2006年 09月 27日
【6261】 苦難続きの半世紀・・・点字ブロック秘話 |
★ 昨日、我が町の点字ブロックの現状を綴りながら世界で始めて、このユニークな盲人誘導システムを考案したのが、この岡山出身の三宅精一さんだったことを思い出していました。三宅さん考案の点字ブロックが初めて実用化されたのも岡山市内。交通量のもっとも多い原尾島にあった県立盲学校の国道2号線横断歩道でした。40年ほど前だった、といわれています。
★ 岡山県人でも知る人が少ないのですが、今では全国どこででも見られる「点字ブロック」と「振動触知信号機」は三宅さんの考案なのです。もう少し、厳密に言うなら、精一さんと実弟の三郎さんの三宅兄弟コンビが考案し、苦難を乗り越えて全国に普及させたもの、と言うべきでしょう。「点字ブロック」は、厳密にはブロックに”点”を盛り上げたもので「点字」ではありません。
★ 本来なら「点ブロック」とするべきでしょうが、実は、『点字ブロック』は、三宅さんが理事長をしている「財団法人安全交通試験研究センター」の登録商標なのです。ちょうど「味の素」が特定商標であるため一般に「化学調味料」と言い換えているようにそれにこだわる公的機関などは「視覚障害者誘導用ブロック」などと言い換えて普通名詞化しています。
★ 名前をどう言い換えようと、それは、駅や、商店街、公共施設などの横断歩道で既に国民すべてがおなじみの「板状のプレート上に突起が付いており、足の裏で触覚認知出来る視覚障害者の移動を安全に誘導する装置」です。
★ それが黄色であるのは、視力が弱まった半盲者・弱視者のための工夫です。三宅さんの友人だった日本ライトハウスの岩橋英行・前理事長が「黄色が一番、判別しやすい色」と提唱し、そう決まったようです。岩橋さんは強度の弱視者でした。
★ 私たちの多くは、ごく最近まで、盲人が一人で町を歩くのは無理、と思って来ました。今では、目が見えなくても独り歩きはふつうのこと。誰も、特に白杖ついて繁華街を歩く視覚障害者をあやしむ人などいません。目が不自由であっても「足裏と黄色で識別」して」私たちと同じように、かなり自由に町を独り歩きしています。
★ 三宅さん兄弟の工夫は多くの視覚障害者の行動の自由を可能にしました。しかし、その工夫が、社会に受け入れられるまでには立ちはだかる多くの反対、時には妨害とも思える悪意と戦い、また、理解を得る粘り強い説得が必要であったのです。私は、新聞記者として、その経緯をかなり詳しく取材した経験があります。この機会に、知られざる苦難のエピソードを少しだけ、ご披露しておきたいと思います。
*************************************
★ もう35年も前のことですが、現役の毎日新聞記者をしておりました折り、昭和46(1971)年2月付けで週刊の『点字毎日』に所属が移りました。あまり知られておりませんが、毎日新聞は大正11年(1922)年から世界で唯一、全盲者のための点字週刊新聞を発行しております。創刊50年という節目にその編集長に就任したのです。35年も前の話で恐縮ですが・・・
★ 就任ご挨拶に先ほども触れた岩橋英行さんを訪ねた時、「是非、会って欲しい」と紹介されたのが三宅精一さんでした。私は学生時代から同ライトハウスの創始者・岩橋武夫先生の知遇を得、その関係もあって先生のご長男、英行さんとは古い友人でした。
「盲人が町を独り歩き出来るようにしてくれた発明家です」
というご紹介が実に新鮮に耳に響きました。
★ 今でこそ、視覚障害者が一人歩きすることに誰も疑念を抱きません。至極、当然のこととされます。しかし、昭和41 (1966)に日本で初めて日本ライトハウスが本格的な歩行訓練事業を開始した時、盲人団体から「この交通難の都会に盲人を放り出すのか?」と強い批判が高まりました。盲人団体はガイドヘルパーの養成と普及を事業化しており、「盲人の一人歩き」などはムチャだ、と考えたのです。当時は、むしろ、それが世間一般、普通の考え方でした。
★ しかし、世界の盲人運動は大きく変化していました。世界盲人福祉協議会(WCWB)は、1964年に「視覚障害者の人間宣言」を公表しました。盲人を福祉施設に隔離して保護するこれまでの福祉のあり方は間違っている。社会に復帰し、個性・能力に応じた貢献を・・・後に「社会参加と平等」を掲げて始まる意識改革の始まりです。
★ 当時、この組織の副会長だった岩橋英行さんは、「それぞれの能力に応じた訓練をすれば視覚障害者には無限の可能性が開ける」と新しい考え方に共鳴し、そのためには、先ず人に頼らぬ”一人歩き”が基本と考えました。そして既に欧米で行われていた全盲者を対象にした歩行訓練事業を日本でも始めたのです。
★ そんな時、かねて友人だった三宅精一さんが現れたのです。お互い犬好きが縁の繋がりでしたが、三宅さんは、「偶然、一人の盲人が道を横切ろうとした際、けたたましいクラクションが鳴り、その人がその場にうずくまってしまう光景を目撃し、”盲人が安全に歩ける方法はないものか?”と考えるようになった」と、視覚障害者の福祉問題に関心を持つようになったキッカケを語りました。「実際に自分が体験しないとアイディアも得られない、と 目を瞑って車道沿いの歩道に立ってみて、初めて迫り来る「車の速さの恐ろしさ」を実感したとも。
★ 実は英行さん自身、当時、網膜色素変性症で失明は避けられないと医師に宣告され、悩んでいたのです。自ら提唱し、始めた歩行訓練も、それをマスターすることの困難も身をもって知り尽くしていました。「どうしても社会の側の協力が必要・・・」と思い悩んでいたところです。三宅さんも旧友が失明の危機にあることを初めて知りました。
★ 二人の語り合いの中に開発を具体化させる秘密が潜んでいました。
「苔(こけ)と土の境が靴を通して分かる」
英行さんが言ったひとことで、三宅精一さんは「点字を使う」ヒントを得ました。手でなく足裏に点字を・・・・
★ 早速、建築技師をしていた実弟の三郎さんにアイディアを話、協力を求めて、ブロックの形・大きさ・突起の形など、およそ考えられるあらゆる幾何図形を試しながら、「これが決定版」と辿り着いたのが「”点字”ブロック」でした。昭和40年、私がお会いする6年前のことでした。必要な費用はすべて自弁。旅館業からの利益をつぎ込んだそうです。
★ だが、最初の試練は、喜んでくれるはずの盲人協会の拒絶でした。やっとの思いで自ら考案した「点字ブロック」を全国に普及したい、と意気込んだ精一さんは、はやる思いを抑えて岡山県盲人協会に持ち込み、協力を依頼しました。当然、喜んでくれるはずが・・・金儲けのためワケの分からぬ品物を売り込んで来た、と早合点し、激高した会長は「とっとと帰れ!」と追い出されてしまいました。
★ 更に、一番の理解者である日本ライトハウスでも疑問の声が高まっていました。歩行訓練の指導者たちが、「あるがままの町を歩くのが訓練」と、固執するのです。考えてみればその通り、「点字ブロック」は便利と分かっても道のすべてに敷設されるわけではありません。そんなもの無い。「現にあるがままの町を歩く」のが訓練、と言うのです。
★ しかし、盲人の皆さんが使ってくれねばすべてが水泡。精一さんは何度も足を運んで、同協会を訪ねて、説得を繰り返した結果、やがてその会長が熱心な理解者となり、「点字ブロック」敷設の普及に積極的な協力を惜しまなくなりました。そして昭和42(1967)年3月18日岡山県立岡山盲学校近くの横断歩道口に、精一が寄贈した点字ブロック230枚が設置されたのです。
★ 真新しい、世界最初の点字ブロックの上に、立ったのは失明しつつあった日本ライトハウスの岩橋英行理事長。数歩を踏み出した瞬間、「これはスゴイ。これなら大丈夫」と述懐した、と言います。その頃には、精一さんは、横断歩道の信号の赤・青・黄を盲人に振動で知らせる振動触知式信号機の開発も成功、特に、こちらの新しい信号機は、覚知の盲人団体から高い評価を受けるようになって忌ました。
★ 全国に「点字ブロック」が敷設されるようになると、社会の意識も変わりました。盲学校や盲人協会、福祉施設の歩行訓練も点字誘導システムがあることを前提に訓練カリキュラムが開発されるようになり、長年、続いた”先走り”懸念は氷解しました。しかし、和合へ向けての三宅さん兄弟の忍耐強い偏見との苦闘は長く続きました。
**********************************
★ ようやく盲人団体の理解と協力を得られ、いざ、普及、という段階に来て、三宅さん兄弟は、別の大きな試練に立たされます。資金源です。頼みの旅館も老朽化して経営困難に、加えて収入ゼロでつぎ込むばかりの開発資金。私財をつぎ込んでも焼け石に水です。三宅さん兄弟は心労が重なり、事業化をあきらめかけた時、救いの神が現れました。宇都宮市の交差点に振動触知式信号機・16機と、点字ブロック250枚をセットで設置したい、との注文です。昭和43年(1968)9月のことでした。
★ 時が味方しました。この年、アメリカでは全米の公共施設を車いす障害者の移動を保障する改造を命じる連邦法が成立し、それがきっかけで、我が国でも、当時の厚生省が音頭取りして「福祉の町つくり」を全国展開する機運が高まってきたのです。今ではごく普通の常識化している「ユニバーサル・デザイン」の魁(さきがけ)ですが、宇都宮市が視覚障害者の移動自由の先鞭をつけたのです。
★ 障害者に対する福祉ムードは、一気に高揚し、やがて日本全国の主な街や駅に「点字ブロック」が広がったのです。昭和56(1981)年に国連が提唱して全世界で繰り広げた「1981年国際障害者年」の展開は、「点字ブロック」を「福祉の町作り」のシンボルとして日本国民の意識に定着させました。
★ 精一さんは、既に病を得てその栄光の年を迎えましたが、翌昭和57(1982)年になくなられました。享年57歳。真に惜しまれる、早すぎるご逝去と言わねばなりません。幸い精一さんの遺業は、実弟で共同開発者だった三郎さんによって引き継がれ、今も本拠を岡山に置く財団法人「安全交通試験研究センター」が遺志を継いだ事業展開を行っています。
★ つい一昔前まで、日本人の盲人観は、「お里沢一」の夫婦愛に象徴されていました。一生を目が見えない夫に連れ添い杖となる。 視覚障害者にとって「人間としての自立」は「単独歩行」の夢実現を意味するものでした。それが、どれだけ献身的な自発的好意であっても、他人に寄りすがる実体は変わりません。好きなときに好きなように動く。移動の自由は視覚障害者の悲願でした。
★ まず視覚障害者の意識が変わり、歩行訓練によって自ら、歩行技能を高める自主的努力が始まりました。それと時を合わせて、社会の側の協力として安全誘導システムを考案し、それを全国に広めたのが三宅さんきょうだいでした。「点字ブロック」考案の重要な意味は、ここにあります。
★ だから・・・・と、申し上げたいのです。
ブロックの上に自転車や車を止めたり、物を置いたりしないで下さい。ブロックの上で立ち話などをしないでください。自転車は、特に危険です。白杖がからまり、車体が倒れかかって骨折事故が絶えません。めくれたブロックは最も危険です。”福祉の心”を失い、管理されない「点字ブロック」は、障害物でしかないのです。
★ 私は、「点字ブロック」を見る度に親しかった二人の友を思います。共にもし、生きておられたら81歳のはず。まだ視覚障害者福祉の先覚者として指導的立場にあるはずです。岩橋英行さんも三宅さんが亡くなられて2年後、還暦を前に亡くなられました。そして今、「点字ブロック」に込められた「失明者の独立支援」の福祉の心は急速に失われつつあります。都会地で自転車がブロックを塞ぎ、田舎でぺんぺん草がブロックを持ち上げているのを見ると、特にそれを思います。
★ 岡山県人でも知る人が少ないのですが、今では全国どこででも見られる「点字ブロック」と「振動触知信号機」は三宅さんの考案なのです。もう少し、厳密に言うなら、精一さんと実弟の三郎さんの三宅兄弟コンビが考案し、苦難を乗り越えて全国に普及させたもの、と言うべきでしょう。「点字ブロック」は、厳密にはブロックに”点”を盛り上げたもので「点字」ではありません。
★ 本来なら「点ブロック」とするべきでしょうが、実は、『点字ブロック』は、三宅さんが理事長をしている「財団法人安全交通試験研究センター」の登録商標なのです。ちょうど「味の素」が特定商標であるため一般に「化学調味料」と言い換えているようにそれにこだわる公的機関などは「視覚障害者誘導用ブロック」などと言い換えて普通名詞化しています。
★ 名前をどう言い換えようと、それは、駅や、商店街、公共施設などの横断歩道で既に国民すべてがおなじみの「板状のプレート上に突起が付いており、足の裏で触覚認知出来る視覚障害者の移動を安全に誘導する装置」です。
★ それが黄色であるのは、視力が弱まった半盲者・弱視者のための工夫です。三宅さんの友人だった日本ライトハウスの岩橋英行・前理事長が「黄色が一番、判別しやすい色」と提唱し、そう決まったようです。岩橋さんは強度の弱視者でした。
★ 私たちの多くは、ごく最近まで、盲人が一人で町を歩くのは無理、と思って来ました。今では、目が見えなくても独り歩きはふつうのこと。誰も、特に白杖ついて繁華街を歩く視覚障害者をあやしむ人などいません。目が不自由であっても「足裏と黄色で識別」して」私たちと同じように、かなり自由に町を独り歩きしています。
★ 三宅さん兄弟の工夫は多くの視覚障害者の行動の自由を可能にしました。しかし、その工夫が、社会に受け入れられるまでには立ちはだかる多くの反対、時には妨害とも思える悪意と戦い、また、理解を得る粘り強い説得が必要であったのです。私は、新聞記者として、その経緯をかなり詳しく取材した経験があります。この機会に、知られざる苦難のエピソードを少しだけ、ご披露しておきたいと思います。
*************************************
★ もう35年も前のことですが、現役の毎日新聞記者をしておりました折り、昭和46(1971)年2月付けで週刊の『点字毎日』に所属が移りました。あまり知られておりませんが、毎日新聞は大正11年(1922)年から世界で唯一、全盲者のための点字週刊新聞を発行しております。創刊50年という節目にその編集長に就任したのです。35年も前の話で恐縮ですが・・・
★ 就任ご挨拶に先ほども触れた岩橋英行さんを訪ねた時、「是非、会って欲しい」と紹介されたのが三宅精一さんでした。私は学生時代から同ライトハウスの創始者・岩橋武夫先生の知遇を得、その関係もあって先生のご長男、英行さんとは古い友人でした。
「盲人が町を独り歩き出来るようにしてくれた発明家です」
というご紹介が実に新鮮に耳に響きました。
★ 今でこそ、視覚障害者が一人歩きすることに誰も疑念を抱きません。至極、当然のこととされます。しかし、昭和41 (1966)に日本で初めて日本ライトハウスが本格的な歩行訓練事業を開始した時、盲人団体から「この交通難の都会に盲人を放り出すのか?」と強い批判が高まりました。盲人団体はガイドヘルパーの養成と普及を事業化しており、「盲人の一人歩き」などはムチャだ、と考えたのです。当時は、むしろ、それが世間一般、普通の考え方でした。
★ しかし、世界の盲人運動は大きく変化していました。世界盲人福祉協議会(WCWB)は、1964年に「視覚障害者の人間宣言」を公表しました。盲人を福祉施設に隔離して保護するこれまでの福祉のあり方は間違っている。社会に復帰し、個性・能力に応じた貢献を・・・後に「社会参加と平等」を掲げて始まる意識改革の始まりです。
★ 当時、この組織の副会長だった岩橋英行さんは、「それぞれの能力に応じた訓練をすれば視覚障害者には無限の可能性が開ける」と新しい考え方に共鳴し、そのためには、先ず人に頼らぬ”一人歩き”が基本と考えました。そして既に欧米で行われていた全盲者を対象にした歩行訓練事業を日本でも始めたのです。
★ そんな時、かねて友人だった三宅精一さんが現れたのです。お互い犬好きが縁の繋がりでしたが、三宅さんは、「偶然、一人の盲人が道を横切ろうとした際、けたたましいクラクションが鳴り、その人がその場にうずくまってしまう光景を目撃し、”盲人が安全に歩ける方法はないものか?”と考えるようになった」と、視覚障害者の福祉問題に関心を持つようになったキッカケを語りました。「実際に自分が体験しないとアイディアも得られない、と 目を瞑って車道沿いの歩道に立ってみて、初めて迫り来る「車の速さの恐ろしさ」を実感したとも。
★ 実は英行さん自身、当時、網膜色素変性症で失明は避けられないと医師に宣告され、悩んでいたのです。自ら提唱し、始めた歩行訓練も、それをマスターすることの困難も身をもって知り尽くしていました。「どうしても社会の側の協力が必要・・・」と思い悩んでいたところです。三宅さんも旧友が失明の危機にあることを初めて知りました。
★ 二人の語り合いの中に開発を具体化させる秘密が潜んでいました。
「苔(こけ)と土の境が靴を通して分かる」
英行さんが言ったひとことで、三宅精一さんは「点字を使う」ヒントを得ました。手でなく足裏に点字を・・・・
★ 早速、建築技師をしていた実弟の三郎さんにアイディアを話、協力を求めて、ブロックの形・大きさ・突起の形など、およそ考えられるあらゆる幾何図形を試しながら、「これが決定版」と辿り着いたのが「”点字”ブロック」でした。昭和40年、私がお会いする6年前のことでした。必要な費用はすべて自弁。旅館業からの利益をつぎ込んだそうです。
★ だが、最初の試練は、喜んでくれるはずの盲人協会の拒絶でした。やっとの思いで自ら考案した「点字ブロック」を全国に普及したい、と意気込んだ精一さんは、はやる思いを抑えて岡山県盲人協会に持ち込み、協力を依頼しました。当然、喜んでくれるはずが・・・金儲けのためワケの分からぬ品物を売り込んで来た、と早合点し、激高した会長は「とっとと帰れ!」と追い出されてしまいました。
★ 更に、一番の理解者である日本ライトハウスでも疑問の声が高まっていました。歩行訓練の指導者たちが、「あるがままの町を歩くのが訓練」と、固執するのです。考えてみればその通り、「点字ブロック」は便利と分かっても道のすべてに敷設されるわけではありません。そんなもの無い。「現にあるがままの町を歩く」のが訓練、と言うのです。
★ しかし、盲人の皆さんが使ってくれねばすべてが水泡。精一さんは何度も足を運んで、同協会を訪ねて、説得を繰り返した結果、やがてその会長が熱心な理解者となり、「点字ブロック」敷設の普及に積極的な協力を惜しまなくなりました。そして昭和42(1967)年3月18日岡山県立岡山盲学校近くの横断歩道口に、精一が寄贈した点字ブロック230枚が設置されたのです。
★ 真新しい、世界最初の点字ブロックの上に、立ったのは失明しつつあった日本ライトハウスの岩橋英行理事長。数歩を踏み出した瞬間、「これはスゴイ。これなら大丈夫」と述懐した、と言います。その頃には、精一さんは、横断歩道の信号の赤・青・黄を盲人に振動で知らせる振動触知式信号機の開発も成功、特に、こちらの新しい信号機は、覚知の盲人団体から高い評価を受けるようになって忌ました。
★ 全国に「点字ブロック」が敷設されるようになると、社会の意識も変わりました。盲学校や盲人協会、福祉施設の歩行訓練も点字誘導システムがあることを前提に訓練カリキュラムが開発されるようになり、長年、続いた”先走り”懸念は氷解しました。しかし、和合へ向けての三宅さん兄弟の忍耐強い偏見との苦闘は長く続きました。
**********************************
★ ようやく盲人団体の理解と協力を得られ、いざ、普及、という段階に来て、三宅さん兄弟は、別の大きな試練に立たされます。資金源です。頼みの旅館も老朽化して経営困難に、加えて収入ゼロでつぎ込むばかりの開発資金。私財をつぎ込んでも焼け石に水です。三宅さん兄弟は心労が重なり、事業化をあきらめかけた時、救いの神が現れました。宇都宮市の交差点に振動触知式信号機・16機と、点字ブロック250枚をセットで設置したい、との注文です。昭和43年(1968)9月のことでした。
★ 時が味方しました。この年、アメリカでは全米の公共施設を車いす障害者の移動を保障する改造を命じる連邦法が成立し、それがきっかけで、我が国でも、当時の厚生省が音頭取りして「福祉の町つくり」を全国展開する機運が高まってきたのです。今ではごく普通の常識化している「ユニバーサル・デザイン」の魁(さきがけ)ですが、宇都宮市が視覚障害者の移動自由の先鞭をつけたのです。
★ 障害者に対する福祉ムードは、一気に高揚し、やがて日本全国の主な街や駅に「点字ブロック」が広がったのです。昭和56(1981)年に国連が提唱して全世界で繰り広げた「1981年国際障害者年」の展開は、「点字ブロック」を「福祉の町作り」のシンボルとして日本国民の意識に定着させました。
★ 精一さんは、既に病を得てその栄光の年を迎えましたが、翌昭和57(1982)年になくなられました。享年57歳。真に惜しまれる、早すぎるご逝去と言わねばなりません。幸い精一さんの遺業は、実弟で共同開発者だった三郎さんによって引き継がれ、今も本拠を岡山に置く財団法人「安全交通試験研究センター」が遺志を継いだ事業展開を行っています。
★ つい一昔前まで、日本人の盲人観は、「お里沢一」の夫婦愛に象徴されていました。一生を目が見えない夫に連れ添い杖となる。 視覚障害者にとって「人間としての自立」は「単独歩行」の夢実現を意味するものでした。それが、どれだけ献身的な自発的好意であっても、他人に寄りすがる実体は変わりません。好きなときに好きなように動く。移動の自由は視覚障害者の悲願でした。
★ まず視覚障害者の意識が変わり、歩行訓練によって自ら、歩行技能を高める自主的努力が始まりました。それと時を合わせて、社会の側の協力として安全誘導システムを考案し、それを全国に広めたのが三宅さんきょうだいでした。「点字ブロック」考案の重要な意味は、ここにあります。
★ だから・・・・と、申し上げたいのです。
ブロックの上に自転車や車を止めたり、物を置いたりしないで下さい。ブロックの上で立ち話などをしないでください。自転車は、特に危険です。白杖がからまり、車体が倒れかかって骨折事故が絶えません。めくれたブロックは最も危険です。”福祉の心”を失い、管理されない「点字ブロック」は、障害物でしかないのです。
★ 私は、「点字ブロック」を見る度に親しかった二人の友を思います。共にもし、生きておられたら81歳のはず。まだ視覚障害者福祉の先覚者として指導的立場にあるはずです。岩橋英行さんも三宅さんが亡くなられて2年後、還暦を前に亡くなられました。そして今、「点字ブロック」に込められた「失明者の独立支援」の福祉の心は急速に失われつつあります。都会地で自転車がブロックを塞ぎ、田舎でぺんぺん草がブロックを持ち上げているのを見ると、特にそれを思います。
by zenmz
| 2006-09-27 13:44
| 一期一会