2006年 02月 15日
【6050】 Ⅵ 鄭和と共に、栄え、消滅したマラッカ王国 |
★ 毎日、毎日、そして日に何度も、ベランダに出て眺めるマラッカ海峡・・・その度にこの地の地政的重要性を想います。私が立っているこの地は、ユーラシア大陸が赤道真下にせり出し、大海原を太平洋とインド洋に分けています。それがマレ-半島。そして二つの大洋を結ぶ狭い海峡は、古今東西、人々が往来せざるを得ない海上交通の関所だったのです。しかも貿易風が季節ごとに方向を変えて正確に大船団を運びます。
★ この地には古来、マレ-人が住み、”マラッカ”と言う地名も、「マレ-化された」という含意を持っているそうです。『鄭和博物館』には中国の陶磁器やペルシアのガラス、さらにはおびただしい通貨が陳列されていて両大洋沿岸諸国間との貿易中継点であったことを証明しています。
★ 東南アジアと西洋。中国人は古くからマレー半島の西を「西洋」と呼び、その地に異なる文化・文明の存在することを知っていました。機が熟して、その地を拓く大事業に乗り出したのが明朝の永楽帝だったのです。大任を委ねられたのがイラン人を祖先に持つイスラム教徒の鄭和。600年前、折りもおり、このマラッカに一大歴史事件が起こったのです。マレー人の国「マラッカ王国」の成立です。
★ 日本で大和朝廷が成立した7世紀頃から、東南アジア全域は、スマトラ島のパレンバンに本拠を置いたスリウィジャヤ王国が支配していました。14世紀末にジャワのマジャパイト王国に攻め入った際に王子の一人パラメシュヴァラが反逆し、1403年にマラッカに独立王国を建国、マラッカ川河口の丘に王宮を構えました。「マラッカ王国」の成立です。
★ しかし「漁港国家」とあだ名されたように新興国「マラッカ王国」は北の強国「シャム」が宗主権を主張し、政治基盤は極めて脆弱でした。そこへ、中国に誕生した明朝・永楽帝が中国への入貢を勧める使節を派遣してきたのです。パラメシュヴァラ新王はこの機会を逃さず中国への朝貢を行い、永楽帝から『満刺加国王』に封じられました。シャムは激しく抵抗しましたが、後には不承不承「中国朝貢国」になり、マラッカはシャムと対等の政治勢力の地位を確立しました。
★ 英明なパラメシュヴァラ王は、更にマラッカ王国建国の礎は東西交易にあることを見抜いていました。その頃から活発な活動を始めていたイスラム教商人を呼び寄せるため、自らイスラム教に改宗、「マラッカ王国」の国教としました。その伝統は、現在のマレーシアに引き継がれて国王はサルタンが交代で務めています。
★ 私の鄭和研究も、いよいよ舞台をマラッカに移します。人が動き、物が集まる。マラッカ王国は鄭和大船団の往来と共に急速に繁栄しました。季節風を利用して大洋を渡る。28年間、二つの大洋の沿岸諸国の航路を拓いた鄭和大船団は、先ずマラッカに大規模な貿易中継施設を建設しました。当時の帆船は季節風を待って航海せざるを得ませんでした。鄭和船団は時には数ケ月もマラッカに滞在せざるを得なかったのです。2万5千人以上が滞在する一大港湾都市が出現したのです。
★ マラッカは物産の集荷センタ-にとどまりませんでした。鄭和が拓いた航路に世界各地の商人が集まマラッカは巨大な情報集積センターとして繁栄したのです。「港湾都市国家マラッカ」は中国、インド、ペルシア、アラビアと世界各地からの商人を集めて巨大な財政を手にしたのです。
★ 繁栄の中心はマラッカ川がマラッカ海峡に注ぐ河口付近の北西部一帯。現在は「チャイナ・タウン」と呼ばれる巨大なビジネス・センターが広がっている地域です。ここに600年前、鄭和大艦隊の基地・「官廠」(Guanchang)が置かれていました。それは、厳重な柵で仕切られた広大な地域であり、明朝公式の商務館があり、おびただしい数の倉庫群が配置され、また2万5千人を超える乗組員の滞在・居留地でありました。
★ 昨年秋、完成した『鄭和博物館』は、その「官廠」遺跡に部分的に残されていた建物を復元して作られました。そしてそこに蒐集された鄭和ゆかりの博物は往時の繁栄の一端を訪れる人々に語りかけています。通商がもたらしたマラッカ王国の繁栄ぶりもまた、現在、私たちは「マラッカ・スルタン・パレス」で見ることができます。こちらもまた古文書に従い忠実に復元された巨大な宮殿です。中には文化博物館があり、当時のマレー人の生活と文化を紹介していますが、その豪華絢爛さには圧倒されます。
★ マラッカ王国は15世紀前半に鄭和と緊密な友好関係を樹立し、中国・明朝の庇護の下で繁栄しました。しかしポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが1479年、インドのゴアに基地を設営し、マラッカへの侵攻を開始しました。ポルトガルは1510年に開国を迫る船隊をマラッカに送りましたが、キリスト教をきらったマラツカ宮廷によって使節が虐殺される事件が発生。激怒したインドの副王アルブケルケは18隻の船隊に1400人の兵を乗せてゴアを出発した。結局、2ケ月の戦いでマラッカは陥落、以降、マラッカは大航海時代の到来と共に台頭した帝国主義の植民地になります。「マラッカ王国」は、翌年1511年に消滅しました。
★ 想えば、「マラッカ王国」繁栄の100年は、鄭和あってこその100年でした。鄭和が死に、中国・明朝が入貢外交を廃止するや共に衰亡しましした。そしてマレーは450年に及ぶ植民地の屈辱を耐えました。その地政的位置の宿命がもたらした悲劇です。しかし、どの時代にあっても鄭和の子孫たちはこの地に根付いて商業を動かし、揺るぎない経済的基盤を確立して現在に至っています。マラッカ市街東北部に広がる巨大な墓地「ブキ・チナ」には鄭和の時代からの多くの中国人先覚者が眠っています。
★ 再び、私は『鄭和博物館』に戻り、マラッカ繁栄の基盤をなした「官廠」遺跡に立って、改めて、その目で、ここに蒐集されている展示物を吟味しながら鄭和の偉業を確かめたいと思います。貿易物の集散中継地に設けられた明朝の「官廠」とは何であったのか?それをたどってみたいと想います。
【6051】 Ⅶ 巨大な官庁都市を形成した「官廠」に続く
★ この地には古来、マレ-人が住み、”マラッカ”と言う地名も、「マレ-化された」という含意を持っているそうです。『鄭和博物館』には中国の陶磁器やペルシアのガラス、さらにはおびただしい通貨が陳列されていて両大洋沿岸諸国間との貿易中継点であったことを証明しています。
★ 東南アジアと西洋。中国人は古くからマレー半島の西を「西洋」と呼び、その地に異なる文化・文明の存在することを知っていました。機が熟して、その地を拓く大事業に乗り出したのが明朝の永楽帝だったのです。大任を委ねられたのがイラン人を祖先に持つイスラム教徒の鄭和。600年前、折りもおり、このマラッカに一大歴史事件が起こったのです。マレー人の国「マラッカ王国」の成立です。
★ 日本で大和朝廷が成立した7世紀頃から、東南アジア全域は、スマトラ島のパレンバンに本拠を置いたスリウィジャヤ王国が支配していました。14世紀末にジャワのマジャパイト王国に攻め入った際に王子の一人パラメシュヴァラが反逆し、1403年にマラッカに独立王国を建国、マラッカ川河口の丘に王宮を構えました。「マラッカ王国」の成立です。
★ しかし「漁港国家」とあだ名されたように新興国「マラッカ王国」は北の強国「シャム」が宗主権を主張し、政治基盤は極めて脆弱でした。そこへ、中国に誕生した明朝・永楽帝が中国への入貢を勧める使節を派遣してきたのです。パラメシュヴァラ新王はこの機会を逃さず中国への朝貢を行い、永楽帝から『満刺加国王』に封じられました。シャムは激しく抵抗しましたが、後には不承不承「中国朝貢国」になり、マラッカはシャムと対等の政治勢力の地位を確立しました。
★ 英明なパラメシュヴァラ王は、更にマラッカ王国建国の礎は東西交易にあることを見抜いていました。その頃から活発な活動を始めていたイスラム教商人を呼び寄せるため、自らイスラム教に改宗、「マラッカ王国」の国教としました。その伝統は、現在のマレーシアに引き継がれて国王はサルタンが交代で務めています。
★ 私の鄭和研究も、いよいよ舞台をマラッカに移します。人が動き、物が集まる。マラッカ王国は鄭和大船団の往来と共に急速に繁栄しました。季節風を利用して大洋を渡る。28年間、二つの大洋の沿岸諸国の航路を拓いた鄭和大船団は、先ずマラッカに大規模な貿易中継施設を建設しました。当時の帆船は季節風を待って航海せざるを得ませんでした。鄭和船団は時には数ケ月もマラッカに滞在せざるを得なかったのです。2万5千人以上が滞在する一大港湾都市が出現したのです。
★ マラッカは物産の集荷センタ-にとどまりませんでした。鄭和が拓いた航路に世界各地の商人が集まマラッカは巨大な情報集積センターとして繁栄したのです。「港湾都市国家マラッカ」は中国、インド、ペルシア、アラビアと世界各地からの商人を集めて巨大な財政を手にしたのです。
★ 繁栄の中心はマラッカ川がマラッカ海峡に注ぐ河口付近の北西部一帯。現在は「チャイナ・タウン」と呼ばれる巨大なビジネス・センターが広がっている地域です。ここに600年前、鄭和大艦隊の基地・「官廠」(Guanchang)が置かれていました。それは、厳重な柵で仕切られた広大な地域であり、明朝公式の商務館があり、おびただしい数の倉庫群が配置され、また2万5千人を超える乗組員の滞在・居留地でありました。
★ 昨年秋、完成した『鄭和博物館』は、その「官廠」遺跡に部分的に残されていた建物を復元して作られました。そしてそこに蒐集された鄭和ゆかりの博物は往時の繁栄の一端を訪れる人々に語りかけています。通商がもたらしたマラッカ王国の繁栄ぶりもまた、現在、私たちは「マラッカ・スルタン・パレス」で見ることができます。こちらもまた古文書に従い忠実に復元された巨大な宮殿です。中には文化博物館があり、当時のマレー人の生活と文化を紹介していますが、その豪華絢爛さには圧倒されます。
★ マラッカ王国は15世紀前半に鄭和と緊密な友好関係を樹立し、中国・明朝の庇護の下で繁栄しました。しかしポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが1479年、インドのゴアに基地を設営し、マラッカへの侵攻を開始しました。ポルトガルは1510年に開国を迫る船隊をマラッカに送りましたが、キリスト教をきらったマラツカ宮廷によって使節が虐殺される事件が発生。激怒したインドの副王アルブケルケは18隻の船隊に1400人の兵を乗せてゴアを出発した。結局、2ケ月の戦いでマラッカは陥落、以降、マラッカは大航海時代の到来と共に台頭した帝国主義の植民地になります。「マラッカ王国」は、翌年1511年に消滅しました。
★ 想えば、「マラッカ王国」繁栄の100年は、鄭和あってこその100年でした。鄭和が死に、中国・明朝が入貢外交を廃止するや共に衰亡しましした。そしてマレーは450年に及ぶ植民地の屈辱を耐えました。その地政的位置の宿命がもたらした悲劇です。しかし、どの時代にあっても鄭和の子孫たちはこの地に根付いて商業を動かし、揺るぎない経済的基盤を確立して現在に至っています。マラッカ市街東北部に広がる巨大な墓地「ブキ・チナ」には鄭和の時代からの多くの中国人先覚者が眠っています。
★ 再び、私は『鄭和博物館』に戻り、マラッカ繁栄の基盤をなした「官廠」遺跡に立って、改めて、その目で、ここに蒐集されている展示物を吟味しながら鄭和の偉業を確かめたいと思います。貿易物の集散中継地に設けられた明朝の「官廠」とは何であったのか?それをたどってみたいと想います。
【6051】 Ⅶ 巨大な官庁都市を形成した「官廠」に続く
by zenmz
| 2006-02-15 23:06
| マラッカと鄭和