2006年 06月 18日
【6164】 障害者とベトナム娘のお料理交歓会 |
…・・・・・・・ 吉備高原便り(9) ・・・・・・・・・・
【新企画】 我が家、我が町 の 日々の寸描を掲載します。
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障害者通勤寮のお料理教室
★ 私が住む吉備高原都市・北部住区に若い障害者の「吉備の里通勤寮」があります。日曜日の今日、そこで、「お料理教室&交歓会」が開かれました。講師は、我が老妻。イラン料理の名人です。これまで招いたイラン人が例外なく、「オオー、イランのオフクロの味」と感激する腕前。
今回は、直ぐ近くに住むベトナム娘たち8人も合流して、総勢30人、楽しい午後を過ごしました。
★ 以前にも、ご紹介したことがありますが、この町の「北部住区」は、「福祉の村」の通称で知られています。県立の身体障害者授産所、知的障害者授産所、 能力開発センター、 居住施設「吉備の里」、就労センター、 福祉ホームなどの施設が並んで、さらに福祉工場「吉備松下」があります。
★ さらに住区内では、知的障害者のグループ・ホームが6カ所もあり、地域住民の中にとけ込んで生活しています。折々に、地域住民とのふれあいイベントも多いのですが、この日、料理教室が行われたのは、「通勤寮」での催し。ここには17人の若い障害者が共同生活をしています。
★ 「皆さん、いいですか。今日は、イランのお料理をします。レシピ、作って来ましたから見てください。お料理の名前は「クック」 ジャガイモだけど、美味しいの。では、先ず、私が、手順をやって見せます。後は、もう一度、レシピを参考にしながら作りましょう」
★ 老妻は、ここに住むようになってから長く、ここの施設の若者たちにボランティアで書道を教えてきました。全員が古い仲間。ベトナム娘も全員が参加し、通訳入りの講習になりましたが、「大丈夫、見れば分かる」とか。こちらも、日本に来て間もなくからの家ぐるみのお付き合い。気心がしれているので、全員、和気藹々(あいあい) 約1時間かけて、全員が見事に完成。お味見しながら交歓会を開きました。
★ 私は、もっぱらカメラマン。ベトナム娘たちもあちこちから「オジィーちゃん」と写真の催促をするのですが・・・・外国人が日本語を上手に操り、正確に話すようになると、時と、場合によっては、いけませんね。つい先頃まで「オジチャン」と言っていたのに・・・今日は、「オジィーチャン」
「コラ! ひっぱるなョ。前のママでいいんだ」
と言いたくなります。
★ 障害者の”通勤寮”という施設はご存じでしょうか? 正式名称は、「知的障害者通勤寮」 会社や工場に就労し、仕事は問題なくこなせるのですが、自分の日常生活に困難を抱える障害者がいます。金銭管理が出来ず、一人で暮らすのが難しいので、指導員の助言や指導を受けながら、ここをマイ・ホームにしています。全国120カ所に2,660人が入所し、約800人の福祉職員が支えています。
★ しかし、今、小泉福祉大改革の影響で、ここの利用者も、職員も、将来に大きな不安を抱いています。私も、皆さんが作ったイラン料理のご相伴に与りながら、職員の方から、その不安の実態を伺っていました。【社会福祉は1999年に終わり、2000年からは「福祉ビジネスに」変わった】というのが私の持論ですが、まさにそれが実体になりつつあります。
【補遺・追加】
「是非、レシピを教えてください」との要望がありました。追加、掲載します。
*****どう作る? この若者たちの幸せを *****
★ でも、悪いことばかりではありません。小泉福祉大改革のお陰で、各施設は、これまでの様に建物構造、備品まで、細かく設置基準でガンジガラメニなっていた窮屈さはなくなりました。創意工夫。アタマを使えば、かなり、それぞれの施設に合った経営も可能になりました。
★ ここの若者たちは、人を疑うことを知らず、裏切ることもありません。私たち夫婦は、この若者たちと共に生きることに格別の歓びを感じています。その幸福そうな笑顔を見ながら、私は、20年前の1985年にイスラエルでお会いしたイスチャック・ゲニンガー氏を思い起こし、その人の”創意工夫”を、施設の職員の方にお話したい、と思いました。が、途中で時間切れ。中途半端で終わりました。
★ そのとき、初めて知ったのですが、この職員の方は、私のブログをお読み下さっているとか。ならば・・・と、話の続きを、ここに認めることにしました。また、この話は、沖縄で独居高齢者の支援福祉を作りたいと努力を重ねておられる私のネット友人「ンチャ」さんにも聞いて頂きたいと思っています。インターネットって、本当に便利ですね。
★ 私は、イスラエルに5度、行っております。その最後となった1985年に私は、イスラエル北部の港町ハイファでゲニンガー氏とお会いしました。元ハイファ養護学校長、退職後、ハイファ工科大学社会福祉学部教授をされ”知的障害者の父”と、尊敬を集めておられる方でした。当時、私は、新聞社を退職し、関西大学人権問題研究室の委嘱研究員をしており、その関係でインタビューを申し入れたのです。
★ その頃、世界中が、それまでの障害者福祉のあり方を根本的に見直し、「隔離・保護」から「一般社会への統合」を合い言葉に社会システムの作り替えを始めていました。国連は1981年を「国際障害者年」として、それまでの伝統的「分断・隔離の慈善福祉」を「無差別平等原理に一般社会へ統合」を実現する新しい理念を掲げました。今ではだれもの知っているノーマライゼーション(正常化)運動です。
★ 私は、先ず、戦乱で明け暮れするイスラエルという小さな国で、それが、どこまで進んでいるのか? その実態をみたい、と思いました。率直にそれを申し上げたら、直ちに「OK」。 その足で、案内されたのが、カルメル山腹にあった公民館でした。1階は、小会議室が数部屋。真ん中に集会室があって、日本のどこにでもある公民館と全く変わりません。
★ 「2階へどうぞ」 ヨーロッパ調の風情のある絨毯張りの階段を上がると、風景は一変します。まるでホテルです。
「ここは、知的障害者の生活寮です。いま、10人の知的障害者が生活し、それぞれ仕事を持っていて、ここから通勤しています。全員、ハイファ市内の出身者で、仕事はまちまち。半数の5人は農業手伝いと庭師、後半数の5人は手先が器用なので、町工場で働いています」
★ 一部屋ずつ、丁寧に拝見しました。洋間ワンルーム・マンションの雰囲気です。フルタイムの福祉専門職員は二人、寮長とその補佐だけ。仕事には一切、手出しはせず、個人生活のアドバイスと相談だけをサポートします。非常にユニークなのは、具体的な生活介助の実際。それは、障害者と全く同じ部屋を割り当てられている大学生が担当するのです。
★ 当時、3人のハイファ工科大学社会福祉学部の学生が、ここに”下宿”していました。24時間、共に生活し、買い物、食事、洗濯、掃除、そして余暇の談話。ごく自然な、同年齢の若者の共同生活です。学生たちは”下宿”代は無料。それにこの日常的ボランティア活動は大学の正規授業単位として認められており、その上、少額ですが”必要実費”程度の謝礼も出ていました。
★ これには感心しました。福祉系大学は、外国でも、日本でも、一定資格を得るために実習が必修になっています。それを障害者の実生活の中で共に生活することで学ぶ、その発想が素晴らしいとおもいました。日本では、介護福祉士や社会福祉士を養成する場合、調理実習や、介護実習など生活関連体験訓練も多いのですが、すべて実生活から切り離した教室で行っています。ですから”ペーパー・ドライバー”資格者が多い、という欠陥を持っています。
★ 公民館に障害者施設を組み込む発想もスゴイ。障害者施設と言えば、町から遠く離れた所にポツンと絶っているのが普通でした。しかし、イスラエルでは20年も前に町のど真ん中、それも人が一番、しばしば出入りする公民館の2階に作っていたのです。
★ 「これは意図的なものです。この国でも障害者に対する偏見は強い。町の真ん中にそういう施設を設けるなど誰も考えなかった。しかし、公民館を使わざるを得ない事情があったのです。カネがない。ご存知の通り、イスラエルは1948年の建国以来、アラブ諸国に取り囲まれ、ずっと戦争続きです。福祉に回るカネがない。建物も建てられない。だから・・・公民館活用となったのが”ケガの功名”になった」 ゲニンガー氏は、ここで大笑いしました。
★ しかし、なんと素晴らしい発想ではありませんか。
それからロビーで伺ったお話を聞いてビックリしました。それは、ゲニンガー氏の40年に亘る”一人の戦い”の結実であったのです。当時のメモをまとめておきましょう。
★ 「建国と同時に戦争に突入した政府には国民福祉を考える余裕など全くなかったのです。放置されたままの障害者の教育と福祉は、養護学校教師である私しか構ってやれる人もいなかった。ですから教師をしながら、"AKIM"(アキム:「知的障害者社会復帰援護協会」の頭文字を綴ったヘブライ語)を結成し、世界に資金援助を求めました。日本にも東京に支部を作ってもらいましたヨ」
★ 「先ず、1960年に、ここハイファに家政教室をオープン、続いて障害児幼稚園、サマーキャンプ、ホステル運動・・・と、一般の人々を招き入れる多彩な活動を展開して、家族や友人、さらに地域社会の人々を巻き込んでいきました。大切なのは啓蒙活動です」
★ 「AKIMは、最初から障害者を一般社会から分離せず、社会の中で、その地域に障害者を包み込む運動を終始一貫して行いました。もちろん、主宰者である私の信念に基づく方針でしたが、反対者も徐々に協力してくれるようになりました」
★ 「AKIM運動に一大転機が訪れたのは、1968年でした。この年、エルサレムで開かれた第4回知的障害者福祉専門家世界大会は大成功をおさめ、我が国政府を覚醒させました。私たちは、このとき、世界で始めて「知的障害者の権利宣言」を起草し、イスラエル国会は、世界ではじめて、これを採択しました。やがて、イスラエル政府は、国連に、これを持ち上げ、ついに国連総会は、1971年に「知的障害者の権利宣言」を採択します。それが1981年の「国際障害者年」に発展したのです。私は、それを誇りに思います」
★ 「この公民館にある知的障害者生活寮は、我々、AKIMの40年間に亘る運動の成果なのです。私は、これを誇りに思っています」
★ 日本では、イスチャック・ゲニンガー氏はあまり知られていません。しかし、1968年という非常に早い時期に、「障害者にリハビリテーションはない。[re-](元に戻る) など最初からないのだ。障害者に必要なのは [habilitation] あるがままに条件付けられた個性を最大限に自己実現させる。その認識に基づいた人間開発に取り組まねばならぬ」と主張し、世界の注目を集めた方です。
★ ニッチモサッチモ行かなくなった私たちのフクシ。まさに袋小路に入って、動きがとれない状況に追いつめられつつあります。だが、皆さん、今こそ、無一文から世界初の知的障害者生活寮を創り上げたゲニンガー氏から学ぶべきものがあるのではないでしょうか? カネがない、人もいない、政府も見向かない・・・そんな中で、高い志だけが、見事な実を結ばせました。我が国の福祉の源流を掘り起こした先人も、同じく、カネなく、人も得られず、孤高の志が障害者の命の泉を掘り当てました。希望と大いなる志を掲げましょう。
【新企画】 我が家、我が町 の 日々の寸描を掲載します。
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障害者通勤寮のお料理教室
★ 私が住む吉備高原都市・北部住区に若い障害者の「吉備の里通勤寮」があります。日曜日の今日、そこで、「お料理教室&交歓会」が開かれました。講師は、我が老妻。イラン料理の名人です。これまで招いたイラン人が例外なく、「オオー、イランのオフクロの味」と感激する腕前。
今回は、直ぐ近くに住むベトナム娘たち8人も合流して、総勢30人、楽しい午後を過ごしました。
★ 以前にも、ご紹介したことがありますが、この町の「北部住区」は、「福祉の村」の通称で知られています。県立の身体障害者授産所、知的障害者授産所、 能力開発センター、 居住施設「吉備の里」、就労センター、 福祉ホームなどの施設が並んで、さらに福祉工場「吉備松下」があります。
★ さらに住区内では、知的障害者のグループ・ホームが6カ所もあり、地域住民の中にとけ込んで生活しています。折々に、地域住民とのふれあいイベントも多いのですが、この日、料理教室が行われたのは、「通勤寮」での催し。ここには17人の若い障害者が共同生活をしています。
★ 「皆さん、いいですか。今日は、イランのお料理をします。レシピ、作って来ましたから見てください。お料理の名前は「クック」 ジャガイモだけど、美味しいの。では、先ず、私が、手順をやって見せます。後は、もう一度、レシピを参考にしながら作りましょう」
★ 老妻は、ここに住むようになってから長く、ここの施設の若者たちにボランティアで書道を教えてきました。全員が古い仲間。ベトナム娘も全員が参加し、通訳入りの講習になりましたが、「大丈夫、見れば分かる」とか。こちらも、日本に来て間もなくからの家ぐるみのお付き合い。気心がしれているので、全員、和気藹々(あいあい) 約1時間かけて、全員が見事に完成。お味見しながら交歓会を開きました。
★ 私は、もっぱらカメラマン。ベトナム娘たちもあちこちから「オジィーちゃん」と写真の催促をするのですが・・・・外国人が日本語を上手に操り、正確に話すようになると、時と、場合によっては、いけませんね。つい先頃まで「オジチャン」と言っていたのに・・・今日は、「オジィーチャン」
「コラ! ひっぱるなョ。前のママでいいんだ」
と言いたくなります。
★ 障害者の”通勤寮”という施設はご存じでしょうか? 正式名称は、「知的障害者通勤寮」 会社や工場に就労し、仕事は問題なくこなせるのですが、自分の日常生活に困難を抱える障害者がいます。金銭管理が出来ず、一人で暮らすのが難しいので、指導員の助言や指導を受けながら、ここをマイ・ホームにしています。全国120カ所に2,660人が入所し、約800人の福祉職員が支えています。
★ しかし、今、小泉福祉大改革の影響で、ここの利用者も、職員も、将来に大きな不安を抱いています。私も、皆さんが作ったイラン料理のご相伴に与りながら、職員の方から、その不安の実態を伺っていました。【社会福祉は1999年に終わり、2000年からは「福祉ビジネスに」変わった】というのが私の持論ですが、まさにそれが実体になりつつあります。
【補遺・追加】
「是非、レシピを教えてください」との要望がありました。追加、掲載します。
【”クック”(イランのジャガイモ料理)】のレシピ
【材料】 ジャガイモ 500グラム
たまご 3コ
タマネギ 1コ
塩 小さじ 半分
カレー粉 小さじ 2杯
【注意】 ジャガイモは 必ず 大根つきを 使ってください。
千切りでは 繊維が 堅く 美味しくない
【作り方】
(1) タマネギをみじん切り ジャガイモは大根付きでおろす
(2) 卵を割りほぐし カレー粉 塩 タマネギ ジャガイモ を混ぜ
ホットプレート でお好み焼きを焼く要領で 焼く
チーズ ベーコンを入れると なお おいしい
(3) 上記の材料で 12センチ大が7枚 焼けます
【食べ方】
ケチャップ マヨネーズ など 好みのものを つけて たべる
*****どう作る? この若者たちの幸せを *****
★ でも、悪いことばかりではありません。小泉福祉大改革のお陰で、各施設は、これまでの様に建物構造、備品まで、細かく設置基準でガンジガラメニなっていた窮屈さはなくなりました。創意工夫。アタマを使えば、かなり、それぞれの施設に合った経営も可能になりました。
★ ここの若者たちは、人を疑うことを知らず、裏切ることもありません。私たち夫婦は、この若者たちと共に生きることに格別の歓びを感じています。その幸福そうな笑顔を見ながら、私は、20年前の1985年にイスラエルでお会いしたイスチャック・ゲニンガー氏を思い起こし、その人の”創意工夫”を、施設の職員の方にお話したい、と思いました。が、途中で時間切れ。中途半端で終わりました。
★ そのとき、初めて知ったのですが、この職員の方は、私のブログをお読み下さっているとか。ならば・・・と、話の続きを、ここに認めることにしました。また、この話は、沖縄で独居高齢者の支援福祉を作りたいと努力を重ねておられる私のネット友人「ンチャ」さんにも聞いて頂きたいと思っています。インターネットって、本当に便利ですね。
★ 私は、イスラエルに5度、行っております。その最後となった1985年に私は、イスラエル北部の港町ハイファでゲニンガー氏とお会いしました。元ハイファ養護学校長、退職後、ハイファ工科大学社会福祉学部教授をされ”知的障害者の父”と、尊敬を集めておられる方でした。当時、私は、新聞社を退職し、関西大学人権問題研究室の委嘱研究員をしており、その関係でインタビューを申し入れたのです。
★ その頃、世界中が、それまでの障害者福祉のあり方を根本的に見直し、「隔離・保護」から「一般社会への統合」を合い言葉に社会システムの作り替えを始めていました。国連は1981年を「国際障害者年」として、それまでの伝統的「分断・隔離の慈善福祉」を「無差別平等原理に一般社会へ統合」を実現する新しい理念を掲げました。今ではだれもの知っているノーマライゼーション(正常化)運動です。
★ 私は、先ず、戦乱で明け暮れするイスラエルという小さな国で、それが、どこまで進んでいるのか? その実態をみたい、と思いました。率直にそれを申し上げたら、直ちに「OK」。 その足で、案内されたのが、カルメル山腹にあった公民館でした。1階は、小会議室が数部屋。真ん中に集会室があって、日本のどこにでもある公民館と全く変わりません。
★ 「2階へどうぞ」 ヨーロッパ調の風情のある絨毯張りの階段を上がると、風景は一変します。まるでホテルです。
「ここは、知的障害者の生活寮です。いま、10人の知的障害者が生活し、それぞれ仕事を持っていて、ここから通勤しています。全員、ハイファ市内の出身者で、仕事はまちまち。半数の5人は農業手伝いと庭師、後半数の5人は手先が器用なので、町工場で働いています」
★ 一部屋ずつ、丁寧に拝見しました。洋間ワンルーム・マンションの雰囲気です。フルタイムの福祉専門職員は二人、寮長とその補佐だけ。仕事には一切、手出しはせず、個人生活のアドバイスと相談だけをサポートします。非常にユニークなのは、具体的な生活介助の実際。それは、障害者と全く同じ部屋を割り当てられている大学生が担当するのです。
★ 当時、3人のハイファ工科大学社会福祉学部の学生が、ここに”下宿”していました。24時間、共に生活し、買い物、食事、洗濯、掃除、そして余暇の談話。ごく自然な、同年齢の若者の共同生活です。学生たちは”下宿”代は無料。それにこの日常的ボランティア活動は大学の正規授業単位として認められており、その上、少額ですが”必要実費”程度の謝礼も出ていました。
★ これには感心しました。福祉系大学は、外国でも、日本でも、一定資格を得るために実習が必修になっています。それを障害者の実生活の中で共に生活することで学ぶ、その発想が素晴らしいとおもいました。日本では、介護福祉士や社会福祉士を養成する場合、調理実習や、介護実習など生活関連体験訓練も多いのですが、すべて実生活から切り離した教室で行っています。ですから”ペーパー・ドライバー”資格者が多い、という欠陥を持っています。
★ 公民館に障害者施設を組み込む発想もスゴイ。障害者施設と言えば、町から遠く離れた所にポツンと絶っているのが普通でした。しかし、イスラエルでは20年も前に町のど真ん中、それも人が一番、しばしば出入りする公民館の2階に作っていたのです。
★ 「これは意図的なものです。この国でも障害者に対する偏見は強い。町の真ん中にそういう施設を設けるなど誰も考えなかった。しかし、公民館を使わざるを得ない事情があったのです。カネがない。ご存知の通り、イスラエルは1948年の建国以来、アラブ諸国に取り囲まれ、ずっと戦争続きです。福祉に回るカネがない。建物も建てられない。だから・・・公民館活用となったのが”ケガの功名”になった」 ゲニンガー氏は、ここで大笑いしました。
★ しかし、なんと素晴らしい発想ではありませんか。
それからロビーで伺ったお話を聞いてビックリしました。それは、ゲニンガー氏の40年に亘る”一人の戦い”の結実であったのです。当時のメモをまとめておきましょう。
★ 「建国と同時に戦争に突入した政府には国民福祉を考える余裕など全くなかったのです。放置されたままの障害者の教育と福祉は、養護学校教師である私しか構ってやれる人もいなかった。ですから教師をしながら、"AKIM"(アキム:「知的障害者社会復帰援護協会」の頭文字を綴ったヘブライ語)を結成し、世界に資金援助を求めました。日本にも東京に支部を作ってもらいましたヨ」
★ 「先ず、1960年に、ここハイファに家政教室をオープン、続いて障害児幼稚園、サマーキャンプ、ホステル運動・・・と、一般の人々を招き入れる多彩な活動を展開して、家族や友人、さらに地域社会の人々を巻き込んでいきました。大切なのは啓蒙活動です」
★ 「AKIMは、最初から障害者を一般社会から分離せず、社会の中で、その地域に障害者を包み込む運動を終始一貫して行いました。もちろん、主宰者である私の信念に基づく方針でしたが、反対者も徐々に協力してくれるようになりました」
★ 「AKIM運動に一大転機が訪れたのは、1968年でした。この年、エルサレムで開かれた第4回知的障害者福祉専門家世界大会は大成功をおさめ、我が国政府を覚醒させました。私たちは、このとき、世界で始めて「知的障害者の権利宣言」を起草し、イスラエル国会は、世界ではじめて、これを採択しました。やがて、イスラエル政府は、国連に、これを持ち上げ、ついに国連総会は、1971年に「知的障害者の権利宣言」を採択します。それが1981年の「国際障害者年」に発展したのです。私は、それを誇りに思います」
★ 「この公民館にある知的障害者生活寮は、我々、AKIMの40年間に亘る運動の成果なのです。私は、これを誇りに思っています」
★ 日本では、イスチャック・ゲニンガー氏はあまり知られていません。しかし、1968年という非常に早い時期に、「障害者にリハビリテーションはない。[re-](元に戻る) など最初からないのだ。障害者に必要なのは [habilitation] あるがままに条件付けられた個性を最大限に自己実現させる。その認識に基づいた人間開発に取り組まねばならぬ」と主張し、世界の注目を集めた方です。
★ ニッチモサッチモ行かなくなった私たちのフクシ。まさに袋小路に入って、動きがとれない状況に追いつめられつつあります。だが、皆さん、今こそ、無一文から世界初の知的障害者生活寮を創り上げたゲニンガー氏から学ぶべきものがあるのではないでしょうか? カネがない、人もいない、政府も見向かない・・・そんな中で、高い志だけが、見事な実を結ばせました。我が国の福祉の源流を掘り起こした先人も、同じく、カネなく、人も得られず、孤高の志が障害者の命の泉を掘り当てました。希望と大いなる志を掲げましょう。
by zenmz
| 2006-06-18 21:47
| ベトナムの”孫娘”