2005年 11月 18日
【5198】 Ⅱ 偉大な大将軍・鄭和 |
★ 調べれば調べるほど自分の無知に気づかされます。コロンブスより100年も前に世界を一周した、と言われる中国・明代の大将軍、鄭和のこと。如何に歴史に疎かった、と言っても、これほどの偉人をここまで徹底的に知らなかったとは! 自分が受けた教育のセイか、学ぶ心が乏しかったセイか? この所、自問自答、愕然としています。
★ 旅に先立ち、乏しい資料をかき集めて分かったことを整理しておきましょう。
鄭和は、1371年に雲南でイスラム教徒の子として生まれましたが、この地方は元の支配下にあり、12歳の時、討伐にあって捕虜となり、去勢されて宦官として朱棣(のちの永楽帝)に献上されました。後に朱棣が帝位を奪取し、永楽帝を宣言した折り、その勲功により鄭の姓を下賜され、宦官の最高職である太監に叙せられた、そうです。
★ 永楽帝は、版図を遠く海外に広げ、蛮族を帰順させて朝貢外交を企図します。大軍団を大小諸国に送り、貢ぎ物を差し出させて、見返りとしてその国々を守るという外交政策です。そのため大船舶を建造し、それを編成して未開の地に繰り出し、諸国に朝貢するよう勧奨する使節に鄭和を起用しました。
★ 第1次航海は、1405年6月に蘇州を出航。
この時の船は長さ173m、幅56mという巨艦。船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りと記録されています。 現在の500t級に相当すると計算されているこの船団が如何に奇想天外な規模であったことか?
★ それは、それから100年後の【ヴァスコ・ダ・ガマ船団が、120トン級3隻、総乗組員170名】 【コロンブスの船団が、250トン級3隻、総乗組員は88名】と比較するだけで一目瞭然です。
★ 船団はチャンパー→スマトラ→パレンパン→マラッカ→セイロンと言う航路をたどり、1407年初めにカリカットへと到達しています。途中の国々に対して明へ朝貢を求めると同時に南方異国の様々な産物を持ち帰りました。
★ マラッカ海峡では海賊を行っていた陳祖義という華人を捕らえて帰りました。鄭和の大航海は大成功をおさめました。明と交流が無かった東南アジアの諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになったのです。琉球王国も、
★ 1407年末、第2次航海へと出発。 今度は、タイ・ジャワを経由してカリカットへ。帰路の途中でセイロン島に。1409年の夏に帰って来た鄭和は再び再出発を命じられて年末に出発した。第3次もほぼ同じ航路でカリカットに到達したが、帰路、セイロンの王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので反撃、セイロン王とその家族を捕虜にして連れ帰り、1411年7月に帰国。
★ 第4次から第7次までの航海は、1413年冬から1433年7月まで20年をかけて行われたいます。第4次ではアラビア半島まで赴き、帰路の途中、スマトラで現地の王の要請で兵を使って反逆者を成敗。第5次はアフリカ東岸にまで至りライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れ帰りました。第6次は各国朝貢使節を送り届ける純粋な友好・平和外交。最後の第7次はメッカに至ったそうです。1433年夏、 帰国後にほどなく、病死。
★ この大航海の記録は第4次航海と第7次航海に同行した馬歓が記録した『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』や費信『星槎勝覧』・鞏珍『西洋番国志』などによって現在に残され、この時代の東南アジアの非常に貴重な資料とされています。
★ 現代中国は、鄭和の歴史的評価にとりわけ熱心なようです。鄭和の7回に及ぶ大航海のことを、中国語では「鄭和七下西洋」というそうですが、その現代的意味を【21世紀中国総研】は次のように評価しています。「鄭和600周年の現実的意味」
★ 英米人の鄭和船団へに関心度は日本より高いようです。コロンブスより71年も前にアメリカ新大陸に到達し、マゼラン海峡をマゼランよりも98年前に通航した、という”実証的研究”を打ち出した英海軍退役将校ガヴィン・メンジス氏の著書「1421年--中国が世界を発見した年」("1421: The Year China Discovered The World" by Gavin Menzies)が好評で、世界各地で、これをテーマにした国際シンポジウムが開かれています。
★ 琉球・明・環シナ海地域間の関係史は当然、日本にも影響を及ぼしたはずです。明治時代、特に日清戦争当時から日本の学会でも注目されるようになり、東京大学の山本達郎教授が1934年に「鄭和の西征上・下」という論文で、初めて鄭和の人と業績を我が国に紹介されています。
★ 山本達郎先生、懐かしい名前に接しました。年号「平成」の生みの親です。その山本先生が70年前、若き日に、既に鄭和を日本に紹介しておられたのです。私が生まれた頃なのに・・・何故、日本人の多くが知らないのでしょう。コロンブスは誰でも知っているのに??? 変ですね。軍国主義時代の”シナ蔑視”の表れだったのでしょうかね? 分かりません。
【5206】 Ⅲ 鄭和を想う・・世界一の巨大木造船「宝船」に続く
★ 旅に先立ち、乏しい資料をかき集めて分かったことを整理しておきましょう。
鄭和は、1371年に雲南でイスラム教徒の子として生まれましたが、この地方は元の支配下にあり、12歳の時、討伐にあって捕虜となり、去勢されて宦官として朱棣(のちの永楽帝)に献上されました。後に朱棣が帝位を奪取し、永楽帝を宣言した折り、その勲功により鄭の姓を下賜され、宦官の最高職である太監に叙せられた、そうです。
★ 永楽帝は、版図を遠く海外に広げ、蛮族を帰順させて朝貢外交を企図します。大軍団を大小諸国に送り、貢ぎ物を差し出させて、見返りとしてその国々を守るという外交政策です。そのため大船舶を建造し、それを編成して未開の地に繰り出し、諸国に朝貢するよう勧奨する使節に鄭和を起用しました。
★ 第1次航海は、1405年6月に蘇州を出航。
この時の船は長さ173m、幅56mという巨艦。船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りと記録されています。 現在の500t級に相当すると計算されているこの船団が如何に奇想天外な規模であったことか?
★ それは、それから100年後の【ヴァスコ・ダ・ガマ船団が、120トン級3隻、総乗組員170名】 【コロンブスの船団が、250トン級3隻、総乗組員は88名】と比較するだけで一目瞭然です。
★ 船団はチャンパー→スマトラ→パレンパン→マラッカ→セイロンと言う航路をたどり、1407年初めにカリカットへと到達しています。途中の国々に対して明へ朝貢を求めると同時に南方異国の様々な産物を持ち帰りました。
★ マラッカ海峡では海賊を行っていた陳祖義という華人を捕らえて帰りました。鄭和の大航海は大成功をおさめました。明と交流が無かった東南アジアの諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになったのです。琉球王国も、
★ 1407年末、第2次航海へと出発。 今度は、タイ・ジャワを経由してカリカットへ。帰路の途中でセイロン島に。1409年の夏に帰って来た鄭和は再び再出発を命じられて年末に出発した。第3次もほぼ同じ航路でカリカットに到達したが、帰路、セイロンの王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので反撃、セイロン王とその家族を捕虜にして連れ帰り、1411年7月に帰国。
★ 第4次から第7次までの航海は、1413年冬から1433年7月まで20年をかけて行われたいます。第4次ではアラビア半島まで赴き、帰路の途中、スマトラで現地の王の要請で兵を使って反逆者を成敗。第5次はアフリカ東岸にまで至りライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れ帰りました。第6次は各国朝貢使節を送り届ける純粋な友好・平和外交。最後の第7次はメッカに至ったそうです。1433年夏、 帰国後にほどなく、病死。
★ この大航海の記録は第4次航海と第7次航海に同行した馬歓が記録した『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』や費信『星槎勝覧』・鞏珍『西洋番国志』などによって現在に残され、この時代の東南アジアの非常に貴重な資料とされています。
★ 現代中国は、鄭和の歴史的評価にとりわけ熱心なようです。鄭和の7回に及ぶ大航海のことを、中国語では「鄭和七下西洋」というそうですが、その現代的意味を【21世紀中国総研】は次のように評価しています。「鄭和600周年の現実的意味」
★ 英米人の鄭和船団へに関心度は日本より高いようです。コロンブスより71年も前にアメリカ新大陸に到達し、マゼラン海峡をマゼランよりも98年前に通航した、という”実証的研究”を打ち出した英海軍退役将校ガヴィン・メンジス氏の著書「1421年--中国が世界を発見した年」("1421: The Year China Discovered The World" by Gavin Menzies)が好評で、世界各地で、これをテーマにした国際シンポジウムが開かれています。
★ 琉球・明・環シナ海地域間の関係史は当然、日本にも影響を及ぼしたはずです。明治時代、特に日清戦争当時から日本の学会でも注目されるようになり、東京大学の山本達郎教授が1934年に「鄭和の西征上・下」という論文で、初めて鄭和の人と業績を我が国に紹介されています。
★ 山本達郎先生、懐かしい名前に接しました。年号「平成」の生みの親です。その山本先生が70年前、若き日に、既に鄭和を日本に紹介しておられたのです。私が生まれた頃なのに・・・何故、日本人の多くが知らないのでしょう。コロンブスは誰でも知っているのに??? 変ですね。軍国主義時代の”シナ蔑視”の表れだったのでしょうかね? 分かりません。
【5206】 Ⅲ 鄭和を想う・・世界一の巨大木造船「宝船」に続く
by zenmz
| 2005-11-18 21:57
| マラッカと鄭和