2006年 02月 04日
【6038】 取材余話(1) 夢幻のマラッカ海峡 |
★ ここに来てから、毎朝午前7時に目が覚めます。カーテンを開き、ベランダへ出るとちょうど日の出。眼前左右に180度、大きく開けた眺望はマラッカ海峡です。遠くに巨大タンカーが往き来し始めているのが確認できます。それを超えた地平線の先はインドネシアのスマトラ島。未だに海賊の巣と言われるアチェは、その島を回り込んでインド洋側に出た島の北端一帯にあります。
★ 今、私が立っているマレ-半島南端は、インド洋と太平洋の二つの大洋を分けているユ-ラシア大陸の先端でもあります。眼前、東西いっぱいに広がる狭い水路は、厳しい自然に阻まれて陸路が発達しなかった時代、古くから両大洋を結ぶ世界海上交通の要(かなめ)をなし、沿岸諸国の人々の交流の主幹交通路であった事実を実感させます。
★ わずか数百年の昔に想いをいたせば、眼前の家並み、道路は勿論、自動車、橋梁、あらゆる人工建造物は皆無。この騒音も全くなかったはずです。ただ海辺にはみ出すように残されている熱帯雨林が、一帯を覆い、海辺の所々に自然が作った入り江で、ごく限られた数の、後にマレー人と称せられる人々が魚を捕獲して生きていた、漁村でした。
★ 今でこそマラッカは、『世界の十字路』とも言われる名声を人類歴史の中に刻んでいますが、それは、かなり新しい時代になって開発された結果のこと。予想に反してマラッカ発見の歴史は、わずか600年前という新しい出来事でした。日本の足利将軍時代。琉球王国が健在で、大海賊「倭寇」が東シナ海を支配していました。
★ しばし、海の彼方の地平線に目を留めていると、これまで学んだ、 いくつかの言い伝えを思い起こします。
このマラッカ海峡は古くからインド、中国と香料生産諸地域を結ぶ商人の海上交易が盛んでしたが、その取り仕切りは、7世紀頃から対岸のスマトラ島のパレンバンに本拠を持つ「スリウィジャヤ王国」が何世紀も絶大な勢力を保持して覇権を広げていた、と言います。
★ パレンバン・・・懐かしい名前です。今から60数年も前、太平洋戦争の緒戦で日本軍はここに落下傘部隊を降下する奇襲作戦でたちまちオランダ軍を制圧しました。パレンバンはスマトラ島の東端に位置します。スリウィジャヤの支配は700年もの長きにわたって、ここを本拠に遠くマレー半島を覆う勢力を維持しました。昔から戦略的・地政的要衝だったのですね。
★ 一大変化が起こったのは、1380年。この王国がジャワの「マジャパイト王国」に攻め入った際、王子の一人がマレ-半島に亡命したことに始まります。その人の名は、パラメシュヴァラ 「スリウィジャヤ王国」の血をひく好戦の王子でした。
★ 当初は、内陸、マラッカ川の上流のブレタンにいたのですが、後に現在のマラッカの地に移り、河口の丘に王宮を構えて、1403年に「マラッカ王国」(Melaka Sultanate)建国を宣言しました。何故、マラッカに新王国を? それには、神話に近い言い伝えがあります。「窮鼠(きゅうそ)猫をかむ」という喩えがありますが、そっくりそのままの物語です。
★ 「マラッカ王国」の歴史を紹介した本には必ず冒頭に出てくるエピソードです。マラッカの歴史については、この地に根を下ろして7年。日本人向けのホームページで極めて良質の最新現地情報を発信しておられるトニーさんが楽しい筆致で紹介しておられるので、こちらをご覧ください。マラッカの名前の由来も出ています。
★ この街にくると、「マラッカを知らずしてマレーシアを語るな」と言う観光スローガンをよく目にします。この自負・・・マラッカは、現在の立憲君主国・マレ-シアの歴史の原点でもあるのですね。マレ-シアの君主がイスラムのサルタンである。その権威の根拠も「マラッカ王国」に由来しているのです。
★ しかし、独立宣言したものの「マラッカ王国」は、弱小の「漁港国家」でした。その弱小国家が折りもおり、中国で興った明朝への入貢を決意し、パラメシュヴァラ王は永楽帝から『満刺加国王』に封じられる、という画期的な出来事が起こりました。
★ 歴史の偶然は、新時代を開きました。マラッカ王国建国と時を同じくして中国を統一した明の永楽帝は、版図を新世界に広げるため、鄭和将軍に大艦隊を組織させ、インド洋沿岸からアフリカに向けての西洋沿岸諸勢力に新帝国・明朝への入貢を促す大遠征を命じたのです。15世紀初頭、この地域に歴史の大きな胎動が始まりました。
★ 大航海時代の幕開けです。1405年にマラッカを訪れた鄭和大艦隊は、マラッカに基地を置き、以後、1405年から33年にかけてインド、アフリカへの7回にわたる大航海を行い、次々と新世界を拓いていきました。マレー人と中国人の密接な結びつきは、ここに始まります。コロンブスがアメリカを発見した偉業より1世紀も前の出来事でした。
★ パラメシュヴァラ王にとって永楽帝から『満刺加国王』に封じられたことは、外交上大きな政治的安定を保証することになりました。当時、マレー半島は北から宗主権を及ぼしていたシャムがマラッカ支配を試み、それが新興国家の脅威となっていました。しかし、中国への朝貢国として対等な地位を獲得することによって、その脅威は失せました。
★ 更にパラメシュヴァラ王の賢明な選択は、イスラム教に改宗したことでした。直接的な動機は西からのイスラム教商人を呼び寄せる実利的・現実的政策でしたが、そのことがマラッカ王国、ひいてはその後のマレーシアの国としての独自性を明確にしました。マレー半島の地政的位置を考えると、当時としては非常に賢明な選択だったのではないでしょうか。私は、そのように積極評価をしています。
★ マラッカ海峡を眺めていると、走馬燈のように駆けめぐる多くの歴史物語が夢を掻き立てます。少し、落ち着いたら、多分、来週辺りから、そろそろ「鄭和博物館」に日参して、本来の研究テーマである鄭和大艦隊の偉業と足跡を、発掘された関連博物で確かめる勉強をしてみたいと思います。
また、このような取材余話を時折、挟みながら、マラッカ滞在日記を豊かにしたい、と思います。
★ わずか数百年の昔に想いをいたせば、眼前の家並み、道路は勿論、自動車、橋梁、あらゆる人工建造物は皆無。この騒音も全くなかったはずです。ただ海辺にはみ出すように残されている熱帯雨林が、一帯を覆い、海辺の所々に自然が作った入り江で、ごく限られた数の、後にマレー人と称せられる人々が魚を捕獲して生きていた、漁村でした。
★ 今でこそマラッカは、『世界の十字路』とも言われる名声を人類歴史の中に刻んでいますが、それは、かなり新しい時代になって開発された結果のこと。予想に反してマラッカ発見の歴史は、わずか600年前という新しい出来事でした。日本の足利将軍時代。琉球王国が健在で、大海賊「倭寇」が東シナ海を支配していました。
★ しばし、海の彼方の地平線に目を留めていると、これまで学んだ、 いくつかの言い伝えを思い起こします。
このマラッカ海峡は古くからインド、中国と香料生産諸地域を結ぶ商人の海上交易が盛んでしたが、その取り仕切りは、7世紀頃から対岸のスマトラ島のパレンバンに本拠を持つ「スリウィジャヤ王国」が何世紀も絶大な勢力を保持して覇権を広げていた、と言います。
★ パレンバン・・・懐かしい名前です。今から60数年も前、太平洋戦争の緒戦で日本軍はここに落下傘部隊を降下する奇襲作戦でたちまちオランダ軍を制圧しました。パレンバンはスマトラ島の東端に位置します。スリウィジャヤの支配は700年もの長きにわたって、ここを本拠に遠くマレー半島を覆う勢力を維持しました。昔から戦略的・地政的要衝だったのですね。
★ 一大変化が起こったのは、1380年。この王国がジャワの「マジャパイト王国」に攻め入った際、王子の一人がマレ-半島に亡命したことに始まります。その人の名は、パラメシュヴァラ 「スリウィジャヤ王国」の血をひく好戦の王子でした。
★ 当初は、内陸、マラッカ川の上流のブレタンにいたのですが、後に現在のマラッカの地に移り、河口の丘に王宮を構えて、1403年に「マラッカ王国」(Melaka Sultanate)建国を宣言しました。何故、マラッカに新王国を? それには、神話に近い言い伝えがあります。「窮鼠(きゅうそ)猫をかむ」という喩えがありますが、そっくりそのままの物語です。
★ 「マラッカ王国」の歴史を紹介した本には必ず冒頭に出てくるエピソードです。マラッカの歴史については、この地に根を下ろして7年。日本人向けのホームページで極めて良質の最新現地情報を発信しておられるトニーさんが楽しい筆致で紹介しておられるので、こちらをご覧ください。マラッカの名前の由来も出ています。
★ この街にくると、「マラッカを知らずしてマレーシアを語るな」と言う観光スローガンをよく目にします。この自負・・・マラッカは、現在の立憲君主国・マレ-シアの歴史の原点でもあるのですね。マレ-シアの君主がイスラムのサルタンである。その権威の根拠も「マラッカ王国」に由来しているのです。
★ しかし、独立宣言したものの「マラッカ王国」は、弱小の「漁港国家」でした。その弱小国家が折りもおり、中国で興った明朝への入貢を決意し、パラメシュヴァラ王は永楽帝から『満刺加国王』に封じられる、という画期的な出来事が起こりました。
★ 歴史の偶然は、新時代を開きました。マラッカ王国建国と時を同じくして中国を統一した明の永楽帝は、版図を新世界に広げるため、鄭和将軍に大艦隊を組織させ、インド洋沿岸からアフリカに向けての西洋沿岸諸勢力に新帝国・明朝への入貢を促す大遠征を命じたのです。15世紀初頭、この地域に歴史の大きな胎動が始まりました。
★ 大航海時代の幕開けです。1405年にマラッカを訪れた鄭和大艦隊は、マラッカに基地を置き、以後、1405年から33年にかけてインド、アフリカへの7回にわたる大航海を行い、次々と新世界を拓いていきました。マレー人と中国人の密接な結びつきは、ここに始まります。コロンブスがアメリカを発見した偉業より1世紀も前の出来事でした。
★ パラメシュヴァラ王にとって永楽帝から『満刺加国王』に封じられたことは、外交上大きな政治的安定を保証することになりました。当時、マレー半島は北から宗主権を及ぼしていたシャムがマラッカ支配を試み、それが新興国家の脅威となっていました。しかし、中国への朝貢国として対等な地位を獲得することによって、その脅威は失せました。
★ 更にパラメシュヴァラ王の賢明な選択は、イスラム教に改宗したことでした。直接的な動機は西からのイスラム教商人を呼び寄せる実利的・現実的政策でしたが、そのことがマラッカ王国、ひいてはその後のマレーシアの国としての独自性を明確にしました。マレー半島の地政的位置を考えると、当時としては非常に賢明な選択だったのではないでしょうか。私は、そのように積極評価をしています。
★ マラッカ海峡を眺めていると、走馬燈のように駆けめぐる多くの歴史物語が夢を掻き立てます。少し、落ち着いたら、多分、来週辺りから、そろそろ「鄭和博物館」に日参して、本来の研究テーマである鄭和大艦隊の偉業と足跡を、発掘された関連博物で確かめる勉強をしてみたいと思います。
また、このような取材余話を時折、挟みながら、マラッカ滞在日記を豊かにしたい、と思います。
by zenmz
| 2006-02-04 15:24
| マレーシア慕情