2006年 01月 13日
【6013】 過ぎ来し75年 ”ショウトクタイシ”を偲ぶ |
★ もう聖徳太子とは滅多にお目にかかれなくなりました。オカネの話です。大学を終えて新米記者になった頃、月給袋に入っていた1万円札。それが聖徳太子でした。以来、「ショウトクタイシ」は高額紙幣の代名詞として使っていたものです。例えば、ボーナス。「ショウトクタイシ、何枚だった?」
★ 調べてみますと、1万円に聖徳太子像が登場したのは1958年、昭和33年のことでした。公務員の月給は未だ1万円に達していませんでした。それだけに月給やボーナスを貰うたびに、このお顔を拝顔する気持ちは特別でした。やがて高度経済成長で、月給毎にお目にかかれるようになり、それに比例して有り難みが薄れたように思います。
★ 聖徳太子のお姿が日本の紙幣から消えることが決まったのは一昨年のこと。福沢諭吉と入れ替わり、聖徳太子肖像の1万円札は古いお札が流通する間は有効、とされたものの、新札は印刷されないことに決まりました。古札はどんどん回収され、福沢1万円しかお目にかかれなくなりました。
★ 日銀のホームページで「聖徳太子のお札」の歴史をチェックしていたら、面白い記述がありました。「昭和33年(1958年)に、聖徳太子肖像の1万円札が登場、それから約5年間は、10.000円、5.000円、1.000円の3種類のお札で、すべて聖徳太子の肖像が使われてた」と言うのです。
★ 若い頃、私たちが、飲み屋で「ショウトクタイシの持ち合わせがない」などと戯れ言を並べ立てていたことを思い出します。私の個人的な想いでの中のショウトクタイシは高額紙幣だったのですが、一般に使われていたのはオカネそのものの代名詞だったのですね。懐かしい聖徳太子像
★ もう一つ、意外な事実。 聖徳太子の肖像が紙幣に初デビューしたのは、1930年(昭和5年)発行の乙100円券だったそうです。庶民の月給が2,30円時代の話。この時も高額紙幣だったのですね。昭和5年は私が生まれた年。聖徳太子肖像紙幣は75年前、私と同じ年に誕生したのでした。
★ その後は、昭和19年発行の「い100円券」 昭和20年発行「ろ100円券」、昭和21年発行の「A100円券」、昭和25年発行の「B1000円券」、昭和32年発行の「C5000円券」、と続き、昭和33年の「C1万円券」となるわけです。
★ 昭和25年発行の「B1000円券」には今も鮮明な想い出があります。発行されたばかりの新札1000円で同志社大学の受験料を支払ったのです。因みに合格して払った入学金・授業料は合計1万5千円でした。55年前、1950年の話です。
★ 全部で7券種、お札への登場回数で言えば、「聖徳太子は最多記録保持者」だそうです。因みに、これに次ぐのは、戦前の和気清麻呂、菅原道真の6回。戦後は聖徳太子が続いて「お札の顔」として国民の間に定着しました。
★ 「オカネ」と言えば、「ショウトクタイシ」 日本の紙幣の象徴とも言うべき聖徳太子が何故、姿を消したのか? その最大の原因は偽金作り対策だとか・・・。永く使われ、広汎に流通した高額紙幣が贋造犯に狙われる、と、言われてみれば、その通りでしょうね。
★ 私たちに最も親しい「ショウトクタイシ」が流通した75年間、満州事変に始まり、日中戦争が勃発するや太平洋戦争に拡大。大東亜共栄圏確立の夢破れて軍閥解体。一億総懺悔の後、民主主義国家再建への道を選んで半世紀・・・そして世界に冠たる経済大国ニッポンの誕生。
★ その誕生から今日まで、思えば、私自身、「ショウトクタイシ」に育まれて育ちました。我が一代75年は「ショウトクタイシ」に支えられてあった人生であることを思います。お金に一つの感慨を込めた一日でした。
★ 調べてみますと、1万円に聖徳太子像が登場したのは1958年、昭和33年のことでした。公務員の月給は未だ1万円に達していませんでした。それだけに月給やボーナスを貰うたびに、このお顔を拝顔する気持ちは特別でした。やがて高度経済成長で、月給毎にお目にかかれるようになり、それに比例して有り難みが薄れたように思います。
★ 聖徳太子のお姿が日本の紙幣から消えることが決まったのは一昨年のこと。福沢諭吉と入れ替わり、聖徳太子肖像の1万円札は古いお札が流通する間は有効、とされたものの、新札は印刷されないことに決まりました。古札はどんどん回収され、福沢1万円しかお目にかかれなくなりました。
★ 日銀のホームページで「聖徳太子のお札」の歴史をチェックしていたら、面白い記述がありました。「昭和33年(1958年)に、聖徳太子肖像の1万円札が登場、それから約5年間は、10.000円、5.000円、1.000円の3種類のお札で、すべて聖徳太子の肖像が使われてた」と言うのです。
★ 若い頃、私たちが、飲み屋で「ショウトクタイシの持ち合わせがない」などと戯れ言を並べ立てていたことを思い出します。私の個人的な想いでの中のショウトクタイシは高額紙幣だったのですが、一般に使われていたのはオカネそのものの代名詞だったのですね。懐かしい聖徳太子像
★ もう一つ、意外な事実。 聖徳太子の肖像が紙幣に初デビューしたのは、1930年(昭和5年)発行の乙100円券だったそうです。庶民の月給が2,30円時代の話。この時も高額紙幣だったのですね。昭和5年は私が生まれた年。聖徳太子肖像紙幣は75年前、私と同じ年に誕生したのでした。
★ その後は、昭和19年発行の「い100円券」 昭和20年発行「ろ100円券」、昭和21年発行の「A100円券」、昭和25年発行の「B1000円券」、昭和32年発行の「C5000円券」、と続き、昭和33年の「C1万円券」となるわけです。
★ 昭和25年発行の「B1000円券」には今も鮮明な想い出があります。発行されたばかりの新札1000円で同志社大学の受験料を支払ったのです。因みに合格して払った入学金・授業料は合計1万5千円でした。55年前、1950年の話です。
★ 全部で7券種、お札への登場回数で言えば、「聖徳太子は最多記録保持者」だそうです。因みに、これに次ぐのは、戦前の和気清麻呂、菅原道真の6回。戦後は聖徳太子が続いて「お札の顔」として国民の間に定着しました。
★ 「オカネ」と言えば、「ショウトクタイシ」 日本の紙幣の象徴とも言うべき聖徳太子が何故、姿を消したのか? その最大の原因は偽金作り対策だとか・・・。永く使われ、広汎に流通した高額紙幣が贋造犯に狙われる、と、言われてみれば、その通りでしょうね。
★ 私たちに最も親しい「ショウトクタイシ」が流通した75年間、満州事変に始まり、日中戦争が勃発するや太平洋戦争に拡大。大東亜共栄圏確立の夢破れて軍閥解体。一億総懺悔の後、民主主義国家再建への道を選んで半世紀・・・そして世界に冠たる経済大国ニッポンの誕生。
★ その誕生から今日まで、思えば、私自身、「ショウトクタイシ」に育まれて育ちました。我が一代75年は「ショウトクタイシ」に支えられてあった人生であることを思います。お金に一つの感慨を込めた一日でした。
by zenmz
| 2006-01-13 11:32