2008年 08月 04日
【8132】 「サンシャイン教育」(アーカイブ 第6集) |
★ 私は、新聞記者をしておりました頃、大阪市立大学の学園紛争処理のため、当時の森川学長の委嘱を受けて「人権論」(障害者問題)の講義を開講し、その授業を担当することになりました。35年も前、43歳にして初めて教壇に立ち、教師の道を歩み始めたキッカケです。
★ 昭和47年(1972年)のことでした。大阪市立大学の森川学長が毎日新聞にお越しになり、「全学共通必修の講義を新たに開講した。担当して欲しい」と、私にご依頼がありました。そして翌年春から1985年の定年まで13年間、記者と教師(非常勤講師)の2足のわらじを履くことになりました。
★ そのご縁が定年後の第二の人生、大学・短大の専任教授に結びつきました。定年後は、もう13年間、新たに制度化された介護福祉士の養成に当たりました。通算26年もの教員生活を重ねる結果となりました。
★ しかし私は、常に自分のことを”にわか教師”と説明し、それにこだわって来ました。
私は大学教員として専門の研究の道を歩んだ者ではありません。たまたま学園紛争の終末期に大阪市立大学の理学部で発生した深刻な障害者差別問題解決の”火消し役”になっただけのことでした。
★ それから2,3年、大阪・神戸の国立大学でも、相次いで障害者の受験を門前払いする事件が発生し、学内に人権委員会が設置されて同様の「人権論」の開講の必要が生じ、私の出講依頼が来ました。しかし、これはきっぱりお断りしました。
★ 人権問題は、「憲法」の主要テーマです。どこの大学・短大にも憲法担当の専任教授がいます。当然、その方々が担当しなければならないはず。なぜ、実際に自分が勤めている学校で担当する講義に関わる具体的問題が発生したのにそれに対処しないのか?
★ タテマエ理論だけで、いざ、足下に火がつくと、渦中のクリは拾わない。私は、「そんな”火消し代役”はもうしたくない。それは、本務教官の当然の責務」と断り、逆に大学ならびにその学校の憲法学者に、「何故、人権論を担当なさらぬのか?」と、質しました。返事は全くなく、無視されました。
★ 多分、大阪市立大学での”火消し役”が関係者の間で話題になっていたのかもしれません。大阪府・市の教育委員会からも当時、大問題であった同和教育に関する”草の根”人権啓発の府・市民講演会の講師として出講されることも多くなりました。
★ 大阪府下すべての市を回って驚きました。どこの会場も超満員。それも最後まで一人も外に出る人がいない。オオサカというところは、何と人権意識の強いところか、私は深い感動を覚えながら喜んで講演に出かけていました。
★ そうした最中、たまたま娘が通っていた中学校が生徒激増で新しい中学校を別に作って半数の児童を新設校に移すことになり、そのPTA役員を引き受けることになりました。その最初の打合会で、校長先生から依頼されて言葉に私は唖然としました。
★ 「PTAの役員の方に是非、お願いしなければならないのは、府・市教育委員会が主催する”草の根”人権講演会に出席して頂かねばなりません。毎回、順番に割り当てられた方に必ずご出席をお願いしなければなりません。何はさておき、これだけは是非、ご出席をお願いします。ここだけのハナシ、受付で出席の受付だけ済ませていただけば、後はご自由に・・」
★ ご自由に・・・とはいいますが、府主催の講演会では、数校のPTA役員をまとめて、チャーターバスで箱詰めされて遠い会場に運ぶのですから外に出歩くわけにもいきません。講演会が終わるまで会場に箱詰めのままにならざるを得ません。
★ 私は激怒しました。強い”人権意識”の正体は府・市教委、学校のPTAや婦人会など”行政翼賛”団体の割り当て動員であったのです。私は、府・関係各市に強く抗議し、以後、講師を止めました。全国の都道府県、市町村で、「”草の根”人権啓発」・・・このような見せかけのタテマエ講演会がどれほど行われたことでしょう。皆さんの多くも動員された経験をお持ちかもしれませんね。
★ 私は、広く、「教育」を語るばあい、タテマエ論議をしないことにしています。それは、以上、申し上げたニガイ経験に基づくものです。自分の学校で人権問題が発生しても沈黙する憲法学者、深刻な同和問題が発生しても「”草の根”人権啓発はやっています」と、半強制的割り当て動員で言い訳の講演会でお茶濁しする行政。
★ 以後、私は、本務者である教育者の「サンシャイン教育」を提唱し続けております。
教育の失敗が論じられる時、教師は必ずこう言います。「一所懸命やっているのですが・・」 しかし、何を、どのように、一所懸命したのか? そのことの説明は全くありません。学校と教室はブラック・ボックスのまま、失敗の責任は学生・生徒の側にある、と言わんばかり・・・というのが実情です。
★ しかも、学校当局の不正とゴマカシが学園紛争になると、本務者は全員が沈黙。外部から”火消し役”非常勤講師を調達しておざなりな「人権論」を依頼してお茶濁しする。それが一般化しました。これを許していたのでは、教育は絶対に良くなりません。本務の教育者は何をしているのか? それをキチンと開示せよ。私の主張です。
★ ”にわか教師”の「サンシャイン教育」運動。たった一人の運動ではありますが、私の闘争的実践を皆様にご披露いたします。記者と教師の12年間と、定年後の専任教授の13年間、併せて25年。私の教育は戦いの教育でありました。
★ 私は、自分が教えた学生たちに言い続けてきました。
「私は、君たちを10年後の未来からの留学生と思っている。10年後、君たちが世に立ち、子の親となった時、我が国の教育・福祉はどうなっているか? 私の講義はその問題意識に立っています。どうか私の教育実践に関わる評価は10年後にお願いしたい」
★ ちょうど、その時期が来ました。私が行いました教育の実際を全面開示いたします。
何よりも先ず、私が直接、接した大阪市立大学、関西大学、天理大学、流通科学大学、順正短期大学、大阪城南女子短期大学の教え子たちの目に止まり、今、社会の第一線にある人々の評価を賜りたいと願っています。
===== ”にわか教師”の実践教育 ====
”サンシャイン教育”の苦闘
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ご披露します記事は、次の7編です。〔Ⅰ」を開けば、順次、次ページにリンクします。
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こちらから全部を通読出来るよう順番にリンクを貼ってあります。
【6121】 【我が教育の出発点】(Ⅰ)
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** ご挨拶 **
ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
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★ 昭和47年(1972年)のことでした。大阪市立大学の森川学長が毎日新聞にお越しになり、「全学共通必修の講義を新たに開講した。担当して欲しい」と、私にご依頼がありました。そして翌年春から1985年の定年まで13年間、記者と教師(非常勤講師)の2足のわらじを履くことになりました。
★ そのご縁が定年後の第二の人生、大学・短大の専任教授に結びつきました。定年後は、もう13年間、新たに制度化された介護福祉士の養成に当たりました。通算26年もの教員生活を重ねる結果となりました。
★ しかし私は、常に自分のことを”にわか教師”と説明し、それにこだわって来ました。
私は大学教員として専門の研究の道を歩んだ者ではありません。たまたま学園紛争の終末期に大阪市立大学の理学部で発生した深刻な障害者差別問題解決の”火消し役”になっただけのことでした。
★ それから2,3年、大阪・神戸の国立大学でも、相次いで障害者の受験を門前払いする事件が発生し、学内に人権委員会が設置されて同様の「人権論」の開講の必要が生じ、私の出講依頼が来ました。しかし、これはきっぱりお断りしました。
★ 人権問題は、「憲法」の主要テーマです。どこの大学・短大にも憲法担当の専任教授がいます。当然、その方々が担当しなければならないはず。なぜ、実際に自分が勤めている学校で担当する講義に関わる具体的問題が発生したのにそれに対処しないのか?
★ タテマエ理論だけで、いざ、足下に火がつくと、渦中のクリは拾わない。私は、「そんな”火消し代役”はもうしたくない。それは、本務教官の当然の責務」と断り、逆に大学ならびにその学校の憲法学者に、「何故、人権論を担当なさらぬのか?」と、質しました。返事は全くなく、無視されました。
★ 多分、大阪市立大学での”火消し役”が関係者の間で話題になっていたのかもしれません。大阪府・市の教育委員会からも当時、大問題であった同和教育に関する”草の根”人権啓発の府・市民講演会の講師として出講されることも多くなりました。
★ 大阪府下すべての市を回って驚きました。どこの会場も超満員。それも最後まで一人も外に出る人がいない。オオサカというところは、何と人権意識の強いところか、私は深い感動を覚えながら喜んで講演に出かけていました。
★ そうした最中、たまたま娘が通っていた中学校が生徒激増で新しい中学校を別に作って半数の児童を新設校に移すことになり、そのPTA役員を引き受けることになりました。その最初の打合会で、校長先生から依頼されて言葉に私は唖然としました。
★ 「PTAの役員の方に是非、お願いしなければならないのは、府・市教育委員会が主催する”草の根”人権講演会に出席して頂かねばなりません。毎回、順番に割り当てられた方に必ずご出席をお願いしなければなりません。何はさておき、これだけは是非、ご出席をお願いします。ここだけのハナシ、受付で出席の受付だけ済ませていただけば、後はご自由に・・」
★ ご自由に・・・とはいいますが、府主催の講演会では、数校のPTA役員をまとめて、チャーターバスで箱詰めされて遠い会場に運ぶのですから外に出歩くわけにもいきません。講演会が終わるまで会場に箱詰めのままにならざるを得ません。
★ 私は激怒しました。強い”人権意識”の正体は府・市教委、学校のPTAや婦人会など”行政翼賛”団体の割り当て動員であったのです。私は、府・関係各市に強く抗議し、以後、講師を止めました。全国の都道府県、市町村で、「”草の根”人権啓発」・・・このような見せかけのタテマエ講演会がどれほど行われたことでしょう。皆さんの多くも動員された経験をお持ちかもしれませんね。
★ 私は、広く、「教育」を語るばあい、タテマエ論議をしないことにしています。それは、以上、申し上げたニガイ経験に基づくものです。自分の学校で人権問題が発生しても沈黙する憲法学者、深刻な同和問題が発生しても「”草の根”人権啓発はやっています」と、半強制的割り当て動員で言い訳の講演会でお茶濁しする行政。
★ 以後、私は、本務者である教育者の「サンシャイン教育」を提唱し続けております。
教育の失敗が論じられる時、教師は必ずこう言います。「一所懸命やっているのですが・・」 しかし、何を、どのように、一所懸命したのか? そのことの説明は全くありません。学校と教室はブラック・ボックスのまま、失敗の責任は学生・生徒の側にある、と言わんばかり・・・というのが実情です。
★ しかも、学校当局の不正とゴマカシが学園紛争になると、本務者は全員が沈黙。外部から”火消し役”非常勤講師を調達しておざなりな「人権論」を依頼してお茶濁しする。それが一般化しました。これを許していたのでは、教育は絶対に良くなりません。本務の教育者は何をしているのか? それをキチンと開示せよ。私の主張です。
★ ”にわか教師”の「サンシャイン教育」運動。たった一人の運動ではありますが、私の闘争的実践を皆様にご披露いたします。記者と教師の12年間と、定年後の専任教授の13年間、併せて25年。私の教育は戦いの教育でありました。
★ 私は、自分が教えた学生たちに言い続けてきました。
「私は、君たちを10年後の未来からの留学生と思っている。10年後、君たちが世に立ち、子の親となった時、我が国の教育・福祉はどうなっているか? 私の講義はその問題意識に立っています。どうか私の教育実践に関わる評価は10年後にお願いしたい」
★ ちょうど、その時期が来ました。私が行いました教育の実際を全面開示いたします。
何よりも先ず、私が直接、接した大阪市立大学、関西大学、天理大学、流通科学大学、順正短期大学、大阪城南女子短期大学の教え子たちの目に止まり、今、社会の第一線にある人々の評価を賜りたいと願っています。
===== ”にわか教師”の実践教育 ====
”サンシャイン教育”の苦闘
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ご披露します記事は、次の7編です。〔Ⅰ」を開けば、順次、次ページにリンクします。
【我が教育の出発点】(Ⅰ)
【我が教育の出発点】(Ⅱ)
【我が教育の出発点】(Ⅲ)
【未来を拓く教育】(Ⅰ)
【未来を拓く教育】(Ⅱ)
【未来を拓く教育】(Ⅲ)
【未来を拓く教育】(Ⅳ)
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【6121】 【我が教育の出発点】(Ⅰ)
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** ご挨拶 **
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by zenmz
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