2008年 09月 12日
【8171】 認知症にも「老いの宝」 |
★ 今日は、【文体を考える(2)】を綴る予定でおりましたが、一昨日のエントリーで「認知症」に関するコメントを沢山、頂戴しました。中には、更に深く考えねばならない示唆に富んだご指摘もあります。折から15日は「敬老の日」です。急遽、予定を変更して、「老いと、認知症について」もう少し、考えてみたいと思います。
★ コメント欄の冒頭に「(高齢者)は物理的には人生は制限されていますが精神的には無制限と解釈すべきです。 若輩者でキツイ事言うかもしれませんが、認知症を考える暇があれば後輩達に残す事の多さを考えてください」と、問題提起してくださる方がありました。
非常に重要な事柄だと思います。ご趣旨には全く異存はありません。
★ 私も、「老い」というものは、”心身機能の衰え”と、”人生円熟”の二つの筋道が同居していると思っています。だから「トシヨリはネガティブなことを考えず若年者のよい教訓になるようなことを多く残すよう考えて欲しい」とのご指摘は分かります。老人の大切な責務です。
★ 老人の多くは、おっしゃる通り、子・孫世代に美田を残すことを考えて日常を生きています。そして、子・孫にとって、良き翁、媼でありたいと努めています。でも自らの努力では克服できない大問題が、老いの必然としてあるのです。ここが、問題の出発点です。
==== 誰もを襲う(可能性の高い)認知症 ====
★ 引退までその精神を保持し、理想に生きる。そのような偉大な精神を生きた方は誰でしょう。直ぐ脳裏に浮かぶのは、英国のサッチャー元首相と、米国の元レーガン大統領。お二人の人生はすばらしいものでした。その強靱な精神力はちょっと真似が出来ない立派なものでした。
★ しかし、お二人の晩年は、その強い精神力でも克服出来ない認知症で苦しまねばならなかったのです。この冷酷な不条理が老いの定めです。その可能性は、すべての人の老後にあることを私たちは、今、改めて、避けることの出来ない厳然たる事実として知らされています。
★ 同じ運命に苦む高齢者は日本で既に200万人。その大半は、75歳以上のかつて”産業戦士”と言われ、現在の日本の基礎を築いた人々。戦後の一億飢餓の地獄から現在の日本を築いた「功労者たち」です。貧しい生活を耐え、豊かな社会を夢みて働きました。
★ サッチャー、レーガン、そして日本の200万人高齢者たち。これらの人々は誰ひとり、自分が晩年、認知症になることを予測した人はいません。強い精神力の持ち主には多分、他人事でしかなかったのでしょう。それが、コト志と異なるまったく逆の境遇に連れ込まれたのです。
直視すべきは、この現実だと思います。
★ この社会を作り上げた”功労者”の悲運を前に、後輩世代はどう向かい合っているのか? 今、我々は、その態度の有りようをキチンと認識しなければならないと思います。 「敬老の日」と、口先で言っても、そのコトバからほど遠い迷惑顔ばかりがクローズアップされ、とり沙汰されていますね。
★ では、どうするのか? 後輩世代は、その答えをキチンと出して欲しいのです。後輩世代は、その問いかけに答える義務を背負っています。
★ なぜならば、後輩世代は、先輩世代が築き上げた社会の遺産を引き継ぎ、先輩たちが辿った時代より遙かに豊かな生活を享受しています。その「感謝と敬意」をこの人々にどう表すのか? 政治がどうこうという他人事のように言うのではなく、
自分自身の両親が認知症になったとき、《”私”は、どう向かいあうのか?》
一人一人が親に向かう態度の問題として考えて頂かなくてはならない。そう思います。
★ 「敬老の日」に多くの慶祝行事があります。しかし、祝福され、敬われる”老い”は「生涯現役」の線上にある元気老人ばかり。認知症や寝たきり老人は日陰に置かれたままです。「老い」の形に祝福される”老い”と、祝福されない”老い” その区別があるのでしょうか?
==== 今こそ問い直そう”障害”の意味 ====
★ 私は、多分、この問題は、”老い”の問題と言うより、”障害”のある、なしの問題、だと思います。少し、冷静に考えれば、”障害”を持たない”健康”老人は、だれでも、文句なく、祝福の対象として常に陽の当たる場所に引き出され、賞賛と尊敬を集めます。
★ 一方、身体介助、寝たきり、認知症・・・常時介護を必要とするような”障害”を担った老人は一部の著名人を除き、「敬老」の蚊帳の外に置かれます。何故か? 問題の基本は”障害”に対する社会のネガティブ観念、それに根ざす差別意識と言うべきでありましょう。
★ 障害者に対する社会の態度は、1981年の国際障害者年から劇的に変化しました。例えば、それまで「隔離して手厚く保護」だった国の障害者施策は、「学校も、職場も、住所も、一般人と共に生きる」社会統合政策に変わりました。いわゆるノーマライゼーションです。
★ それは、全世界の広範な社会変革をもたらしました。今、北京でパラリンピックが開かれています。オリンピックと同格に行われるようになった「障害者のオリンピック」 これこそ「ノーマライゼーション」がもたらした社会変革の大きな成果でしょう。
★ しかし、人の心は、依然として”障害”者に根強い偏見を持ち続けています。
私は、50年以上、障害者と共に生きて来ました。大学では「障害者福祉」の講義を担当して来ました。ここでは、難しい理屈は申し上げません。
★ でも、少しお聞き下さい。実は、人間の一生で”障害”はすべての人に必ず起こる必然です。誕生の時、産道を通るとき、多くの新生児は、強い圧迫のため脳出血を起こします。多くの子は自力でその出血を吸収、正常化しますが、それが出来ず、後の生涯全般に亘って重い後障害を残して生きざるを得ない子どもが数多くいます。
★ 子どもから大人へ・・・病気と事故で幾人もの子どもたちがその後障害を受け、更には薬害、公害、交通事故など社会進歩に伴い新たに発生した医原性、人為性の環境破壊の犠牲で障害者になる人もいます。経済合理主義が生み出す労働災害、過敏社会のストレスによる心因性疾病など成人の心身障害は激増しました。
★ 幸福をもたらずはずの科学技術の進歩が、人間に、願わぬ障害の重荷を担わせているのです。全く、これに勝る皮肉はありません。こうして障害者は、社会発展の犠牲者として、顧みられることはありません。それどころか最近の政治は、このような人にも「自己責任、受益者負担」を要求します。
★ そして老後に襲う認知症・・・元気で天寿を全う、と、言っても、最後の数週、数ヶ月は、だれでも寝たきりです。「私は絶対に障害者にならない」 そう公言する人もいます。それを実現するには、交通事故か災害で即死するしかありません。もし生き残ったら確実に障害者です。
★ 人として生きる・・・それは、誕生から終焉まで、”障害者になる必然性”を運命付けられているのです。ならば、何故、人生の早い時期と、終末に、その状態に陥った人々が不利益を受け、偏見・差別の蔑みに曝されねばならぬのか!
==== 認知症に隠された「老いの宝」 ====
★ 問われるべきは、社会の側の態度と言うべきでありましょう。
認知症に戻って、私は、若い皆さんに二つのコトを申し上げ、ご理解をいただきたいと思います。
★ 私は、認知症も両義性が在ると思っています。脳の病ですから異常行動は多いです。それが強烈に印象付けられるのですが、反面、本人自身にとって、決して悪いことばかりではありません。天恩とも言うべき一面は、認知症の人々には”死の恐れ”が全くないことです。
★ 老人は死を恐れます。特に”アタマのはっきりしている”人ほど死に対する恐怖は大きく、人によっては狂乱状態になります。その苦悩を共にした家族の方々の苦労は多分、当事者以外には分からないでしょう。自殺願望が強まった時の対処は大変です。しかし、認知症の老人は、その苦悩から完全に解放されます。
★ もう一つ、これこそ、是非、知って頂きたい事実です。
認知症の方の多くは、自分が認知症であることを知っています。特に初期段階ではその自覚が明白です。だから苦悩を抱えます。同時に認知症であっても”老い”の円熟への道筋は生きています。
★ これは、私自身が、実際に老人ホームで体験した話です。
私は、短大で「介護福祉士」の養成を14年間いたしました。学生たちは講義の他に老人や障害者の施設でかなり長期の実習をしますが、その実習中の出来事です。
★ その日は、施設の秋祭りと言うので、職員・学生総出で、チラシ寿司を造っていました。ところが、その周りを、一人のおばあさんがグルグル回って離れようとしません。
「違う、違う、違う、そうじゃねー、そんじゃーねー」 呪文を唱えるように同じことを繰り返しています。
★ そこへ寮母長さんがやって来ました。介護はやはり理論より経験です。学生たちにとっては、ボケたおばあさんのブツブツでしたが、さすが寮母長にはおばあさんの言動の意味が直ぐ分かりました。「●●さん、こっちへ来て! ちょっと教えてよ」
★ 調理場に招き入れられたこのおばあさんは、岡山名物の「チラシ寿司」作りの名人だったのです。経験のない学生たちのやっていることが見ておれなかったのですね。教えられた学生たちはビックリ仰天。”本当の介護”とは何か? 身をもって学びました。
★ 大切なのは、この点です。認知症の人々は、脳の古層にある記憶はしっかりしています。これを大事にして、「共に生きる」 周りが、それを大事に、認知症の方々から”学ぶ”態度に目覚めれば、きっと、新しい向かい合いが始まると思います。
その時、初めて、我々の中で、認知症のお年寄りに対する「敬老の心」が育つでしょう。
★ 人生に成功し、その栄光を”生涯現役”で保持し続ける親を賞賛、尊敬することは、どんな子にも出来ます。しかし、老いさらばえ、自らをも識別できなくなった親を敬い、孝養を尽くす。それが出来るのは、その真の心ある後継者だけです。
★ 現役生活を離れてもう5年。もう人に教えを垂れる立場ではありませんが、これだけは、もう少し、皆様に訴えてまいりたいと思います。死の恐怖からの解放と円熟した古層の智慧・・・・認知症に隠された「老いの宝」に目を向けていただきたい、と願います。
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** ご挨拶 ** ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
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★ コメント欄の冒頭に「(高齢者)は物理的には人生は制限されていますが精神的には無制限と解釈すべきです。 若輩者でキツイ事言うかもしれませんが、認知症を考える暇があれば後輩達に残す事の多さを考えてください」と、問題提起してくださる方がありました。
非常に重要な事柄だと思います。ご趣旨には全く異存はありません。
★ 私も、「老い」というものは、”心身機能の衰え”と、”人生円熟”の二つの筋道が同居していると思っています。だから「トシヨリはネガティブなことを考えず若年者のよい教訓になるようなことを多く残すよう考えて欲しい」とのご指摘は分かります。老人の大切な責務です。
★ 老人の多くは、おっしゃる通り、子・孫世代に美田を残すことを考えて日常を生きています。そして、子・孫にとって、良き翁、媼でありたいと努めています。でも自らの努力では克服できない大問題が、老いの必然としてあるのです。ここが、問題の出発点です。
==== 誰もを襲う(可能性の高い)認知症 ====
★ 引退までその精神を保持し、理想に生きる。そのような偉大な精神を生きた方は誰でしょう。直ぐ脳裏に浮かぶのは、英国のサッチャー元首相と、米国の元レーガン大統領。お二人の人生はすばらしいものでした。その強靱な精神力はちょっと真似が出来ない立派なものでした。
★ しかし、お二人の晩年は、その強い精神力でも克服出来ない認知症で苦しまねばならなかったのです。この冷酷な不条理が老いの定めです。その可能性は、すべての人の老後にあることを私たちは、今、改めて、避けることの出来ない厳然たる事実として知らされています。
★ 同じ運命に苦む高齢者は日本で既に200万人。その大半は、75歳以上のかつて”産業戦士”と言われ、現在の日本の基礎を築いた人々。戦後の一億飢餓の地獄から現在の日本を築いた「功労者たち」です。貧しい生活を耐え、豊かな社会を夢みて働きました。
★ サッチャー、レーガン、そして日本の200万人高齢者たち。これらの人々は誰ひとり、自分が晩年、認知症になることを予測した人はいません。強い精神力の持ち主には多分、他人事でしかなかったのでしょう。それが、コト志と異なるまったく逆の境遇に連れ込まれたのです。
直視すべきは、この現実だと思います。
★ この社会を作り上げた”功労者”の悲運を前に、後輩世代はどう向かい合っているのか? 今、我々は、その態度の有りようをキチンと認識しなければならないと思います。 「敬老の日」と、口先で言っても、そのコトバからほど遠い迷惑顔ばかりがクローズアップされ、とり沙汰されていますね。
★ では、どうするのか? 後輩世代は、その答えをキチンと出して欲しいのです。後輩世代は、その問いかけに答える義務を背負っています。
★ なぜならば、後輩世代は、先輩世代が築き上げた社会の遺産を引き継ぎ、先輩たちが辿った時代より遙かに豊かな生活を享受しています。その「感謝と敬意」をこの人々にどう表すのか? 政治がどうこうという他人事のように言うのではなく、
自分自身の両親が認知症になったとき、《”私”は、どう向かいあうのか?》
一人一人が親に向かう態度の問題として考えて頂かなくてはならない。そう思います。
★ 「敬老の日」に多くの慶祝行事があります。しかし、祝福され、敬われる”老い”は「生涯現役」の線上にある元気老人ばかり。認知症や寝たきり老人は日陰に置かれたままです。「老い」の形に祝福される”老い”と、祝福されない”老い” その区別があるのでしょうか?
==== 今こそ問い直そう”障害”の意味 ====
★ 私は、多分、この問題は、”老い”の問題と言うより、”障害”のある、なしの問題、だと思います。少し、冷静に考えれば、”障害”を持たない”健康”老人は、だれでも、文句なく、祝福の対象として常に陽の当たる場所に引き出され、賞賛と尊敬を集めます。
★ 一方、身体介助、寝たきり、認知症・・・常時介護を必要とするような”障害”を担った老人は一部の著名人を除き、「敬老」の蚊帳の外に置かれます。何故か? 問題の基本は”障害”に対する社会のネガティブ観念、それに根ざす差別意識と言うべきでありましょう。
★ 障害者に対する社会の態度は、1981年の国際障害者年から劇的に変化しました。例えば、それまで「隔離して手厚く保護」だった国の障害者施策は、「学校も、職場も、住所も、一般人と共に生きる」社会統合政策に変わりました。いわゆるノーマライゼーションです。
★ それは、全世界の広範な社会変革をもたらしました。今、北京でパラリンピックが開かれています。オリンピックと同格に行われるようになった「障害者のオリンピック」 これこそ「ノーマライゼーション」がもたらした社会変革の大きな成果でしょう。
★ しかし、人の心は、依然として”障害”者に根強い偏見を持ち続けています。
私は、50年以上、障害者と共に生きて来ました。大学では「障害者福祉」の講義を担当して来ました。ここでは、難しい理屈は申し上げません。
★ でも、少しお聞き下さい。実は、人間の一生で”障害”はすべての人に必ず起こる必然です。誕生の時、産道を通るとき、多くの新生児は、強い圧迫のため脳出血を起こします。多くの子は自力でその出血を吸収、正常化しますが、それが出来ず、後の生涯全般に亘って重い後障害を残して生きざるを得ない子どもが数多くいます。
★ 子どもから大人へ・・・病気と事故で幾人もの子どもたちがその後障害を受け、更には薬害、公害、交通事故など社会進歩に伴い新たに発生した医原性、人為性の環境破壊の犠牲で障害者になる人もいます。経済合理主義が生み出す労働災害、過敏社会のストレスによる心因性疾病など成人の心身障害は激増しました。
★ 幸福をもたらずはずの科学技術の進歩が、人間に、願わぬ障害の重荷を担わせているのです。全く、これに勝る皮肉はありません。こうして障害者は、社会発展の犠牲者として、顧みられることはありません。それどころか最近の政治は、このような人にも「自己責任、受益者負担」を要求します。
★ そして老後に襲う認知症・・・元気で天寿を全う、と、言っても、最後の数週、数ヶ月は、だれでも寝たきりです。「私は絶対に障害者にならない」 そう公言する人もいます。それを実現するには、交通事故か災害で即死するしかありません。もし生き残ったら確実に障害者です。
★ 人として生きる・・・それは、誕生から終焉まで、”障害者になる必然性”を運命付けられているのです。ならば、何故、人生の早い時期と、終末に、その状態に陥った人々が不利益を受け、偏見・差別の蔑みに曝されねばならぬのか!
==== 認知症に隠された「老いの宝」 ====
★ 問われるべきは、社会の側の態度と言うべきでありましょう。
認知症に戻って、私は、若い皆さんに二つのコトを申し上げ、ご理解をいただきたいと思います。
★ 私は、認知症も両義性が在ると思っています。脳の病ですから異常行動は多いです。それが強烈に印象付けられるのですが、反面、本人自身にとって、決して悪いことばかりではありません。天恩とも言うべき一面は、認知症の人々には”死の恐れ”が全くないことです。
★ 老人は死を恐れます。特に”アタマのはっきりしている”人ほど死に対する恐怖は大きく、人によっては狂乱状態になります。その苦悩を共にした家族の方々の苦労は多分、当事者以外には分からないでしょう。自殺願望が強まった時の対処は大変です。しかし、認知症の老人は、その苦悩から完全に解放されます。
★ もう一つ、これこそ、是非、知って頂きたい事実です。
認知症の方の多くは、自分が認知症であることを知っています。特に初期段階ではその自覚が明白です。だから苦悩を抱えます。同時に認知症であっても”老い”の円熟への道筋は生きています。
★ これは、私自身が、実際に老人ホームで体験した話です。
私は、短大で「介護福祉士」の養成を14年間いたしました。学生たちは講義の他に老人や障害者の施設でかなり長期の実習をしますが、その実習中の出来事です。
★ その日は、施設の秋祭りと言うので、職員・学生総出で、チラシ寿司を造っていました。ところが、その周りを、一人のおばあさんがグルグル回って離れようとしません。
「違う、違う、違う、そうじゃねー、そんじゃーねー」 呪文を唱えるように同じことを繰り返しています。
★ そこへ寮母長さんがやって来ました。介護はやはり理論より経験です。学生たちにとっては、ボケたおばあさんのブツブツでしたが、さすが寮母長にはおばあさんの言動の意味が直ぐ分かりました。「●●さん、こっちへ来て! ちょっと教えてよ」
★ 調理場に招き入れられたこのおばあさんは、岡山名物の「チラシ寿司」作りの名人だったのです。経験のない学生たちのやっていることが見ておれなかったのですね。教えられた学生たちはビックリ仰天。”本当の介護”とは何か? 身をもって学びました。
★ 大切なのは、この点です。認知症の人々は、脳の古層にある記憶はしっかりしています。これを大事にして、「共に生きる」 周りが、それを大事に、認知症の方々から”学ぶ”態度に目覚めれば、きっと、新しい向かい合いが始まると思います。
その時、初めて、我々の中で、認知症のお年寄りに対する「敬老の心」が育つでしょう。
★ 人生に成功し、その栄光を”生涯現役”で保持し続ける親を賞賛、尊敬することは、どんな子にも出来ます。しかし、老いさらばえ、自らをも識別できなくなった親を敬い、孝養を尽くす。それが出来るのは、その真の心ある後継者だけです。
★ 現役生活を離れてもう5年。もう人に教えを垂れる立場ではありませんが、これだけは、もう少し、皆様に訴えてまいりたいと思います。死の恐怖からの解放と円熟した古層の智慧・・・・認知症に隠された「老いの宝」に目を向けていただきたい、と願います。
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** ご挨拶 ** ブログ【彷徨人生・・・喜寿から傘寿へ】公開に当たって
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by zenmz
| 2008-09-12 00:01
| 健康・医療