせたのです。
★「ヒロシマの声」は正にそのことを訴え続けて来たのでした。その声を代表した言論は紛れなく「中国新聞」です。私は、60年という節目に立って、中国新聞が粘り強く「ヒロシマの声」を掘り起こしてきた深い意味を再確認しています。
★特に思い起こすのは、ボーン・上田記念国際記者賞を授賞した中国新聞特別編集委員・田城明記者の「知られざるヒバクシャ―劣化ウラン弾の実態」という優れた報道です。最初、報道されてから早数年を経ましたが、被爆60年の今日的意味をこれほど明確に知らしてめくれた記事は他にないでしょう。この記事は、全文、忠実に英訳され、インターネットにも公開されており、全世界に読者を持っています。
★被爆は戦場だけではありません。平和部隊、NGO活動、原子力平和利用・・・・など、その危険は今やあらゆる生活場面に広がっています。ヒバクシャ問題は60年前の広島・長崎の被災者に止まらない、人類普遍に危機に直面した姿なのです。核の時代に生きる”戦争を知らない”若い友人たちに特に読んで貰いたい、と願います。
【注】なお、被爆当時の写真アルバムの続きは次をクリックしてください。
【ヒロシマの記録・被爆3日後】
【ヒロシマの記録・からだも未来も焼かれて】
★「ヒロシマ・ナガサキ」は何であったのか? 毎年、この日が近づくと、新聞・テレビは一斉に特集を組み、今、生きてある者への教訓を呼び覚まします。息長く60年間、続いてきたその報道活動の中でもNHK広島放送局と中国新聞の取り組みは秀逸です。
★先ほどから、私は中国新聞の記事「ヒロシマの記録-原爆被災写真」に見入っています。被災直後の様子を広島市内だけでなく、古市、呉、西条など近郊9地点から撮影した生々しい当時の写真を発掘して掲載しているのですが、
★その中の一枚、西条療養所のため池から遠望したキノコ雲は、当時、その直ぐ近くに住んでいた15歳の私が、見たそのままの光景です。「ガスタンクが爆発したんジャロ」 これを目撃したすべての人がそう思いました。
★写真のキャプションはこう説明しています。「鴉田藤太郎さん(78年、60歳で死去)が勤めていた傷痍(しょうい)軍人西条結核療養所(東広島市)で撮影。爆心地から北東約25キロ。鴉田さんは警防団のトラックで午後2時ごろ救援に向かい、焼失を免れた広島東警察署(中区銀山町)で収容者の名前を書き取った」と。
★傷を負った人が何人か、徒歩で逃げ戻って来たのは深夜でした。やがて私たち動員学徒も救援に駆り出され、手足、顔が焼きただれてしゃがみ込んで動けない人々を担架で運びました。その傷の異常さで”新型爆弾”の凄まじさを知りました。「マチがノウナッタ!」 呆然とした表情で絞り出すように語った中年男性の言葉が未だに耳に残っています。でも・・聞く者、誰もが”動転したんジャロ」と慰めていました。
★ヒロシマとは何か? パンドラの箱を開き飛び出した”巨悪の鬼子”の制御術を知らない私たちは、何度も、何度も原爆被災の原点に立ち戻り、止めどない核兵器の新開発と拡散の危機を感じ取っています。
★あの悲劇の教訓は何か? 60年を経た今、全世界が放射能兵器による被爆に怯えています。とりわけ、これまでヒロシマを口にすることに拒否反応を示してきたアメリカ人も、やっと、「ヒロシマの声」の真意を理解し始めたようです。
★湾岸戦争に参加した米、英、カナダ、フランス、旧チェコスロバキアなどの退役軍人と、彼らが戦った戦場のイラク、クウェートの住民、そ れに米軍の空爆を受けたボスニアやコソボの住民、平和部隊としてそこに駐留した兵士たち・・立ち入った目的は様々ですが、一様に「湾岸戦争症候群」「バルカ ン症候群」と呼ばれる深刻な症状が起きている事実にやっと目覚めたのです。
★原爆投下後の広島・長崎に派遣された退役被爆軍人を先頭にその後、湾岸戦争に至るまで核兵器を使用した戦争に関与した退役軍人は40万人、その中に多くの被爆犠牲者が出ている事実を「全米被爆退役軍人会」(NAAV)が告発し始めたと言います。(毎日新聞8月4日)核兵器は、勝った側にも、負けたに側も、同様の苦難を担わせたのです。
★「ヒロシマの声」は正にそのことを訴え続けて来たのでした。その声を代表した言論は紛れなく「中国新聞」です。私は、60年という節目に立って、中国新聞が粘り強く「ヒロシマの声」を掘り起こしてきた深い意味を再確認しています。
★特に思い起こすのは、ボーン・上田記念国際記者賞を授賞した中国新聞特別編集委員・田城明記者の「知られざるヒバクシャ―劣化ウラン弾の実態」という優れた報道です。最初、報道されてから早数年を経ましたが、被爆60年の今日的意味をこれほど明確に知らしてめくれた記事は他にないでしょう。この記事は、全文、忠実に英訳され、インターネットにも公開されており、全世界に読者を持っています。
★被爆は戦場だけではありません。平和部隊、NGO活動、原子力平和利用・・・・など、その危険は今やあらゆる生活場面に広がっています。ヒバクシャ問題は60年前の広島・長崎の被災者に止まらない、人類普遍に危機に直面した姿なのです。核の時代に生きる”戦争を知らない”若い友人たちに特に読んで貰いたい、と願います。
【注】なお、被爆当時の写真アルバムの続きは次をクリックしてください。
【ヒロシマの記録・被爆3日後】
【ヒロシマの記録・からだも未来も焼かれて】
by zenmz
| 2005-08-05 11:34