2006年 04月 27日
【6104】昭和ヒトケタ族と”冒険ダン吉”(3) |
★ 昭和20年(1945)8月15日、日本軍は連合国に対して無条件降伏しました。15歳の私には、敗戦より原爆被災と終戦直前のソ連参戦の方が大ショックでした。選ばれて広島市内の進学校、1中、2中に進んだ友人4人は即死。救援に駆けつけた私たちが見たのは川辺に山と積まれた死体でした。24時間、朝も夕も、その遺体に油を注いで焼きました。
★ ソ連参戦は、もう日本の敗戦がはっきりしてから。たった6日間の内に旧満州に攻め込みました。私たちは、満蒙辺境の開拓団の皆さんの消息を一番、心配しました。私の疎開先の町はずれには大規模な「満蒙開拓団訓練所」があって、そこの卒業者が満州各地に送られていたからです。ほとんど顔見知。つのる心配に風評が流れました。「全員、自決」 その真偽は確かめようもなく、そのまま現在に至るも不明です。
★ 広島の原爆被災は、多くが語られ、記録された資料も沢山あります。しかし、どの資料にも見られない一つの秘められた事実を、ここで語っておきたいと思います。原爆は一瞬にして広島市民を焼き尽くしました。現在、広島市を訪れると、市の中心部を東西に貫く通称、「百メートル道路」があります。「平和大通り」とも言い、毎年、花祭りが行われます。
★ 原爆は、その大通りの中心に落とされました。その直下では、この「百メートル道路」を作るため動員されていた広島1中など市内の中学生たちが建物撤去作業をしていました。原爆は、その若く、幼い命を奪ったのです。同じ年齢の生徒でありながら、その難を逃れた他校の生徒は、人に語れぬ苦悩を抱えました。「己だけが生き残った」ことに、ある種の負い目を抱いたものです。
★ それが、如何に苦しいものであったか。 恐らく、当事者以外には分かっていただけないだろうと思います。戦後の混乱期、子供の心も荒みました。そして家を焼かれ、親を失った子供たちは浮浪児として橋桁や川端にバラックを建てて屯(たむろ)しました。市民の多くは、口々にこう語り合いました。「いい子はみんな死んだ。残ったのはクズばかりだ」 生き残ったことに、ある種の負い目を感じる私たちに、それは非情なむち打ちでした。
★ 「いい子はみんな、死んだ。残ったのはクズばかり」
市民の鬱憤は町が落ち着き、平和が戻った後も続きました。被爆死した子を供養する肉親・親戚たちが、”死んだ子のトシを数える”たびに口にするのです。私自身、10代後半は、その怨嗟を一身に受けながら育ちましたが、我々同時代に広島に生きた者は、それを黙って受容したと思います。
★ 広島だけではありません。敗戦に到る1年前から米軍の本土爆撃が始まり、全国津々浦々まで都市は焼夷弾で焼き尽くされました。多くの市民が犠牲となり、とりわけ幼い子の命を奪われた親たちの怨嗟の声は生き残った者に向けられました。生き残ったことに心の負い目を感じる若者はゴマンといたのです。
★ それは、終戦直後のある時期、若者だけでなく、多くの大人たちも巻き込んだ沈痛な社会感情だったと思います。すべてを失った虚無感の中で、人々は「いい子はみんな死んだ。残ったのはクズばかり」 と言い合って、自らを慰める他、仕方がなかったのです。
★ 自分に向けられる、遺族たちのそうした眼差しに反発しながらも、私たち昭和ヒトケタは長い間、「生き残ったことの負い目」から抜け出せず、ずっと、それを持ち続けながら今日を引きずっています。ちょっと話が飛躍しますが、今、大きな議論が起こっている靖国神社問題。戦争が終わってもう60年。還暦を迎えた爺さまでも、恐らくこの「生き残ったことの負い目」はご理解出来ないでしょう。しかし、特攻隊の生き残りは、とりわけ、その感情が強いです。
★ 先の戦争で「生き残ったことの負い目」を感じるか、感じないかで、靖国問題は、取り扱いがガラリと変わります。悲嘆にくれるあまり「いい子はみんな死んだ。残ったのはクズばかり」 と泣け叫び、自らを慰める他ない人々の前でそのことの是非をあげつらうような議論の進め方は、いかにも心ないことです。
★ ともかく・・・・ 私は、今なお、先の戦争で「生き残ったことの負い目」をまだ捨て切れません。魂の鎮めに、国家や政治が関与することは絶対にあってはならないと思います。小泉さんの不明は、自らの言動が最も大きな政治的メッセージであることを承知の上で、「心の問題」と詭弁を弄することです。不関与は、近づかず、姿を現さず。です。
★ 太平洋戦争の時、我が亡父は、何処で、何をしたのか?
私は、セレベス島に渡り、この足で父の足跡を辿って確かめることにしました。一昨年6月、妻を伴い、今は”スラウェシ島”と呼ばれる「望郷の地」に旅をしました。そこには、驚くべき新事実がありました。その旅日記は、この最後にご紹介します。ここでは、だた、一つ、その記録には登載しなかった重要な事柄だけをお話しします。
★ それは、日本兵、軍属、民間人が残して去った現地在留日系人の問題です。スラウェシ北部ミナハサ半島の内陸トモホンの町へ行った時でした。チャーターしたハイヤーの運転手が、いきなり「私の叔母は日本人と結婚したが戦争が済むと妻を置いて帰国した。今は現地人と結婚し平和に暮らしているが、日本人との間の子もいる。会ってみますか?」と私を驚かせました。
★ よく話を聞いてみると、このトモホンには戦争中、日本人村があって、父親が帰国後、消息不明の混血遺児が多数いる、と言います。近くの漁港に鰹節工場を営んでいる親切な日本人がいて、その人の世話で茨城県の漁港に出稼ぎに行くルートが出来て、もう1200人近くのが日系ミナハサ人が日本で働いている、とも言うのです。
★ トモホンの町に入ると、なるほど、綺麗なハウスに大日章旗が掲げてあります。日本語で「茨城県・大洗町」 大洗は漁業の町です。そこへ出稼ぎに行った成功者が帰国後、立派な家の建設を競って、故郷に錦を飾るのだそうです。間もなく、私がトモホンに行った、と知った、現地に詳しい日本人の方から、「この問題はセンシティブなので、関わり合いにならないで・・・・」とやんわり注意されました。1200人が大洗に出稼ぎに来ているのは事実だが、大半が不法入国・不法就労で外務省も、大洗町も手を焼いている、と言うのです。
★ 帰国後、調べてみますと、現地で見聞したこと、現地の事情通のコメントも全部、正しいことが分かりました。スラウェシで鰹の加工・製造工場を経営している日本人の方はクリスチャンで、ミナハサの残留日系人の生活苦を見かね出身地の大洗町で漁業就労の世話を始めたのが交流のキッカケになりました。大洗町は漁業の町ですが、最近は漁業を継ぐ若者もなく、人手不足で悩んでいただけに渡りに船とばかり雇用したのですが・・・大半が観光ビザの旅行者。それが長期就労し、定住し始めたので大あわて。と言うのが実態のようです。
★ しかし、事態はもっと深刻です。現地日系人による「スラウェシ日本人会」も発足し、活発な対日交流事業も計画されています。
★ 私は、大きなショックを受けました。トモホンは、亡父が残した思い出話が一番、多いところ、しかも決め手になる”セレベス富士”が目の前にあります。虫の知らせに似たカンが働き、「お父さんはここに住んだ」との確信を抱きました。その途端、生前、亡母が私に真剣に語った言葉を思い出しました。少し改まった話になると、母は必ず、私の名前を呼びかけてから話すのが常でした。
★ 「みちとしさん。よく聞いてね。何時の日か、タカオの子です、とマレーから子供が来るかも知れない。受け入れてやって欲しい。あなたの兄弟姉妹としてね。私は許します。優しくしてあげて欲しい」
それは、中国の残留孤児の問題がテレビに大きくとりあげられるようになった頃の話です。その前年、父・隆夫は他界しました。
★ トモホンに立って、私は、おののきました。本当に、私の前に、「タカオの子」が現れたら・・・・どうする?!
私は、妻に、これまでにない真剣な目を向けました。父が母を裏切る不行跡をした、と言うことなど考えてみたこともありません。事実、母も、父を疑うことはない、でも、絶対、ないとは言えない、とコメントしました。
★ 「おばあちゃんの言う通りしたらいいと思う」 ポツリと漏らしたまま、妻も沈黙しました。目の前に展開する状況はあまりにも数多く、あまりにも生々しいです。「ここで、旅行は打ち止めにしてかえろうか?」 「いや2度と来れるかどうか、分からないでしょう。前に行きましょう」
★ こうして、私は、意を決して「望郷の旅」を心ゆくまで追求し、所期の目的を十分に達しました。その記録は、【望郷の旅】(PDFファイル)で保存しております。もしご関心がございましたらお送りいたします。
zenimoto@gmail.com にメールを下されば、折り返し、添付してお送りします。ご覧下さい。
プリント版もご準備できます。そご希望であれば、その旨、ご指示下さい。
★ ソ連参戦は、もう日本の敗戦がはっきりしてから。たった6日間の内に旧満州に攻め込みました。私たちは、満蒙辺境の開拓団の皆さんの消息を一番、心配しました。私の疎開先の町はずれには大規模な「満蒙開拓団訓練所」があって、そこの卒業者が満州各地に送られていたからです。ほとんど顔見知。つのる心配に風評が流れました。「全員、自決」 その真偽は確かめようもなく、そのまま現在に至るも不明です。
★ 広島の原爆被災は、多くが語られ、記録された資料も沢山あります。しかし、どの資料にも見られない一つの秘められた事実を、ここで語っておきたいと思います。原爆は一瞬にして広島市民を焼き尽くしました。現在、広島市を訪れると、市の中心部を東西に貫く通称、「百メートル道路」があります。「平和大通り」とも言い、毎年、花祭りが行われます。
★ 原爆は、その大通りの中心に落とされました。その直下では、この「百メートル道路」を作るため動員されていた広島1中など市内の中学生たちが建物撤去作業をしていました。原爆は、その若く、幼い命を奪ったのです。同じ年齢の生徒でありながら、その難を逃れた他校の生徒は、人に語れぬ苦悩を抱えました。「己だけが生き残った」ことに、ある種の負い目を抱いたものです。
★ それが、如何に苦しいものであったか。 恐らく、当事者以外には分かっていただけないだろうと思います。戦後の混乱期、子供の心も荒みました。そして家を焼かれ、親を失った子供たちは浮浪児として橋桁や川端にバラックを建てて屯(たむろ)しました。市民の多くは、口々にこう語り合いました。「いい子はみんな死んだ。残ったのはクズばかりだ」 生き残ったことに、ある種の負い目を感じる私たちに、それは非情なむち打ちでした。
★ 「いい子はみんな、死んだ。残ったのはクズばかり」
市民の鬱憤は町が落ち着き、平和が戻った後も続きました。被爆死した子を供養する肉親・親戚たちが、”死んだ子のトシを数える”たびに口にするのです。私自身、10代後半は、その怨嗟を一身に受けながら育ちましたが、我々同時代に広島に生きた者は、それを黙って受容したと思います。
★ 広島だけではありません。敗戦に到る1年前から米軍の本土爆撃が始まり、全国津々浦々まで都市は焼夷弾で焼き尽くされました。多くの市民が犠牲となり、とりわけ幼い子の命を奪われた親たちの怨嗟の声は生き残った者に向けられました。生き残ったことに心の負い目を感じる若者はゴマンといたのです。
★ それは、終戦直後のある時期、若者だけでなく、多くの大人たちも巻き込んだ沈痛な社会感情だったと思います。すべてを失った虚無感の中で、人々は「いい子はみんな死んだ。残ったのはクズばかり」 と言い合って、自らを慰める他、仕方がなかったのです。
★ 自分に向けられる、遺族たちのそうした眼差しに反発しながらも、私たち昭和ヒトケタは長い間、「生き残ったことの負い目」から抜け出せず、ずっと、それを持ち続けながら今日を引きずっています。ちょっと話が飛躍しますが、今、大きな議論が起こっている靖国神社問題。戦争が終わってもう60年。還暦を迎えた爺さまでも、恐らくこの「生き残ったことの負い目」はご理解出来ないでしょう。しかし、特攻隊の生き残りは、とりわけ、その感情が強いです。
★ 先の戦争で「生き残ったことの負い目」を感じるか、感じないかで、靖国問題は、取り扱いがガラリと変わります。悲嘆にくれるあまり「いい子はみんな死んだ。残ったのはクズばかり」 と泣け叫び、自らを慰める他ない人々の前でそのことの是非をあげつらうような議論の進め方は、いかにも心ないことです。
★ ともかく・・・・ 私は、今なお、先の戦争で「生き残ったことの負い目」をまだ捨て切れません。魂の鎮めに、国家や政治が関与することは絶対にあってはならないと思います。小泉さんの不明は、自らの言動が最も大きな政治的メッセージであることを承知の上で、「心の問題」と詭弁を弄することです。不関与は、近づかず、姿を現さず。です。
★ 太平洋戦争の時、我が亡父は、何処で、何をしたのか?
私は、セレベス島に渡り、この足で父の足跡を辿って確かめることにしました。一昨年6月、妻を伴い、今は”スラウェシ島”と呼ばれる「望郷の地」に旅をしました。そこには、驚くべき新事実がありました。その旅日記は、この最後にご紹介します。ここでは、だた、一つ、その記録には登載しなかった重要な事柄だけをお話しします。
★ それは、日本兵、軍属、民間人が残して去った現地在留日系人の問題です。スラウェシ北部ミナハサ半島の内陸トモホンの町へ行った時でした。チャーターしたハイヤーの運転手が、いきなり「私の叔母は日本人と結婚したが戦争が済むと妻を置いて帰国した。今は現地人と結婚し平和に暮らしているが、日本人との間の子もいる。会ってみますか?」と私を驚かせました。
★ よく話を聞いてみると、このトモホンには戦争中、日本人村があって、父親が帰国後、消息不明の混血遺児が多数いる、と言います。近くの漁港に鰹節工場を営んでいる親切な日本人がいて、その人の世話で茨城県の漁港に出稼ぎに行くルートが出来て、もう1200人近くのが日系ミナハサ人が日本で働いている、とも言うのです。
★ トモホンの町に入ると、なるほど、綺麗なハウスに大日章旗が掲げてあります。日本語で「茨城県・大洗町」 大洗は漁業の町です。そこへ出稼ぎに行った成功者が帰国後、立派な家の建設を競って、故郷に錦を飾るのだそうです。間もなく、私がトモホンに行った、と知った、現地に詳しい日本人の方から、「この問題はセンシティブなので、関わり合いにならないで・・・・」とやんわり注意されました。1200人が大洗に出稼ぎに来ているのは事実だが、大半が不法入国・不法就労で外務省も、大洗町も手を焼いている、と言うのです。
★ 帰国後、調べてみますと、現地で見聞したこと、現地の事情通のコメントも全部、正しいことが分かりました。スラウェシで鰹の加工・製造工場を経営している日本人の方はクリスチャンで、ミナハサの残留日系人の生活苦を見かね出身地の大洗町で漁業就労の世話を始めたのが交流のキッカケになりました。大洗町は漁業の町ですが、最近は漁業を継ぐ若者もなく、人手不足で悩んでいただけに渡りに船とばかり雇用したのですが・・・大半が観光ビザの旅行者。それが長期就労し、定住し始めたので大あわて。と言うのが実態のようです。
★ しかし、事態はもっと深刻です。現地日系人による「スラウェシ日本人会」も発足し、活発な対日交流事業も計画されています。
★ 私は、大きなショックを受けました。トモホンは、亡父が残した思い出話が一番、多いところ、しかも決め手になる”セレベス富士”が目の前にあります。虫の知らせに似たカンが働き、「お父さんはここに住んだ」との確信を抱きました。その途端、生前、亡母が私に真剣に語った言葉を思い出しました。少し改まった話になると、母は必ず、私の名前を呼びかけてから話すのが常でした。
★ 「みちとしさん。よく聞いてね。何時の日か、タカオの子です、とマレーから子供が来るかも知れない。受け入れてやって欲しい。あなたの兄弟姉妹としてね。私は許します。優しくしてあげて欲しい」
それは、中国の残留孤児の問題がテレビに大きくとりあげられるようになった頃の話です。その前年、父・隆夫は他界しました。
★ トモホンに立って、私は、おののきました。本当に、私の前に、「タカオの子」が現れたら・・・・どうする?!
私は、妻に、これまでにない真剣な目を向けました。父が母を裏切る不行跡をした、と言うことなど考えてみたこともありません。事実、母も、父を疑うことはない、でも、絶対、ないとは言えない、とコメントしました。
★ 「おばあちゃんの言う通りしたらいいと思う」 ポツリと漏らしたまま、妻も沈黙しました。目の前に展開する状況はあまりにも数多く、あまりにも生々しいです。「ここで、旅行は打ち止めにしてかえろうか?」 「いや2度と来れるかどうか、分からないでしょう。前に行きましょう」
★ こうして、私は、意を決して「望郷の旅」を心ゆくまで追求し、所期の目的を十分に達しました。その記録は、【望郷の旅】(PDFファイル)で保存しております。もしご関心がございましたらお送りいたします。
zenimoto@gmail.com にメールを下されば、折り返し、添付してお送りします。ご覧下さい。
プリント版もご準備できます。そご希望であれば、その旨、ご指示下さい。
by zenmz
| 2006-04-27 19:35
| 冒険ダン吉の世界