2006年 11月 10日
【6305】 紅葉に想う”時”の不思議 |
★ 寒気も去り、吉備高原は再び和やかな晩秋に戻りました。正直なもので野山は一斉に色づき、我が家の裏庭の紅葉も小高く昇ってのり面一帯を真っ赤に染めています。柿、キウイ・・・庭に植えた果樹も穫り入れです。家庭菜園も蒼い茂みを作って新鮮な野菜がいっぱい。小春日に恵まれた今日は、本当に山の幸の豊かさを思わせます。
★ 庭の紅葉には、とりわけ深い思い出が隠っています。18年前、この地を手に入れた時、ここは赤松の松茸山でした。
しかものり面は崖崩れ後のようにえぐり取られて地肌をむき出しにしていました。赤土むき出しの山肌の頂に赤松がそそり立つ異様な風景でした。
★ 頂の赤松をすべて伐採し、整地した上に現在の家2軒を新築したものの庭作りが大変でした。田舎は何もないけど土地だけはたっぷりあります。270坪の広い敷地も赤土をむき出しにしたまま。実に殺風景でした。
そこで庭木や芝を一面に敷き詰める造園をお願いしましたが、木も芝も、何度植え替えても枯れます。
★ とりわけ難渋したのはのり面でした。手前の歩道に面した部分は町有地。交渉の結果、紅葉を植えよう、と話がまとまりました。そして町公園課の職員と一緒に手植えしたのが、この紅葉であったのです。
我が庭の樹木も、こののり面の紅葉も、すべてむき出しの赤土という荒野の中で、水不足と闘いながら命の根を這って生き延びて来たのです。
★ この紅葉を植えたのは、平成元年のこと。その年の1月に昭和天皇が崩御され、年号が平成に変わったその日に私たち夫妻は岡山へ移ってきました。
そして一番、苦労したのが庭の造成。
3年間、植木を植え替え、芝を張り替える根気を続けました。念願の”緑”が根付いたのはその後、雑草が一面に生えるようになってからです。
そんな過酷な条件の中で、不思議と、この紅葉と、妻が植えた桜だけは、最初に植えたそのままの苗木がたくましく育ちました。
★ それから18年。我が家は今、全館が緑に包まれ、庭のあちこちで育った果樹がイチジク、ザクロ、柿、山椒、キウイ、ユズ・・・と、様々な実を結び、小さな菜園で豊富な野菜が育っています。
何処でも庭に鍬を入れれば、ミミズが飛び出して来ます。夏には必ず同じ場所に黒ヒモのようなヘビが出ます。オ二ヤンマの飛翔コースも定まっています。四季折々、毎朝、庭に出て実感できる「命の園」になりました。
★ 老妻は、しばしば、ここ岡山・吉備高原都市に来て、老後を過ごす幸福を語ります。私も全く同感。この時ばかりは夫婦間に言葉の行き違いはありません。
「振り返ってみると、私たち、結婚以来、”計らい”というものがなかったね。仕事も、住む場所も・・・ すべて与えられた状況を受け入れて、そこで生活を楽しんで来たような気がする」
★ 確かに・・・学校を出て、新聞社に勤め、定年後は大学教員に。そして今、岡山に隠棲。結婚生活50年のすべては「なるようになった」ものでした。
どれ一つとして自分が”計らい”実現したものはありません。
仕事も、任地も、生活の場も・・・
結果として、何と私は僥倖に恵まれていたことか!と 想います。
★ 京都、大阪、広島、そして岡山。
それぞれ10年~20年刻みで過ごした土地には、どこにも生涯の親友がいます。皆さん、ご近所に住み、同じ年齢の子育てをして来た仲。誠に自然が培い「なるようにしてなった」絆の固さを想います。
多分、私たち夫婦が”故郷”への拘りがなく、その性質、浮き草のボヘミアンであったことが良かったのかもしれません。お蔭で京都弁、大阪弁、広島弁、岡山弁・・・4カ国語に堪能になりました。どこでも”地元民”で通します。
★ 毎年、このシーズンになると、私は、何度も、道を隔てたこの位置で、我が家の紅葉を飽きずに眺めます。今年は、つい先週まで緑を残して朱の色も褪せていました。しかし、立冬の木枯らしが緑を朱に変えました。
案ずることはありません。紅葉は時を待ち、体内時計がその”時”を感得すると、あるべき姿を整えます。
★ ジッと眺めていると、森羅万象、一木一草に至るまで、時を待ち、それぞれの体内時計が感得するがままに動いていることを知ります。時来たれば動く。動植物は何一つ、自らの”計らい”を持ちません。
隠棲3年。こうして至福の時を想えば、私も同じでした。時が来れば”なるようになる” 人の人事も例外ではない、との感慨をなお強く噛みしめます。
正に「万物流転」。
我に発する”計らい”などは常に押しつぶされる儚い運命にあることを想います
★ 来年は喜寿、77歳。人生の黄昏に晩秋を想うのもまた至福のひとときです。
我が庭の回り、終焉を迎える昆虫たちも目立ってきました。そして、今、生あるもの、すべてそれぞれに静かに冬の眠りの準備に入ります。
しかものり面は崖崩れ後のようにえぐり取られて地肌をむき出しにしていました。赤土むき出しの山肌の頂に赤松がそそり立つ異様な風景でした。
★ 頂の赤松をすべて伐採し、整地した上に現在の家2軒を新築したものの庭作りが大変でした。田舎は何もないけど土地だけはたっぷりあります。270坪の広い敷地も赤土をむき出しにしたまま。実に殺風景でした。
そこで庭木や芝を一面に敷き詰める造園をお願いしましたが、木も芝も、何度植え替えても枯れます。
★ とりわけ難渋したのはのり面でした。手前の歩道に面した部分は町有地。交渉の結果、紅葉を植えよう、と話がまとまりました。そして町公園課の職員と一緒に手植えしたのが、この紅葉であったのです。
我が庭の樹木も、こののり面の紅葉も、すべてむき出しの赤土という荒野の中で、水不足と闘いながら命の根を這って生き延びて来たのです。
★ この紅葉を植えたのは、平成元年のこと。その年の1月に昭和天皇が崩御され、年号が平成に変わったその日に私たち夫妻は岡山へ移ってきました。
そして一番、苦労したのが庭の造成。
3年間、植木を植え替え、芝を張り替える根気を続けました。念願の”緑”が根付いたのはその後、雑草が一面に生えるようになってからです。
そんな過酷な条件の中で、不思議と、この紅葉と、妻が植えた桜だけは、最初に植えたそのままの苗木がたくましく育ちました。
★ それから18年。我が家は今、全館が緑に包まれ、庭のあちこちで育った果樹がイチジク、ザクロ、柿、山椒、キウイ、ユズ・・・と、様々な実を結び、小さな菜園で豊富な野菜が育っています。
何処でも庭に鍬を入れれば、ミミズが飛び出して来ます。夏には必ず同じ場所に黒ヒモのようなヘビが出ます。オ二ヤンマの飛翔コースも定まっています。四季折々、毎朝、庭に出て実感できる「命の園」になりました。
★ 老妻は、しばしば、ここ岡山・吉備高原都市に来て、老後を過ごす幸福を語ります。私も全く同感。この時ばかりは夫婦間に言葉の行き違いはありません。
「振り返ってみると、私たち、結婚以来、”計らい”というものがなかったね。仕事も、住む場所も・・・ すべて与えられた状況を受け入れて、そこで生活を楽しんで来たような気がする」
★ 確かに・・・学校を出て、新聞社に勤め、定年後は大学教員に。そして今、岡山に隠棲。結婚生活50年のすべては「なるようになった」ものでした。
どれ一つとして自分が”計らい”実現したものはありません。
仕事も、任地も、生活の場も・・・
結果として、何と私は僥倖に恵まれていたことか!と 想います。
★ 京都、大阪、広島、そして岡山。
それぞれ10年~20年刻みで過ごした土地には、どこにも生涯の親友がいます。皆さん、ご近所に住み、同じ年齢の子育てをして来た仲。誠に自然が培い「なるようにしてなった」絆の固さを想います。
多分、私たち夫婦が”故郷”への拘りがなく、その性質、浮き草のボヘミアンであったことが良かったのかもしれません。お蔭で京都弁、大阪弁、広島弁、岡山弁・・・4カ国語に堪能になりました。どこでも”地元民”で通します。
★ 毎年、このシーズンになると、私は、何度も、道を隔てたこの位置で、我が家の紅葉を飽きずに眺めます。今年は、つい先週まで緑を残して朱の色も褪せていました。しかし、立冬の木枯らしが緑を朱に変えました。
案ずることはありません。紅葉は時を待ち、体内時計がその”時”を感得すると、あるべき姿を整えます。
★ ジッと眺めていると、森羅万象、一木一草に至るまで、時を待ち、それぞれの体内時計が感得するがままに動いていることを知ります。時来たれば動く。動植物は何一つ、自らの”計らい”を持ちません。
隠棲3年。こうして至福の時を想えば、私も同じでした。時が来れば”なるようになる” 人の人事も例外ではない、との感慨をなお強く噛みしめます。
正に「万物流転」。
我に発する”計らい”などは常に押しつぶされる儚い運命にあることを想います
★ 来年は喜寿、77歳。人生の黄昏に晩秋を想うのもまた至福のひとときです。
我が庭の回り、終焉を迎える昆虫たちも目立ってきました。そして、今、生あるもの、すべてそれぞれに静かに冬の眠りの準備に入ります。
by zenmz
| 2006-11-10 10:44
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