2009年 03月 28日
【9086】 鼓笛隊・・・小学72年生の学習・第12課 |
★ テレビで、IPodやIPhoneで、カラオケで・・・現在、日本人の日常生活の隅々にまで”西洋音楽”が浸透しています。何も高邁なクラシック音楽を言っているわけではなく、ポップスや歌謡曲・・・「日本人の心」などと表現される演歌まで・・・実は、これらは、すべて”西洋の音”です。
★ 一体、いつ日本人は邦楽を捨てて西洋の音を受容したのか?
その問題意識を持つ時、辿り着く答えは、 ★ 奥中康人著『国家と音楽』~伊澤修二がめざした日本近代(春秋社/2008)という研究書によりますと、これまで日本の音楽史で「未だ西洋音楽というにはあたらない」と切り捨てられてきた鼓笛隊が実は、日本近代を誕生させた重要な「西洋の音」である、とされています。
★ その精緻な論証は、非常に興味深いのですが、ご関心をお持ちの方は、直に同著をご覧いただくとして、鼓笛隊の”西洋の音”を、明治維新後の日本を「近代的中央集権国家」に造りかえるのに、どのように役立てたか?
★ 奥中さんの研究は、そういう新しい視点から、明治の文部官僚が”統治技術”としての「音楽教育」を確立した経緯を見事に論証しています。明治維新後、国民統合という政治目的に果たした”西洋の音” その論考は、単に音楽文化の西洋化ではなく、音楽による日本の近代化の側面を濃厚に浮き彫りしています。
★ 徳川幕政崩壊後、廃藩置県による中央集権的な統一国家を樹立することは、明治政府が完成すべき緊急の課題でした。それは、開国を迫る欧米の圧倒的な軍事力との対峙という、迫り来る危機感に対向すべきものであったのです。その為に急がれた有効な軍政改革。そこで重視されたのが、鼓笛隊の登場・・・・。
★ その最中に登場し、見事な国家政策を立案し、実行したのが明治政府の文部官僚・伊澤修二氏。小学校唱歌に限らず、西洋音楽一般に関係する日本近・現代音楽史を見ると、必ず【近代音楽・教育の開拓者】の賛辞をつけて記録されている、この人物は、どんな人であったのか?
★ 伊澤氏は長野県高遠町の出身。そこには今も生家が大切に保存されていて、同氏の輝かしい功績が次のように記されています。
★ その意味は、研究書の冒頭に「鼓手としての伊澤修二・・・明治維新とドラムのリズム」という1章を設けて、詳細に述べておられます。要点を紹介しましょう。
★ 非常に興味深い事実ですが、伊澤氏は藩校「進徳館」に学んでいた時、高遠藩西洋流小隊の少年鼓手に採用されており、慶應3年に高遠藩が江戸城警備に向かった折、少年伊澤も鼓手として参加していたのです。本人手記も引用されています。
★ その数年後、伊澤氏はアメリカに留学していた時、アメリカ大統領選挙のパレードに遭遇しました。そのパレードには学生達がマーチを演奏していたので伊澤氏もドラムで参加したところ、たちどころに合奏することが出来た、といいます。
★ この事実を、奥中さんは、「西洋の音」は、ただ上澄みの芸術的音楽だけでなく、その重厚な下層をなす「近代の身体」作りの”音”と規定し、日本人の「西洋の音」受容に大きな役割を果たした、と、評価されています。
★ それは、伊澤氏にとって、単に音楽の分野に止まるものではなく、彼が生涯関わることになる”国民”教育、すなわちその後完成される学校教育制度全体を貫く精神、幕藩地方分権国の人民を近代国家日本の「近代的国民」に統合するのに最も相応しい”音”であった、と見るのです。
★ 実際、明治時代には、音楽は、行進、運動、動作を伴うものでした。学校教育の「唱歌」も明治から昭和初期にかけてはいわゆる”唱歌遊技”が重視されました。その意味は、後年、音楽評論家が「初歩的ダンス」「情操教育の端緒」と評しますが、実際は、集団秩序の維持が教育目的の主眼であったのです。それを最初に提案し、全国に普及させたのが伊澤修二氏であったのです。
★ 国民統合と個々人の情操教育・・・近代国家建設と、その構成員である近代的国民の教育。明治の先覚者、伊澤修二氏は、これに”統一的”国語教育を盛り込んで、学校教育を通じて新しい「国民」作りを始め、その”三つ子の魂”を植え付けました。それが「唱歌」であったのです。
★ 「唱歌」を通じて、日本人は「西欧の音」を自らの中に「心のふるさと」として根付かせました。そして今、毎日、テレビで、IPodやIPhoneで、カラオケで、演歌に涙し、叫びます。「これぞ”日本の心” ”心のふるさと”」と。
★ 伊澤修二氏が願った近代的統一国家の近代的統合国民は「西欧の音」で、西欧を真似た「教育制度」を通じて、世界の近代化の潮流に乗って”世界標準化”に成功しました。
★ 誠に奥中さんご指摘の通り、伊澤修二氏の目指した日本近代・・・それは、明治維新後の日本が「国際スタンダードを獲得するためのナショナル・アイデンティティの創出であった」のですね。納得しました。
(注) カットに用いた写真は、私の住む町の小学生によるマーチ演奏風景です。
【注】 シリーズ「小学72年生」のバックナンバー一覧
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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★ 一体、いつ日本人は邦楽を捨てて西洋の音を受容したのか?
その問題意識を持つ時、辿り着く答えは、
「小学校唱歌」の創設と、鼓笛隊であった。そう結論された新しい研究が最近、公刊されました。
それを読み解く重要なカギになる人物は伊澤修二氏
★ その精緻な論証は、非常に興味深いのですが、ご関心をお持ちの方は、直に同著をご覧いただくとして、鼓笛隊の”西洋の音”を、明治維新後の日本を「近代的中央集権国家」に造りかえるのに、どのように役立てたか?
★ 奥中さんの研究は、そういう新しい視点から、明治の文部官僚が”統治技術”としての「音楽教育」を確立した経緯を見事に論証しています。明治維新後、国民統合という政治目的に果たした”西洋の音” その論考は、単に音楽文化の西洋化ではなく、音楽による日本の近代化の側面を濃厚に浮き彫りしています。
★ 徳川幕政崩壊後、廃藩置県による中央集権的な統一国家を樹立することは、明治政府が完成すべき緊急の課題でした。それは、開国を迫る欧米の圧倒的な軍事力との対峙という、迫り来る危機感に対向すべきものであったのです。その為に急がれた有効な軍政改革。そこで重視されたのが、鼓笛隊の登場・・・・。
★ その最中に登場し、見事な国家政策を立案し、実行したのが明治政府の文部官僚・伊澤修二氏。小学校唱歌に限らず、西洋音楽一般に関係する日本近・現代音楽史を見ると、必ず【近代音楽・教育の開拓者】の賛辞をつけて記録されている、この人物は、どんな人であったのか?
★ 伊澤氏は長野県高遠町の出身。そこには今も生家が大切に保存されていて、同氏の輝かしい功績が次のように記されています。
嘉永4年(1851)旧高遠藩(長野県伊那市)の下級武士の長男として生れ、藩校進徳館で学び、明治3年(1870)大学南校(現東京大学)の貢進生に選ばれ、明治7年、僅か23歳で愛知師範学校長に抜擢された秀才。★ 明治初年に、吃音・盲唖教育まで、視野に入れて我が国の教育制度を構築されたとは! 何とも驚くべき慧眼です。実に興味深いですね。しかし、奥中さんは、ここには全く触れられていない伊澤氏の少年時代について、ほとんど無視されている一つのことに注目しています。
翌8年、アメリカに派遣され、ハーバード大学で教育学、理化学を修め、メーソンから音楽を、グラハム・ベルから視話法を、と広範な新知識を学んだ。明治11年帰国し、12年3月東京師範学校長に就任。同年10月には、文部省音楽取調べ掛に任命され、教員養成、体育、音楽、盲啞教育など未開拓の分野を精力的に開拓した。
その輝かしい業績は、恩師・メーソンを招いて近代音楽の確立につとめ明治14年には「小学唱歌集」初編を編集発行して日本における音楽教育の方向を定めた。
また明治19年には、文部省編集局長として教科書検定制度を創設するなど教育制度の改革に尽くした。
明治21年東京音楽学校(現東京芸大)初代校長。明治28年日清戦争直後の台湾に渡り、民生局学務部長として教育制度、学校教育の基礎を作り、明治30年職を辞任した後、貴族院議員となる。明治32年東京高等師範学校長となったが翌年病気のため辞職した。
明治36年「樂石社」をおこして吃音矯正の社会事業に着手し、吃音に悩む多くの人を救済した。晩年は国語問題にも関心を持ち、日本語、中国語の発音の研究に尽くし、漢字の発音の統一を念願したが志半ばで大正6年(1917)急逝した。
★ その意味は、研究書の冒頭に「鼓手としての伊澤修二・・・明治維新とドラムのリズム」という1章を設けて、詳細に述べておられます。要点を紹介しましょう。
★ 非常に興味深い事実ですが、伊澤氏は藩校「進徳館」に学んでいた時、高遠藩西洋流小隊の少年鼓手に採用されており、慶應3年に高遠藩が江戸城警備に向かった折、少年伊澤も鼓手として参加していたのです。本人手記も引用されています。
当時、余は十七歳の少年ながら剣銃を負ひ五十五里の峻坂隘路を徒歩して、年長藩士数十名と共に江戸に来たり、徳川家の為に戦死すべき覚悟であった。★ 封建社会の時代、下級武士の子弟にとって、新しく創設された西洋式軍隊の鼓手になる栄誉は、その後の出世を約束されたようなもので、少年伊澤は、「食事に際しても茶碗を叩き回す」状態で、熱中した、とあります。
★ その数年後、伊澤氏はアメリカに留学していた時、アメリカ大統領選挙のパレードに遭遇しました。そのパレードには学生達がマーチを演奏していたので伊澤氏もドラムで参加したところ、たちどころに合奏することが出来た、といいます。
★ この事実を、奥中さんは、「西洋の音」は、ただ上澄みの芸術的音楽だけでなく、その重厚な下層をなす「近代の身体」作りの”音”と規定し、日本人の「西洋の音」受容に大きな役割を果たした、と、評価されています。
★ それは、伊澤氏にとって、単に音楽の分野に止まるものではなく、彼が生涯関わることになる”国民”教育、すなわちその後完成される学校教育制度全体を貫く精神、幕藩地方分権国の人民を近代国家日本の「近代的国民」に統合するのに最も相応しい”音”であった、と見るのです。
★ 実際、明治時代には、音楽は、行進、運動、動作を伴うものでした。学校教育の「唱歌」も明治から昭和初期にかけてはいわゆる”唱歌遊技”が重視されました。その意味は、後年、音楽評論家が「初歩的ダンス」「情操教育の端緒」と評しますが、実際は、集団秩序の維持が教育目的の主眼であったのです。それを最初に提案し、全国に普及させたのが伊澤修二氏であったのです。
★ 国民統合と個々人の情操教育・・・近代国家建設と、その構成員である近代的国民の教育。明治の先覚者、伊澤修二氏は、これに”統一的”国語教育を盛り込んで、学校教育を通じて新しい「国民」作りを始め、その”三つ子の魂”を植え付けました。それが「唱歌」であったのです。
★ 「唱歌」を通じて、日本人は「西欧の音」を自らの中に「心のふるさと」として根付かせました。そして今、毎日、テレビで、IPodやIPhoneで、カラオケで、演歌に涙し、叫びます。「これぞ”日本の心” ”心のふるさと”」と。
★ 伊澤修二氏が願った近代的統一国家の近代的統合国民は「西欧の音」で、西欧を真似た「教育制度」を通じて、世界の近代化の潮流に乗って”世界標準化”に成功しました。
★ 誠に奥中さんご指摘の通り、伊澤修二氏の目指した日本近代・・・それは、明治維新後の日本が「国際スタンダードを獲得するためのナショナル・アイデンティティの創出であった」のですね。納得しました。
幕末の徳川封建体制の瓦解-明治維新-近代国家建設-帝国主義への道-民主主義国家再建へ一人の有能な文部官僚の生涯を紐解くだけで大きく動いた時代がクッキリと浮かび上がるものですね。確かに音楽は、単に個人の情操を豊かに育てるだけではありません。国家の人民統治の装置として時の権力が利用したのも事実・・・素晴らしい分析に感心しました。
(注) カットに用いた写真は、私の住む町の小学生によるマーチ演奏風景です。
【注】 シリーズ「小学72年生」のバックナンバー一覧
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2009-03-28 10:44
| ボクは小学81年生