2007年 04月 06日
【7179】 熱血弁護士・夏目文夫さんとの出会い |
★ では、同志社時代の友、夏目文夫さんを偲ぶことにしよう。
”偲ぶ”? いきなり不審に思ったかも知れないね。
そう、夏目さんは、ちょうど1年前の昨年3月27日に、この世を去った。爺ちゃんは、未だその寂しい思いを引きずっている。
これから述べることは、君たちに学びの師表として欲しい、立派な人物の紹介だが、同時にその人に対する爺ちゃんの追悼の誠でもある。心して聞いて欲しい。
**********************
★ 夏目さんは、生まれて間もなく小児まひを患い、自力では立ち上がれない重度の肢体不自由の人であった。小柄で、松葉杖を突きながら法廷に立つ”闘う弁護士”として知られた有名人だったが晩年は長年にわたる闘病生活を闘った。
★ 9年前、事務所も兼用していた自宅前で転倒し、一命をとり止めたものの脳挫傷の後遺症で24時間全面要介護の状態で闘病生活に入った。
それからまる8年、病床に伏し、奥様の必至の看護・介護も及ばず、波乱に満ちた80年の生涯を閉じた。
★ 元々は、同志社大学大学院で神学修士課程を終えたキリスト教牧師であったが、煩悶の末、「祈りでは人は救えぬ」と牧師を辞めて、改めて法律を独学し、司法試験にパスして弁護士になった。そのこと自体、信じられない情熱の人だった。
★ 水俣病京都訴訟原告弁護団長、未熟児網膜症訴訟原告弁護団長をした”闘う弁護士”。「京都府生活協同組合連合会」や「京都障害児者の生活と権利を守る連絡会」のそれぞれの会長を務める一方、京都教育大学講師として「障害者教育論」を担当するなど、社会奉仕分野でも幅広く活動をした。
★ ごく最近、京都の若い弁護士の方々が、夏目文夫弁護士を偲ぶ文集『日々新たに生きる者でありたい』を出版した。本のタイトル《日々新たに生きる者でありたい》は、夏目さんが倒れる直前の年賀状に認められた言葉だという。つまりそれは、平成10年の元旦だった。72歳の正月。その願いを吐露した直後、不慮の事故に遭い、8年間の闘病生活を強いられたことは、本当に口惜しかったに違いない。鎮魂の祈りと、ご冥福を念じながら、故人の刻んだ輝かしい人生を、以下に追悼する。
**********************
★ 私たちが、出会ったのは、昭和25年(1950)4月だった。共に同志社大学神学部を志し、神学生寮である『此春寮』への入寮が許可されて、文字通り、同じ釜の飯を食う仲となった。時に、爺ちゃんは19歳、夏目さんはすでに24歳であった。私たちが少年の頃は戦争中だった。受け入れ準備がない、との理由で、障害者は就学が困難だった。重度の肢体不自由者であった夏目さんは、小学校6年を終えただけで、その後、学校には行けなかった。
★ 自宅にこもって独学し、資格検定試験をパスして受験を認められて大学進学を果たした、という苦労を重ねた人であった。たまたま、部屋が隣合わせということもあって、食事、入浴、登校は、常に一緒だった。間もなく爺ちゃんは、「この男にはかなわない」と、夏目さんに畏敬の念を深めるようになった。
★ 入学して間もなく、たしか3ヶ月ぐらい経った頃だと思う。
入浴に誘いに出向いたら、なにやら横文字の本を開いていた。図書館から借り出して読み始めたというその本は、”Kritik der reinen Vernunft” 何と、かの有名な、カントの『純粋理性批判』だった。私たちは、共にドイツ語を始めたばかり。とてもこんな哲学書など歯が立つものではない。爺ちゃんは初級文法を覚えるのに四苦八苦していた・・・のに、お隣の夏目さんは、辞書を引きながらカントを読み解いていたのだ。この破天荒な勉強法に驚いた。
★ 夏目さんが、カントを読み上げたか、どうかは、確認していない。
しかし、1年生が終わる頃にはドイツ語はかなりペラペラだった(ように思えた) 既に、当時、神学生の間では、ちょっとした流行になっていたバルト神学に傾倒して、カール・バルトの著作を次々と読破していた。年齢差もあることが原因しているのかもしれないが、とにかく、他の同級生とは格段に違う、高い見識の持ち主であった。「アニキ」は、たちまちクラスの尊敬を集める存在となった。
★ 昭和25年の同志社『此春寮』。
ここは、同志社大学の中で、ちょっと変わった別天地だった。入寮生は全員、キリスト教神学生。2階には立派な礼拝堂があり、上級生が指導する祈祷会や礼拝が行われ、全員出席が義務付けられていた。牧師の師弟が過半数で従順な模範生が多かった。
★ そんな中でちょっと毛色の変わった”異端者”だったのが数人、いた
。後にロマン・ロランやタゴールの研究家として知られるようになった森本達雄さん(著述家・名城工大教授) 高野山の修行僧からキリスト教牧師に転じた新井智さん(玉川大学教授) それに、この異色の弁護士・夏目文夫さんだ。”異端者”の中でも、突出していたのが一番、若い爺ちゃんだった。
★ 寮生活は、”学生自治”がタテマエ。しかし、実態はマジョリティの牧師師弟が切り回し、それを神学部教授会が”指導”していた。教授会を後ろ盾に牧師師弟が寮生活を規制し、教条主義が蔓延った。爺ちゃんは、これがガマンならず、抵抗し、批判した。既に大学院生だった新井、森本両先輩は、問題が起こる度に爺ちゃんを庇ってくれた。そして夏目さんも、私を擁護してくれた。皮肉なことに「体制批判」の抵抗運動が、私たち二人を結びつけた。
★ 結局、爺ちゃんは、滞在、僅か3ヶ月で信仰上の大問題に悩み、神学部を断念し、ここを退寮した。
だが、信仰を捨て、完全にキリスト教から離れた今でも、爺ちゃんは、同志社『此春寮』を、我が心のふるさと、との思いを抱き続けている。昨年秋に60年ぶりに母校を訪れ、その跡地にたった心情を綴った。その屈折した思い入れに関しては手記『同志社此春寮』に綴った。そちらを見て欲しい。
● 夏目さんと共に過ごした3ヶ月は、本当に驚きの連続だった。
夏目さんはオトナだった。鼻持ちならぬ牧師二世たちのエリート意識も、19歳の青臭い正義感も、すべてを「清濁合わせ飲む」包容力があった。
いきまく爺ちゃんに、「アタマ冷やして、まあ、聴けよ」と切り出して、自分の体験を語ってくれた。次回は、壮絶としか表現の仕様がない、夏目文夫さんの一生を語ることにしよう。
”偲ぶ”? いきなり不審に思ったかも知れないね。
そう、夏目さんは、ちょうど1年前の昨年3月27日に、この世を去った。爺ちゃんは、未だその寂しい思いを引きずっている。
これから述べることは、君たちに学びの師表として欲しい、立派な人物の紹介だが、同時にその人に対する爺ちゃんの追悼の誠でもある。心して聞いて欲しい。
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★ 夏目さんは、生まれて間もなく小児まひを患い、自力では立ち上がれない重度の肢体不自由の人であった。小柄で、松葉杖を突きながら法廷に立つ”闘う弁護士”として知られた有名人だったが晩年は長年にわたる闘病生活を闘った。
★ 9年前、事務所も兼用していた自宅前で転倒し、一命をとり止めたものの脳挫傷の後遺症で24時間全面要介護の状態で闘病生活に入った。
それからまる8年、病床に伏し、奥様の必至の看護・介護も及ばず、波乱に満ちた80年の生涯を閉じた。
★ 元々は、同志社大学大学院で神学修士課程を終えたキリスト教牧師であったが、煩悶の末、「祈りでは人は救えぬ」と牧師を辞めて、改めて法律を独学し、司法試験にパスして弁護士になった。そのこと自体、信じられない情熱の人だった。
★ 水俣病京都訴訟原告弁護団長、未熟児網膜症訴訟原告弁護団長をした”闘う弁護士”。「京都府生活協同組合連合会」や「京都障害児者の生活と権利を守る連絡会」のそれぞれの会長を務める一方、京都教育大学講師として「障害者教育論」を担当するなど、社会奉仕分野でも幅広く活動をした。
★ ごく最近、京都の若い弁護士の方々が、夏目文夫弁護士を偲ぶ文集『日々新たに生きる者でありたい』を出版した。本のタイトル《日々新たに生きる者でありたい》は、夏目さんが倒れる直前の年賀状に認められた言葉だという。つまりそれは、平成10年の元旦だった。72歳の正月。その願いを吐露した直後、不慮の事故に遭い、8年間の闘病生活を強いられたことは、本当に口惜しかったに違いない。鎮魂の祈りと、ご冥福を念じながら、故人の刻んだ輝かしい人生を、以下に追悼する。
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★ 私たちが、出会ったのは、昭和25年(1950)4月だった。共に同志社大学神学部を志し、神学生寮である『此春寮』への入寮が許可されて、文字通り、同じ釜の飯を食う仲となった。時に、爺ちゃんは19歳、夏目さんはすでに24歳であった。私たちが少年の頃は戦争中だった。受け入れ準備がない、との理由で、障害者は就学が困難だった。重度の肢体不自由者であった夏目さんは、小学校6年を終えただけで、その後、学校には行けなかった。
★ 自宅にこもって独学し、資格検定試験をパスして受験を認められて大学進学を果たした、という苦労を重ねた人であった。たまたま、部屋が隣合わせということもあって、食事、入浴、登校は、常に一緒だった。間もなく爺ちゃんは、「この男にはかなわない」と、夏目さんに畏敬の念を深めるようになった。
★ 入学して間もなく、たしか3ヶ月ぐらい経った頃だと思う。
入浴に誘いに出向いたら、なにやら横文字の本を開いていた。図書館から借り出して読み始めたというその本は、”Kritik der reinen Vernunft” 何と、かの有名な、カントの『純粋理性批判』だった。私たちは、共にドイツ語を始めたばかり。とてもこんな哲学書など歯が立つものではない。爺ちゃんは初級文法を覚えるのに四苦八苦していた・・・のに、お隣の夏目さんは、辞書を引きながらカントを読み解いていたのだ。この破天荒な勉強法に驚いた。
★ 夏目さんが、カントを読み上げたか、どうかは、確認していない。
しかし、1年生が終わる頃にはドイツ語はかなりペラペラだった(ように思えた) 既に、当時、神学生の間では、ちょっとした流行になっていたバルト神学に傾倒して、カール・バルトの著作を次々と読破していた。年齢差もあることが原因しているのかもしれないが、とにかく、他の同級生とは格段に違う、高い見識の持ち主であった。「アニキ」は、たちまちクラスの尊敬を集める存在となった。
★ 昭和25年の同志社『此春寮』。
ここは、同志社大学の中で、ちょっと変わった別天地だった。入寮生は全員、キリスト教神学生。2階には立派な礼拝堂があり、上級生が指導する祈祷会や礼拝が行われ、全員出席が義務付けられていた。牧師の師弟が過半数で従順な模範生が多かった。
★ そんな中でちょっと毛色の変わった”異端者”だったのが数人、いた
。後にロマン・ロランやタゴールの研究家として知られるようになった森本達雄さん(著述家・名城工大教授) 高野山の修行僧からキリスト教牧師に転じた新井智さん(玉川大学教授) それに、この異色の弁護士・夏目文夫さんだ。”異端者”の中でも、突出していたのが一番、若い爺ちゃんだった。
★ 寮生活は、”学生自治”がタテマエ。しかし、実態はマジョリティの牧師師弟が切り回し、それを神学部教授会が”指導”していた。教授会を後ろ盾に牧師師弟が寮生活を規制し、教条主義が蔓延った。爺ちゃんは、これがガマンならず、抵抗し、批判した。既に大学院生だった新井、森本両先輩は、問題が起こる度に爺ちゃんを庇ってくれた。そして夏目さんも、私を擁護してくれた。皮肉なことに「体制批判」の抵抗運動が、私たち二人を結びつけた。
★ 結局、爺ちゃんは、滞在、僅か3ヶ月で信仰上の大問題に悩み、神学部を断念し、ここを退寮した。
だが、信仰を捨て、完全にキリスト教から離れた今でも、爺ちゃんは、同志社『此春寮』を、我が心のふるさと、との思いを抱き続けている。昨年秋に60年ぶりに母校を訪れ、その跡地にたった心情を綴った。その屈折した思い入れに関しては手記『同志社此春寮』に綴った。そちらを見て欲しい。
● 夏目さんと共に過ごした3ヶ月は、本当に驚きの連続だった。
夏目さんはオトナだった。鼻持ちならぬ牧師二世たちのエリート意識も、19歳の青臭い正義感も、すべてを「清濁合わせ飲む」包容力があった。
いきまく爺ちゃんに、「アタマ冷やして、まあ、聴けよ」と切り出して、自分の体験を語ってくれた。次回は、壮絶としか表現の仕様がない、夏目文夫さんの一生を語ることにしよう。
by zenmz
| 2007-04-06 09:58
| 一期一会