2007年 03月 16日
【7163】 一人のための障害児教育(3) |
《問い質そう、社会通念に寄りかかる気楽さ》
★ これから障害のある子どもの教育を考えたいのだけど、いきなり「特別支援教育」というようなものを持ち出しても分かりづらい。やはり、ここは、それにたどり着くまでの経緯を簡単に整理しておいた方がいいように思う。一言、断っておくが、昨日、早速、ご注意があった。「障害」の害の響きは、差別を助長してきた。自分は「障碍」を使っている、との意見。
★ 「用語問題」論争は、障害者問題を語る場合、必ず出てくる。これから先も私が使うことばには、色々と差別性の強いことばがいっぱい出てくる。それを語らねば、障害者の「問題」に迫れないからだ。だから耳障りの悪いこともあるかもしれないが、されにはそれ相当の理由があってのこと。文脈の中でそれぞれの言葉が用いられていることを承知しておいてほしい。
用語問題論争は、いずれ後にまとめて語ることにしている。さしずめ、この話では障害児(者)を用いる。
==== 義務教育とは、なにか? ====
★ 君たちは五人とも小中学校を終えてるね。つまり義務教育は済んだ。一体、義務教育って何だ? そう質問されて説明できるかな? 教育を語る時、基本の基本の事柄だけど、困ったことに「義務教育」ということばも、語る人によってイメージはいろいろ。児童・生徒の権利だ、とか”主張”が先に出て来て、議論が大混乱している。
★ これは、元々、制度上の概念なんだね。「教育基本法」が定める制度。どんな制度かと言うと、先ず、地方自治体は学校を設立する義務を担う。(これを設置義務と言う) 続いて、就学期の児童・生徒を持つ親は、その子に学校教育を受けさせねばならない。(こちらを親の就学義務という) つまり、都道府県・市町村にたいする学校設置義務と親の子ども就学義務の二つを合わせて「義務教育」と言っているわけ。
★ だから、この言葉の基本的な性格は、どちらかというと、国家による「強制教育」の色合いが強い。ところが、そうではない、どのような教育を、どのように行うかは教師の裁量権。教育権は教師にある、という意見が出て来る。他方で、教育の基本は、それを受ける主体である子どもの学習権。それぞれを制度的に支えるのが「義務教育」という論も有力。だから、「制度としての」とか「あるべき」などのことばをいちいち、「義務教育」の前につけないと大混乱を起こす。何事もそうだけど、特に教育を語る場合には、こうした言葉の使い方も整理して用いる必要があるね。
★ まあ、そこで「義務教育」という制度だが、実は、非常に厄介な”虚構”の上に成り立っている。法律では「義務教育」は、6歳に始まり15歳で終わる9年間になっていて、6歳を小学1年生、15歳を中学3年生と、子どもの年齢と学年をスライドさせて学年、学校段階も小学校6年、中学校3年の2段階。そして教える内容も法律・規則で雁字搦めに定められている。
★ つまり学校は、元々、子どもの発達を非常に標準化して、(理論的に想定された)標準にあわせて教育活動を行う設計になっている。例えば「児童」といえば小学生のこと。中学生はすべて「生徒」だ。教育用語としてはキチンと分けて用いる。要するに子どもを標準化する。その標準を前提として教育内容を決める。明治5年(1872)に日本最初の教育法「学制」が公布されて以来、今日まで、学校といえば、この標準の枠内に入る子どもしか考えていなかった。
★ 何故、義務教育は、6歳に始まり15歳で終わるのか? 義務教育の目的は何なのか? 何故、6歳から15歳の年齢と、小学校6学年、中学校3学年の9学年発達段階と自動的に横並びリンクするのか? こうした疑問は非常に興味深いことだ。
★ 義務教育が、この教育形態を整えるには色んな要因がある。大きくは明治以来の国家のあり方、その中での国民教育としての義務教育装置、更に「国家枢要の人材育成」という歴史的時代要請と、それを科学的・合理的に構築するために理論化された教育学、心理学、倫理学、哲学・・・・膨大な研究と教育実践が背後には横たわっている。
★ ともかく、日本で始まった義務教育は、教育対象の児童・生徒を9段階年齢=9段階学年の発達段階「標準」を設定し、それぞれに教えるべき教科、道徳、特別教育活動といったカリキュラム”基準”も法定し、全国共通の効率的な学校教育を造り上げた。当初は、世界が”卓越した教育制度”と目を瞠ったが、ともかく、その大きな特徴は、《対象児も、教育内容も”標準”化し、それを束ねた効率的な一斉授業》の学校教育を完成した。
★ こどもを標準化した?? ちょっと怪訝な顔してるね。
★ 早い話、子どもが前に立つ。みんな訊くでしょう。「君、何年生?」
「2年生」 その答えだけで、その子どもの発達段階が分かる。いや分かったつもりにみんななる。なぜかといえば、親はすべて自らたどって来た道、それぞれの年齢や学年段階を聞くだけで、その子どもたちの発達段階が分かる(つもり)でいる。大体、子どもたちに向い合う親や一般社会の目線というのは大体、そんなもんだね。
★ 本当は、そのような社会通念化した「2年生」にはたいした根拠はないけど、こうした漠然とした「標準」に私たちはなれきってしまっている。だから特に根拠がなくても、その社会通念化した「標準」に寄りかかって物事を判断する習慣が身についてしまっている。常識になっている。
★ たいていの”フツー”の人は、この自分たちが「標準」と思い込んでいることを疑わない。その「標準」に当てはまらない子どもが出てくると、戸惑い、大きな不安を隠せない。君たちが育った時代の保育所や小学校の入学式、思い出してご覧。君たちも恐らく、そこで、初めて色んな障害のある子と出会ったはずだ。どう思った?
★ 実は、その障害のある子どもたちが君たちと一緒に入学式に出席できるためには大変な努力が、いや、努力と言うような生易しいものではない。障害者の「努力」は自分の不自由を克服すること。そうではなくて、学校入学、という時期になって初めて”フツー”の子は「学校に行かねばならない」のに・・・・
★ 障害の子の前には、戸惑い顔がいっぱい並ぶ。法律をいっぱいぶら下げた教育行政官、決定権を持つはずの校長先生はうろたえるばかり、ただ成り行きをみるだけの先生たち、迷惑顔を隠さないフツーの子の親たち・・・・
★ 障害の子を持つ親は、決意を固める。それを一つ一つ、突破、撃破して、必ず、我が子を入学させる・・・と。そして始まる孤独な闘争。君たちと一緒に入学式を迎えた障害の子は、その苦難を経て、そこにいたのだよ。フツーの子や親は、そんなことは知らない。知ろうともしない。
★ 日本中、どこの学校も、障害の子が門戸に立つと、異様な緊張を見せる。これは、昔も、今も変わらない正直な反応だ。そして、障害児とその親の苦難が始まる。「何故、私を、学校はすんなりと入学を認めてくれないの?」
そして、訴えと闘いが始まる。
「ここは義務教育学校でしょう。何も問われずすんなり入学できる”フツー”児とはどんな子ですか? なぜ、”障害”の子はダメなのですか?」
★ フツーの子であった君たちには、絶対に問われない質問。
「何しにここに来るの?」
障害の子は、それを問い質される。国が「親はその子を就学させる義務がある」と法律で定め、もし、フツーの子の親がそれを拒んだら、罰せられる。それが義務教育。
なのに学校は、障害の子の前に立ちはだかる。なぜか?
★ さあ、宿題だ。君たちも、もう判断が出来る年齢になった。きちんと自分の考えを述べてみなさい。この問題は、逃げてはいけない。誤魔化してもダメだ。なぜなら、やがて間もなく君たちも家庭を築く。子どもに恵まれる。生まれ来る子どもはフツーかもしれぬし、障害の子かもしれぬ。10年後の親の先取りだ。答えなさい。答えの準備が出来ていないのなら、せめて真剣に、真摯に、考えなさい。爺ちゃんの目の黒いうちに答えてほしい。
★ これから障害のある子どもの教育を考えたいのだけど、いきなり「特別支援教育」というようなものを持ち出しても分かりづらい。やはり、ここは、それにたどり着くまでの経緯を簡単に整理しておいた方がいいように思う。一言、断っておくが、昨日、早速、ご注意があった。「障害」の害の響きは、差別を助長してきた。自分は「障碍」を使っている、との意見。
★ 「用語問題」論争は、障害者問題を語る場合、必ず出てくる。これから先も私が使うことばには、色々と差別性の強いことばがいっぱい出てくる。それを語らねば、障害者の「問題」に迫れないからだ。だから耳障りの悪いこともあるかもしれないが、されにはそれ相当の理由があってのこと。文脈の中でそれぞれの言葉が用いられていることを承知しておいてほしい。
用語問題論争は、いずれ後にまとめて語ることにしている。さしずめ、この話では障害児(者)を用いる。
==== 義務教育とは、なにか? ====
★ 君たちは五人とも小中学校を終えてるね。つまり義務教育は済んだ。一体、義務教育って何だ? そう質問されて説明できるかな? 教育を語る時、基本の基本の事柄だけど、困ったことに「義務教育」ということばも、語る人によってイメージはいろいろ。児童・生徒の権利だ、とか”主張”が先に出て来て、議論が大混乱している。
★ これは、元々、制度上の概念なんだね。「教育基本法」が定める制度。どんな制度かと言うと、先ず、地方自治体は学校を設立する義務を担う。(これを設置義務と言う) 続いて、就学期の児童・生徒を持つ親は、その子に学校教育を受けさせねばならない。(こちらを親の就学義務という) つまり、都道府県・市町村にたいする学校設置義務と親の子ども就学義務の二つを合わせて「義務教育」と言っているわけ。
★ だから、この言葉の基本的な性格は、どちらかというと、国家による「強制教育」の色合いが強い。ところが、そうではない、どのような教育を、どのように行うかは教師の裁量権。教育権は教師にある、という意見が出て来る。他方で、教育の基本は、それを受ける主体である子どもの学習権。それぞれを制度的に支えるのが「義務教育」という論も有力。だから、「制度としての」とか「あるべき」などのことばをいちいち、「義務教育」の前につけないと大混乱を起こす。何事もそうだけど、特に教育を語る場合には、こうした言葉の使い方も整理して用いる必要があるね。
★ まあ、そこで「義務教育」という制度だが、実は、非常に厄介な”虚構”の上に成り立っている。法律では「義務教育」は、6歳に始まり15歳で終わる9年間になっていて、6歳を小学1年生、15歳を中学3年生と、子どもの年齢と学年をスライドさせて学年、学校段階も小学校6年、中学校3年の2段階。そして教える内容も法律・規則で雁字搦めに定められている。
★ つまり学校は、元々、子どもの発達を非常に標準化して、(理論的に想定された)標準にあわせて教育活動を行う設計になっている。例えば「児童」といえば小学生のこと。中学生はすべて「生徒」だ。教育用語としてはキチンと分けて用いる。要するに子どもを標準化する。その標準を前提として教育内容を決める。明治5年(1872)に日本最初の教育法「学制」が公布されて以来、今日まで、学校といえば、この標準の枠内に入る子どもしか考えていなかった。
★ 何故、義務教育は、6歳に始まり15歳で終わるのか? 義務教育の目的は何なのか? 何故、6歳から15歳の年齢と、小学校6学年、中学校3学年の9学年発達段階と自動的に横並びリンクするのか? こうした疑問は非常に興味深いことだ。
★ 義務教育が、この教育形態を整えるには色んな要因がある。大きくは明治以来の国家のあり方、その中での国民教育としての義務教育装置、更に「国家枢要の人材育成」という歴史的時代要請と、それを科学的・合理的に構築するために理論化された教育学、心理学、倫理学、哲学・・・・膨大な研究と教育実践が背後には横たわっている。
★ ともかく、日本で始まった義務教育は、教育対象の児童・生徒を9段階年齢=9段階学年の発達段階「標準」を設定し、それぞれに教えるべき教科、道徳、特別教育活動といったカリキュラム”基準”も法定し、全国共通の効率的な学校教育を造り上げた。当初は、世界が”卓越した教育制度”と目を瞠ったが、ともかく、その大きな特徴は、《対象児も、教育内容も”標準”化し、それを束ねた効率的な一斉授業》の学校教育を完成した。
★ こどもを標準化した?? ちょっと怪訝な顔してるね。
★ 早い話、子どもが前に立つ。みんな訊くでしょう。「君、何年生?」
「2年生」 その答えだけで、その子どもの発達段階が分かる。いや分かったつもりにみんななる。なぜかといえば、親はすべて自らたどって来た道、それぞれの年齢や学年段階を聞くだけで、その子どもたちの発達段階が分かる(つもり)でいる。大体、子どもたちに向い合う親や一般社会の目線というのは大体、そんなもんだね。
★ 本当は、そのような社会通念化した「2年生」にはたいした根拠はないけど、こうした漠然とした「標準」に私たちはなれきってしまっている。だから特に根拠がなくても、その社会通念化した「標準」に寄りかかって物事を判断する習慣が身についてしまっている。常識になっている。
★ たいていの”フツー”の人は、この自分たちが「標準」と思い込んでいることを疑わない。その「標準」に当てはまらない子どもが出てくると、戸惑い、大きな不安を隠せない。君たちが育った時代の保育所や小学校の入学式、思い出してご覧。君たちも恐らく、そこで、初めて色んな障害のある子と出会ったはずだ。どう思った?
★ 実は、その障害のある子どもたちが君たちと一緒に入学式に出席できるためには大変な努力が、いや、努力と言うような生易しいものではない。障害者の「努力」は自分の不自由を克服すること。そうではなくて、学校入学、という時期になって初めて”フツー”の子は「学校に行かねばならない」のに・・・・
★ 障害の子の前には、戸惑い顔がいっぱい並ぶ。法律をいっぱいぶら下げた教育行政官、決定権を持つはずの校長先生はうろたえるばかり、ただ成り行きをみるだけの先生たち、迷惑顔を隠さないフツーの子の親たち・・・・
★ 障害の子を持つ親は、決意を固める。それを一つ一つ、突破、撃破して、必ず、我が子を入学させる・・・と。そして始まる孤独な闘争。君たちと一緒に入学式を迎えた障害の子は、その苦難を経て、そこにいたのだよ。フツーの子や親は、そんなことは知らない。知ろうともしない。
★ 日本中、どこの学校も、障害の子が門戸に立つと、異様な緊張を見せる。これは、昔も、今も変わらない正直な反応だ。そして、障害児とその親の苦難が始まる。「何故、私を、学校はすんなりと入学を認めてくれないの?」
そして、訴えと闘いが始まる。
「ここは義務教育学校でしょう。何も問われずすんなり入学できる”フツー”児とはどんな子ですか? なぜ、”障害”の子はダメなのですか?」
★ フツーの子であった君たちには、絶対に問われない質問。
「何しにここに来るの?」
障害の子は、それを問い質される。国が「親はその子を就学させる義務がある」と法律で定め、もし、フツーの子の親がそれを拒んだら、罰せられる。それが義務教育。
なのに学校は、障害の子の前に立ちはだかる。なぜか?
★ さあ、宿題だ。君たちも、もう判断が出来る年齢になった。きちんと自分の考えを述べてみなさい。この問題は、逃げてはいけない。誤魔化してもダメだ。なぜなら、やがて間もなく君たちも家庭を築く。子どもに恵まれる。生まれ来る子どもはフツーかもしれぬし、障害の子かもしれぬ。10年後の親の先取りだ。答えなさい。答えの準備が出来ていないのなら、せめて真剣に、真摯に、考えなさい。爺ちゃんの目の黒いうちに答えてほしい。
by zenmz
| 2007-03-16 11:24
| 教育論